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84. 爆弾

 理恵はその日、久々の休みで家の掃除をしていた。娘の恵美は今日から修学旅行で、元気に出かけて行ったが心配もある。

 そんな時、携帯電話が鳴った。液晶に浮かぶ文字は、付かず離れずいる恋人の豪である。

「はい」

『何してる? お休みでしょ』

「掃除と洗濯してる」

『今日は恵美もいないんでしょ。ディナーしよう。前に行きたがってた麻布のレストラン、予約出来たから』

「本当?」

『うん。十八時に駅で待ち合わせよう』

「了解」

 電話を切った理恵は、嬉しそうに微笑んだ。ゆっくり時間をかけて、お互いの信頼関係を築いている気がする。それは遅くとも着実に愛を育んでいる気がしたし、いかに血の繋がった親子であろうと恵美がいる限り焦らずいこうと思って今日まで来ている。

 理恵は少しばかりお洒落をすると、駅へと向かっていた。


「来てるわけ……ないか」

 豪は大抵、時間通りに来たことがない。理恵は慣れたようにバッグから本を取り出して読み始める。

「美女が本読んでる姿はいいもんだね」

 それから程なくして、そんな声が後ろから聞こえた。

「豪」

 豪はニヤニヤと笑みを零しながら、すぐに理恵の肩を抱いた。

「遅れてごめん。何読んでるの?」

「小説」

「ああ、今流行りの」

「ちょっと、そんなにくっつかないでよ」

「オフなんだろ。たまにはいいじゃない」

 理恵は小走りで豪から離れると、不審な目で見上げた。

「嫌です。事務所から遠いわけでもないんだし」

「チェッ……相変わらずお堅いな。まあいいや、行こう」

 二人は微妙な距離を保ちながら歩き出す。

「でも、よく予約出来たね」

「急なキャンセルが出たんだって。電話してみてよかったよ。ずっと行きたがってたでしょ?」

「うん。パスタがすごく美味しくて」

「先輩と行ったんだっけ?」

「大昔ね」

 歩きながら、豪は遠くに見えるタワーマンションを見つめて鷹緒を思い出した。

「……全部消してやりたい」

 小さな豪の呟きは、理恵の耳には届かない。

「え?」

「ううん。なんでも……」

「諸星さん?」

 その時、前から歩いてくる中年女性がそう言った。

「え?」

「やっぱり、諸星さん! 覚えてない?」

「美智子さん! やだ、お久しぶりです」

 顔見知りなのか、理恵も急に声を上げて女性に駆け寄っていく。

「何年ぶりかしら。全然変わってないわね」

「美智子さんも。まだこの辺りに住んでいるんですか?」

「パートも続けてるわよ。たまには遊びに来て」

「ええ、ぜひ」

 ある程度の会話を交わして、女性は去っていく。そうこうしているうちに、豪は理恵を置いて歩き出していた。

「豪、ちょっと待ってよ」

「話はもういいの?」

 無表情の豪に、理恵は首を傾げる。

「なんか怒ってる?」

「べつに……諸星さんって、ちゃんと訂正したの?」

「ああ……そんな暇なかったけど」

「じゃあ社員と一緒の時にまた会って、そう呼ばれても知らないからね」

 明らかに不機嫌になった豪に、理恵はもう何も言わずため息をつき、予約した店へと向かっていった。


「やっぱり美味しい……」

「そう? よくある味だと思うけど」

 食事中も不機嫌な豪に、理恵は口を開く。

「料理に当たることないでしょ。美味しいものは美味しいって言いなさいよ。子供じゃないんだから……」

「悪かったね、子供で。理恵こそ無神経じゃない? 元旦那の姓を名乗って、元旦那と来た店に僕を連れてくるなんて」

「面倒くさいなあ……」

「悪かったね! どうせ僕は女々しいよ」

 一気に険悪なムードになり、二人は押し黙った。

 理恵は小さく息を吐くと、明るく口を開く。

「仕方ないでしょ。結婚してた事実は消せないんだから……それに、私を諸星って呼ぶ人はほとんどいないから大丈夫よ」

「あっそう」

「さっきの人ね、昔パートしてたスーパーで一緒だった人なんだ。恵美を妊娠中だったから、あんまり長くは勤められなかったんだけど、出産とか育児とかにもすごい親身になってくれて。バイトやめてもよくお世話になってたの」

「へえ……妊娠中に?」

「家にいてもやることなくて、気が滅入っちゃってたから……」

 豪との子供を育てると言ってくれた鷹緒。それにただ乗っかることなど理恵には出来ず、おなかが大きくなるまでバイトをしていたのである。先ほどの女性はその時の仲間のようだが、豪の耳にはあまり入っていない。

「……鷹緒先輩の好物ってなに?」

「え?」

「ここ、一緒に来たことあるんだろ」

「そんなの覚えてないわよ……それよりどうして?」

「僕だって先輩のこと憧れてるんだ。好物くらい知っておきたいじゃん」

 豪の真意が掴めずにいながら、理恵はワインに口をつける。

「……やめない? 鷹緒の話は」

「どうして。やましいことがあるの? 気にしすぎだよ」

「豪のほうが気にしてるんでしょ……いい加減にしてよ」

 呆れる理恵を前に、豪は口を尖らせてメニューを見つめる。

「テイクアウト出来るみたいだよ。先輩に買っていこうよ」

 終わる気配のない豪の話しに、理恵は飲み干したワインをテーブルに置く。

「豪……私たち、これからどうするの?」

「え?」

「今まで何度もこういう話になってるけど、いつもはぐらかしたり、なあなあになったり、結局進まないじゃない……恵美のこと、私のこと、どう思ってるの?」

 真剣な目で見つめられ、豪は視線を逸らした。

「……理恵は、僕と結婚したいの?」

 そう言われて、理恵は豪を睨み付けた。

「バッカじゃないの?」

「僕はしたいよ」

 豪もまた真剣な顔をするが、理恵と一瞬合った目をすぐに逸らせる。

「……だったらどうして……」

 互いに拳をぎゅっと握って、豪は静かに口を開いた。

「……理恵のことは好きだ。子供は苦手だけど……恵美は僕の子供だし、ちゃんと好きになろうと思ってる。年々、距離は縮まってると思う」

「うん……」

「でも……でも、ごめん。今すぐ結婚は出来ないんだ……」

 豪の言葉に、理恵は顔を上げる。

「どうして?」

「それは……」

「うん?」

「まだ僕、自立している感じしないし……」

 目を泳がせる豪に、理恵は悲しく微笑んだ。

「私も……結婚がすべてと思ってないよ。恵美だって多感な年頃だし、無理に結婚しなくてもいいと思ってる。でも、このままずるずる付き合うのは私も嫌よ……」

「理恵。僕……」


 鷹緒は家に帰るなり、胸ポケットが軽いことを感じて棚を開けた。いつもなら煙草がストックされているが、今日に限って空である。

「そうか……この間、会社に持って行ったんだった……」

 軽く息を吐いて、とりあえず灰皿に盛られた吸い殻から一本を取り出し、もう一度火をつける。外へ買いに出るかを迷っていると、インターホンが鳴った。

「はい」

 モニターに映し出されたのは、髪をひどく濡らした豪である。

『先輩……いますか?』

「豪?」

『僕……』

「……ちょっとそこで待ってろ」

 部屋に上げるにはあまりにも気が乗らず、鷹緒は煙草を買いに行く名目もあって、そのまま外へと出て行った。

 マンションのロビーに立っていた豪は、生気のない表情で鷹緒を見つめている。

「先輩……」

「……どこか入ろう」

「いえ、店は……そこの公園でいいですから……すみません」

 歩いている間にも、豪の目からは涙が溢れていた。

 鷹緒は何も聞かず同情の念を抱きながらも、心は鋼鉄のように身構えている。

「……理恵のことか。水でもぶっ掛けられたのか?」

 近所の児童公園は、もはや夜には人の気配もない。二人でベンチに座るなり、鷹緒がそう切り出した。

「図星です……僕はどうすればいいのかわかりません」

「……恵美のことか?」

「すべて。好きなのに、誰よりも大事にしたいのに、いつも傷つけてしまうんだ……プライドとか過去とか、全部捨ててしまいたいのに……素直になればなるだけ、理恵は僕から離れていく」

 それを聞きながら、鷹緒は残り数本しかない煙草に火をつけた。

「……俺も聞きたくないよ。おまえが隠してること。出来れば隠し通して欲しいと思ってる」

「先輩」

「でもおまえは……また俺に殴られに来たのか?」

 まるですべてを悟られているかのような感覚に陥り、豪は鷹緒に勝てないと思った。

「僕は、また理恵を……」

 言いかけた豪に、鷹緒はじっと豪の顔を見つめた。

「……言えよ」

 鷹緒も覚悟を決めたように、拳に力を込めた。身構えていなければ、自分の心も壊れそうな雰囲気である。

「……理恵に言いました。僕が……結婚してること」

 一瞬の間があって、鷹緒をゆっくりと目を閉じた。驚きもあったが、なぜだかそんな予感はしていた。

「……それで?」

「それだけ……理恵は黙って出ていきました」

 震えながらも顔を上げた豪の目に、辛そうな鷹緒の顔が飛び込んでくる。

「……全部言えよ。俺、全然理解してないからな」

「何から……」

「なんでもいい。全部だ。全部吐き出せよ」

 そう言われて豪は口を曲げる。やがて覚悟を決めたように、静かに口を開いた。

「……相手はフランス人女性で、僕が日本を経ってすぐに会った人でした。フランスではその人と一緒に暮らしていました。しばらくして結婚したことで、僕は長期間あっちにいることが出来ました」

「ビザのために結婚したのか?」

「まさか……僕だって自暴自棄になってたんです。理恵と恵美を置いてきたのは僕だけど、僕だってどうしたらいいのかわからなかった……どうにでもなれと思ったんです。後戻り出来ないくらい自分を追い込もうって」

 鷹緒の深いため息が漏れた。

「じゃあ、なんで戻ってきた」

「それは……先輩のせいですよ」

「は?」

「先輩と理恵が同じ会社で働くことになった……それを聞いたら、もう居ても立ってもいられなかったんです……」

「それで、相手は……?」

「ここ数年、何回かフランスには行っています。離婚しようとも言っていますが、あちらが納得していないから……」

「別れるつもりなのか?」

「どちらも好きですけど……理恵と恵美と一緒にいたいのは強いです」

「向こうに子供は?」

「いません。それは断じて……」

 そこで鷹緒はもう一度、深いため息を漏らした。

「おまえ……今日までよく黙っていられたな」

「どんどん苦しくなってきました……」

 前に豪が「まだ言えない」と言っていたとんでもなく重い話がこのことだったのかと察して、鷹緒は携帯灰皿に煙草をねじ込む。

「……もっと苦しめよ」

「ひどいなあ……」

「俺はおまえを許さないし、今回のことでもっと軽蔑してるよ」

「……はい」

「でも、理恵も恵美も犠牲者だろ。おまえに出来ることは、どちらにしてもさっさと別れることだ」

「理恵と?」

「それはおまえの気持ち次第だろ」

「……はい」

 そう言うと、鷹緒は立ち上がった。

「……殴らないからな。人の手を借りず、もっともがき苦しめよ」

 もう何も言わない豪を置いて、鷹緒はそのまま去っていった。


 気がつけば当てもなく走っていた鷹緒は、コンビニで煙草を数箱買い、水を飲んで携帯電話を取り出した。アドレス帳から理恵の名前を出してみるが、思い止まって目を閉じる。恵美がいる限り、変な気は起こさないだろう。だが理恵の気持ちを考えると、心が痛くてたまらなかった。

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