プロローグ2 謎の少女と過ごした夜
駅の近くにあるラブホ。
家から歩いて三十分くらいの距離だ。
こんな「健全とは言えない」場所に、女子高生の私が足を踏み入れるなんて、もちろん初めてのことだ。
すべては、あの子の変なな提案のせいだった。
川口彩花、私が出会ったばかりの、奇妙な雰囲気をまとう女の子。
彼女は「この辺をうろついてたらアイツらに見つかるかもしれない」と、まるで当然かのように、ラブホテルで隠しようと強く主張したのだった。
……確かに、それにも一理ある。
けれど、普通のホテルでもよかったんじゃない。
なにもよりによって、ラブホじゃなくてもいい。
私はまだ十六歳。
こんな場所に泊まるなんて問題があるんじゃないかと心配していたけれど、どういうわけか川口さんが何かをフロントの人に言って、ふたりで部屋を借りることができた。
彼女のこと、まだよく知らない。
でも、どこか……何かがおかしいと気がする。
けど、自分がどこに引っかかってるのか、そこまでは分からなかった。
部屋の鍵を受け取り、中へ。
意外だった。
もっとけばけばしいのかと思ってたけど、そこまで猥雑な雰囲気はない。
多少派手な装飾がされてはいるけど、これまで泊まったホテルとそう大きく変わらない、ただの一室だった。
もちろん、部屋には「そういう目的」のためのグッズも置いてあるし、エッチなビデオのチャンネルもあったけれど、見なかったことにするべきだ。
友だち同士でラブホに泊まって遊ぶ、なんて話も耳にしたことがあるし……
川口さんと一緒なのも、それと同じようなものだと思えばいい。
部屋の中で鍵をかけ、私は真っ先にベッドへ倒れ込んだ。あまりに色々なことがあって、身体がくたくたに疲れている。
……正直、あのままだったらもっと最悪な結末を迎えていたかもしれない。
川口さんもベッドの端に腰を下ろし、ジーンズのポケットから飴をひとつ取り出した。
ようやくそのときになって、私は気づいた。
季節は夏の始まり、蒸し暑い時期なのに、彼女はだぼだぼのジーンズを履いていた。
けれど上は涼しげなクロップトップ。
まるで雑誌から飛び出してきたような、ファッション感度の高い女の子。
それに比べて、私はというと、水色のパジャマ姿。
明日の朝、これで外に出たら完全に田舎者じゃない。
……なんかずるい。
なんか、脱がせたくなる。
そんなことを思っている時。
「ねえ、変なこと考えてない?」
飴を見つめていたはずの川口が、突然こちらを向いて言った。
「なっ……!? な、何言ってんのよ、変なこと言わないでよ!」
私は一瞬、返す言葉を失ってしまった。
すると彼女は、飴をポケットにしまい、身を乗り出してきた。
「ねえ、高橋は……したい?」
……言った。
この変わり者の川口彩花、ほんとうに言った。
毎日繰り返す退屈な日々の中、私は少しずつ、「女の子同士の関係」に興味を持ち始めていた。
話し方、ふれあい方、キスの仕方、そして、もっと先のことも。
それがどういう気持ちなのか、どんなふうに「気持ちよく」なるのか、ただただ知りたくて。
そんなとき、目の前に現れたのがこの、川口彩花という女の子だった。
黒い瞳はどこか謎めいていて、お団子にまとめた髪がかわいくて、顔の造形は整いすぎてて、こんな子を前にして、理性を保てるわけがない。
もし、もしも私が「うん」って言ったら、どうなるんだろう。
そんなことを考えて黙り込んでいたら、川口さんが突然、驚いたような顔になった。
「えっ、ちょっと待って? 本気にしたの? ……冗談だよ?」
「……は?」
あまりにあっさりした口調に、私は思わずむっとした。
「冗談でそんなこと言うな!」
思いきり彼女の腕を叩くと、川口さんは笑いながら謝ってきた。
「はは、ごめんごめん、まさか本気にするとは思わなかった」
……この子、やっぱり何かおかしいんだ。
ラブホで、あんなふざけ方をする人なんているわけがない。
それも、私たちが死に物狂いで逃げてきた直後に。
それなのに、まるでからかわれたような気がして、悔しさと屈辱が胸に込み上げてきた。
「もういい。寝る!」
起きたばかりの出来事を忘れようと、私は目を閉じた。
「えー、もう寝ちゃうの? ちょっとくらいお喋りしよーよ」
まるでおもちゃをねだる子供のような甘えた口調に、私は思わず寒気がした。
「うるさい。明日、学校あるんだよ」
「寝られなくて外に出たんじゃなかったの?」
「今はもう寝られる」
「えー、つまんないなぁ、タカハシさーん」
返事はせず、ただ無視した。
しばらくすると、川口さんも静かになった。
その後の記憶は曖昧で、ただまぶたが重くなり、眠気に飲まれていった。
私は川口さんと一緒に花畑を歩いていた。
どんな花かは分からない。ただ、色とりどりで華やかだった。
春の湿った風が肌をなで、どこか優しい香りを運んでくる。
空は時間の移ろいを映すように、いくつもの色に分かれていた。
遠くは夕闇に染まり、近くはほんのりとした桃色が、どこか切なさを帯びている。
花は風に揺れて、まるで一つのリズムで踊っているようだった。
どこからか、風鈴のかすかな音が聞こえる――チリン、チリン。
川口さんは私の方を見ず、手を引いてどこかへ駆け出した。その顔には笑みが浮かんでいて、私も思わず笑顔になった。
私たちはただただ、どこまでも続く花畑の中を駆け抜けていった。ここが現実かどうかなんて、どうでもよかった。
ふと、違和感を覚えた。
あれ? この川口さん、なんだか小さい。
誰? 本当に川口さん?
疑いを抱いた瞬間、手を引く女の子がこちらを振り向いた。
顔はぼんやりとしてよく見えない。でも、間違いなく川口さん……いや、もっと幼くて可愛らしい姿。
「なんで彩花ちゃん、こんなに小さいの?」
「芽衣お姉ちゃんが大きいだけだよ〜。そんなこと言ったら、ちょっと悲しいかも」
「じゃあ……川口さんは?」
「川口さん、いなくなっちゃったよ」
瞬きした瞬間、花畑は跡形もなく消え去った。
春風も、優しい空も、すべてが闇に飲まれる。
「彩花ちゃん? 彩花ちゃん、どこ?」
私はただ、迷子になった子供のように彼女の名を呼び続けた。
どうしようもなく、不安と恐怖に押し潰されて、
私はその場で泣き崩れた。
「彩花ちゃん……彩花ちゃん……」
何時間も、ただ名前を呼び続けるしかなかった。
そのとき、冷たい風が体を突き刺し、私は目の前の“何か”に気づいた。
それは、首を吊った川口さんだった。
吊るされたままのその足元には、いくつかの飴が転がっていた。
突然、聴覚が消え、血のような鉄の匂いが鼻を突く。
息を吸いたい。吸いたいのに、胸が塞がる。
喉がふくれて、空気が通らない。
圧迫感に全身が包まれ、海の底に沈むような苦しさ。
海? 私は今、海の中にいる……?
息ができない。死ぬ……?
死の気配が肌に触れた瞬間、私は目を覚ました。
夢だった。
ただの夢。でも、あまりにもリアすぎて、背筋が凍る。
なぜ川口さんは夢の中で死んだの?
なぜ私は海にいたの?
そして、なぜ私は、あの小さな川口さんを「彩花ちゃん」と呼んだの?