88. 小さなライバル
ある日、沙織のもとに母親から電話が入った。母親の姉の娘……すなわち沙織の従兄弟が、地方から東京に越してくるというのだ。沙織は母親とともに、従兄弟が越してきたという都内のマンションへと出向いた。
「こんにちは。いらっしゃい! お久しぶりです」
赤ちゃんを抱いたまま気さくに出迎えてくれた二十代後半の女性は、沙織の従兄弟の三島美奈子である。子供の頃はよく遊んでいたお姉さん的存在だったのだが、美奈子が結婚してからは、夫の仕事の都合で地方に行っていたためほとんど会う機会がなかった。
「みいちゃん。お久しぶりです」
「さおちゃん! 久しぶり。雑誌とかテレビとか見てるよ。さあ上がって上がって」
お互いに愛称で呼びながら、中に通された沙織と母親は家の中を見回す。
「綺麗なマンションね」
「そこそこ古い中古マンションですけどね。でも旦那の職場が近いので」
「地方は大変だったでしょう?」
「まあどこも大変ですけど、楽しかったですよ。でも本社勤務になれたので、やっとこちらに落ち着けそうです」
沙織の母親と会話しながら、美奈子は赤ちゃんをベビーベッドに寝かせ、紅茶を入れて差し出した。
その時、奥の部屋から男の子が顔を出した。
「起きたの? 航太。杏子おばちゃんと沙織ちゃんにごあいさつなさい」
美奈子がそう言うが、人見知りなのか、男の子はその場から動かずに沙織たちを見つめている。
「航太君? わあ、大きくなったね。何年か前のお正月に会ったよね」
沙織が言った。航太は美奈子の息子だが、一度会った以来であり、もう覚えていないようだ。
「航太。ごあいさつ出来ないんなら、おやつあげないよ」
「……こんにちは」
やっと声が聞けて、沙織も母親も笑顔になる。
「こんにちは」
「来てくれるっていうからケーキ買っておいたの。食べてくださいな」
紅茶の隣にケーキを差し出して、美奈子も沙織たちの前に座る。その隣に航太も座った。
それから大人同士でいろいろな話を続けていたが、やがて母親と美奈子の会話が続いたので、沙織はトイレに行ったついでに、気になっていたベランダに出た。
「わあ。いい眺め」
高層マンションではないものの、少し郊外の高台に当たるところにあるそのマンション。ベランダの向こうに広がる景色は、都会のビル群だ。しかし緑も多い地域で、下にはマンションの公園も見える。
すると、隣の部屋で遊んでいた航太が顔を出した。
「ベランダは危ないから出ちゃ駄目だよ」
「あ、そうだね。すぐ入るよ」
航太がベランダに出ないよう躾けられているのを悟り、沙織は慌てて部屋に入る。すると、航太が戦隊ものの人形を差し出してきた。
「カッコイイだろ?」
「うん。カッコイイね」
部屋を見回すと、ぬいぐるみなどもある。
「わあ、かわいい。ぬいぐるみもあるんだね」
「それは花の」
花とは航太の妹の名前だ。さっき美奈子が抱いていた、まだ生まれたばかりの赤ちゃんである。
「花ちゃん、かわいい妹で嬉しいね」
「沙織もかわいいよ」
小さな男の子にさらりと言われて、沙織は照れながら笑った。
「航太くん、おませさんだなあ」
その時、沙織の母親が顔を出した。
「沙織。買い物行くよ」
「うん。わかった」
「僕も行く!」
突然、航太も立ち上がって言う。
「あら。航太くんも行く?」
「うん」
「じゃあママと花ちゃんだけお留守番ね」
「すみません……なかなか買い物に行く時間なくて」
美奈子の言葉に、母親は首を振る。
「二人もいるんだもん、当然よ。私も子どもたちが小さい頃は、親とかママ友に助けてもらってたものよ。もちろんお姉ちゃんにもね」
「じゃあ、お言葉に甘えてお願いします。航太、おりこうさんにね」
沙織の母と美奈子の会話を尻目に、航太はすでに靴を履いて沙織の手を取っている。
「うん」
「あら。すっかりさおちゃんのこと気に入っちゃって……ごめんね、さおちゃん」
美奈子に言われて、沙織は首を振った。
「ううん。仲良くなれるなら嬉しいし。行ってきます」
こうして沙織は母親と航太とともに、外へと出ていった。
外は少し汗ばむ程度の穏やか日で、快晴である。
「今日は本当に良い天気ね」
「お母さん。どこに買い物に行くの?」
「そこのショッピングモールなら、なんでも揃うでしょ。消耗品とかいろいろ買ってあげないと」
大型ショッピングモールで買い物を始めた早々、航太が立ち止まった。
「航太くん?」
「あっち行きたいの」
航太が指差したのは、キッズプレイスペースである。屋内型だがアスレチックのような大型のスペースがある。
沙織は母親を見つめると、母親は大きく頷いた。
「行ってらっしゃいよ。沙織、ちゃんと見ててあげるのよ」
まるで甘い母親に、沙織は苦笑して頷いた。
「わかった。でも、私はあそこには入れないからね? 航太くん」
「うん。ママも外で待っててくれるよ。大人はあそこで待ってるんだよ」
前にも来たことがあるようで、航太は慣れた様子で待合スペースを指差し、一直線にプレイスペースへと入っていった。
「こっちも買い物に専念出来るからよかったわ。じゃあ沙織、よろしくね」
「了解」
母親と分かれ、沙織はプレイスペース前の待合スペースに座り、中を見つめた。中にある大型の滑り台では、すでに航太が遊んでいる。
「航太くん、楽しそう」
航太に癒やされていると、沙織の携帯電話が震えた。見ると、鷹緒からの電話である。
「鷹緒さん?」
『おう。今、大丈夫?』
「うん」
『おまえ、今日はオフだっけ? 俺、この後の撮影飛んだんだけど』
「え。撮影なくなっちゃったの?」
『うん、先方の都合で。で、急ぎの仕事もないから、おまえどうしてるかと思って』
嬉しさを抑えきれず、沙織は電話を持ち替える。
「会いたい! あ……でも今、お母さんと親戚の買い物してて……」
『そうか。じゃあまあ、時間空いた時でも……』
「あ、待って……」
切られそうな雰囲気に、沙織は慌てて声で引き止める。
『うん?』
「あ……」
その時、催事場案内の館内放送が響き渡った。
『なんだ。おまえ、モールにいるの?』
「え? うん、なんでわかるの?」
『そこのモールの館内放送の音楽、独特だから』
「ああ、確かに」
案内とともに軽快な音楽が響き渡っているので、沙織は笑う。
その時、母親が大きな袋を抱えて近付いてきた。
「お母さん」
「ちょっと荷物預かっておいて。もう、オムツ買っただけでこの量。帰りはタクシーね……」
そう言われて、沙織は電話を強く握った。
「鷹緒さん!」
『聞こえた。迎えに行こうか?』
「いいの? お母さん、鷹緒さんが迎えに来てくれるって」
母親は少し驚いた後、くすりと笑った。
「そう。じゃあ、心置きなく買い物出来るわね。鷹ちゃん来たら、それロッカーに入れといていいから、航太くんと三人でゆっくり遊んでらっしゃい」
そう言って、母親は手ぶらで戻っていった。
それから十数分後。プレイスペース前に鷹緒がやって来た。
「早かったね」
「撮影で近くにいたからな」
その時、プレイスペースから航太が出てくる。
「誰だ、おまえ」
急に現れた鷹緒に、敵対心剥き出しの様子で航太が言った。
「航太くん、この人はね……」
「沙織の彼氏ですけど、何か?」
同じ目線まで腰を折ってそう答えた鷹緒に、航太は口を尖らせて沙織を見つめた。
「沙織。本当かよ」
「え、うん……」
「趣味悪いな。こんなオッサン」
「このヤロ……」
苦笑する鷹緒だが、面白そうにしている。沙織もまた苦笑して口を開いた。
「航太くん。この人は鷹緒さん。航太くんの遠い親戚でもあるんだよ」
それを聞いて、鷹緒もまた驚いた。
「親戚?」
「お母さんのお姉さんの孫の航太くん」
「えっ? 梢子姉ちゃんの?」
思わず出た名前に、沙織は笑う。
「梢子姉ちゃん……」
「なんだよ……」
「ううん、そう。梢子伯母さんの孫の航太くん」
「なるほど……」
沙織の手を取る航太の頭を、鷹緒はガシガシと撫でた。
「航太。どこか行きたいところあるか?」
「え?」
「ゲーセンでも行くか」
「行く!」
そう会話を交わす鷹緒と航太だが、航太は沙織から離れようとしない。
そのまま三人は、同じフロアのゲームセンターへと向かっていった。
「鷹緒さん、UFOキャッチャー得意だっけ?」
突然の沙織の問いかけに、鷹緒は振り向く。
「いや、ヒロほどでは……」
「ヒロさん、得意なんだ?」
「あいつはプロだと思う……なんか欲しいものあるのか?」
「うん……」
沙織は目の前にあったアザラシのぬいぐるみを指差すと、鷹緒が大きく笑った。
「子どもかよ」
「どうせ子どもですよ……」
「デカイからなあ。俺には取れないかな」
「だよね。難易度高いって聞いたし、しょうがない……航太くんは、何かやりたいゲームとか欲しいものとかあるの?」
そう問われると、航太は迷いもなく沙織を引っ張っていく。
「これ」
やがて立ち止まった航太の前には、流行のアニメの対戦ゲームがある。勝つとカードが出てくるようだ。
「これなあに?」
「いつの時代もこういうやつ流行るんだな……」
遊び方がわからない沙織の横から、鷹緒が小銭を機械に入れた。
「航太。五回までだからな」
「うん!」
航太は嬉しそうに機械の前にかじりつく。沙織は鷹緒を見上げた。
「鷹緒さん、なんか子どもの扱い慣れてない?」
「そうか? まあ……一応、父親でしたから」
「そっか……」
鷹緒は沙織の頭を軽く撫でると、航太の横に座り込んだ。
「お、航太うまいじゃん」
「やった! カードゲットした!」
「その調子」
遊ぶ二人の後ろ姿を見つめて、沙織は優しく微笑んだ。まるで母親になったようにあたたかな時間が流れている。
「鷹ちゃん、悪いわね」
やがて沙織の母親が合流し、鷹緒は首を振った。
「いや。こちらこそ、家族で休日の邪魔しちゃって……」
「あら。あなただって家族でしょ」
「ありがとう……」
はにかむように笑う鷹緒に、沙織も少し遠くから微笑む。そんな沙織の手を、航太はぎゅっと握りしめた。
「沙織。あっち行こう」
「あ、航太くん。もう帰るよ」
「え……」
「ママも花ちゃんも待ってるから、今日はここまでね」
「……うん」
こうして一同は、鷹緒の車で美奈子の待つマンションへと戻っていった。
「じゃあ、俺はここで」
部屋の前まで荷物を運んだ鷹緒が言った。
「あら……じゃあ、沙織も一緒に……」
気を利かせて言う母親に、鷹緒は首を振る。
「いや、一度会社に戻るから、ゆっくりしてるといいよ」
「そう? じゃあ、ありがとうね。また今度ゆっくり会いましょう」
部屋に入っていく母親を見送って、沙織は初めて聞くことに心配そうに顔を上げた。
「何かトラブル?」
「いや。まあ、またあとで連絡するから」
「うん……じゃあ、お母さんと分かれたら連絡するから」
「ああ。じゃあな」
背を向ける鷹緒のジーンズを、航太がぎゅっと引いた。
「鷹緒。今日はありがとうな」
生意気な口調の航太に、鷹緒は不敵な笑みを浮かべながら頭を撫でた。
「ああ。またな、航太」
「また遊ぼうね」
「おう。でも、次は沙織の手は握らせてあげないかも」
「鷹緒さん!」
きょとんとする航太の横で、沙織は顔を赤らめる。
「じゃあ、またな」
今度は沙織の頭も撫でて、鷹緒は去っていった。
「……お部屋入ろうか」
真っ赤な沙織に、航太はにやりと笑う。
「あいつ、いいやつじゃん。ちょっとは認めてやるよ」
そう言いながら、航太は部屋へと入っていった。おませな航太に何度も笑わされながら、沙織は鷹緒の行動で赤くなった頬を押さえる。
「あーもう、ずるい」
軽く頬を叩いて、沙織も部屋へと入っていった。
それから数時間後。沙織は鷹緒に電話をかけた。
「鷹緒さん。まだ会社?」
『ああ。終わったなら、ちょっと寄れる?』
「うん。わかった」
沙織が事務所に寄ると、中は必要な部署以外は電気が消えている状態で、鷹緒しかいない。
そんな鷹緒のデスクには、沙織が欲しがっていた大きなアザラシのぬいぐるみがあった。
「えっ?!」
「どうぞ」
「ど、どうしたの? 取ったの?」
「俺じゃないけどな」
苦笑する鷹緒の前で、沙織は首を傾げる。
そこに、社長室から広樹が出てきた。
「お、沙織ちゃん。やっと来たね」
「あ! もしかして、ヒロさんが取ってくれたんですか?」
「うん。まあ、取れたからよかったものの、いきなり仕事中に連れ出されて、UFOキャッチャーやらされたのは確かだよ」
「す、すみません。でも嬉しい! ありがとうございます!」
沙織の笑顔を見届けて、鷹緒は立ち上がった。
「まあ、そこまでデカイと俺の腕じゃ無理だから。他力本願」
「僕だって取れないことも多々あるんだからね。取れたからよかったものの……」
「代わりに仕事も手伝っただろ。じゃあ、サンキュー。帰るよ」
頷く広樹に、沙織はもう一度頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いいよ。こんなことでいいなら。またね」
広樹に見送られ、二人きりのエレベーターで沙織は鷹緒を見上げる。
「まさか、このために事務所に戻ったの?」
「ちゃんと仕事もあったよ」
「……ありがとう。大事にするね」
大きめのぬいぐるみを抱きしめながら微笑む沙織に、鷹緒もまた微笑んだ。