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「はい、やってまいりました。第二回、勉強会ー!」
「わー、パチパチパチー!」
「勉強会は一回目だろ」
「由香ちゃんまたそういうこと言う―! ダメだよ! 空気壊しちゃ! はい! 拍手して!」
嫌そうな小さな拍手と共に、再びファミレスに四人が集まった。
あれから、長澤からは何のアクションもなかった。それどころか、朝会うと、『よっ』と声を掛けてくるところまで、いつも通りに戻っていた。
逆にそれが気味悪く感じて警戒していたが、あれは本当に釘を刺しにきただけだったらしい。
「じゃあ、早速勉強しようか」
「相変わらず悠壱は真面目やなー、着いて早々に勉強だなんて」
「勉強やらないのか? なら私は帰るぞ」
「はい! 今すぐやりましょう!」
「謙太くん真面目だね!」
今のどこに真面目要素があっただろうか。
若干の不安を覚えながらも、各々がカバンから教科書を取り出していく。
僕は、長澤がいるから、今日は数学をやることにした。
渋々教科書を取り出していた謙太も数学で、えにしは古典、長澤は英語だった。
お互いがお互い、あまり関わりのない人に得意分野を教えてもらえるようにといったこの勉強会の意図は、しっかりとメリットとして働いている様だった。
それからしばらくは、みんな真剣に勉強をやっていた。
がやがやと少し騒がしいくらいの店内で、僕らの机だけはペンの走る音だけが響いていた。
僕は、普段静かなところで勉強する方がはかどるが、こうした騒がしい場所でも、少し強制力のある様な空間ならば意外と勉強が進む事が分かった。
しばらくして一息ついた時、もうすでに謙太は集中が途切れているらしく、ぼーっと外を見ながらペンをくるくると回し飲み物を飲んでいた。
肘で軽くこづいてみる。
もちろん、ちゃんと集中しないと長澤に怒られるぞという意味でだ。
しかし、反応が無い。
気になって謙太の方を覗いてみると、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ていた。
身振り手振りで、女性陣に迷惑がかからない様、僕に伝えようとしていた。
ふむ、ふむ、なるほど。それは困ったな。
要約すると、分からないところがあって質問したいけど、長澤に声がかけられないという事だった。
謙太の性格上声がかけられないなんて事が起こるなんてと、珍しく思っていると、僕のその顔を見てか、長澤を見てと謙太から指示が飛んだ。
なるほど、僕は瞬時に理解した。
長澤は、教科書を読みながら、イヤホンをしていた。
恐らく音楽などを聞いているわけでは無い。あれはリスニングをしているのだ。
これは確かに話しかけづらい。
しかし、謙太の勉強が滞っていたんじゃあまり意味がない。
僕は一肌脱ぐことにした。
「長澤、ちょっといい?」
「由香ちゃん」
えにしが気を利かせて長澤の肩をトントンと叩いて合図を送ってくれた。
長澤はえにしに視線をやった。えにしが僕が呼んでいると伝えてくれると、長澤はイヤホンを外して爽やかに自分の世界から出てきた。
「どうした、八代?」
「ちょっと分からないところがあって教えて欲しいんだ」
「由香ちゃん! 俺もいい?」
「二人とも、見せてみろ」
長澤は、懇切丁寧に教えてくれた。
普段の雰囲気とは違い、まるで塾の講師かと思うくらい丁寧に式の解法を教えてくれた。
考え方も、理系のそれだと分かるくらいに効率的な解き方で参考になった。
「なるほど、そういう考え方で解くのか。ありがとう、参考になったよ」
「おう、分かんなかったらまた聞いてこい」
これはありがたい。あまり得意ではない数学の分野で、ここまで優秀な講師がいてくれると助かる。
「虚部って何? 三国志最強の武将?」
「それは呂布だろ、虚数iが入ってる式の部分の事をいうんだよ」
「虚数iって何?」
「二乗したらマイナス1になる数字の事だ」
「え! 数字って二乗したらプラスになるんじゃ無いの!?」
「あぁ。だから昔の頭良い奴がありえないその性質を持ったものをiってつけて問題解けるようにしたんだろ」
「じゃあ、iは存在しないって事?」
「現実にはな、式の中にはいるがな」
「存在しないけど、思考はする存在……」
「何言ってんだ?」
「identity……のi」
「今英語じゃないんだが? それに、なんで飯田はそんなに発音がいいんだ?」
あぁ、謙太が哲学的な沼にはまりかけている。
英語らしき言葉をぶつぶつ呟きながら数学の教科書にかじりついている。
長澤は謙太に教えるのを諦めたらしく、ため息ひとつはいて再び自分の世界へと帰って行った。
「ふふ、みんな面白い」
くすりとえにしが笑った。
まぁ、確かに勉強というよりは、コントの様な時間ではあったが。
「えにしさんは、分からないところある?」
「んー、今の所は無いかなー! ラ行変格活用も覚えたし、もう少し、暗記をしっかりしようかなって!」
「ラ行変格活用言ってみて」
「ありをりはびりいますかい!」
蟻をリハビリしている人はいないと思うがどうだろうか。
アリさんという名前の人ならあるいはと言ったところか。
「あり、をり、はべり、いまそかりだよ」
「ん? 私、間違えてた?」
これからの勉強会がとても不安に感じた。
それから、相変わらず、長澤はずっとリスニングの勉強をしていて、謙太はぶつぶつ何かを呟きながら数学の教科書にかじりついていた。
なにやら、謙太の目は色がない様に見えるが気のせいか。
えにしはというと、何やらノートをとりながら、教科書の勉強をしていた。
どうやら教科書の内容を写しているらしく、本人曰く写すと書いた人の気持ちが分かるというらしい。
何が書かれているかも分からない古典で、それをやっても意味があるのか分からないが、やりたい気持ちを尊重しよう。
しかし、教科書の説明の部分まで書き写す必要はあるのだろうか。本人は至って真剣そのものだったので、言及するのも野暮だと思い、やめた。
僕も、勉強という面ではほとんど期待していなかったが、
意外と身が入り、中々に有意義な時間が過ごせた気がする。
「そろそろ帰るか」
外が暗くなり始めたのを見て、長澤が声をかけた。
それを聞いて、謙太の目に輝きが戻った。
「はい! 由香ちゃん! 今日も送っていくよ!」
「別にいいよ、毎回送ってくれなくても」
「まぁ、まぁ、そんな事言わずに!」
謙太は素早く教科書をカバンにしまう。
帰る元気は、誰よりも溢れていた。
会計を終えて、長澤と謙太が僕とえにしの帰り道と反対側に消えていく。
「じゃあ、私達も帰りましょ!」
当然の様に一緒に帰る事になっていたが、反論はもちろん無い。えにしの横に並び、帰路につく。
「えにしさん、今日頑張ってたね」
「うん! 勉強も、いつも真剣にやってるんだけど、分からないところが多くて難しいんだよね」
恐らく、やり方が悪いのはすこしある気がするが、言った方がいいのだろうか。
「でも、教科書書き写しなんて、大変な事、よく頑張れるね」
「後悔したくないんだ! なんか、やり残した事とか、ない様に、やり切った! って思える様に普段から生きていきたいの!」
後悔、えにしはよくこの言葉を使う。
やらずに後悔するなら、やってから後悔したいという事だ。
だが、やった先に何もなかったら?
それをやる事で、後悔できる未来すらなかったら?
えにしは、なんて答えるだろうか。
僕は、この衝動を抑える事が出来なかった。
「もしも、どうしてもしたい事があって、それをやったら死んじゃうってなったらどうする?」
「えー、どんなもしもなのー?」
「例えばだから」
「んー、そうだなー、やって死ぬ! ずっと後悔したまま生きていくのは嫌だから!」
「……そっか」
僕は、一気にぼくの両手を満たして行ったこの感情が何かわからなかった。
ただ、強く僕の人生を否定された様な気持ちになったのかもしれないし、えにしに強い劣等感を覚えたのかもしれない。
ただ一つ、軽々しく、死ぬと言われた事に対して、腹立たしさを覚えたのは確かだ。
体が汗ばんでいくのを感じる。
そこから家に帰るまで、えにしとどんな話をしたのか覚えていなかった。
ただひたすらに、春の夜風がまだ冷たかった事だけが頭の中に残っていた。