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婚約破棄の瞬間、王城の全員が逃げ出しました。

作者: よみなぎ
掲載日:2026/10/31

「エレオノーラ! 私は貴様との婚約を破棄する!」


 王太子殿下の声が、大広間に響き渡った。


 空気が凍った。


 国王陛下も、王妃陛下も、居並ぶ貴族たちも、誰一人として声を発しない。誰もが息を殺していた。


 一秒。二秒。三秒。


 そして――


 ピシッ!


 何かが割れる音がした。大広間の床に、細い亀裂が走る。


「……成功だ」


 宮廷魔術師長が、震える声で呟いた。


「封印解除を確認!」


「お父様!」


「全員、走れえええええ!!!」


 お父様が走った。お母様も走った。私も走った。


 国王陛下が走った。王妃陛下も走った。百人を超える貴族たちが、いっせいに出口へ向かって駆け出した。


「第一班、東回廊へ!」


「第二班、西階段!」


「ご婦人方、ドレスの裾をお持ちください!」


「持っているわよ!」


「では走ってください!」


「走っているわよ!」


 お母様が豪華な青いドレスをたくし上げ、恐ろしい勢いで駆けていく。私はその背中を追いかけた。


 背後から、王太子殿下の声が聞こえる。


「父上! 成功しました!」


「よくやった! お前も走れ!」


「はい!」


 殿下も走り出したらしい。確認している余裕はない。足元では、すでに床が震え始めていた。


◇


 そもそも、どうして婚約破棄された令嬢が、家族総出で全力疾走しているのか。


 理由は簡単だ。


 王城の地下には、三百年前から厄災が封印されている。そして本日、私たちはその封印を解除した。


 計画的に。国家総出で。わざわざ本物の夜会まで開催して。


 すべては、三百年前の異世界転移者が残した封印が理由だった。


 三百年前、王国を滅ぼしかけた一頭の黒竜がいた。


 剣も弓矢も通じない。城壁を踏み砕き、吐き出す炎で街を焼く。当時の人々には、どうすることもできなかった。


 そこで立ち上がったのが、異世界から転移してきた大魔術師だった。


 彼は持てる魔力のすべてを使い、黒竜を王城の地下深くに封印した。ただし、封印には解除条件が必須である。


 簡単に解除されては困る。そこで大魔術師は、絶対に起こりそうもない出来事を解除条件に選んだ。


『王城で開催される正式なパーティにおいて、王太子が婚約者に対し、公衆の面前で婚約破棄を宣言すること』


 何を考えていたのだろう。


 いや、考えていたことはわかる。


 王太子が正式なパーティで婚約者を捨てるなど、普通なら考えられない愚行である。


 王家と貴族の婚姻は、両家の合意に基づく重要な契約だ。王太子が個人的な判断で公然と破棄すれば、王家の信用に傷がつく。


 そんな馬鹿なことをする王太子はいない。少なくとも、三百年前の大魔術師はそう考えたらしい。


 そして彼の予想は、今日まで正しかった。


 封印の解除条件は王家と一部の高位貴族に代々伝えられ、厳重に管理されてきた。


 問題は、封印そのものが永遠ではなかったことだ。


 十年前から、封印に小さな亀裂が見つかり始めた。五年前には地下から魔力が漏れ出した。三年前には、封印の周囲に魔物が現れた。


 昨年、王国の魔術師団が最終的な結論を出した。


『封印は、今後十年以内に自然崩壊する可能性が高い』


 しかも、いつ崩壊するかは予測できない。明日かもしれないし、十年後かもしれない。


 だったら、厄災が勝手に目覚めるのを待つより、万全の準備を整えてから自分たちで封印を解除したほうがいい。


 国王陛下はそう決断した。そして、国家存亡を懸けた一大作戦が始まったのである。


 作戦名は『暁の解放』。


 私たちの間での通称は、『大脱出・婚約破棄』だった。


◇


 実を言うと、今日の婚約破棄は三回目だった。


 一回目は午前中。王城の大広間を会場に、王太子役の軍人と、婚約者役の女性軍人を用意した。参加者には軽装の軍人たちを配置し、形だけのパーティを開いた。


「貴様との婚約を破棄する!」


 王太子役の軍人が叫んだ。何も起きなかった。


 二回目は昼過ぎ。今度は本物の王太子殿下と私が参加した。ただし、二人以外の参加者は軽装の軍人たちのままだった。


「エレオノーラ! 私は貴様との婚約を破棄する!」


 殿下が叫んだ。やはり何も起きなかった。


 宮廷魔術師長は頭を抱えた。


「本物の王太子殿下と婚約者だけでは足りない……!」


 そこで三回目。国王陛下が決断した。


「本物の夜会を開くぞ」


 国王夫妻、王族、高位貴族、貴婦人、令嬢、侍従、メイド、楽団、料理人。すべてを揃えた。


 念のため用意してあった招待状を送り、正式な服装を整え、料理と酒を用意した。楽団が演奏し、貴族たちが踊り、歓談する。誰が見ても、本物の夜会だった。


 ただし、参加者は全員、事前に避難訓練を受けていた。


 そして、今。その訓練の成果が試されていた。


◇


「エレオノーラ様! こちらです!」


 大広間を飛び出したところで、侍従長が右手を振った。


 廊下には赤い絨毯が敷かれていたが、普段なら置かれている大きな花瓶や彫像はすべて撤去されていた。避難経路の幅を確保するためである。


「第一班、通過!」


「第二班、続いてください!」


「押さずに! 間隔を保って!」


 大勢の貴族たちが廊下を駆け抜けていく。


 王国最高位の貴族たちが、まるで市場の大売り出しに殺到する客のようになっていた。


 もっとも、混乱しているわけではない。全員、今日という日のために何度も訓練を受けている。


 廊下の角には誘導係。階段には補助係。負傷者を運ぶ担架まで準備されていた。


 そして、貴婦人たちの足元には、実に奇妙な光景が広がっていた。


 豪華なドレスの裾から覗くのは、丈夫な革製の走行靴である。


 私も同じものを履いていた。


 夜会用の繊細な靴では、とても長い距離を走れない。そこで王国軍の装備担当者が、貴婦人たちのために特別な靴を用意したのだ。


「奥様、その靴は……」


 隣を走る伯爵夫人が、お母様の足元を見て尋ねた。


「騎兵隊御用達の特注品ですわ」


「まあ、素敵」


「踵が低くて、とても走りやすいのよ」


「わたくしも同じものを注文しましたの」


 王国の貴婦人たちが、全力疾走しながら靴の話をしている。


 しかも全員、本気である。


 私たちにとって、今日の夜会で最も重要な装飾品は宝石でも扇子でもなかった。


 靴だった。


 そのとき、背後から低い音が響いた。


 ゴオオオオオ……。


 廊下の壁が震え、天井から細かな砂埃が降ってきた。


「封印区画で魔力上昇を確認!」


 伝令が叫ぶ。


「予定より早いぞ! 全班、速度を上げろ!」


 靴の話は、そこで終わった。


◇


「第一階段、通過!」


「第二階段、通過!」


「西回廊、異常なし!」


 各所から報告が飛び交う。私たちは階段を駆け下り、王城の一階へ向かっていた。


 その途中、前方から近衛騎士が駆け上がってきた。


「アルヴェイン公爵閣下!」


「どうした!」


「国王陛下、王妃陛下ともに西階段を通過! 王族第一班、予定どおり退避中です!」


「よし! 王太子殿下は!」


「第三経路を通過されました!」


「宮廷魔術師長は!」


「最終監視地点を離脱! 現在、東回廊を移動中です!」


「よし! 我々も急ぐぞ!」


「はい、お父様!」


 近衛騎士は敬礼すると、次の報告先へ走っていった。


 続いて、別の伝令が駆け抜ける。


「宰相閣下、東階段を通過!」


「財務卿、西回廊を通過!」


「王立騎士団長、正面玄関に到着!」


 王国の重鎮たちが、次々と走っている。


 これほど国家運営の中枢が一斉に全力疾走する日は、建国以来初めてだろう。


 だが、誰もふざけてはいなかった。


 王国の未来を守るために、全員が自分の役目を果たしている。


 そして今、私たちに与えられた役目は、ただ一つ。


 全力で逃げることだった。


◇


 王城の正面玄関に到着すると、外はさらに大変なことになっていた。


 馬車。馬車。馬車。


 見渡す限り、馬車である。


 王族用の豪華な馬車もあれば、貴族用の四頭立て馬車もある。普段は荷物を運ぶために使う幌馬車まで並んでいた。


 馬丁たちが馬を引き、御者たちが手綱を握り、護衛騎士たちが声を張り上げている。


「第三車列、乗車開始!」


「第五車列、出発準備!」


「歩ける方は奥へ! 負傷者は手前の馬車です!」


「お子様を先に乗せてください!」


 大広間から逃げてきた人々が、次々と馬車に乗り込んでいく。


 私は思わず立ち止まりそうになった。こんな光景、見たことがない。


 王国の貴族社会を丸ごと引っ越しさせるような騒ぎだった。


「エレオノーラ!」


 お父様が私の腕を引いた。


「我が家の馬車はあちらだ!」


「はい!」


 指定された場所では、私付きの侍女マリアが待っていた。


「お嬢様! こちらです!」


 マリアは私たちを馬車へ誘導すると、手元の名簿を確認した。


「公爵閣下、奥様、お嬢様、全員確認! 御者、出発準備!」


「マリア、あなたは?」


「私は使用人用の第七車列に乗ります。お嬢様、どうぞお気をつけて!」


「あなたも気をつけてね!」


「はい!」


 マリアは一礼すると、次の避難者を誘導するために走っていった。


 私たちは馬車に乗り込んだ。


 お母様が私の手を握る。


「エレオノーラ、無事でよかったわ」


「お母様も」


 お父様は窓の外を確認していた。


「全員揃ったな。出発してくれ!」


「承知しました!」


 御者が手綱を引く。馬車が勢いよく動き出した。


 その瞬間。


 ドオオオオオン!


 王城の地下から、巨大な音が響いた。


 馬たちが驚いていななく。御者が必死に手綱を操る。


 私は窓から後ろを振り返った。


 王城の中央塔が、ゆっくりと持ち上がっていた。


 石壁が砕け、尖塔が折れる。巨大な黒い翼が広がった。


 そして――


 ドゴオオオオオオオン!!!


 三百年の歴史を誇る王城が、巨大なドラゴンの出現によって崩壊した。


「お父様! 王城が!」


「見えている!」


「王城がなくなりました!」


「見えていると言っただろう!」


 私は言葉を失った。


 あんなものが地下に眠っていたのか。三百年前の人々が、封印するしかなかった理由がよくわかった。


 黒竜は巨大な翼を広げ、夜空へ舞い上がった。その咆哮だけで、王都の窓ガラスが次々と砕けていく。


 馬車が大きく揺れた。


「急げええええ!」


 御者が叫ぶ。


 私たちは王都の大通りを駆け抜けた。


 沿道の店はすべて閉まり、住民たちは数日前から避難を終えている。王都に残っているのは、討伐隊と避難誘導を担当する者たちだけだった。


 それでも、馬車の列は長かった。前にも後ろにも、何十台もの馬車が続いている。


「速度を落とすな!」


「間隔を保て!」


「第五車列、右へ!」


 騎士たちが馬を走らせ、車列を誘導する。


 やがて王都の外門が見えてきた。その向こうには、広大な平原が広がっている。


 そして、平原を埋め尽くすように、王国軍が布陣していた。


◇


「最終車列、王都外門を通過!」


 伝令の声が響いた。


 私たちの馬車は、王都を囲む防衛線の外側へ滑り込んだ。


 そこには、見たこともないほど巨大な魔導兵器が並んでいた。


 長い砲身。青白く輝く魔力炉。地面に固定された巨大な台座。


 魔導砲。


 三百年前には存在しなかった、現代魔術工学の結晶である。


 剣と弓矢しかなかった時代とは違う。今の王国には、ドラゴンを倒すための力がある。


 だからこそ、私たちは封印を解除したのだ。


「第一魔導砲兵大隊、照準完了!」


「第二魔導砲兵大隊、照準完了!」


「第三魔導砲兵大隊、照準完了!」


 号令が次々と響く。


 私は馬車の窓から身を乗り出した。


 王都の上空では、黒竜が翼を広げていた。


 巨大な口が開く。赤い光が喉の奥に集まっていく。


「竜の火炎攻撃、来ます!」


「対竜結界、展開!」


 王都を包むように、青白い光の壁が立ち上がった。


 次の瞬間、黒竜が炎を吐いた。真っ赤な火柱が結界に激突する。


 轟音。衝撃。結界の表面に、無数の亀裂が走った。


「第一結界、損傷!」


「第二結界、展開!」


 魔術師たちが次々と魔力を注ぎ込む。


 黒竜の炎が止まった。


 その瞬間を待っていたかのように、砲兵隊長が剣を振り上げた。


「魔導砲、発射準備!」


 巨大な砲身に、青白い光が集まっていく。


「目標、王城跡地上空!」


「全砲門、照準完了!」


 砲兵隊長の声が、平原に響き渡った。


「撃てえええええ!!!」


 ドドドドドドドドドッ!!!


 何十もの魔導砲が、いっせいに火を噴いた。


 青白い光弾が夜空を切り裂く。黒竜の巨大な身体に、次々と命中した。


 爆発。爆発。また爆発。


 黒竜が悲鳴のような咆哮を上げる。巨大な翼が大きく揺れた。


「効いている!」


 誰かが叫んだ。


 しかし、黒竜はまだ落ちない。傷ついた翼を広げ、こちらへ向かって突進してくる。


「第二射、準備!」


「魔力炉、再充填!」


「急げ!」


 砲兵たちが必死に操作盤を動かす。


 黒竜が迫る。巨大な爪が、夜空に光った。


 私は思わず息を止めた。


 そのとき。


「重魔導砲、発射可能!」


 後方から、ひときわ大きな声が響いた。


 振り返ると、丘の上に設置された巨大な砲が、青白い光を放っていた。


 通常の魔導砲とは比べものにならない大きさだった。砲身の周囲を、何重もの魔法陣が回転している。


「重魔導砲、照準固定!」


 砲兵隊長が叫ぶ。


「撃てえええええ!!!」


 ドゴオオオオオオオン!!!


 夜空を貫く、巨大な光の柱。


 それが黒竜の胸を直撃した。


 黒竜の身体が、空中で大きくのけぞる。翼が止まった。


 そして、巨大な黒い影が、ゆっくりと落下していった。


 ズズズズズズン!!!


 王都の中央に、黒竜が墜落した。


 地面が揺れる。土煙が立ち上る。


 誰もが息を呑んでいた。


 やがて、土煙の向こうから伝令が走ってきた。


「黒竜、活動停止!」


 続いて、もう一人。


「魔力反応、消失!」


 最後に、討伐隊長の声が響いた。


「厄災、討伐成功!!!」


 平原が歓声に包まれた。


 私はお母様に抱きついた。お母様も私を強く抱きしめてくれた。


 お父様はその場に座り込み、両手で顔を覆っていた。


 三百年。三百年もの間、王国を脅かし続けた厄災が、ついに倒されたのだ。


◇


 それから一週間後。


 王都の復興が始まった。


 幸い、住民たちは事前に避難していたため、人的被害はほとんどなかった。しかし、建物の被害は甚大だった。


 王城は完全に崩壊。周辺の貴族街も大きく損傷。黒竜が墜落した場所には、巨大な穴が開いていた。


 国王陛下は仮設の執務室で、頭を抱えていたという。


「……王城がなくなったな」


「はい」


「建て直せるか?」


「問題ございません」


 財務卿は、分厚い報告書を差し出した。


「黒竜の素材を売却すれば、十分に賄えます」


「なんと!?」


「鱗、牙、角、骨、そして魔石。いずれも極めて貴重な魔導素材です。特に魔石は、現代の魔術工学では製造不可能な規模のものです」


「つまり?」


「王都の再建費用を含めても、お釣りが来ます」


「お釣りが!?」


「はい。数百年ものの古竜ですので」


 こうして王国は、三百年前の厄災を討伐し、王都の復興費用まで手に入れた。


 まさに大成功である。


◇


「エレオノーラ。改めて、今回の協力に感謝する」


 仮設の王宮で、王太子殿下が深々と頭を下げた。


 私は微笑んだ。


「お役に立てて光栄です」


「それで……婚約の件なのだが」


「はい」


 殿下は少し気まずそうに続けた。


「婚約破棄を宣言してしまった」


「そうですね」


「もちろん、実際に婚約を解消したわけではないのだが……」


「存じております」


 封印解除の条件は、婚約破棄を宣言すること。実際に婚約を解消する必要はない。


 だから、私たちは今も正式な婚約者同士だった。


 殿下は少しだけ顔を赤くした。


「それでも、君には嫌な思いをさせてしまっただろう」


 私は首を振った。


「いいえ。殿下は立派にお役目を果たされました」


「ありがとう」


「ただし、一つだけお願いがございます」


「何だ?」


「結婚式は、走らなくてもよい場所でお願いします」


 殿下は目を丸くした。それから、声を上げて笑った。


「もちろんだ! 今度こそ、最後まで一緒に踊ろう」


「はい。楽しみにしております」


 今度こそ、誰も走り出さない祝宴を迎えるのだ。


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― 新着の感想 ―
聖女を処刑した王国の滅亡RTAの後に読んだのですが、王族や貴族の意識の差がw
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