83. 元カレ
とあるテレビ局の楽屋で、沙織は麻衣子と話をしていた。
「私、ここの局初めて……すごく綺麗だね」
沙織が言うと、芸歴の長い麻衣子も頷いた。
「私も新社屋は初めて。最近建て替えたんだよね」
「へえ。だからこんなに綺麗なんだね」
「それより今回の仕事、鷹緒さんのおかげなんでしょ? 親戚がテレビ局のプロデューサーなんて、もっと早く言ってくれればよかったのに」
「最近プロデューサーになったって言ってたよ。それに、あんまり親戚と会ってないみたい。私だって親戚だけど、この世界に入らなかったら全然会わなかったもん……」
「そっか。まあ確かに、うちも従兄弟と全然会ってないなあ……会うと仲良いけどね」
そう言いながら、麻衣子は自分のバッグを覗く。
「あれ。お水忘れちゃった」
「じゃあ私、買ってくるよ。トイレも行きたいし」
沙織は財布を持って立ち上がった。
「そう? じゃあお願い」
「オッケー」
沙織は楽屋を出てトイレに寄り、自動販売機を探す。
「なんか入り組んでてわかりづらいなあ……」
独り言を呟きながらも、沙織は自動販売機を見つけて水とジュースを買った。
「あの!」
その時、後ろから男性の声が聞こえて、沙織は振り返った。するとそこには見覚えのある青年が立っている。
「えっ……あ、篤?!」
思わず出た名前に、青年はにっこりと笑った。
「よかった。覚えててくれた……」
ホッとした様子の青年は、沙織が高校時代に付き合っていた遠山篤であった。
「どうしてここに……?」
「ああ。俺、テレビ局に就職したんだよ。今、ADやってるんだ。今日、沙織が出る番組もそう」
「そうなんだ! びっくりした」
たった数年前のことだが、お互いに未熟で幼かった高校時代。少しのすれ違いや勘違いで終わってしまった恋愛だが、その存在ごと消すほどの辛さや情熱はなかったように思える。その証拠に今、久しぶりに会っても、それは友達のように感じた。
「ずっと会いたかったよ。ゆっくり話したいけど時間がないから……よかったら連絡先交換しない? SNSでもいいからさ。高校の全体同窓会もあるみたいだし」
「そうなんだ? うん……いいよ」
SNSのIDを交換すると、麻衣子が顔を出した。
「いた、沙織。迷子になっちゃったかと思った」
「ごめん、麻衣子」
「……お知り合い?」
「うん、高校時代の先輩で……」
「そうなんだ? そろそろ時間だよ」
「うん。じゃあ、篤。またね」
「ああ。頑張って」
篤に見送られ、沙織は麻衣子と楽屋へと戻っていく。
「え! 元カレ?」
「高校時代のだよ」
「ちょっと、大丈夫? 連絡先なんて交換して……」
「悪い人じゃないし、同じような業界の人だし」
「まあ、そっか……でも沙織も隅に置けないなあ。今の人もカッコいいじゃん」
数年ぶりの恋人。確かに前よりも男らしく頼もしく見えた。
「からかわないの」
それから番組の収録があった二人は、終えるなり一緒にテレビ局を出ていった。
「篤からもう連絡入ってる……」
「なんだって?」
「ここ数年ずっと頑張ってるの知ってるよって。また一緒に仕事出来るといいなって」
「もう、やめてよ? やけぼっくりになんとかって……」
「あはは。ないない」
「本当? 鷹緒さんだって……」
「べつに怒らないと思うけどなあ……」
そうは言うものの、少しの罪悪感が出てきて、沙織は携帯を握りしめた。
「怒らなくても、やきもちくらい妬いて欲しくない?」
「やきもち?」
「だって元カレが偶然現れるなんて。元カレと連絡先交換しただなんて。気が気でないかもよ」
「鷹緒さんに限ってそんなこと……」
その夜。沙織は鷹緒の部屋を訪れた。
鷹緒は今日も持ち帰りの仕事に追われているようで、煙草を咥えながら難しい顔をして、ひと段落つけるためにファイルから手を放す。
「で?」
その一言で、沙織は鷹緒の顔を見つめる。
「え?」
「なんか用があって来たんだろ? こうして仕事抱えてるってわかってるんだから」
「それが彼女に言う言葉ですか……」
口を尖らせる沙織に笑って、鷹緒は缶コーヒーに口をつける。
「ハハッ。悪いけど、こっちも追い込みだからさ……」
「ごめんなさい。ちょっと相談があって……」
「うん、なに?」
「……篤って覚えてる?」
沙織の言葉に、鷹緒は咥えていた煙草をもみ消して、すかさず新たな煙草に火をつけた。
「知らねえな」
「高校時代に私が付き合ってた元カレ……」
「知らねえよ、おまえの高校時代なんて……」
そう言いかけて、鷹緒の脳裏にBBの姿が浮かぶ。
「ひどい。私と再会したきっかけだよ」
「ああ……BBのファンだっていう、あのミーハー男か」
「そうそう」
「そいつがなんだって?」
興味がなさそうな鷹緒にも、沙織はもじもじと口を開いた。
「今日ね、テレビ局で偶然会ったの。諒さんと同じ番組でADしてるんだって。就職したんだって」
沙織の言葉に、鷹緒は大きく息を吐いた。
「へえ……」
「……それだけ? 結構テンション上がったんだよ。知ってる人に偶然会って」
「それのどこが相談なんだよ……やけぼっくりに火が付いたとか、そういうことか?」
うんざりした様子の鷹緒に、沙織もため息をつく。
「なんでそういうこと言うの……」
「じゃあ、さっさと本題に入れよ」
沙織はムッとしながらも、ゆっくりと口を開いた。
「……篤が連絡先教えてって言うから、SNSの連絡先を交換したの。でも麻衣子が危ないんじゃないのって言うから、確かに軽率だったかなって……」
「それでどう思うって聞きたいのか? バカバカしい」
「そんな言い方ないじゃない……」
鷹緒は煙草をもみ消すと、ため息をついて沙織を見つめる。
「……じゃあ俺はどうしたらいいの? なんでそんな馬鹿なことしたんだって怒ればいいのか? それとも勝手にしろって? そんなこと、おまえがしっかりしていればいい問題だろ」
突き放す鷹緒に、沙織の顔はどんどん曇っていった。
「ごめんなさい……」
今にも泣きそうな沙織に、鷹緒はもう一度深いため息をつく。
「……俺の言い方が悪いのもわかってるけど、おまえもわかってくれない? 俺はおまえが馬鹿だと思ってないし、どんな選択してもフォローするよ。でも俺にやきもち妬いてほしいとかあるなら、正直面倒くさい」
自分の心を見透かされているようで、沙織は恥ずかしそうに俯いた。
「ごめんなさい。でも、やきもち妬いてほしいとか……そりゃあ少しはあったけど、悩んでるのは本当で……」
「……元カレだろうが、知ってるやつなら教えても構わないと思うけど、俺はそいつの本質知らないし、不安なら交換することはなかったかもな」
鷹緒もうんざりしつつ沙織を見つめる。もう沙織は顔を上げない。
「……沙織」
「……」
「……俺のことも察してくれよ。ここしばらく家にまで仕事持ち帰ってるし、そんな話聞かされて良い気するわけないだろ」
口を曲げる鷹緒を、沙織は恐る恐る見上げる。
「怒ってる……?」
「怒ってはないけど」
「ごめんなさい……」
「ったく……」
鷹緒はそっと沙織を抱きしめる。
「……私って簡単だな。こんなことで安心出来ちゃうなんて」
「それは俺だけにしろよな」
「当たり前でしょ」
「……本当は……」
「え?」
「携帯なんてなくなればいいと思ってるよ……」
余計な心配事などなくなればいい……鷹緒の真意を察して、沙織から不謹慎な笑みが零れる。たった今まで感じていた不穏な空気はまったくない。
「もう……鷹緒さん、わかりづらい」
「アホか。なんでもかんでも俺に言うなよ。ちゃんと自分で考えろ。それから……気をつけろよ」
「はーい……」
ぴとっと腕に抱きつく沙織に、鷹緒は軽いため息をついた。
「……駄目だ。おまえがいると仕事にならない」
「ひどい……」
「先に寝てて。一時間で片付けるから」
無理をさせているのが申し訳なく思うも、沙織はもう何も言わずに頷き、鷹緒の頬にキスをすると、そのまま寝室へと去っていった。
「……翻弄させんな」
恋愛の面倒さも楽しさも感じながら、鷹緒は目の前の仕事にもう一度手をつけた。