89. 待機中の過ごし方
「好きです! 付き合ってください」
沙織はそう言われて、頬を赤く染めた。
目の前にいた麻衣子もまた、それを見て赤くなる。
「はい、ストップ、ストップ! もう。ちゃんとしてよ、沙織」
麻衣子の言葉に、沙織は開いていた冊子で顔を覆う。
「だって顔、超近い……」
「演技だし。女同士だし。もう、ちゃんとやってくんないと練習にならないんですけど」
沙織が持っていた冊子を奪うようにして、麻衣子はその冊子に目を通す。ドラマの台本らしい。
「ごめん。でも台本なんて読んだのも初めてだし……」
「CMと変わんないでしょ。私だって初めてなんだから、ちゃんと練習相手になってもらわないと」
もともと女優志望の麻衣子。ついにドラマの仕事が入り、端役ながらも意気込みが感じられる。今日も届いたばかりの台本を沙織相手に練習しているのだが、慣れない沙織ではどうも相手にならないらしい。
「ほんとごめん……でも、女同士じゃ麻衣子だって盛り上がらないんじゃないの?」
「そりゃあね……でも、沙織の彼氏貸してくれるわけでもないでしょ? モデル仲間にこんな練習付き合わせるの恥ずかしいし」
「べつに、私が見てるところでなら、何してもいいけど……」
「へえ。キスシーンでも?」
悪戯な目で見る麻衣子に、沙織はしゅんと肩を落とす。
「ま、まあ……麻衣子のためなら……でも、本当にしたら絶対ダメ」
「あはは。冗談に決まってるでしょ。しかし誰か練習相手いないかなあ……」
「じゃあ、僕がお相手しましょうか?」
その時、開いていたドアから顔を出したのは、社長の広樹であった。
「社長!」
「熱心だね。事務所でドラマの読み合わせなんて」
「すみません。仕事の合間に部屋貸してもらっちゃって……」
「構わないよ。ちょうど空いてたんだし、待機でしょ」
広樹はそう言って、二人のそばに座る。ここは二人が所属する事務所の会議室で、撮影の合間に時間調整のため寄っただけであるが、麻衣子が台本の読み合わせを始めたおかげで、広樹も気になっていたらしい。
「ちょっと台本貸して。台詞は覚えたの?」
広樹に言われて、麻衣子はうなずく。
「まだ……覚えてるか不安ですけど、なんとか」
「麻衣子ちゃん、女優業やりたがってたもんね。せっかくのチャンスだから頑張って」
「はい。ありがとうございます」
「主人公の妹の友達役だっけ……その妹と同じ人好きになっちゃうんだったよね。ドラマといえど青春だねえ」
「ほんとですね」
「じゃあ、僕から台詞言うね」
「え?」
麻衣子が驚いていると、広樹が大きく口を開ける。
「沢田さん、話って何?」
急に台詞が始まって、麻衣子はついていけずにいる。
「麻衣子ちゃん、台詞」
「ご、ごめんなさい……」
「本番中にごめんなさいはないからね? はい、もう一回。“沢田さん、話って何?”」
「あ……ご、ごめんね。急に呼び出して」
「いいけど、どうしたの? さっき別れたばっかじゃん」
台詞を続けた麻衣子に、広樹は微笑みながら続ける。
「ちょっと言いにくいんだけど……」
「うん?」
「好きです! 付き合ってください」
「……いいよ」
「本当に?」
「明日から一緒に帰ろう」
「うん!」
「はい、カット。沙織ちゃん、どうだった?」
広樹に尋ねられ、すべてを見ていた沙織は驚いた。
「ヒロさん、お芝居上手ですね」
「そうじゃなくて……麻衣子ちゃんの演技でしょ」
「うーん。ちょっとニヤケすぎ」
「うっさいなあ。急に社長と読み合わせなんて、緊張するしニヤケるっしょ」
その時、数人のモデルが部屋に入ってきた。その中には綾也香もいる。
「すごーい。ドラマの読み合わせしてる」
「社長の声も聞こえましたよ。なんかキュンキュンしちゃった!」
モデルたちがそう騒ぐ中、綾也香だけは浮かない顔をして顔を背けている。
「ドラマの先が気になるけど、今回の出番はここだけなのかな」
「はい」
「じゃあみんな来たし、仮の相手役はここまでだね」
「残念。でもお忙しいのに、社長直々にありがとうございました」
「いえいえ。じゃあ頑張ってね」
足早に去っていく広樹を横目に、綾也香は麻衣子の前に座った。
「綾也香。久しぶり。この後、一緒に撮影だね」
「うん。ここで待機って言われて……ドラマ、大変そう?」
「まだ大変とまでいってないよ」
昔から仲の良い綾也香と麻衣子だが、つい最近まで広樹のことが好きだった綾也香にとっては、台詞の中でも嫉妬しているようで、少し重い雰囲気が流れている。
その時、鷹緒が入ってきた。
「この後の撮影の子、全員いる?」
そう言いながら、鷹緒は顔触れと人数を確認していた。
「はい、います」
「じゃあ、表に車停まってるから乗って」
これからの撮影は、車で移動したところにある貸しスタジオでの撮影である。カメラマンは鷹緒で、一緒に移動して撮影に臨む予定だ。
言葉少なめに、また沙織に目もくれず、鷹緒は隣にある社長室へと入っていった。
大っぴらな付き合いが出来ないのは理解しているが、沙織は無意識にため息をつく。
それを察して、麻衣子が沙織の頭を撫でた。
その時、鷹緒がすぐに廊下に出てきて、麻衣子と沙織と目が合った。
「じゃあ俺も」
そう言って、鷹緒も沙織の頭を撫でる。
「ちょ、ちょっと、二人してそんなぐちゃぐちゃ……」
嬉しいながらも髪型を気にする沙織に微笑んで、鷹緒はもう一度沙織の頭を撫でた。
「現場で着飾るからいいだろ。すぐ行くから、先に車に乗って」
「はーい……」
そのまま社内に忙しなく戻っていく鷹緒を尻目に、麻衣子も沙織に微笑んだ。
「羨ましい」
「何が……」
「照れてる」
「からかわないの」
二人してニヤニヤしながら、モデルたちとともに事務所を出ていった。