第1.3話 清水莉子と
「人間の存在って、どう思う?」
「どう思うって……?」
「そう、芽衣ちゃん。結局はみんな死ぬのに、人間は何のために存在していると思う?」
「わからない」
「私たちが存在するのは、ただ自然の摂理だから。そしてね、たとえ死んでも、貴方の魂も、理想も、貴方が描く世界も、永遠に消えないんだよ」
「描く世界……?」
「うん。永遠と虚無の狭間にある、魂がゆっくりとすり減っていくのを導く楽園……そんな世界」
「へぇ……そんな場所、何と呼ばれてる?」
「***」
「え? 彩花ちゃん、聞こえないよ」
「***」
「彩花ちゃん、聞こえない……彩花ちゃん、息が苦しい……」
「お前って、ほんと人の話を聞かないよな」
「お父さん? お父さん、ごめんなさい……」
「お前はダメなやつだ。母さんと同じだ。家族を捨てたクズ女」
「やめて……お父さんこそ獣だ、死ねばいい」
「ざわめき。血の匂い。視界の端で、誰かが倒れている」
「何があったの?」
「血が……」
「救急車呼んで!」
「怖い……」
「高橋さん! 大丈夫?」
「高橋さん! 高橋さん!」
「……やめて、やめて、やめて……」
叫びと同時に、私は飛び起きる。
胸が締めつけられ、手足は震え、全身が汗で濡れている。
夢、でもあまりにも鮮明で、本当に体験したみたいだ。
川口彩花と花畑を歩く景色から始まり、突然それがお父さんの顔に変わり、そして、今晩のあの光景に繋がる。
息が詰まり、幼い頃溺れかけた時と同じ感覚が蘇る。耳の奥で、水の中に沈むときの音が、波のようにざわめく。そしてその時、清水さんのかすかな呼ぶ声、人混みのざわめきが耳に届いた。
スマホを手に取り、時刻を確認する。
「1時27分」
まだ登校には早すぎる。けれど目は冴えていて、眠れそうにない。まだ疲れはない。
けれど、覚えて通り十二時に眠りについたばかりの私が、このまま夜を越えれば、朝には、きっと疲れが押し寄せてくる。
もう少し早く眠りにつけていたら、そう思わずにはいられない。あのお父さんの出来事さえなければ、きっとてきたはずなのに。
救急車で親父が運ばれたあと、私は病院に残っていくつかの手続きを済ませた。
医者は「命に別状はない」と言ってくれたし、親戚も駆けつけてくれたので、私はひとまず家に帰って休むことにした。
とはいえ無事と言っても、回復にはきっと時間がかかるだろう。どうやら顔面に物理的な衝撃を受け、鼻を損傷し、顎の骨も折れてしまったらしい。今は警察が、この件の犯人を追っているところだ。
親父はまだ意識がはっきりしていないため、捜査に協力することもできずにいる
嫌いなお父さんでも、この出来事は恐怖を呼び起こす。
胸の奥で、不安がじわじわと膨らむ。
清水さんの言葉が蘇る。「危ないことに巻き込まれてる可能性だってある」。
それは十分あり得る話だ。
親父は確かに嫌な奴だが、外では妙に口が回るタイプで、いきなり誰かに恨まれて殴られるようなことは考えにくい。
金や財産に関わる揉め事でもない。
頭がまとまらない。
考えれば考えるほど、自分の物事の見方がどんどん鈍っていく気がした。
川口さんを探さなきゃいけないのに、お父さんの件まで重なってる。
結局、その夜はあの出来事ばかりが頭を離れず、一睡もできなかった。
体も心も擦り切れたままベッドを抜け出し、重たい足取りで学校へ向かう支度をする。
いつもの駅、いつもの電車、いつもの道。空は今日も澄み切っているはずなのに、景色を味わう余裕なんてもう残っていなかった。残っているのは、ただ鈍く続く痛みと不快感だけだ。
教室の扉を開け、残り少ない力を振り絞って席に着く。
それでも、何かが違う。
頭は霞がかかったようにぼんやりしているのに、周囲から向けられる視線の多さだけは、はっきりと感じ取れた。
雪乃ちゃんと美緒ちゃんが、真っ先に駆け寄ってくる。
「ねぇ、昨日のこと……お父さんが事故に遭ったって、本当?」
美緒ちゃんの声。
その瞬間、一緒にグループの友達、そして普段あまり話さないクラスメイトまで近づいてくる。
心配されていることは分かっている。それでも、不意を突かれたように言葉を失った。
どうして、こんなにも早く広まっているのだろう。昨夜のことなのに。しかも、親戚以外には誰にも話していないはずだ。
これは噂じゃない。まるで、私が監視されているみたいだ。
苦しい、苦しい、苦しい。
監視されている。もう、自分の人生を自分で握れていないのか?
怖い、怖い、怖い。
また、胸が膨らんでいく感覚。
息が詰まり、何かがじわじわと重くのしかかってくる。
そして、意識が途切れた。
気がつくと、私はもう保健室のベッドに横たわっていた。
頭はまだ鈍く痛み、全身から力が抜け落ちている。
ゆっくりと上体を起こそうとすると、机の上で書類を整えている生徒の姿が目に入った。
清水さんだ、とすぐにわかった。
振り向いた彼女が言う。
「お、目が覚めた? 大丈夫?」
「うん……ちょっと、まだ……」
「過労で倒れたんだって。ちゃんと休みなよ」
「でも、どうして清水さんが?」
「べ、別に偶然ここにいただけよ。貴方が寝てるのを見張ってたわけじゃないんだから、勘違いしないで」
清水さんが、少し偉そうな口ぶりでそう言った。
「そうじゃなくて、何でここに?」
「ただ、生徒会の用事で来ただけよ。保健の先生に頼まれて、ちょっと資料を整理してたの。それで、偶然倒れた生徒がいるって聞いて、誰かと思ったら貴方だったってわけ」
「そうなんだ」
「まだ二時間目だから、無理なら帰ったほうがいいよ。じゃあね」
資料の束を手に、出口に向かう清水さん。
「待って……!」
「ん? 何?」
「聞きたいことがある」
「なに?」
彼女が一歩、近づく。
「……どうして、みんなお父さんのこと知ってるの? 私、誰にも話してない。まさか……あなたが?」
「は? なんで私を疑うの。そんなこと、するわけないでしょ」
「……じゃあ、誰が……。だって、あなただけが知ってた……」
言葉を紡ごうと必死に口を開くのに、喉の奥が詰まってうまく声が出ない。気づけば、目の端からぽつりぽつりと雫がこぼれ落ち、視界はじわりと霞んでいく。鼻の奥が熱く、息までしづらい。
私は顔を伏せた。こんな顔、清水さんには見せたくない。
「……監視されてるみたいで……自分の人生が、自分のものじゃないみたいで……わかる……?」
清水さんが身をかがめ、背中に腕を回して抱きしめる。
「それは、ごめん。でも、私は本当に話してない」
耳元で、親が子を慰めるような柔らかな声。
「たぶん、私、考えすぎなんだ」
「ねぇ、安心するなら、今夜、一緒に寝てあげよっか」