5.魔国へ入国。賞味期限は間近?
国境を超えるだけでも3日はかかると言われている距離を、魔物ジャージーは強靭な脚と翼で空を駆け抜け、太陽が傾く前にアゲートの王都に客車を運んだ。
2人きりから脱出できる安堵と、とうとう来たかと怯む気持ちの両方を抱え、フレアージュは緊張した面持ちでスピネルのエスコートで城に入る。
荒れた建物を想像していた。
薄暗くて、蜘蛛の巣が張りめぐらされているような、霧と闇に包まれた寒々しい王城を。
「うわぁ」
明るいエントランスを抜けて案内された広間をぐるりと見渡しながら、フレアージュは思わず感嘆の声をもらす。
(ぜんぜん、違うじゃない! 清潔感があって煌びやかで、何て美しいのかしら!)
黒い外観も落ち着きがあって不快な感じはなかったが、城内は白と金を基調とし、洗練されたインテリアで揃えられていた。
大理石の床は手入れが行き届いており、高い天井にぶら下がった大きなシャンデリアの光を、水面に映る朝日のようにキラキラと反射させている。
柱の繊細な彫りも、窓のステンドグラスも芸術的。
インテリアの全てがラスター王国のものに酷似していたことも、フレアージュの胸を強く打った。
(こんなに腕の良い職人……いえ、魔職人?が、アゲートにもちゃんといるのね)
ラスターにいた時と変わらない生活が送れるかもしれないと、フレアージュは光明が見えた気がした。
しかし、それは僅かな時のこと。
王太子の帰還に列をなした魔族たちが、フレアージュを見つけて目の色を変える。
「スピネル殿下! 本気で人間なんかを妃に迎えるおつもりか!?」
「いつものお戯れだと。後にフランベして楽しむつもりで連れ帰ったのだと、そう仰って下さい!」
トカゲの獣人と蒼い肌の魔人がそう訴えて初めて、フレアージュは自分が歓迎されていないことに気づいた。そして戦慄が走る。
警戒すべきはスピネルだけじゃないのだ。
友好の証で送られてくるはずの人間が手に入らないとなれば、パーティーを期待していた王城の魔族達が、こぞって自分を狙ってくる可能性もある。
「あ……」
魔族の無機質な目玉が四方八方から光った気がして、フレアージュは思わず後ずさった。
逃がすまいとしたのかスピネルは、そんなフレアージュの腰を強く引き寄せる。
そして一瞬だけ弱々しく顔を歪めたかと思うと、すぐさま眉をつり上げ、反発してきた魔族に射るような眼光を飛ばした。
「これは僕の戦利品だ。食うも食わぬも僕が決める。他の手出しは許さない」
同時にミシミシと太い木の幹が裂けるような音がする。
驚いて見上げると、スピネルの頭部左右から黒くねじれのある角が2本、上部に向かって突き出していた。
それを見た魔族達は顔面蒼白し、戦々恐々と床にひれ伏す。
(悪魔の角……。これが彼の真の姿? 何て恐ろしい)
やはり油断してはいけないのだと、改めて自分を戒める。
怒らせてはいけない。隙を見せてはいけない。
(ああ、私。いつまでこの体を守れるかしら……)
つい弱気になるが、聞きなれた耳心地の良い声に呼び戻された。
「フレアージュ様!!」
顔を上げると、リリーが魔族の波をぬって必死な形相で駆け寄って来てくれる。
「良かった! 無事だったのね」
数時間ぶりの再会が数年ぶりに感じて、2人はひしと抱き合った。
そしてフレアージュは背中で死角を作り、口元を隠しながら彼女に囁く。
「例のもの、ちゃんと持ち込めた?」
「はい、トランク2つ分バッチリです。ポケットのキャンディーも」
「よくやったわ。でも絶対に油断しちゃダメよ。やはり魔族は人間が好物らしいの」
「ひぃっ! フレアージュ様、首のそれ歯形では!?」
「大丈夫。結婚の儀が終わるまでは食べないと言ってたから。私達はそれまでに何とか逃げ場を――」
「ねぇ、時間がない。早く準備して」
背後からスピネルが覗きこんできて、フレアージュは大袈裟に肩を跳ねさせた。
「な、何をですの?」
「もちろん、結婚の儀に決まってるけど」
「え? まさか今からですか!? 数ケ月先だとばかり」
「そんなに待てるわけないでしょ。もう十分お預けをくらってるのに」
スピネルは唇を尖らせてフイッと顔を背ける。
馬車での約束がこれならば、彼はそうとう気が短そうだ。
(もしかして今夜すぐに私を? いえ、政治的価値と言うなら、賞味期限はもっと長いはずよ)
フレアージュは胸の前で祈るように手を握り、自分に言い聞かせるが……。
わずか2時間後、その希望はあっけなく打ち砕かれることになる。
王城の東にある厳かな教会で、魔王と魔王妃が見守る中。
ウエディングドレスに身を包んだフレアージュは、満足気に微笑むスピネルと形式的な誓いを交わした。
晴れて夫婦となった直後――。
「今宵、君の部屋に行く」
彼は耳打ちでそんな言葉を残したから。