6-2. 父の影 (後編)
『お電話代わりました、真壁です』
「……WIZM企画の諸星です。お電話頂いたようで」
『鷹緒君。久しぶりだね。元気かい?』
「ええ……それで、ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
気が立っているのか、愛想一つ言えない鷹緒に、真壁も悟って苦笑する。
『ああ、突然すまないね……急で悪いんだけど、近々会えないかな?』
「仕事のご依頼ですか?」
『ああうん、それも兼ねてなんだけど……急な選挙だけど、君の事務所近くに選挙事務所を構えたんだ。挨拶に行こうと思ったけど、急に行ったら嫌がると思って、電話でね……君、政司に全然会ってないんだろう? ひとつのきっかけになればと思ったんだけど』
鷹緒はすかさず煙草に火を点け、大きく息を吐いた。
「……余計なことはしないでいただけませんか」
言葉を選びつつも、鷹緒はきっぱりとそう言った。
『鷹緒君……』
「こんなこと言いたくないし、真壁さんが僕のことを心配してくださっているのは感謝します。でも僕ももう一端の大人ですし、今更父親がどうこうという概念もありません。そちらの仕事に協力するということも考えられません。お互いに平穏なら、今後も会うこともそうないでしょう」
『でも、お父さんは君に会いたがっているよ』
瞳を揺らせつつも、鷹緒は何の感情もないかのように目を伏せる。
「僕は……まだ子供でしょうか。とっくに父を許しているはずなのに、会って話す姿すら想像出来ません。お心遣いには感謝します。でもこれは僕と父の問題であって、まして他人である真壁さんに何かをして頂くことは何もありません」
『じゃあ仕事としては? 今回の選挙には間に合わないが、次回のポスター用の写真もある。もう一度だけでも受けてもらえないだろうか』
短くなった煙草を灰皿に落として、鷹緒は大きな窓ガラスの向こうに広がるビル街を見つめる。急いで入ってきたため、喫煙室の電気さえつけておらず、まるでここは自分の心の中のように思え、外のネオンに憧れさえ抱いた。
「勘弁してください……こんな大人げない対応をして申し訳ない。でも僕も、身内の写真を撮るほど暇人ではありませんし、父の息子として晒されるのは嫌なんです。わかってください」
『そうか……そうだね。君は子供の頃からそういう目に遭ってきたものな……いいきっかけになるかと思ったんだが……もう無理は言わないよ。会社にまで電話してしまってすまなかったね』
真壁の言葉に溜息をついて、鷹緒は目を伏せた。
「父は……元気にしていますか?」
それを聞いて、真壁が受話器を持ち直す音が聞こえる。
『もちろん元気だよ! いや、君と会えないのは寂しがっていたけど……あいつも頑張ってるし、君がマスコミに出たりすると、とても嬉しそうにしているんだ。仕事抜きでもありでもいいんだ。一度会ってみないか』
「いえ、遠慮します……」
その時、おかえりなさいという大声が、受話器の向こうに響いた。
『あ、帰って来たよ。一言だけでも……』
「すみませんが失礼します。なにかありましたら、僕からご連絡しますので……」
鷹緒はそう言って電話を切った。大人げない自分のやり方に溜息をつきつつも、真壁はいつも余計なことすると思い腹立たしくもなった。
静けさが漂う喫煙室で、鷹緒はまたも煙草に火を点ける。気にしていないと言っても、嫌でも頑なに閉じた心に触れなければならない現状に、自分自身もお手上げ状態である。
そこに喫煙室のドアが開き、沙織が顔を覗かせた。
「……入ってもいい?」
「……駄目」
「え、駄目?」
何故か明かりのついていない喫煙室。驚いた沙織の目には、ビル街の明かりが逆光になり、鷹緒の表情までは見えない。
「俺きっと今、情けない顔してるから……ヒロにもずっと余計な気遣いさせてたみたいだし、本当最悪……」
自己嫌悪に襲われている様子の鷹緒を見て、沙織は静かに鷹緒へと近付いた。
「なんだ。情けない顔なんてしてないよ?」
やがて見えた鷹緒の顔は、少し疲れたように見えるだけで、逆にそこに感情などないようにも見える。
「癒して」
鷹緒の言葉に微笑んで、沙織は鷹緒の頭を撫でる。
「よしよし」
そんな沙織の行動に、鷹緒は吹き出した。
「それがおまえの癒し方かよ」
「じゃあ他に何があるの?」
そう言われて、鷹緒は自分の頬を指差す。沙織は恥ずかしそうにしながらも、そこにそっとキスをした。
「辛い……?」
続けて言った沙織の言葉に、鷹緒は溜息をつく。
「……周りの気遣いがな」
「え?」
「俺、そんなにまだガキかな……そんなに言うなら、べつに父親と会ったっていいんだけど……だからって笑いながら酒酌み交わせるような関係には、今更なれないと思うんだけど……駄目だな。もうずっと離れてるっていうのに、事あるごとに父親の影に怯えて馬鹿みたいだ」
独り言のようにそう言いながら、鷹緒は三本目の煙草に火を点けようとする。それを沙織が止めた。
「吸い過ぎだよ。それにみんな、鷹緒さんのこと心配だからそう気遣うんじゃない。ヒロさんだって、異常なくらい心配してたよ」
相変わらず真っ直ぐに見つめる沙織に、鷹緒は微笑んだ。
「……昔さ、親父が秘書を通じて俺に依頼してきたんだ」
鷹緒は過去を思い出しながら、やはり煙草に火を点けた。
数年前――。
離婚の傷も少しは癒えた頃、がむしゃらに仕事をこなしていた鷹緒の元に、新規のアポイントメントが入った。
「宣材写真の依頼です。依頼主は真壁さんという中年男性でした。急ですが、ちょうど時間が空いていたので、明日の昼に打ち合わせにいらっしゃいます」
アポを取った受付の牧からメモを受け取り、鷹緒は頷いた。真壁という名前が、因縁の父親の秘書と同じ名前であることを知りながらも、よくある名前と思い、特に気には留めなかった。
しかし次の日にやってきたのは、鷹緒の父親本人と、秘書である真壁であった。
「……どうぞ」
言葉を失いながらも、鷹緒は入口の近くにある応接スペースへと案内する。奥のソファに座る二人を見届けて、鷹緒は無表情のまま受付票を差し出した。
「こちらにご記入頂けますか」
「そんな仏頂面で接客しているのか。これも客商売だろ」
父親の言葉に、鷹緒は目を伏せる。
「あなたでなければちゃんと接客しますよ。門前払いでないだけ感謝してほしいものですね」
他人行儀な鷹緒と一触即発の張りつめた空気が漂い、真壁は受付票に記入して微笑んだ。
「突然すまないね……でも、一度撮ってもらいたいと思っていたんだ。君は賞も取って有名になってきているし、是非にとね……」
その場を取り繕うかのような真壁の態度に、鷹緒は溜息をついた。
「宣材写真と伺っていますが?」
「ええ。政治のポスターやビラに使えるような写真をと……」
「あいにくですが、僕は政治家の写真を撮ったことがありませんので、そちらが望まれるような写真を撮る自信がありません」
「被写体がなんであろうと、おまえはカメラマンじゃないのか。それともまだ素人なのか?」
嫌味なまでの口調で語り続ける父親に、鷹緒は微笑した。
「カメラマンにも被写体を選ぶ権利がある。このお話はなかったことにしてください」
「あなたがどの程度有名で立派なカメラマンかは存じませんが、己の私情を挟んでいるとしか思えない。実の父親すら撮れなくて、何がカメラマンだ」
互いに他人行儀になり、火花が散るかと思うほど、二人の視線がぶつかり合う。
「……あんただって、俺に撮られるのが嫌なんじゃないですか? そんな挑発に乗る気にはなれない」
「それもおまえの私情だろ。俺は真壁が勧めるカメラマンに撮ってもらいたいだけだが……まだ子供だったんだな。離婚もしたそうだし、こんな汚い雑居ビルに構える小さな会社でふらふらと……どおりで腑抜けた半端者の顔をしてる。だからおまえは駄目なんだ」
目の前のお茶を掴んだところで、鷹緒はグッと堪えた。ここで暴れても、何の好転もしないことだけは理解出来る。
「……わかりました。近いうちは時間が取れないのですが、そちらもお急ぎのようですので、平日夜なら三十分だけ時間を確保します。急ピッチの撮影になります。それでもよろしければお受けします」
譲歩した形になったことが負けだとも思ったが、鷹緒は顔を顰めたままそう言った。
「それでお願いします」
父親の代わりにそう言った真壁は、足早に父親を連れて去っていった。
数日後。地下スタジオで撮影が始まった。助手もいない静寂のスタジオには、カメラマンである鷹緒と被写体の父親、付き添いの真壁の三人しかいない。まるで極秘の撮影だった。
その日、鷹緒は直前まで別の撮影が入っていたため、父親の撮影はいつになく疲れ、そして重く感じていつつも、父親から余計な小言を言われないためにもと、通常業務を装う。
「さすがは政治家ですね。撮影慣れしていらっしゃる」
嫌味を込めて言った鷹緒に、父親も不敵に笑う。
「カメラマンっていうのは、もっと気持ちよくさせてくれるものだと思っていたがね?」
「あいにくですが、俺はそういうタイプじゃありませんよ。特に知り合いの中年男性相手はね。でも……来てくださってありがとうございました」
不意に出た鷹緒のお礼の言葉に、父親は表情を変えた。
「何?」
「このような機会を与えてくださって感謝しています。あなたは、どこまでいっても俺の父親であることに変わりはないのですから」
他人行儀だが、初めて優しげな表情を見せた鷹緒に、父親もまた微笑んだ。
「一度……帰って来い。おまえの荷物はまだとってあるし、母さんの形見だっておまえは持ってないだろう」
「……じゃあ着払いでいいので送ってください」
「おまえ! その言い草はなんだ」
いい雰囲気だったはずの場が、一気に元通りに凍る。
「あなたこそ、まだわからないんですか。あそこに俺の居場所があるはずがない。まして居心地がいいはずもない。そんなこともあなたはわからないのか」
「人が下手に出てみれば……」
「どこが下手だ。俺のほうが何度も譲歩してる」
「それはこっちの台詞だ」
もはや似た者親子と言うべき姿に、真壁も苦笑して間に入る。だがそこにいつもの一触即発というムードはなく、どこか打ち解けたような、しかしやはり譲れないところがお互いにあるような、緊張感漂う場であった。
どこか微笑ましいようなエピソードに、話を聞いていた沙織はほっと胸を撫で下ろしていた。
「なんだか安心した。鷹緒さん、お父さんと一言もしゃべってないのかと思ってたから……」
その言葉に、鷹緒は口を曲げる。
「それは俺の作戦っていうか、いい写真撮るテクニックだったはずなんだけど……本当言うと、その撮影のことは全然覚えてないんだ」
「え?」
「その後、俺、倒れてさ……」
「倒れた?」
鷹緒は力なく微笑む。
「撮影終えて加工して、出来上がりのデータ送って……その夜、熱出して倒れて、三日寝込んだ。ヒロが心配してるのはそれ」
「……どうして? どこか具合が悪かったの?」
「うーん。格好悪いから言いたくないんだけど……神経系の病気でね。簡単に言うとストレスだな。忙しかった時期だったし、離婚後だったし、父親のせいだけではないと思うんだけど、倒れて仕事に穴開けたのそれが初めてだったから、周りに迷惑かけてヘコんだし、あんまりいい思い出じゃないんだよな」
「ストレス……」
「結構大変だったんだぜ? 起き上がれないくらいだし、吐いて物も食えないし、ヒロはそれ目の当たりにしてるから心配するのも無理ないけど、仕事のこと考えたら休んでもいられなくて、頑張って三日で退院させてもらって、それからもしばらくは薬漬けだったし、あれはちょっと辛かった」
かける言葉が見つからず、沙織は鷹緒の手を取った。そんな沙織に、鷹緒は微笑む。
「よしよし、して?」
思いがけない鷹緒の言葉に、沙織は微笑みながら鷹緒の頭を撫でる。すると、その手を鷹緒が取り、沙織を抱きしめた。
「駄目だな、俺……ヒロにもおまえにも余計な心配させて。俺は大丈夫だと思ってるんだけど……やっぱり傍から見ると、大丈夫じゃないみたいだな」
「大丈夫だよ。今は私がついてるから」
無責任にも無謀にも思える大きな沙織の言葉が、鷹緒の心を温かくする。
「……おまえの母親が言ってたんだけどさ、ちゃんとおまえのことつかまえてろって……」
「お母さんが? やだ、恥ずかしいなあ」
「おまえも……俺のことつかまえといて。情けないけど、たまに引きずられそうになるんだ」
「どういうこと?」
「……過去に、かな。おまえにもあるだろ。思い出したくないのに思い出しちゃうような過去」
「うん……わかった。じゃあ引きずられないように、ちゃんと私がつかまえておくから」
わざと明るくそう言って、沙織は鷹緒の頬にキスをする。それだけで鷹緒の顔にも笑顔が零れた。
「俺も単純だな」
「それは私のおかげでしょ」
「そうだな。おまえがいる限り、俺は大丈夫だって思えるよ」
「うん」
真っ暗な喫煙室、ビル街の光を浴びて、二人はそっとキスを交わした。
沙織はしっかりと鷹緒の腕を掴んでいた。鷹緒の心に潜む暗い過去や辛い記憶を、少しでも癒せればと思う。そして二人でそれを分かち合うために強くなりたいと願う。
鷹緒もまた沙織を抱きながら、過去に引きずられないよう目の前の沙織を見つめた。それだけで、未来が見える気がする。
お互いに癒されるように、二人は温もりを感じ合っていた。