プロローグ1 謎の少女との出会い
私は二つの顔を持っている。
まるで高校生として、二つの異なる人生を生きているかのように。
ひとつは、教室の中での“私”。もうひとつは、それ以外の場所での“私”。
別に、偽るためにこんな生き方を選んだわけじゃない。
でも私は、自らその道を選んだ。
学校では、成績は決してトップではないけれど、上位に入っていて、性格も「明るくて親しみやすい」なんて評価されてる。
話しかけてくれる友達もいて、昼休みに一人きりになることなんて、ない。
でも、そんな順風満帆に見える学園生活の裏側で、家に帰ると私はただの無気力な存在。
やる気なんてどこにもなくて、お父さんからも冷たくあしらわれてる。
理由?わたしにもわからない。ただ、そうなったのは、あの日からだった。
中学二年の冬、両親が離婚した。
大人の恋愛も、家庭の事情も、当時の私には理解できなかった。
ただひとつ分かったのは、その日から、この家は「家族」と呼べる場所じゃなくなったってこと。
大きくなるほどに、私はどこかで迷子になっていた。
夢を育てることも、理想に向かって進むことも、私には遠すぎた。
映画も音楽も、ゲームも、ほんの一瞬の楽しさをくれるだけで、
その喜びはすぐに消えてしまう。
毎日はまるで、終わりのないループ。
どこにも向かえない、同じような時間の繰り返し。
きっと私は、行き先もないまま空に浮かぶ、泡のような存在。
帰る場所も、目指す場所もない。
そしていつか、そっと吹いた風に弾けて、空の青に紛れて消えてしまうのだろう。
まるで、初めから存在なんてしていなかったみたいに。
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また同じ朝が来て、
気づけば、ありきたりな午後の授業が過ぎて、部活の時間が終わって、帰るのは大嫌いな家。
それから、宿題。
何回同じ日を繰り返したんだろう。
そしてあと何回、それを繰り返せるのか。
いつか、退屈に喰われてしまう前に。
私はベッドから身を起こし、壁にかかった猫型の時計を見た。
「……もう11時半、か」
この時間なら、当然「夜更かし」に分類される。
でも、もう眠れないなら、眠気もどこかへ消えてしまったようだ。
少し、外に出てみよう。
お父さんには、たぶん気づかれない。
いや、気づかれても気にされない。
パトロール中の警察にも、出くわさないことを祈って。
そんな風に自分に言い聞かせて、
私はそっとドアを開け、忍び足で階段を下りた。
夜の外出は初めてじゃないけど、
この秘密めいた空気に、少しだけ胸が高鳴る。
呼吸が浅くなって、身体がほんの少し震えて、
久しぶりに、「わくわく」という感情を思い出した。
夜の抜け出しって、思ったより、面白いかも。
どこに向かうか決めていなかった私は、
とりあえず家の南側、駅の方向へ歩き出した。
歩いて五分ほどで、道の右側にある小さな公園が目に入る。
放課後、よく立ち寄ってはベンチに座って夕焼けを眺めていた場所だ。
夜の公園も、悪くないかも。
「ちょっとだけ、座ろう」
そう呟いて、私は静かにベンチに腰を下ろした。
昼とはまるで違う。
朝の爽やかさも、夕暮れの郷愁もない。
けれど夜のこの静けさには、不思議な魔力があった。
まるで、この世界に私ひとりだけが残されているような。そんな感覚。
ふと、視線の先に動く影。
50メートルほど離れた遊具の方へ、数人の人影が近づいていく。
ここからなら、私のことは見えない……はず。
そうであってほしい。できれば、近づいてきてほしくない。
こんな夜更けに知らない人と関わるのは、ごめんだ。
彼らはブランコや滑り台のある遊具のあたりに立ち止まり、何か話していた。
どうやら一人の女性と、二人の男のようだ。
女性はポニーテール。
男の一人は細身、もう一人はがっしりとした体格。
彼らの声は、ここまで届かない。
でもその雰囲気に、私はなんとなく嫌な予感がした。
「……家にいればいいのに。わざわざこんなとこで……」
ぼそりと呟いた、そのとき。
目の前の光景が、一瞬で私の思考を止めた。
細身の男が、突然その女性に近づき、
彼女の顔を両手で押さえるようにして、顔を寄せた。
キス?
いや、違う。
それはどう見ても、無理やりだった。
女性が抵抗する間もなく、もう一人の男が背後から彼女を押さえ込み、
そのまま、信じられないような行動を取り始めた。
彼女の身体に触れ、乱暴に、繰り返し。。
驚きから、不安へ。
そして、不安はやがて、恐怖へと変わっていった。
あれは、まさか……
彼女は、本当に、レイプされてる?
助けに行く? 私が?
でも私は、ただの女子高生だ。
誰かを呼ぶべき? でも、スマホも持ってない。
この辺りにはもう、灯りの点いた家もない。
頬を一筋、汗が伝った。
全身が痒いような感覚に包まれ、震えが止まらない。
心臓が、破れそうなほどに鳴っていた。
女性は必死に手足を振っていたけど、二人の男はそれを無視していた。
背後に立つがっしりとした男が、
彼女のズボンを無理やり下ろしていく。
前にいる男は、その口を奪い、声すら封じていた。
手は彼女の下半身を這い、
口元は敏感な部位に押し当てられ、前の男は彼女の身体を強引に自分に引き寄せ、
髪を乱暴に掴んで、逃がさないように固定した。
背後の男は、最後の布すらも引き裂くように剥がし、
両脚をつかんで広げると、その顔を間近に。
すべてが、あまりにも早すぎた。
いつの間にか、背中は汗でびしょ濡れになっていた。
私には、何もできない。あの人を助けることもできない。
それならせめてこの場から逃げて、全部忘れてしまおう。
この、汚らわしい記憶もろとも。
私は立ち上がろうとした。その瞬間。
「……ねぇ、ゾクゾクしない?」
耳元で囁かれた声に、身体がびくりと跳ねた。
反射的に、短い悲鳴が漏れる。
振り向いた先にはひとりの女子生徒が、ベンチの背もたれに肘をかけて立っていた。
黒髪のロング。輪郭の整った、まるで絵のような美しい顔立ち。
思わず私は、心の中でつぶやいていた。
きれい……
だがすぐに、現実に引き戻される。
さっきの私の叫び声。
まさか……
私は慌てて視線を遊具のほうへ向けた。
そこにいたはずのがっしりした男が、こちらに向かって歩き出していた。
「やばい、見つかった!」
「しーっ、静かにしなきゃ」
その声と同時に、女の子の細い手が私の口元を塞いだ。
「なにしてんのよ!」
すぐにその手を振り払って、私は怒鳴る。
「見つかったじゃん! アンタ、馬鹿なの!?」
心の底からの怒りが、声に滲む。
あの子さえいなければ、私は誰にも気づかれずに逃げられたのに。
けれど,私が怒鳴っても、その女の子は微動だにせず、
じっと、遊具の方を見つめていた。
その視線の先、
男がすでに私たちに向かって歩き始めていた。
「やばい……っ!」
私はとっさに立ち上がり、踵を返す。
女の子もすぐにその後ろをついてきた。
でも、今の私に彼女の存在を気にしている余裕なんてなかった。
脳内に危険信号が響き渡り、
心臓は喉から飛び出しそうなほど跳ね上がる。
捕まったら、終わる。
きっと、死ぬ。
逃げろ。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
逃げるしか、ないんだ。
がむしゃらに走り続け、
とうとう私の身体は限界を迎えた。
息が切れて、膝に手をつきながら酸素を吸い込もうと必死になる。
足はもう、棒のよう。私はその場にへたり込み、顔を上に向けてなんとか呼吸を整える。
額を伝う汗を手の甲で乱暴に拭った。
あの奇妙な少女、私ほどではないが、それでも肩で息をしていた。
汗で肌が光っていて、どこか幻想的にさえ見えた。
私は彼女を警戒しながら睨んだ。
どう考えても、普通じゃない。
「……あんた、何が目的?」
荒い息の合間に、なんとか声を絞り出す。
「ただ、見てみたかっただけだよ?あんなの、ゾクゾクしなかった?」
その無邪気な声色に、私はぞっとした。
「は? ……あんた、あの女性が何されてたか分かってるの?
っていうか、あんたのせいで、もう少しで捕まるところだったんだけど!」
私は立ち上がるように声を荒らげた。
「捕まるわけないって。それより、あの人のこと気にしてたんでしょ? 助けたいんじゃなかったの?」
「……助けるって、今さらどうにかできるわけじゃないし。それより、自分の身の心配しなきゃ。あいつ、こっち見てたじゃん……」
「だからこそ、黙ってればよかったんだよ。
だって、忘れたかったんでしょ? 全部、なかったことにしたいんでしょ?」
心の奥を、鋭く抉られた気がした。
そう、私は、あの人を見捨てようとしていた。
見捨てて、逃げて、ただ忘れようとしていた。
口の中が苦くなる。
何も言えずに目を逸らすと、私は話題を変えた。
「……で、そっちは何者なの? 名前は?」
「川口彩花。美浜高校、二年生」
聞いたことのある名前の学校だった。うちの学校からそう遠くない。なんとなく、少しだけ安心した。
本当にただの女子高生……少なくとも、見た目だけなら。
「高橋芽衣。聖華高校、二年」
「えっ、同い年? わお、偶然〜」
「っていうかさ、こんな時間に外出してて大丈夫なの?普通に危ないでしょ、女子高生が夜に出歩くなんて」
どこか説教くさく言ってしまった自分に、少しだけ引いた。
「いつも夜に出てるよ。落ち着くから。
……ま、あんたも似たようなもんでしょ?」
「私は、ただ眠れなくて……」
「だったら、私たち、けっこう似てるのかもね」
「……そうかもね。
……もう、帰ろうかな。疲れたし、まだ追ってきてるかもしれないし」
「ふーん……」
彩花はなぜか、思案顔で黙り込んだ。
そして、唐突に。
「ねえ……ラブホ、行ってみない?」
その言葉は、今日どころか、私の人生の中で聞いた中でも一番、意味がわからなかった。