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78. 招かれざる客

 夕方。WIZM企画プロダクションの社内は、一日のうちやっと落ち着く時間である。ほとんどの社員は出払っていて、牧を初めとする事務員たちがパソコンに向かっているだけだ。

 そんな頃、一人の女性が社内に入ってきた。年は四、五十代だろうか。

「失礼します……」

 不安げに入ってきた女性に、受付に座っていた牧が顔を上げて立ち上がる。

「いらっしゃいませ」

 言いながら女性を観察する牧。目の前の女性は上品さを醸し出しており、仕事関係ではない雰囲気がある。

「あの……カメラマンの諸星さん、おいででしょうか?」

 女性がそう言ったので、牧は少し困った顔をした。

「申し訳ございません。諸星はあいにく席を外しておりまして……お約束はございますでしょうか?」

「いえ。何度かお電話はしたのですが……突然来てしまって申し訳ありません。あの……お帰りは何時頃になりますか?」

「今日はそろそろ一度戻る頃だとは思いますが……よろしければ、ご面会の予約をお受け致しますので、受付表にご記入頂けますでしょうか」

 牧は事務的にそう言いながら、記入ボードに受付表を挟み込み、女性に渡した。来客のほとんどは、これに記入してもらうことになる。

 女性はそれを受け取ると、入口のそばに置かれたソファに座り、記入を始めた。

 その時、社内に鷹緒が入ってきた。

「ただいま」

 早足で入ってくる鷹緒に、牧が通り道を塞ぐように立つ。

「あ、鷹緒さん。お客様が……」

「え?」

 ふと振り返ると、女性が立ち上がって会釈していた。

「ああ……」

 見覚えのあるその顔に、鷹緒は牧に頷くと、女性のもとへ歩いていく。

「ご無沙汰してます……どうしたんですか?」

 鷹緒が尋ねると、女性はもう一度お辞儀をした。

「ごめんなさい、突然。何度かお家にお電話したんだけど、繋がらなくて……」

 それもまた覚えがあり、鷹緒は軽く頷いた。

「ああ、すみません……忙しくて。急用ですか?」

「ううん、それほどでも。でもちょっと相談したくて……」

 鷹緒は腕時計を見つめる。

「……二、三十分で良ければ、時間取れますけど……」

「それでもいいです」

「じゃあ、信号渡ったところのビルの二階に喫茶店があるんで、先に行ってていただけますか?」

「わかりました」

 女性は受付表を鷹緒に渡すと、そのまま会社から出ていった。

「綺麗な方ですね。もしかして昔の……」

 からかう牧に、鷹緒は口を曲げる。

「アホか。あの人は俺の……母親だよ」

 そう言いながら受付表を牧に渡すと、鷹緒は自分の席へと向かっていった。牧の手に渡された受付表には、確かに名前の欄に「諸星」と書かれている。

「えっ、あんなに若い……?」

 驚く牧の言葉を遠くで聞きながら、鷹緒は机に貼られた自分への伝言メッセージを見つめる。急用はないようだ。

 鷹緒は持っていた荷物を置くと、すぐに出入口へと歩いて行き、牧を見つめる。

「母親っていっても、再婚だからな」

「ああ……なるほど」

「目の前の喫茶店にちょっと出てくる。会議までには戻るから」

「わかりました」

 そのまま鷹緒は、行きつけの喫茶店へと向かっていった。


 喫茶店内の奥の席には、先程の女性が背筋を伸ばして座っている。正真正銘の義母であるが、最後に会ったのは鷹緒が入院した時に不意に出会って以来。きちんと話すことはもう何年もしていない。

「お待たせしました……」

 あまり気乗りしないまでも、会社に押しかけられてしまえば逃げ場はない。鷹緒はコーヒーを頼むと、義母の前に座った。

「本当にごめんなさい。いきなり会社にまで来てしまって……」

「俺も電話に折り返すの忘れてたし……どうしました?」

 他人行儀でそう尋ねながら、鷹緒はすぐに運ばれてきたコーヒーに口をつける。

 すると、義母がすっと一枚の名刺を差し出した。

 鷹緒はコーヒーを置くと、その名刺を手にとって見つめる。とあるモデル会社の名刺のようだ。

「……これは?」

「知ってるかしら? その会社……」

「まあ、名前程度は」

 それを聞いて、義母はほっとしたように息を吐いた。

「実は、千秋ちあきが……娘がその会社にスカウトされたって言うの。それで、やってみたいって……」

 義母の言葉に、鷹緒は声を失った。

 千秋というのは、鷹緒の腹違いの妹である。そちらもその子が幼い頃に会ったきりだ。今後も関わる気もないが、同じ業界に入ってくるならば由々しき問題である。

「え……っと、今、何歳でしたっけ?」

「高校一年生」

「もうそんな年なんだ……」

 鷹緒はかき乱された心を落ち着かせるように、さっと煙草に火をつけた。

「私は、心配だけど反対していないの。若い頃はいろいろやってみたらいいと思うし、鷹緒君もやったことのある世界だから少しは安心だと思って。でも、鷹緒君は嫌……よね?」

 顔色を窺うように上目遣いで見てくる義母を前に、鷹緒は目を合わせようともせず、大きく煙草の煙を吐いた。

「嫌ですよ。そりゃあ……」

 ハッキリと言った鷹緒に、義母はしゅんと肩を落とす。

「そうよね……ごめんなさい。突然押しかけてこんなこと……」

 鷹緒はため息をつくと、軽くコーヒーに口をつけ、早くも二本目の煙草に火をつける。

「……あの人は?」

「え?」

「父親はなんて言ってるんですか?」

「……反対してるわ」

 その言葉に、鷹緒は少しほっとした。あまり同調したくない人物のはずなのに、少しだけ助けられた感じがする。同時に反抗心もまた芽生えた。

「じゃあ、俺に言うまでもないんじゃないですか?」

「でも、娘が必死に説得しているところで、もう少しで許してもらえそうで……鷹緒君の助けもあれば、やりやすいんじゃないかなって」

 それを聞いて、鷹緒は口を結んだ。

「……俺に出来ることなんてありませんよ」

 そう言いながら、鷹緒は自分でその問題の部外者だということに気づかされた。血の繋がった家族であろうと、なぜこんなにも遠い世界の話に感じるのかと驚いたほどである。

「鷹緒君。そんなことないわ」

「俺は部外者です。そちらの家庭の問題に出しゃばるべき人間じゃない。だから俺が賛成でも反対でも関係ないし、まして同じ業界だからって、俺が助けてあげられることは何もないですよ。すみませんが、そろそろ時間なんで……」

 伝票を取ろうとした鷹緒の手を、義母がとっさに掴んだ。

「あ……お金は私が」

「……わかりました」

 不快に感じてそっと手を引きながら、鷹緒は初めて義母と目を合わせた。その顔は不安げな様子で、すがるような目で見つめている。それを見て、鷹緒は目を伏せた。

「……俺にどうしろと?」

 鷹緒の言葉に、義母もまた目を伏せる。

「そうよね……でも居ても立ってもいられなかったの。子供たちには好きなことをやらせてあげたい。そこにあなたがいたものだから安心して、つい……」

「俺はただのカメラマンです。同じ現場で会うことがあれば、他のモデルと同じように扱いますしフォローもします。でも同じ事務所に入ることは勘弁ですし、現場で俺の名前が出ることも望みませんが、それさえ守っていただけるのなら、同じ業界だろうと何だろうと、好きにしてください」

 それは望んでいた答えだったのか、義母はやっと明るい表情を見せた。

「じゃあ、いいの?」

「最初から、駄目とは言いませんよ」

「ありがとう。絶対に迷惑かけないようにするから……」

「……わざわざありがとうございました」

 鷹緒は軽く会釈をすると、そのまま喫茶店を出ていった。

 心がざわつく。目の前の事務所に戻るのも、信号待ちの時間が長く感じられた。

「鷹緒さん! 鷹緒さん!」

 その時、そんな声が聞こえて、ハッと我に返る。すると信号の向こうで、沙織が手を振っている。

「沙織……」

 情けない声が漏れたが、その声は沙織には届かない。

 信号が青に変わると、鷹緒は走って渡っていった。

「もう。何度も呼んだのに全然気づいてくれないんだもん」

 頬を膨らませる沙織に、鷹緒は微笑む。

「悪い……事務所に用事?」

「うん。現場で預かった物届けにきただけ。鷹緒さんは、今日も遅いんだよね」

「ああ……これから会議なんだ」

「そっか」

「……行こう」

 二人はそのまま事務所のあるビルへと入っていく。

 すると、閉まりかけのエレベーターが開いた。

「乗りますか?」

 中から覗く女性に、駆け出そうとする沙織。それを制して鷹緒が口を開いた。

「いえ。先に行ってください」

 鷹緒の言葉を受け、エレベーターは閉まった。

「もう。乗れたのに……」

 膨れる沙織の前で鷹緒がボタンを押すと、隣のドアが開いた。

「待たないだろ?」

「そうだけど……」

 言いながら階数ボタンを押す沙織と同時に、鷹緒は閉ボタンを押す。

 二人きりのエレベーターで、鷹緒はそのままそっと沙織を後ろから抱きしめた。

「た、鷹緒さん?」

「……充電」

 少しして、鷹緒は沙織から離れると、階数表示を見つめた。三階でドアが開き、鷹緒が先に降りていく。振り返る先にいる沙織は、顔を真っ赤に染めていた。

「沙織?」

「ずるい。鷹緒さんばっかり……」

 確かに自分のタイミングばかりだと反省して、鷹緒は大人げなさに苦笑した。

「悪い。でも俺は浮上した。ちょっと落ち込んでたから……」

「落ち込んでた?」

 驚く沙織の耳元まで、鷹緒は顔を近付ける。

「会議終わったら、家に寄っていい?」

 沙織は顔を赤らめたまま、笑みを零して頷いた。

「うん」

「じゃあ、あとでな」

 沙織の肩を叩くと、鷹緒は先に事務所へと入っていった。


「おつかれさま、沙織ちゃん」

 緩んだ顔を整えてから事務所に入った沙織に、受付の牧が声をかける。

「おつかれさまです、牧さん。これ、スタッフさんから預かりました」

 撮影現場で預かった物を渡して、沙織の目は無意識に奥にいる鷹緒へ注がれる。しかし鷹緒はもうこちらに振り向きもしない。

「みんな帰って来た? そろそろ会議始めるよ」

 その時、奥から顔を出した広樹がそう呼んで、関係のある社員たちが一斉に立ち上がる。

「やだ、もうそんな時間? お茶の準備しなくちゃ……」

 慌てて立ち上がった牧を前に、沙織は一気にがらんとした社内に不安を覚えた。

「牧さん、お茶入れるなら私がやりますよ。受付に誰もいなくなっちゃうなんて心配ですし」

「あ……じゃあ、悪いけどちょっとだけそこに座っててくれる? お茶入れてすぐに戻ってくるから」

「はい。わかりました」

 慌てて給湯室へ向かう牧を尻目に、沙織は言われるがまま牧の席へと座った。事務員は定時で上がった人が多いらしく、モデル部に一人いるだけで、広いオフィスは途端に静かになった。

「ん……?」

 その時、沙織は牧のデスクに置かれていた受付票に目がいった。一番上にある紙には「諸星明美」の文字があり、右隅に牧の字で「鷹緒さん母」と書かれていた。

 鷹緒の「落ち込んでいた」という言葉が瞬時に理解出来てしまい、沙織は心配で振り返る。すると、牧が戻ってきた。

「ごめんね、沙織ちゃん」

「いえ。あの……牧さん。これ見えちゃったんですけど、この人……」

 受付票を指差す沙織に、牧は頷いた。

「ああ、さっき見えられたのよ」

「どんな人なんですか? 鷹緒さんのお母さんって……」

「うーん、すごく若く見えたなあ。でも再婚だって言うんだから不思議じゃないのか。上品な感じの大人の女性って感じかな」

「そうですか……見てみたかったな」

「ふふ。いつか嫌でも会うんじゃない? じゃあ、今日は会議だけだからこれで事務所閉めちゃうけど、沙織ちゃんはここで待ってる?」

「いえ、私も帰ります。失礼しました」

 そのまま沙織は事務所を出ると、目の前の信号を渡っていく。家族のことで鷹緒がナーバスにならなかったことはないかもしれない。そう考えると不安になった。

 その時、ふと香水の匂いがして、沙織は無意識に振り返る。すれ違った女性は、上品な大人の女性であった。それが鷹緒の母親かどうかは確かめる術はなかったが、沙織の心も少し痛んで、そのまま家へと帰っていくのだった。

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