プロローグ3 謎の少女との別れ朝
"高橋芽衣の記憶"
それは、私と家族の、幼い頃の小さな旅行の思い出だ。
母の勤めていた会社が社員向けの旅行を企画し、家族同伴も許されていたらしく、私たち一家はその旅に参加した。
行き先は、南のどこかの県にある、観光客で賑わう平凡な海辺だった。
風景も、遊びも、どれも退屈で、好奇心旺盛な子どもだった私には少しも惹かれなかった。
だけど、ただ一つ、白いワンピースを着たあの少女の姿だけは、今でもはっきりと心に残っている。
彼女は私と同じくらいの年で、背丈も似ていた。
腰まで伸びた、滑らかな白髪が、潮風に揺れていた。
ある夜のことだ。
その白髪の少女が、海辺を一緒に歩こうと誘ってくれた。
私たちは満天の星空の下、さざ波と月光に包まれながら、何かの話をしていた気がする。だけど、内容はもう思い出せない。
ふいに、彼女は別れを告げた。
遠く離れた国へ旅立つのだと言う。確かにその国の名前を聞いたはずなのに、今となっては思い出せない。
彼女は私の手をそっと離すと、白い砂の上を走り出し、海の方へと向かった。その足はためらいもなく、水面に向かって進み続ける。
どんどん遠ざかる背中。
どんなに呼びかけても、私の声はもう届かなかった。
そして、そこから先の記憶は、ない。
気がつけば、私は両親に激しく叱られていた。
その日を境に、両親は一週間以上、ずっと喧嘩を繰り返していた。
私は溺れかけていたのだ。
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奇妙な悪夢から、私はふいに目を覚ました。
背中と額は汗でびっしょり濡れ、手も小刻みに震えていた。
夢の記憶は曖昧だったけれど、恐怖だけはありありと、まるで現実のように残っていた。
まるで昨夜の逃避行のように。
何も考えられず、ただひたすら震え、死の影から逃れようともがいていた。
必死に呼吸を整えようとしていたその時、ふと気づく。
川口さんが、ベッドにいない。
私はすぐさま立ち上がり、部屋を見渡した。
どこにも姿はなかった。
もしも彼女が私を置いていったのだとしたら、それは本当に困る。
財布は昨日、家に置いてきた。支払いは川口さんがすると言っていたはず。
焦りと不安が胸を締めつけ始めたとき、ドアがゆっくりと開き、姿を現したのは他でもない、川口さんだった。
「おはよう!」
「どこ行ってたの!? 置いてかれたかと思ったんだから!」
彼女は軽く笑って言った。
「はは、大丈夫。置いていったりしないよ。朝ごはん、買ってきただけ」
「でも、せめて一言言ってよ……」
私は少し責めるように言った。
「ごめんね。あんまり気持ちよさそうに寝てたから、起こしたくなかったんだ」
「まぁ、ありがと。買ってきてくれて」
そう言って彼女は私の目の前に、卵サンドとぶどうジュースを差し出した。
本音を言えば、卵サンドはあまり好きじゃない。
でも、そんなことを言ってる場合じゃなかった。
朝食を一緒に済ませ、部屋代を払ったあと、フロントの壁にかかった時計を見たら、まだ五時四十分だった。
まだ早いけれど、外はすでに明るく、私はそろそろ家に帰って、学校の準備をしなければならない。
私と川口さんは、ホテルをあとにした。
「昨日のことはなかったことにしようか。多分、もう会うこともないだろうし」
「え〜、でもまた夜の街でばったり会うかもよ?」
「いや、もう十分だよ。あんな夜は二度とごめんだし、思い出したくもない」
「そっか……」
「さよなら」
「うん、またね」
“またね”こんな状況でその言葉を使うなんて、どこかおかしいと思った。
けれど私は、川口さんのことも、夢のことも、あの哀れな女性のことも、すべてを頭の中から振り払って、日常へと戻るために足を進めた。
終わり。
それが、あの夏に書かれた奇妙な日記帳だった。
“川口彩花”という謎の少女について、ぽつりぽつりと三つの出来事が綴られているだけ。
しかし、それ以降のページは、どれも不気味なほど白紙だった。
何かに引き寄せられるように、私はページを一枚一枚めくっていく。
川口彩花に関する、何かほんの欠片でもいい、残っていないかと探すように。
そして、最後のページだけにこう書かれていた。
「彩花ちゃんは死んだ。あの子は最初から存在しなかった。泡のように、跡形もなく消えてしまった。」