第1.2話 清水莉子と
「日記はB5サイズで、厚さはおよそ40ページ。表紙は淡い青色。中身は三つの時期。出会った時、ホテルでの出来事、そして別れの朝に分かれている。それ以外のページは白紙で、ただ最後のページだけに川口彩花は死んだと書かれている」
そう説明しながら、清水さんはスマホに何かを打ち込む。画面は見えないが、おそらく日記についての情報をメモしているのだろう。
「そんな細かいことまで必要ですか?」
「分かっていませんね。人探しは細部が命なんだ」
自信満々の顔で清水さんは言い切る。
「でも、表紙で探せるわけですか?」
正直、どうでもいい細部を覚えるのは時間の無駄にしか思えない。重要なのは中身じゃないのか。
「うるさい。集中が切れますよ!」
仕事中に邪魔されたみたいに、苛立ちを隠そうともしない。
「それ、本当に貴方の日記?もしかして誰かの日記とかじゃないんですよね?」
その問いを無視して、ただ黙って清水さんを見つめる。だって、さっき自分で「黙れ」って言ったのはあの人だ。
私が返事をしないと、ようやく無視されていることに気づいたらしい。
「ごめんなさい、ただ集中したいだけですし。それに、黙ったままじゃ人探しなんて無理ですよ」
「分かりました」
「ついでにさ、普通に話しましょう。敬語だとなんか面倒ですね」
「わかった」
そう言って、机の上から適当にメモ用紙を拾い、ペンで意味のない言葉を書き始める。
「ん?何それ?」
怪訝な表情を浮かべる清水さん。
最後まで書き終えると、その紙を清水さんの目の前に差し出す。
「陽の下に漂う泡?どういう意味?」
「ただ、字を見せたいだけ。同じ人間が書いたってすぐ分かるでしょ?」
そう言って、開きっぱなしの日記の横に紙を置く。
「確かに、同じ筆跡だ」
“泡”という言葉で、日記の最後の文章を思い出す。川口は泡のように消えた。まるで最初から存在しなかったみたいに。
ただの思いつきで書いた言葉なのに、そのイメージが頭から離れない。
川口さんという存在を、どうしてここまで曖昧で不可解なものにしているのか。
「どうした?急にそんな考え込む顔する」
清水さんが私の顔を覗き込む。
「川口さんって…泡だと思わない?」
「は?泡?今ふざけてる場合?」
「ああ、いや…なんでもない」
今は気にすべきことじゃない、と自分に言い聞かせる。
「そうやって濁すなよ」
「濁してない」
「はいはい、否定も面倒だよね」
「初対面でずいぶんズバズバ言うね」
「高橋さんが気を遣う必要あるタイプじゃないから、気にせず言えるだけ」
その言葉を聞いて、私も同じことを感じていると気づく。私は慎重な性格で、初対面の人には特に距離を置く。
一年の頃から雪乃ちゃんのグループで知り合った子にでも言葉遣いを気をつけるのに、この人とは今日の昼から話し始めたばかりなのに、こんなに自然にやりとりできるなんて。
多分、この清水さんには、他人の本音を引き出す不思議な魅力がある。理由は分からないけど、どこか懐かしい感覚がある。
清水さんは日記をパラパラとめくり、考え込む。
「この日記を高橋さんが書いたのなら、おかしいのは、自分が記録した時、川口さんの存在すら覚えていなかったことだ。夏休みが終わって間もないのに、忘れるわけがない」
それは学校で話した時にも言ったことだ。覚えているなら、こんな面倒を頼む必要はない。
「頭打ったとか、脳の病気じゃない?」
「何それ、私は至って普通だよ」
「そうか」
淡々と返す清水さん。
「じゃあ、夏休みの出来事で何か覚えてる?」
「何も」
それは真実だ。日記も川口さんも、夏休みの記憶そのものがごっそり抜け落ちている。
調べた記憶喪失や記憶の回復法も、自分のケースとは微妙に違っていた。
「じゃあ、川口さんが通ってた美浜高校から当たるしかないな」
それが唯一の手掛かりだ。その学校は小学校から高校まで一貫の有名校で、私の家から電車で6駅ほど、中心街に近い。
行くなら時間をしっかり調整する必要がある。
私たちは金曜日に行くことに決めた。その日は学校の用事も早く終わる予定だ。
清水さんと連絡先も交換し、話はまとまった。
外はもう薄暗く、私は駅までの道を清水さんと並んで歩く。
夜の街灯の下、清水さんの表情には、ほんの少し不安の影が浮かんでいる気がした。
「正直に聞くけど、もし川口って人がもう死んでたらどうする?」
「正直、どうして自分がここまで知りたがってるのか分からない。もしかして、私はもう囚われてるのかもね」
「怖いこと言うなよ」
「本当だよ」
「やめた方がいいんじゃない?危ないことに巻き込まれてる可能性だってある」
私自身、その可能性は否定できない。でも、ここでやめたら、一生この謎に縛られる気がする。
そんな時、前方100メートルほど先で人だかりが見えた。10人か15人ほどが集まり、ざわついている。
私と清水さんは早足で近づく。
人の隙間から覗いた先、血溜まりの中に横たわる男性の姿が見える。
声、叫び、押し合いの音が、遠くに霞んでいく。
鼓動だけが耳の奥で響く。
清水さんが何か言っているけど、もう聞き取れない。
暗がりの中でも分かる。
それは私のお父さんだ。