94-1. 父娘 (前編)
カーテンのすき間から漏れる朝日に、鷹緒はふと目を覚ました。眠っていた嗅覚が、どこからか匂う甘い香りを感じる。
その時、パタパタと軽い足音が聞こえて、そっと寝室のドアが開いた。
「パパ」
そんな声に、鷹緒は起き上がる。
「おはよう……恵美」
声の主は、娘の恵美であった。目が合った恵美は、すでに寝間着から私服に着替えている。
「おはよう。起きてたの?」
「今な」
「起きて。フレンチトースト作ったんだ」
「へえ。すごいじゃん」
そう言いながら、鷹緒は恵美とリビングへと向かっていく。
リビングのローテーブルには、恵美が作った朝食が並べられていた。
「また腕上げたな」
「ほんと? 恵美、お料理好きなんだ」
「そうか。それはいい嫁になるな」
「えへへ。食べて食べて」
「ああ。いただきます」
朝食を平らげ、二人はマンションを出ていく。そのまま鷹緒の車で恵美の小学校へ向かった。
「帰りは本当に、一人で帰れる?」
車から降りる恵美に、鷹緒が尋ねる。
「現場だって一人で行けるもん。パパのマンションなら何度も一人で行ったことあるし、大丈夫」
「そうか。なんかあったらすぐ電話しろよ」
「はーい。行ってきます!」
嬉しそうな恵美を見送って、鷹緒は会社へと車を走らせた。
「おはよう……」
会社に着くなり、心配そうに声をかけてきたのは理恵である。そんな顔を見て、鷹緒は苦笑した。
「おはよう。大丈夫だよ。元気に学校送り届けたから」
「うん……」
「それより、おまえはさっさと恵美からの宿題やっとけよ」
「宿題?」
「一人になって、ちゃんと考えろってこと」
「……うん」
不安げな表情を浮かべる理恵を尻目に、鷹緒は社内へと入っていった。
社内に入ると、奥のミーティングスペースに沙織と麻衣子がいるのがわかる。鷹緒は首を傾げながら、挨拶がてら二人に近づいていく。
「おはよう。なんかの待機か?」
「おはようございます。はい、これからテレビのロケです」
麻衣子の返事に、鷹緒は頷いた。二人が準レギュラーとなっている番組も、そろそろ慣れてきた頃だ。
「なるほど。頑張って」
鷹緒の言葉がそっけなく聞こえるのはいつものこと。沙織との関係を知っている人が多い現在の社内でも、ベタベタするようなキャラではない。
いつもはあまり気にすることのない沙織だが、少し眉を顰めて立ち上がると、自分の席へ向かっていく鷹緒を小走りで追いかけていった。
「鷹緒さん……!」
そう呼ばれて、鷹緒は驚いて振り返る。
「……なに?」
「ちょっとお話し出来ませんか?」
硬い表情を見せる沙織に、鷹緒は軽く息を吐いた。
「……わかった」
そう言いながら社内を見回してみると、こちらに気を向けている社員はいない。社長室には広樹がいるのが見えたが、その先の会議室は暗く誰もいないのがわかる。
「会議室、誰もいなそうだから行ってて。すぐ行く」
沙織は頷くと、まっすぐに会議室へと歩いていく。鷹緒はそれを尻目に、自分の席へ荷物を置くと、そのまま会議室へと向かっていった。
広い会議室には誰もいない。電気を点けつつもドアは開けっ放しのまま、鷹緒は沙織に目を向けた。
「話って?」
「恵美ちゃんの件で……詳しく聞けたらなって」
予想はしていたが、鷹緒は軽く髪を掻いて椅子に座る。
「昨日電話で言った通りだけど……しばらく預かることになった」
「ずいぶん急だね……」
「ああ、いや……話自体は少し前からあったんだけど、実際どうなるかわからなかったし、おまえも最近地方ばっかで昨日帰ってきたばかりだろ。報告遅くなったのは謝るよ」
自分自身も何が言いたいかわからなくなり、沙織は口をつぐむ。
「べつに謝ってほしいわけじゃ……でも、急だからびっくりして……」
恵美がしばらく鷹緒の部屋に住むということは、沙織は昨日、電話で聞かされていた。もうすでに上がり込んでいる状態で、ろくに話も出来ていない。
「……そうだな。急で悪かったと思ってるよ。でも前にも話した通り、恵美は他人じゃないと思ってるし、成人するまでは出来る限りのことはしたいと思ってる。勝手に進めて悪いとは思ったけど、とりあえずってことだから長引かないと思うし、わかってくれないか」
そう言う鷹緒は、説明して早く終わらせたいと、苦い表情だ。
沙織にとっても、鷹緒が恵美を思う気持ちは嫌と言うほど思い知らされているので、否定をしたいわけではない。
「わかった。じゃあしばらく会えないけど、我慢するね」
我慢という言葉に、鷹緒は申し訳なく思いながらも、沙織の肩にそっと手を乗せた。
「悪い……でも連絡はするし、少しの辛抱だから」
「……うん」
「じゃあな。仕事頑張れよ」
そう言って、鷹緒は会議室を出ていく。残された沙織は、複雑な感情を押し込めるように、深いため息をついた。
夕方。鷹緒は仕事も早々に切り上げて、家へと帰っていった。家にはすでに恵美の姿がある。
「パパ! おかえり!」
「……ただいま」
まるでかつての幸せを噛みしめるように、鷹緒は優しい笑顔を見せて恵美の頭を撫でた。
「パパ。お買い物行こうよ。恵美がごはん作るから」
「ああ……買い物は後にして、今日の夕飯は外で食べないか」
「いいの?」
「いいよ?」
「でもママが、外食ばっかりしてちゃ駄目だって……」
そう言われて、鷹緒は苦笑する。
「ハハッ。まあ俺と二人きりの時くらい、そんなこと気にしなくていいよ。でも栄養偏らないようにしないと、確かに理恵に怒られるな……自然食品の店でも行くか」
「恵美は何処でもいいよ」
「よし。とにかく出よう」
二人は車で出かけると、レストランへと入っていった。
「学校はどう?」
鷹緒の質問に、恵美は微笑む。
「楽しいよ。でも宿題多すぎ……あとで教えてほしいな」
「ああ、いいよ」
「パパはお仕事どうなの?」
「べつに……まあ、楽しいよ」
「ママは? 時々すごく疲れて帰ってくるから心配なの」
俯く恵美に、鷹緒も微笑む。
「副社長だからな……俺にもわからない苦労があるだろうけど、恵美が支えてやって」
「うん。あと……沙織ちゃんは? 恵美のこと、怒ってる?」
言いにくそうに言った恵美に、鷹緒は驚いた。
「え、なんで?」
「だって……恵美がいたら、沙織ちゃんはパパとデート出来ないじゃない」
鷹緒は苦笑すると、食事をしながら目を伏せる。
「もともと頻繁に会えるほどお互い暇でもないから……おまえは気にする必要ないよ。それに俺は、恵美のこと大事にしてくれない人とは付き合わないよ」
沙織がいたら傷つけるだろうかと思いながら、そうあってほしいという願いを込めて、また自分に言い聞かせるように鷹緒はそう言った。
「うん……ありがとう」
「まだホームシックにはならないか?」
「もう。子供扱いしちゃ嫌だ。それに、パパの家はもともと恵美の家でもあるもん」
「ハハ。そうか……まあ、耐えられないのは理恵のほうかもな……」
「ママ?」
「今頃、一人で泣いてるかも」
鷹緒の言葉に、恵美は心配そうな顔を見せる。
「そ、そうかな……」
「冗談だよ」
「よかった」
「まあ、あながち外れてはいないと思うけどな……」
最後の言葉は小さすぎて恵美には聞こえなかったが、鷹緒の脳裏には理恵の姿が浮かんでいた。
それから数日後。恵美はすっかり鷹緒との暮らしに慣れたようで、部屋でくつろいでいる。
「恵美。本当に一人で大丈夫か?」
朝、出かける準備をしながら鷹緒が尋ねた。今日は日曜日で学校のない日だが、鷹緒は当然仕事で出かけてしまう。
「大丈夫だってば。行ってらっしゃい」
笑顔で送り出す恵美に頷いて、鷹緒は出社していった。幼い頃から一人の時間が多い恵美を不憫に思いつつも、立派に逞しく成長している姿は誇らしいと思った。
鷹緒が出勤した後、恵美は掃除機を取り出してかけ始めた。普段あまり手伝いというものはしないが、たまに会った鷹緒には、自分の成長ぶりを褒めてもらいたいと思う。
寝室に入ると、キャビネットの上にいくつか写真が飾られているのが見える。ずいぶん前に撮った家族写真は、ここに来る度に見ている写真だ。だがその中に、新しい写真があることに気づいた。沙織や麻衣子など、モデルたちが写ったものである。
「沙織ちゃん……」
恵美の中で嫉妬心や罪悪感が渦巻く。それでも、鷹緒を独り占めしたいという気持ちもあり、葛藤が続いた。
その時、恵美の携帯電話が鳴った。見ると豪からである。ずいぶん前に連絡先は交換したものの、豪からかかってくることは一度もなかった。
「……はい」
『あ、恵美ちゃん? 豪だよ。今日、学校休みでしょ。一緒にごはんでも食べない?』
そう言われて、恵美は考えた。理恵が豪と別れたと言ったのは、つい最近のことだ。それ以来、もし豪から連絡が来ても会うなと、理恵から言われている。
「……今日は用事があるから」
『そうなの? ちょっとでも出てこられないかな。ママのことでちょっとお話しがあるんだけどな』
「ママのこと? でも、ママは豪さんと……」
『僕は別れたと思ってないよ。でも喧嘩しちゃって、電話にも出てくれないんだ。恵美ちゃん、ママと僕が喧嘩したままなの嫌だろ? 一度だけでいいんだ。会えるように恵美ちゃんから言ってくれないかな……』
豪の言葉に、恵美は考える。
「豪さん。もうママのこと泣かせちゃダメ!」
『恵美ちゃん……』
「でも……もう一度だけ、ママと話し合ってほしい」
そう言われて、豪は嬉しそうな息を漏らした。
『わかった。今日の午後八時に駅前の大型ビジョンの下で待ってるって伝えて』
「……うん」
『でも恵美ちゃん……僕は、恵美ちゃんのことも大好きだよ』
そう言って切れた電話に、恵美の心は揺れていた。