原田の+α 12日目・3
要さんは斜め後ろのお盆に置いてある湯呑とグラスに麦茶を冷水ポットから注いで、原田に差し出した。
ごとりと重い音をさせてお盆に置かれたその湯呑には、大きな字で「ななしくん」と書いてある。
「お前さん専用なんだろう?」
「あ、すみません」
人んちに、自分専用湯呑があるとか。
勝手に名前を書いたのはアオだけれど、つい謝ってしまうのは日本人の悲しい性か。
要さんは、どうせあの娘の仕業だろうと笑って、自分用にいれた麦茶のグラスを手に取る。
「今日は来てくれて、助かったよ」
和菓子を黒文字でつついていた原田は、勢いよく顔を上げた。
その振動で、黒文字で刺した和菓子の欠片が小皿に落ちる。
もしかして、アオの事……
原田の表情が期待に変わったことに気が付いたのだろう。
要さんは、微かに苦笑を滲ませて頭を横に振った。
「いや、礼を言わねばと思っていたんだ」
「……礼、ですか?」
要さんの話が期待したものではなくてつい肩が下がりそうになったけれど、その言葉に眉を顰めた。
何か、要さんにお礼を言われるような事、あったっけ?
不思議そうな表情をした原田に、要さんは小さく頭を下げた。
「私がいない間、あの娘の面倒を見てくれてありがとう」
「……え?」
「村山に聞いたよ。体調崩したあの娘の為に、ほとんど毎日来てくれていたんだってね」
原田の方が、びくりと揺れる。
毎日、来てたとか……!
慌てて持っていた小皿をお盆に置くと、原田は焦ったように身を乗り出した。
「毎日って言っても、その、俺……っ」
眉を顰めていた要は、焦った原田の理由に気が付いて笑いながら小さく右手を振った。
「あぁ、そんな事心配してやいないよ。あの娘は見ての通りだし、お前さんも真面目そうだからね」
「あ……、あ、そう……ですか」
まるっと信用されるのも微妙な気がするけど、まぁ、よかった。
なんか、要さんのいない間にここに入り浸っていた馬鹿男とか思われたくないし。
要さんはそんな原田の内心を鑑みる事なく、麦茶を一口飲んでグラスを両手で包んだ。
「大変だったろう、あの娘の相手は」
ふっと、この夏の日々が脳裏に浮かぶ。
「あー、まぁ、なんていうか。一日中外で絵を描きたがっていたから、日射病に一度なりかけた事もあったし……。なんていうか、絵が好きなんだなとは……思いましたけど」
なんとなく、「飯をまともに食わせるのに苦労した」とか、「気付くと泣いてて、気になった」とか、まぁ言ってもいいけど言わない方がいいかなと思って原田は口にしなかった。
原田の言葉を聞いて要さんはふぅ、と小さくため息をついてグラスをお盆に戻す。
「まぁ、お前さんには面倒をかけたと思っていてね。礼を言わねばと思っていたんだが、言いそびれてしまった。本当に、ありがとう」
「……えと」
浅くではあるが自分に対して頭を下げる要に、慌てて腰を浮かせた原田は頭を上げる様に言い連ねた。
「いやあの、俺が好きでやった事ですから」
焦る原田を見遣った要は、ふっと小さく笑う。
「蓼食う虫も好き好きとは、お前さんの事を言うんじゃないかねぇ」
「……へ?」
なんか、今、軽く貶されたような?
まぁ座りなさいという要の声に、浮かせた腰を下ろす。
それを見てから、要さんは右手を自分の頬に当てた。
「ちょっといろいろあってね、あの娘は少し自分を見失っていたんだよ。その所為で、好きな絵も描けなくなってた」
……描いてたけど?
要さんの言葉に、いつもベンチに座って絵を描いていたアオを思い出す。
けれど、要さんは小さく頭を振った。
「お前さんの言いたい事は分かる。でもね、そうじゃないんだよ。絵は描ける。描けても、それはあの娘の絵じゃなかったって事さ」
「アオの絵じゃない……?」
スケッチブックを使い倒す勢いで描いていたのに、あれが自分の絵じゃないと。
不思議そうな表情の原田を見て、小さく笑った。
「まぁ、私から話す事じゃないからね。あの娘にあったら、お聞きな」
「え……」
……そこまで言っといて?
思わず目尻を下げた原田を見てから、要さんは空に視線を向けた。
「あぁ、綺麗な空だね」
唐突に話題を変えられて少し戸惑いつつも、相槌を打ちながら視線を空へと向ける。
そこには、綺麗に澄み渡った青空が広がっていた。
アオがいつも見ていた風景。
アオといつも見ていた風景。
思い出すのは、いろんなあおの色をスケッチブックに塗り重ねていたアオの姿。
あおの塗られた幾枚もの紙の真ん中に、沈んでいたアオの姿。
そんな事を思い出していた原田に、要さんは口を開いた。
「青は藍より出でて藍よりも青しって言葉を、お前さんは知ってるかい?」
青は……って、ていうか突然すぎて思考が付いていかないんすけど。
なんか、ある意味アオの親族だわ。
すげぇマイペース。
思わず苦笑しかけて、誤魔化す様に頷いた。
「一応知ってますけど……」
要さんは満足そうに一つ瞬きすると、あれはね……と呟く。
「意味としては、弟子が師匠の学識や技量を越えることを例えた故事だ。……私はよく、あの娘に聞いてたんだ。お前は、どっちなのかって」
「どっち?」
意味が解らず首青傾げれば、要さんは言葉を続けた。
「お前は青を生み出す藍なのか、それとも藍から生み出された青なのかってね」
そう言って、要さんは目を細めた。
「おまえさんは、どう思う?」




