小姫只今逃亡中
「聞くのならば答えてやろう。己のする事なす事何一つ満足にできず、日々怠惰を貪っている若輩者様だ!」
「分かってんなら、直しなさい!」
その日、知己は竜帝よりの使者に呼ばれ、急ぎ西宮の関へと向かっていた。
室から遠のくにつれて、耳障りな騒音が薄れてゆく。
誰が聞いても「あれが琴の音のものか」と理解できないそれは、ある意味で人の心をかき乱す、はっきり言えばど下手糞。楽の才を竜飛は持ち合わせていない。
しかし親馬鹿には天上の音にも勝るとも劣らないらしい。
「小姫さまにおきましては、早急に御前へと参られるよう、承った次第にござりまする」
深々と頭を垂れる女官に、知己も丁寧に礼を返す。
「畏まりまして。さぞかし御方も喜ばれることでしょう」
喜ぶものか。娘は猛烈に父を嫌っている。
さてさて、どうしたものか。
足を速めながら知己は思案する。
どうせ竜飛は嫌じゃ、頭痛がするから今日は行けぬ、あ、今度は腹が痛くなってきた、等々見え透いた仮病を使って駄々を捏ねるだろう。
好物の豆大福で釣ろうか、想いを寄せているらしい黒将軍を餌に使おうか。それとも強権発動、阿久里様にご登場願おうか。
と、知己の足が止まった。騒音が消えている。
――まさか。
少年の顔から血の気が引く。
足を駆け足に変えて、伺いもせずに扉を開けた。
「小姫様っ!」
主はいなかった。
楽師の女が手持無沙汰に笛を弄び、女官たちはほっと息を吐いて自分を見る。
竜飛が座っているはずの上座には、専用の円座、趣を凝らした脇息、弦の切れた琴がぽつんと置いてあった。そして子竜のしぃちゃんと雲母のきぃちゃんがいない。
「小姫様はいずこへ」
「……あまりにも乱暴にかき鳴らすものですから、弦が切れてしまいまして」
ほれ、と女が袖を振る。
「ご立腹されて、窓から飛び出してゆかれました」
ああああ。
知己は思わず扉にすがった。が、扉は扉、彼を慰めても助けてもくれない。
いや、嘆いている場合ではなかった。
本殿の奥深くでは帝が我が娘の登場を待ちわびている事だろう。
「連れ戻してくる。お前たちは殿下が御前に参ずる用意をしておいてくれ」
それから一言二言、女官たちに命ずると、今度は全力疾走で厩へと向かった。途中、頭上の冠が落ちそうになるのを慌てて手で押さえる。知己は成人の十六を過ぎたばかり、まだまだ冠に慣れていない。
厩では老人がのんびりと天馬に飼葉をやっているところだった。
「おお、こりゃ知己様。また例のアレですかな?」
にやりと笑う馬男に苦笑を返す。
「そうだよ。我らが小姫様の捜索さ」
用意してもらった天馬にひらりと跨ると、知己は声をかけ手綱を打った。
天馬は前足を掻くと優美に空へ向かって駆け始める。
青天の彼方、小さくなってゆく少年の後姿を、老人は眩しそうに手を翳して見送っていた。
千里を駆ける雲母を所有していながら、竜飛は城下以外に足を向けない。
商業都市の南河なぞ全くの好みであろうというのに。
その辺は妙に律義だ、と知己は感心しないでもないが、先輩の周防は呆れたように言った。
「甘えているのよ、あんたに」
分からないの? と悪戯っぽく頬を突く。
「追いかけてきてくれるのを待っているの。一度、無視してごらん? ものすごい顔をして帰ってくるから」
だが、知己は実行できない。うまく事が進めば良いが、最悪の事態ともなれば自分の首一つで済む問題ではないのだ。だから今日も主を捜索すべく、天馬を駆って城下へ下りる。
探し人はあっさりと見つかった。見つかるはずである。大層目立つものであるから。
思いつきで行動する竜飛が、用意周到に庶民の綿衣なぞ用意している訳がない。
眼下に見えたその姿、襟口に花をあしらった内着は薄絹で出来ており、袖に近づくにつれて大きく広がり長さは地をわずかに擦っている。みっしりとした蓮刺繍が施された帯を巻いて細い腰を強調させていた。
段重ねの衣の下に隠れている足は、はしたなくも裸足だろう。
羽のように軽い羽織は、内着に合わせた萌黄で、内着の薄桃色と相まって匂い立つような少女らしさをかもし出していた。
誉れである腰までの長い髪は藍色で、耳横の両一房を宝珠で彩られた管を巻いている以外、娘らしく結わずに流している。
その頭上では、子竜が威嚇の為か、子供の腕一本ほどの長い胴体を振りながら、盛んに小さな炎を吐いていた。
そう、竜帝が第一皇女、竜飛は今現在、城下の一角でやんごとなきお兄様方と睨み合っている最中だった。大勢の見物客に囲まれて。
「ぶつかっておいてなんだその態度は! 肩が外れたってんだろ、さっさと金を出しやがれ!」
「持ち合わせがないのなら身ぐるみはがしてやる!」
上品に要求をするお兄様方、もといゴロツキはキャンキャンと吠える。
珍獣を頭上に載せている貴族の娘など、鴨が葱を括りつけて歩いているも同然。だが、鴨は偉そうに腕を組んで、ふん、と鼻で笑った。
「えらっそうに! 何様だ!」
「何様か、だと?」
竜飛の声は嘲笑を含んでいる。
「聞くのならば答えてやろう。己のする事なす事何一つ満足にできず、日々怠惰を貪っている若輩者様だ!」
「分かってんなら、直しなさい!」
上空から降ってきた声に竜飛は、今度は盛大に舌打ちをした。
「見ろ、お前らのせいで見つかってしまった」
舞い降りる天馬に毒気を抜かれたゴロツキたちは、見物者同様、ぱっくりと口を開けたままだ。
「今日はこれで勘弁してやる。覚えていろ」
それは負け犬の遠吠えでは、と一同首をかしげる中で、竜飛はよっこらしょ、と知己に引っ張られつつ馬上の人となった。
「しぃちゃん、きぃちゃん、帰るよ」
ふわりと上昇する天馬に七色の雲が慌てたように、追いかけてゆく。
「では御免」
彼らに向かって、律義に知己が頭を下げた。
少年少女を乗せた白い馬は、しなやかに天を駆ける。小さな竜と虹色に光る雲を纏いながら。さながら夢のごとくの風景であった。
そうか、とゴロツキの一人が呟いた。
「あれが天の宮の愚姫か」
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