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「さて、と」
原田は高校の最寄駅に着くと、いつも通り預けてある自転車にまたがって力強く漕ぎ出した。
未だ涼しい夏の早朝の住宅街を抜けて、土手に上がる。
毎年の事だから見知った人もいて、たまに軽く会釈をしてくれる人に返礼しながら原田はその場所を目指した。
大きな川の土手に面する形で、建ついくつかの家々。
その中の一つ、昔ながらの日本家屋を遠目に、原田はゆっくりと自転車をこいでいく。
昨日。
部活から戻ってきた原田が目にしたのは、縁側で呆然と立ち尽くすアオの姿だった。
土手から庭へと自転車を入れスタンドを立てながら、アオの名前を呼ぶ。
すると、ぴくりと肩を揺らしぺたりと縁側に座り込んだ。
慌てて駆け出して傍に寄れば、伏せたまま上げない顔。
ゆっくりと肩に手を置いて力を微かにこめると、促されるように顔を上げたアオと目があった。
どくりと、鼓動が跳ねる。
泣いていないのに、泣いているように見えた。
あの、土手で涙を流すアオと、姿が重なった。
けれど、アオは泣いていない。
悲しい色を消し去れないまま、その口端を上げて笑い掛けてきた。
――おかえりなさい、ななしくん
それは、俺に向けられた言葉。
この状態で? と驚いた俺の視界に入った、アオの手の中の携帯。
――ただいま
何も考えず、すんなりと口から零れた。
初めて会った日、何かを見失ったように涙を流していたアオ。
その原因が携帯の向こうにある事を、なんとなく悟った。
「ちゃんと飯くってんだろうな?」
ここ数日習慣になってきたように土手から庭先に自転車を入れ縁側から声を掛けると、がちゃ! と何かが当たる音の後、恐る恐るという体で隣の部屋……確か台所からアオが顔を出した。
「……ななな、ななしくん。どしたの」
その目は何かを誤魔化すように瞬きを繰り返し、怯えるように原田を呼ぶ。
原田はそれで状況を察知すると、スポーツシューズを脱いで縁側に上がった。
……ななな、ってなんだよ
内心ぶつくさと文句を言いながら手に持っていたビニール袋を居間の畳の上に置くと、アオを見据える。
「ちゃんと朝飯食ってる最中、のはずだよな?」
自覚している威圧感満載の顔で凄むと、アオはもちろんっと声を上げた。
「ななしくんのご飯監視員契約は、昨日までのはずだよ! 部活なのに、どうしたの? こんな早く来なくても……」
あわあわと言葉を連ねるアオに凄みのある視線を向けて、ちらりと壁にかけてある時計に目を向けた。
時間は朝の八時半。
この家を九時二十分辺りに出れば九時半過ぎには学校につくことはここ数日で理解しているから、確かに部活のみの通学なら早い時間だろう。
「ななしくん? とりあえずそこに座って。お茶入れるから」
不自然なほどにこにこと笑う、アオに指定された居間の座卓を見る。
ここ数日で座る場所が決まった、原田の席。
他人の家だというのに、なんだかおかしい気もするけれど。
しかし原田はそれには従わず、台所に入る引き戸の前で立ちふさがる様に立つアオを押しのけてそれを開けた。
アオの家の台所は、壁際にガス台やコンロ、食器棚があって、やや中央寄りにテーブルが置いてある。
「……?」
漂う、甘い香り。
香りの発生源は、そのテーブルとみた。




