婚約破棄の瞬間、王城の全員が逃げ出しました。
「エレオノーラ! 私は貴様との婚約を破棄する!」
王太子殿下の声が、大広間に響き渡った。
空気が凍った。
国王陛下も、王妃陛下も、居並ぶ貴族たちも、誰一人として声を発しない。誰もが息を殺していた。
一秒。二秒。三秒。
そして――
ピシッ!
何かが割れる音がした。大広間の床に、細い亀裂が走る。
「……成功だ」
宮廷魔術師長が、震える声で呟いた。
「封印解除を確認!」
「お父様!」
「全員、走れえええええ!!!」
お父様が走った。お母様も走った。私も走った。
国王陛下が走った。王妃陛下も走った。百人を超える貴族たちが、いっせいに出口へ向かって駆け出した。
「第一班、東回廊へ!」
「第二班、西階段!」
「ご婦人方、ドレスの裾をお持ちください!」
「持っているわよ!」
「では走ってください!」
「走っているわよ!」
お母様が豪華な青いドレスをたくし上げ、恐ろしい勢いで駆けていく。私はその背中を追いかけた。
背後から、王太子殿下の声が聞こえる。
「父上! 成功しました!」
「よくやった! お前も走れ!」
「はい!」
殿下も走り出したらしい。確認している余裕はない。足元では、すでに床が震え始めていた。
◇
そもそも、どうして婚約破棄された令嬢が、家族総出で全力疾走しているのか。
理由は簡単だ。
王城の地下には、三百年前から厄災が封印されている。そして本日、私たちはその封印を解除した。
計画的に。国家総出で。わざわざ本物の夜会まで開催して。
すべては、三百年前の異世界転移者が残した封印が理由だった。
三百年前、王国を滅ぼしかけた一頭の黒竜がいた。
剣も弓矢も通じない。城壁を踏み砕き、吐き出す炎で街を焼く。当時の人々には、どうすることもできなかった。
そこで立ち上がったのが、異世界から転移してきた大魔術師だった。
彼は持てる魔力のすべてを使い、黒竜を王城の地下深くに封印した。ただし、封印には解除条件が必須である。
簡単に解除されては困る。そこで大魔術師は、絶対に起こりそうもない出来事を解除条件に選んだ。
『王城で開催される正式なパーティにおいて、王太子が婚約者に対し、公衆の面前で婚約破棄を宣言すること』
何を考えていたのだろう。
いや、考えていたことはわかる。
王太子が正式なパーティで婚約者を捨てるなど、普通なら考えられない愚行である。
王家と貴族の婚姻は、両家の合意に基づく重要な契約だ。王太子が個人的な判断で公然と破棄すれば、王家の信用に傷がつく。
そんな馬鹿なことをする王太子はいない。少なくとも、三百年前の大魔術師はそう考えたらしい。
そして彼の予想は、今日まで正しかった。
封印の解除条件は王家と一部の高位貴族に代々伝えられ、厳重に管理されてきた。
問題は、封印そのものが永遠ではなかったことだ。
十年前から、封印に小さな亀裂が見つかり始めた。五年前には地下から魔力が漏れ出した。三年前には、封印の周囲に魔物が現れた。
昨年、王国の魔術師団が最終的な結論を出した。
『封印は、今後十年以内に自然崩壊する可能性が高い』
しかも、いつ崩壊するかは予測できない。明日かもしれないし、十年後かもしれない。
だったら、厄災が勝手に目覚めるのを待つより、万全の準備を整えてから自分たちで封印を解除したほうがいい。
国王陛下はそう決断した。そして、国家存亡を懸けた一大作戦が始まったのである。
作戦名は『暁の解放』。
私たちの間での通称は、『大脱出・婚約破棄』だった。
◇
実を言うと、今日の婚約破棄は三回目だった。
一回目は午前中。王城の大広間を会場に、王太子役の軍人と、婚約者役の女性軍人を用意した。参加者には軽装の軍人たちを配置し、形だけのパーティを開いた。
「貴様との婚約を破棄する!」
王太子役の軍人が叫んだ。何も起きなかった。
二回目は昼過ぎ。今度は本物の王太子殿下と私が参加した。ただし、二人以外の参加者は軽装の軍人たちのままだった。
「エレオノーラ! 私は貴様との婚約を破棄する!」
殿下が叫んだ。やはり何も起きなかった。
宮廷魔術師長は頭を抱えた。
「本物の王太子殿下と婚約者だけでは足りない……!」
そこで三回目。国王陛下が決断した。
「本物の夜会を開くぞ」
国王夫妻、王族、高位貴族、貴婦人、令嬢、侍従、メイド、楽団、料理人。すべてを揃えた。
念のため用意してあった招待状を送り、正式な服装を整え、料理と酒を用意した。楽団が演奏し、貴族たちが踊り、歓談する。誰が見ても、本物の夜会だった。
ただし、参加者は全員、事前に避難訓練を受けていた。
そして、今。その訓練の成果が試されていた。
◇
「エレオノーラ様! こちらです!」
大広間を飛び出したところで、侍従長が右手を振った。
廊下には赤い絨毯が敷かれていたが、普段なら置かれている大きな花瓶や彫像はすべて撤去されていた。避難経路の幅を確保するためである。
「第一班、通過!」
「第二班、続いてください!」
「押さずに! 間隔を保って!」
大勢の貴族たちが廊下を駆け抜けていく。
王国最高位の貴族たちが、まるで市場の大売り出しに殺到する客のようになっていた。
もっとも、混乱しているわけではない。全員、今日という日のために何度も訓練を受けている。
廊下の角には誘導係。階段には補助係。負傷者を運ぶ担架まで準備されていた。
そして、貴婦人たちの足元には、実に奇妙な光景が広がっていた。
豪華なドレスの裾から覗くのは、丈夫な革製の走行靴である。
私も同じものを履いていた。
夜会用の繊細な靴では、とても長い距離を走れない。そこで王国軍の装備担当者が、貴婦人たちのために特別な靴を用意したのだ。
「奥様、その靴は……」
隣を走る伯爵夫人が、お母様の足元を見て尋ねた。
「騎兵隊御用達の特注品ですわ」
「まあ、素敵」
「踵が低くて、とても走りやすいのよ」
「わたくしも同じものを注文しましたの」
王国の貴婦人たちが、全力疾走しながら靴の話をしている。
しかも全員、本気である。
私たちにとって、今日の夜会で最も重要な装飾品は宝石でも扇子でもなかった。
靴だった。
そのとき、背後から低い音が響いた。
ゴオオオオオ……。
廊下の壁が震え、天井から細かな砂埃が降ってきた。
「封印区画で魔力上昇を確認!」
伝令が叫ぶ。
「予定より早いぞ! 全班、速度を上げろ!」
靴の話は、そこで終わった。
◇
「第一階段、通過!」
「第二階段、通過!」
「西回廊、異常なし!」
各所から報告が飛び交う。私たちは階段を駆け下り、王城の一階へ向かっていた。
その途中、前方から近衛騎士が駆け上がってきた。
「アルヴェイン公爵閣下!」
「どうした!」
「国王陛下、王妃陛下ともに西階段を通過! 王族第一班、予定どおり退避中です!」
「よし! 王太子殿下は!」
「第三経路を通過されました!」
「宮廷魔術師長は!」
「最終監視地点を離脱! 現在、東回廊を移動中です!」
「よし! 我々も急ぐぞ!」
「はい、お父様!」
近衛騎士は敬礼すると、次の報告先へ走っていった。
続いて、別の伝令が駆け抜ける。
「宰相閣下、東階段を通過!」
「財務卿、西回廊を通過!」
「王立騎士団長、正面玄関に到着!」
王国の重鎮たちが、次々と走っている。
これほど国家運営の中枢が一斉に全力疾走する日は、建国以来初めてだろう。
だが、誰もふざけてはいなかった。
王国の未来を守るために、全員が自分の役目を果たしている。
そして今、私たちに与えられた役目は、ただ一つ。
全力で逃げることだった。
◇
王城の正面玄関に到着すると、外はさらに大変なことになっていた。
馬車。馬車。馬車。
見渡す限り、馬車である。
王族用の豪華な馬車もあれば、貴族用の四頭立て馬車もある。普段は荷物を運ぶために使う幌馬車まで並んでいた。
馬丁たちが馬を引き、御者たちが手綱を握り、護衛騎士たちが声を張り上げている。
「第三車列、乗車開始!」
「第五車列、出発準備!」
「歩ける方は奥へ! 負傷者は手前の馬車です!」
「お子様を先に乗せてください!」
大広間から逃げてきた人々が、次々と馬車に乗り込んでいく。
私は思わず立ち止まりそうになった。こんな光景、見たことがない。
王国の貴族社会を丸ごと引っ越しさせるような騒ぎだった。
「エレオノーラ!」
お父様が私の腕を引いた。
「我が家の馬車はあちらだ!」
「はい!」
指定された場所では、私付きの侍女マリアが待っていた。
「お嬢様! こちらです!」
マリアは私たちを馬車へ誘導すると、手元の名簿を確認した。
「公爵閣下、奥様、お嬢様、全員確認! 御者、出発準備!」
「マリア、あなたは?」
「私は使用人用の第七車列に乗ります。お嬢様、どうぞお気をつけて!」
「あなたも気をつけてね!」
「はい!」
マリアは一礼すると、次の避難者を誘導するために走っていった。
私たちは馬車に乗り込んだ。
お母様が私の手を握る。
「エレオノーラ、無事でよかったわ」
「お母様も」
お父様は窓の外を確認していた。
「全員揃ったな。出発してくれ!」
「承知しました!」
御者が手綱を引く。馬車が勢いよく動き出した。
その瞬間。
ドオオオオオン!
王城の地下から、巨大な音が響いた。
馬たちが驚いていななく。御者が必死に手綱を操る。
私は窓から後ろを振り返った。
王城の中央塔が、ゆっくりと持ち上がっていた。
石壁が砕け、尖塔が折れる。巨大な黒い翼が広がった。
そして――
ドゴオオオオオオオン!!!
三百年の歴史を誇る王城が、巨大なドラゴンの出現によって崩壊した。
「お父様! 王城が!」
「見えている!」
「王城がなくなりました!」
「見えていると言っただろう!」
私は言葉を失った。
あんなものが地下に眠っていたのか。三百年前の人々が、封印するしかなかった理由がよくわかった。
黒竜は巨大な翼を広げ、夜空へ舞い上がった。その咆哮だけで、王都の窓ガラスが次々と砕けていく。
馬車が大きく揺れた。
「急げええええ!」
御者が叫ぶ。
私たちは王都の大通りを駆け抜けた。
沿道の店はすべて閉まり、住民たちは数日前から避難を終えている。王都に残っているのは、討伐隊と避難誘導を担当する者たちだけだった。
それでも、馬車の列は長かった。前にも後ろにも、何十台もの馬車が続いている。
「速度を落とすな!」
「間隔を保て!」
「第五車列、右へ!」
騎士たちが馬を走らせ、車列を誘導する。
やがて王都の外門が見えてきた。その向こうには、広大な平原が広がっている。
そして、平原を埋め尽くすように、王国軍が布陣していた。
◇
「最終車列、王都外門を通過!」
伝令の声が響いた。
私たちの馬車は、王都を囲む防衛線の外側へ滑り込んだ。
そこには、見たこともないほど巨大な魔導兵器が並んでいた。
長い砲身。青白く輝く魔力炉。地面に固定された巨大な台座。
魔導砲。
三百年前には存在しなかった、現代魔術工学の結晶である。
剣と弓矢しかなかった時代とは違う。今の王国には、ドラゴンを倒すための力がある。
だからこそ、私たちは封印を解除したのだ。
「第一魔導砲兵大隊、照準完了!」
「第二魔導砲兵大隊、照準完了!」
「第三魔導砲兵大隊、照準完了!」
号令が次々と響く。
私は馬車の窓から身を乗り出した。
王都の上空では、黒竜が翼を広げていた。
巨大な口が開く。赤い光が喉の奥に集まっていく。
「竜の火炎攻撃、来ます!」
「対竜結界、展開!」
王都を包むように、青白い光の壁が立ち上がった。
次の瞬間、黒竜が炎を吐いた。真っ赤な火柱が結界に激突する。
轟音。衝撃。結界の表面に、無数の亀裂が走った。
「第一結界、損傷!」
「第二結界、展開!」
魔術師たちが次々と魔力を注ぎ込む。
黒竜の炎が止まった。
その瞬間を待っていたかのように、砲兵隊長が剣を振り上げた。
「魔導砲、発射準備!」
巨大な砲身に、青白い光が集まっていく。
「目標、王城跡地上空!」
「全砲門、照準完了!」
砲兵隊長の声が、平原に響き渡った。
「撃てえええええ!!!」
ドドドドドドドドドッ!!!
何十もの魔導砲が、いっせいに火を噴いた。
青白い光弾が夜空を切り裂く。黒竜の巨大な身体に、次々と命中した。
爆発。爆発。また爆発。
黒竜が悲鳴のような咆哮を上げる。巨大な翼が大きく揺れた。
「効いている!」
誰かが叫んだ。
しかし、黒竜はまだ落ちない。傷ついた翼を広げ、こちらへ向かって突進してくる。
「第二射、準備!」
「魔力炉、再充填!」
「急げ!」
砲兵たちが必死に操作盤を動かす。
黒竜が迫る。巨大な爪が、夜空に光った。
私は思わず息を止めた。
そのとき。
「重魔導砲、発射可能!」
後方から、ひときわ大きな声が響いた。
振り返ると、丘の上に設置された巨大な砲が、青白い光を放っていた。
通常の魔導砲とは比べものにならない大きさだった。砲身の周囲を、何重もの魔法陣が回転している。
「重魔導砲、照準固定!」
砲兵隊長が叫ぶ。
「撃てえええええ!!!」
ドゴオオオオオオオン!!!
夜空を貫く、巨大な光の柱。
それが黒竜の胸を直撃した。
黒竜の身体が、空中で大きくのけぞる。翼が止まった。
そして、巨大な黒い影が、ゆっくりと落下していった。
ズズズズズズン!!!
王都の中央に、黒竜が墜落した。
地面が揺れる。土煙が立ち上る。
誰もが息を呑んでいた。
やがて、土煙の向こうから伝令が走ってきた。
「黒竜、活動停止!」
続いて、もう一人。
「魔力反応、消失!」
最後に、討伐隊長の声が響いた。
「厄災、討伐成功!!!」
平原が歓声に包まれた。
私はお母様に抱きついた。お母様も私を強く抱きしめてくれた。
お父様はその場に座り込み、両手で顔を覆っていた。
三百年。三百年もの間、王国を脅かし続けた厄災が、ついに倒されたのだ。
◇
それから一週間後。
王都の復興が始まった。
幸い、住民たちは事前に避難していたため、人的被害はほとんどなかった。しかし、建物の被害は甚大だった。
王城は完全に崩壊。周辺の貴族街も大きく損傷。黒竜が墜落した場所には、巨大な穴が開いていた。
国王陛下は仮設の執務室で、頭を抱えていたという。
「……王城がなくなったな」
「はい」
「建て直せるか?」
「問題ございません」
財務卿は、分厚い報告書を差し出した。
「黒竜の素材を売却すれば、十分に賄えます」
「なんと!?」
「鱗、牙、角、骨、そして魔石。いずれも極めて貴重な魔導素材です。特に魔石は、現代の魔術工学では製造不可能な規模のものです」
「つまり?」
「王都の再建費用を含めても、お釣りが来ます」
「お釣りが!?」
「はい。数百年ものの古竜ですので」
こうして王国は、三百年前の厄災を討伐し、王都の復興費用まで手に入れた。
まさに大成功である。
◇
「エレオノーラ。改めて、今回の協力に感謝する」
仮設の王宮で、王太子殿下が深々と頭を下げた。
私は微笑んだ。
「お役に立てて光栄です」
「それで……婚約の件なのだが」
「はい」
殿下は少し気まずそうに続けた。
「婚約破棄を宣言してしまった」
「そうですね」
「もちろん、実際に婚約を解消したわけではないのだが……」
「存じております」
封印解除の条件は、婚約破棄を宣言すること。実際に婚約を解消する必要はない。
だから、私たちは今も正式な婚約者同士だった。
殿下は少しだけ顔を赤くした。
「それでも、君には嫌な思いをさせてしまっただろう」
私は首を振った。
「いいえ。殿下は立派にお役目を果たされました」
「ありがとう」
「ただし、一つだけお願いがございます」
「何だ?」
「結婚式は、走らなくてもよい場所でお願いします」
殿下は目を丸くした。それから、声を上げて笑った。
「もちろんだ! 今度こそ、最後まで一緒に踊ろう」
「はい。楽しみにしております」
今度こそ、誰も走り出さない祝宴を迎えるのだ。




