朝の洗濯物がめんどくさくて横になってしまった話。
「はぁ、今日もやるのか」
最初は褒められたりしたが、継続していくうちに自分がやるのが当たり前という雰囲気になった。自分という存在が家庭内で朝の洗濯物を淡々とこなすだけの機械のようになってしまったが故に、やったとて別段何も言われないのだ。それに加え、そこそこダルくて変化のない毎日のこの作業にも飽き、辟易してしまったのだ。
ついには作業を放り出し、当初の気力も失い、倦怠感に包まれながら、ベッドに横になって動けなくなってしまった。
倦怠
倦▶︎飽きる・疲れる。 変わらないがゆえに飽きてしまったのに、それを毎日やらなければ行けないという状況から生まれるストレスを感じて疲れてしまった。
怠▶︎怠ける・面倒に思う。 どうにも面倒に思い、体が拒否反応を起こし、怠けてしまった。
この倦と怠を感じる状態、倦怠感状態になってしまった。まさにバーンアウト(燃え尽き症候群)である。
日本で初めて倦怠という言葉が使われだしたのは平安時代らしい。特に枕草子や源氏物語で登場したそうだ。宮廷生活での人間関係に倦怠してしまったのだろう。
また、フランスの作家、アルベール・カミュの「異邦人」では、主人公が人生そのものに対して倦怠感を感じてしまっているようである。
だが倦怠感というものは、その行為全体に対する意義を問い直すきっかけにもなるようだ。
仏教禅宗では、「今ここにあること」(マインドフルネス)を意識することで倦怠感を軽減する技があるらしい。
無心になり、まさに自分が倦怠感を抱える行為そのものの本質を見つめるのだと言う。
あとは食傷という言葉もある。
食▶︎食べる
傷▶︎損なうこと。
何かを過剰に摂取することで嫌気が差してしまうのだ。自分の場合、朝の洗濯物を毎日やることへのストレスの蓄積が自分のキャパシティを越え、ついには嫌気が差し、動けなくなってしまった。
同じものをずぅっと食べていると、飽きてストレスが溜まっていき、それでも食べているとついには気分が悪くなって吐いてしまうのだ。つまり、人間は現状維持ではいられない生き物なのだ。そこに一種の希望を見出すこともできる。