エピローグ:今宵私は、甘美なデザート
◆◆◆
10年前――。
初めてラスターに降り立った日を、忘れた事など1度もない。
皇太子としての初仕事『友好の証』をもらい受け、アゲートへ帰還しようとしたところで、スピネルは人間の少女と出逢った。
「何やってるの? それ、僕の馬なんだけど」
「あ、黒い角……魔族……」
大胆にもジャージーの背にしがみつき、顔だけ振り返りそう呟く。
潤んだエメラルドの瞳と太陽光を反射させる同系色の長い髪が、アゲートでは見ない美しい少女だった。
「食べないで……」
ガタガタと全身を震わせながらそう懇願されて、スピネルは「ああ、またか」と飽き飽きする。
魔族に思いがけず出くわした人間の第一声は大抵これだ。
「君は僕たち魔族がどれだけグルメか知らないの? 手づかみで噛りついたりなんかしない。脳みそはスプーンで、その心臓はナイフとフォークで、デザートに頂くのさ」
スピネルは舌なめずりをし、わざと角を突き出して脅かすように顔を近づける。
「ひぃっ!!」
少女は驚いてのけぞり、バランスを崩して魔馬の背から滑り落ちた。
自分よりいくつか幼い相手に少しやり過ぎたかと、スピネルはこめかみを引っ掻きながら少女の手を引く。
「ほら、立って」
「た、食べないで、お願い!」
「だから、こんなとこじゃ食さないって」
「私じゃないの。友好の証にうちの庭師が……彼を食べないで欲しいの!」
少女は意志の強い眼差しを向けた。
「そんな青冷めた顔で、たかが使用人の心配?」
「私はリバルディ公爵家の人間よ。下の者を守るのは当然だわ」
「へぇ……」
怯えに相反して、瞳の奥で熱が揺らいでいるのが面白い。
王太子として今後どうアゲートを導くか迷走中だったスピネルにとって、彼女の真っ直ぐな姿勢は魅力的に映った。
「じゃあ返したとして、君は代わりに何をくれる?」
「こ、これではダメかしら?」
ポシェットから差し出されたのは、小さな箱に入ったカラフルな菓子。
国交条約をずいぶん甘く結ばれたものだと、スピネルは思わず吹き出して笑ってしまう。
「これじゃあ、返せないって」
「そんな……」
「でも君がいつか、僕の欲しいものをくれた時には考えてもいいよ」
「ほ、本当? 約束よ!」
フレアージュはそう言って左手の小指を差し出した。
これはラスターに伝わる契りのポーズだと語って――。
◆◆◆
「君はあまり覚えてないようだけど、僕は一目惚れだったよ。あの日からずっとフレアージュが欲しくて……だからアゲートを変えたくなった。いつか君を迎え入れる日の為に」
大きな窓の向こうには、昨夜よりも少し丸みをおびた月。
寝室のベッドに浅く腰かけて座り、スピネルは気恥ずかしそうにフレアージュを見つめた。
「でも人間と魔族にはやっぱり国境以上の壁があって。しかも君には婚約者がいたでしょ? だからロイズが手離した一瞬が、チャンスだと思ったんだ」
「まあけっきょく最悪の形になったけどね」と、彼は溜め息まじりに苦笑う。
フレアージュは胸がギュッと締めつけられるような、甘く切ない痛みを感じた。
「申し訳ありません! スピネル様がそんなに昔から想って下さってたのも知らず、私ってば食べられることばかり心配して……」
「う~ん、あながち間違いでもないかな」
「え?」
「いつかは味わってみたいと狙っていたのは事実だから。そのしなやかな手足も、豊かな胸も、全てが扇情的でさ」
「ス、スピネル様!?」
「でも一番の魅力はその笑顔だって分かったから。もう少し待つよ」
スピネルはチュッと小さな音をたて、フレアージュの額にキスをした。
まるで薄いガラスに触れるような、繊細で優しい口づけ。
愛を感じる尊い行為なのにそれが何だかとてもじれったくて、フレアージュは彼のシャツの袖をちょこんと引っぱる。
「いいですわ、もう待って下さらなくて」
「え?」
「きっとあなたの言う通り、私は今とても甘いと思いますの」
「だ、だから……?」
「はい。今宵、私をスピネル様のデザートに」
スピネルの首に両腕を回し、ニコリと微笑んでから静かに瞳を閉じる。
「君って人は……」
彼の困ったような嬉しそうな声が耳を撫でて、次の刹那、唇が柔らかい熱で塞がれた。
マカロンよりも甘い夜の始まりだった。
~Fin~
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