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「よー! 昨日はどうだったん?」
にやにやしながら、朝一番で謙太が尋ねる。
やはり、謙太の頭の上を見ると安心する。
存分に老衰するまで生きて、天寿を全うしてもらいたい。
「一緒に帰ったよ、そこそこ会話はしたかな」
「ほう、やるじゃないの」
口が裂けるのではないかと思うくらい、口角が上がりに上がっている。
これは、喜んでいるのか、面白がっているのか、どちらだろうか。
「そういう謙太はどうなんだ?」
上がっていた口角が一気にしぼみ、口角垂れ落ちるんじゃないかと思うほどに、逆向きのUの字になった。
分かり易すぎて心配になってくるレベルだ。
「振られたのか?」
謙太は小さく首を横に振る。
「取り付く島もなかった」
「……難しい言葉知ってるじゃないか」
「由香ちゃん……あぁ! 可愛すぎる! どうにかして振り向いてもらえないだろうか!」
しょげていたと思ったら、今度は両手を組み、天を仰ぎ崇め奉り始めた。
どういう精神構造をしているのだろうか、一度頭の中を見せてもらいたい。
「次の勉強会までに、アプローチできる何かを考えてこないと!」
「勉強会までに勉強がスラスラ出来る様になってたら見直されるんじゃないか?」
「それだ! 悠壱! 文系教科教えてくれー!」
「何で文系だけなんだ? 理数は?」
「勉強会の時に、由香ちゃんに聞く! 接触回数大事!」
そういう所を勉強に回せばいいのにと、強く思う。
とはいえ、謙太が動いてくれた功績は大きい。
これからは、少し謙太の方も気にかけていこうと思った。
その後、食事をした日から数日が経ち、僕の生活にちょっとした変化が訪れた。
えにしとは、あれから廊下ですれ違う時などに、軽く挨拶したりする程度に、仲良くなった。
えにしは、基本的にいつも誰かが側にいて、人気者というのを体現した様な存在だった。
だからか、えにしが僕の方に近づいて来た時、急に出来た繋がりを、もっと周りは驚いたり、訝しむものだと思っていたが、またやってるよ、くらいの感じに見えたので、強く安堵した。
えにしのファンに目をつけられると動きにくくなり困るから、実はすごく助かった。
そして意外にも、長澤も挨拶をしてくれるようになった。
「よっ」としか言ってこないが、こちらはこちらで、ガン無視してくるものばかりだと思っていたので、意外だった。
しかし、毎回身近な長澤の熱烈なファンの嫉妬の炎で、燃やされかけるのだけは納得できない。
そして、中でも最も大きい変化は、僕の内側にあった。
僕は、うまく寝付けなくなっていた。
あの日から、頭の中がごちゃごちゃして、夜の暗闇の中に身を置くと目が冴えてしまう。
理由は色々あった。
えにしの死が、想像以上に彼女のもとに迫ってきていると感じてしまった事は、僕に少なくない影響を与えた。
人の死というのは、やはり恐ろしい。
祖母が亡くなった時、大勢の人が泣いていた。
もちろん、僕も泣いた。
もう二度と会って話す事が叶わないという事は、どれだけ人の心に穴を開けてしまうか、僕はよく知っている。
そして、自分のせいかもしれないと思ってしまう事の罪悪感が、どれだけのものか、痛みが生じるくらい分かっている。
そんな思いを、えにしの周りの誰にもさせてはいけない。えにしの周りにたくさんいた、笑っていた人々を、誰一人として悲しませてはいけない。
そして、それが出来るのは、今現在僕しかいない。
しかし、意気込むだけで明確な解決策など何も出ていない。
それが、大きなプレッシャーとなって、眠りにつく僕を抗わせるのだった。
そして、えにしについた初めての嘘が、今になって僕を苦しめていた。
嘘をついた時は、あまり、変化はなかったのに、じりじりと、僕を蝕んできているのを感じる。
僕は、祖母から頭を撫でられるのが好きだった。
祖母は、事あるごとに、偉いねと頭を撫でてくれたものだった。
そして、そのうちの一つで強く覚えているのがある。
僕が、祖母の家の掃除の手伝いをしている時に、玄関先にあった花瓶を割ってしまった。
その花瓶は、祖母が定期的に花を変え、水を変え、丁寧に扱ってきた祖母の大切なものだった。
祖母が、それを扱う時の嬉しそうな顔が僕は好きだった。
それを割ってしまった時の絶望は今でも強く覚えている。
大きく割ってしまったわけではないが、外観は強く損なっていた。
そして、僕はまず真っ先に隠そうと考えた。
きっと優しい祖母なら、叱るという事はまずなかっただろう。けれど、不格好に割れた花瓶を、大切にしていた本人の元へ持って行った際に、少しでも悲しい顔をされるのがいたたまれなかった。
なら、いっそ、自然に壊れた事にしてしまおうと、僕は工作を試みた。
工作自体は完璧だったと思う。ツギハギだが、一度組み直し、花を入れ元に戻す。
その後、祖母の目の前で少し手を加えて、自然に落としたように見せかけようとした。
組み直した花瓶は本当に割れているのか近づかないと分からないくらいに隙間は埋まっていた。
しかし、途中でやめて、正直に持っていく事を選んだ。
自然に落ちたという事は、祖母の過失にしてしまう事と同じになる。
それはきっと、僕が割った事以上に祖母を悲しませる事になると思ったからだ。
そして、それ以上に、僕は祖母に対する良心の呵責というものに耐えられなかった。
嘘をついて、その場を誤魔化す事が、僕の精神的な事に対する、根本的な解決には、ならない事を、僕はその時学んだのだ。
『ゆうくんは、正直で偉いね』
持っていったら、祖母は全てを見透かした様にそう褒めて頭を撫でてくれた。
自分では気が付かなかったが、指先を小さく切っていることを祖母に見つけてもらい、絆創膏を貼ってもらった。
花瓶の直した箇所の出来栄えも褒めてくれた。
でも、割れたかけらは危ないから触らないでと叱られた。
どこまでも、祖母は、僕の事を愛してくれていたのだと分かる。
しかし、嘘をついてしまった今の僕は、あの時のように祖母に褒めてもらえるだろうか。
僕は、今の自分に自身が持てなかった。
清廉潔白とまでは言わないが、自分なりに正しい事をしてきたつもりだった。
しかし、もう戻る事は叶わない。
嘘をつかなった世界にも、祖母が生きている世界にも。
今存在している僕は、嘘をつき、人を欺いた。
それがその人を助けることだとしても。
あれからずっと、口の中がざらつき、鉄の味がする。
他者に介入するという事は簡単な事ではない。
時に、こうして己と向き合い、自分を否定しないと進めない事もあるらしい。
それでも、人の命は大事で、尊いものだと僕は信じている。
自分の信念を曲げてでも、救わねばならない程に。
それが、見えている僕がやらなければいけない事なのだ。
ある日の帰り、廊下から、陸上部の練習風景を見ていた。
やはり一人、抜きんでている選手がいる。
相変わらず楽しそうで、誰よりも真剣で、羽が生えているのかと錯覚しそうなほどに軽やかだった。
そういえば、えにしが好きな人とは、誰だろうか。
ラブレターを開封してしまえば分かる事なのだろうが、そんな事は絶対に出来ない。
してしまったら、えにしに一生顔向けができなくなってしまう。
謙太に頼んで聞いてみるか? いや、僕がえにしを狙っているんじゃないかという、あらぬ勘違いを生みそうだ、それは面倒だから、自分でやろう。
もし、彼女の好きな人が分かれば、そちらにアプローチして、上手く回避させられるかもしれない。
とにかく、情報を集めなければ。
「よっ」
なんだか聞き覚えのある声が聞こえたので、振り返ってみると、そこには見慣れない人物が立っていた。
色白のきめ細かい肌に、しなやかなアーモンド形の目、通った鼻筋に、細くたなびく茶色い髪、頭の上には『ドアを199923回開ける』と書いてある。
なるほど、こうしてみると、面食いの謙太が骨抜きになるのも分かる気がする。
「なんだよ、鳩が豆鉄砲食らったような顔して、私が話しかけるのがそんなにおかしいか?」
ばつが悪そうに目をそらしながらそういったのは、長澤だった。
「いいや、何か用?」
そういうと、後ろに親指を向けて、こちらに行こうと合図をしてきた。
誰もいない空き教室だった。
僕は、促されるままに、教室のドアを開け、中に入った。




