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それにしても、会話がない。
どれくらい歩いているだろうか、十分は歩いただろう。
その間、一度たりとも会話がなかった。
どうしてかは分からないが、えにしを前にすると途端に何を話していいのかが分からなくなってしまう。
いつも何気なく話す謙太に対しては、こんな事を考えた事もないのに、どうも調子が狂う。
「もう結構歩いたね、えにしさんの家はまだ遠いの?」
「やだなー、八代君、まだ、五分くらいしか歩いてないよ? 私の家はまだ歩かないと着かないかなー」
やっと絞り出した会話を、冗談を言ったと思われたのか、軽やかに笑って返された。
時計を確認すると、確かにそのくらいしか経っていなかった。
異様に時間が長く感じる。
踏み出す一歩が、果てしないものの様に感じた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。隣を歩いている人は、確かに寿命は1しかないが、今すぐ死ぬわけじゃないし、今僕が、何かをしないといけないわけじゃない。
今は、ひとりのお友達として接していかなければ。
そこまで考えて、深呼吸をして再び立ち返る。
女の子の友達が、できたことが無いから、何を話していいか分からない。
結局、僕は、ぐるぐる考えを巡らすだけで、えにしとの会話は皆無のままだった。
そろそろ、十分くらいは経っただろうか。
そもそも、どういった意図で一緒に帰ろうと提案してきたのだろうか。
何か、言いたいことがあったのか、もしくは言われたらまずいことがあるのか、それか、単なる夜道の一人歩き回避か。
えにしの方を一瞥する。
黙ったまま、儚げな雰囲気で、僕とは反対方向の街並みを眺めながら歩いていた。
元気っ子印のえにしが、こんな可憐な女の子の一面もあるのだと少し見る目が変わる。
そこで、ふと思い出す。
もしや、手紙について僕に聞こうとしているんじゃないだろうか。
覚えているかは分からないが、何度かすれ違っているし、手紙をなくしてしまった事にも気付いているはずだ。大事な手紙なら、所在を明らかにしようとするのは、ごく自然な事だ。
だが、困った。
もし、えにしが、僕が手紙を持っているとあたりをつけて、コンタクトを取りに来たとして、正直に持っているといえば、じゃあ返してとなり、愛の告白をさせてしまう事になる。
そうなれば、えにしは死んでしまう。
しかし、持っていないと言うとそれは嘘をつく事になってしまう。
嘘はダメだ。嘘はついていいわけがない。
嘘をついたら、相手に対して不誠実を働いたことになる。
はたして、そんな人間を信用したいと、この先思ってもらえるだろうか。
えにしを守るには、これからある程度の距離感で、えにしの行動に対して、ある程度の介入の余地を残さなければいけない。
嘘は、それを全て台無しにしてしまうものではないか。
再び、えにしの方を見る。
儚げな雰囲気を纏ったまま、何やら、落ち着かない様子だった。
これは、トイレに行きたいわけでも、気分が悪いわけでもないだろう。
手紙について言及するタイミングをはかっているに違いない。
迂闊だった。
えにしが、こんな策士だなんて思いもしなかった。
少しでも、選択を間違えればすべてが終わる。
僕は、気が付けば、断崖絶壁に立たされていたのだ。
どうするべきか、春の生暖かい夜風が体にまとわりついて、何だか不快だ。
時折、風に吹かれて甘い制汗剤の様な匂いがする。恐らく、部活後のエチケットでえにしがつけているのだろう、ファミレスでは、気が付かなかった。
全身から汗が出る。えにしの制汗剤を借りたくなる程に。
しかし、もうやる事は、分かっている。
覚悟を決めなければならないのだ。自分の中で、不義理を働く十字架を背負う覚悟を。
僕は、再び言い聞かせる。
人の命に勝る悔いはない。
大丈夫、人の命の為なら、僕は、信念だって曲げてみせる。
命の為なら、何だってやる。
今回は簡単だ。
何を聞かれても知らないと言えばいい。
それだけで、えにしの命は守られる。残るのは、僕が嘘をついたという事実だけ。
僕の悔いだけで、人の命が救われるなら本望だ。
「あのね、矢代君」
心臓が跳ねた。
心を読まれたのかと思うくらいのタイミングでえにしが声を掛けてきた。
「何?」
努めて平静を装う。
「聞きたい事があるんだけど、いいかな?」
きた。
シミュレーションはした。
どんな形であれ、手紙について聴かれたら、顔色を変えずに、知らないというだけだ。
えにしは、俯き加減で、どこかばつが悪そうだ。
それもそうだろう、落とした手紙について聞く上に、ハートのシールが貼ってあったんだ。
色恋の話は、ほぼ初対面の相手にはしづらいものだ。
「いいよ、何かな」
知らない、知らない、そういうだけだ。大丈夫。
「矢代君て、好きな子いるの?」
「知らない――」
耳を疑った。
僕は今、僕の好きな子を聴かれたのか?
何故そんな質問をしてくるのだろうか、真意が分かりかねる。
あまりの予想外の質問にキョトンとしていると、えにしも何故か、面食らったような顔をしている。
「あっ」
思わず声が出てしまった。
自分に好きな人が、いるかどうかの質問に、知らないと答えていた事に今気が付いた。
「あっ、今のは違う。なしで」
そういうと、えにしは、顔をくしゃりとさせてはにかんだ。
「びっくりしたー! はぐらかされたのかと思ったよー! しかもめちゃくちゃ強引に! 知らないでそのまま来られたらどうしようかと思ったよー!」
えにしは、胸に手を当てて、ほっとため息をつく動作をした。
どうやら、えにしは、動きや表情がとても豊からしい。
「そんなことはしないよ。ごめんね、びっくりさせて」
「ううん、全然大丈夫! 真面目って聞いてたから、驚いただけ。面白いね、矢代君って」
えにしにも、真面目だと伝わっているのか。誰が吹聴したのかは、察しが付くが、今回に関しては、お咎めなしとしよう。
しかし、面白いというのは、初めて言われた。
僕を、面白いと言ってくれるのは嬉しいが、えにしは変わり者なのだろうか?
「それで、どうなの? 矢代君、好きな人、いるのー?」
悪代官の様な、したり顔で、下からのぞき込んでくる。
えにしの表情が豊かすぎて、スタンプでも作れそうだなとふと思う。
「いないよ。気になっている子とか、好きな子とかそういうのはいない」
僕がそう答えると、えにしは「ふーん! そうなんだ!」と言った。
これまでの、えにしの反応にしては、控えめな気がしたが、何となく振ってくれた話題作り程度のものなのだろう。
謙太から聞いた事がある。女子は恋の話が好きなんだと。
僕の中で、謙太の情報の確度がまた上がった。
それっきり、えにしは、また静かになった。
それにしても、折角話を振ってくれたのに、逆に、何もなさ過ぎて申し訳なくなってきた。
手紙の件も、この調子なら言及されることもなさそうだし、僕からも、何か話題を提供しなくてはいけない。
しかし、全くと言っていい程に浮かばない。
さっきの面白い人というのを、撤回してもらおうか。
仕方ない、かくなる上は、ありきたりでもいいから、沈黙を破る一手を打つ。
「えにしさん、好きな食べ物は何? ちなみに、僕は、コロッケが好き」
「えー、なになに? 質問ゲームですか? いいですねー! 私は、ハンバーグと、ラーメンとドーナツと――」
つまるところ、えにしは、食べる事そのものが好きらしかった。
それにしても、質問ゲームというのは、いやはやありがたい。
えにしのナイスアシストで、無事に、次につながりそうだ。
えにし本人も、目を輝かせ、ノリノリだ。
「はいはーい! じゃあ質問! 好きなスポーツは何ですかー?」
「んー、基本的に観るのは何でも好きだけど、特に好きなのはバスケかな」
「そうなんだ!確かに、バスケかっこいいよね! まだ、慌てるような時間じゃない! って!」
「あぁ、まあ、それもかっこいいよね」
「あ、じゃあ! どんな人がかっこいいと思う?」
「自分をしっかり持っている人かな」
「確かに! 日和ってる奴いる? いねーよな!? ってかっこいいもんね!」
「そ、そうだね」
何故さっきから、特定のシーンばかり引っ張ってくるのだろうか。
えにしは、話してみると、気さくで自分には思いつかない様な斜め上の発想といえばいいのか、発言が多かった。
漫画やアニメは、昔見る機会が多く、自然と好きになっていて、今でも身近にあるのだという。
他にも、名前を知らない人に挨拶されたとき、勝手に名前を付けて、そのまま呼んでしまったことがあったり、野良猫と仲良くなりすぎて、集会にお呼ばれしたことがあったりと、彼女の人生は、僕の知らない色でカラフルに彩られている様だった。
「そうなんだ、すごいねえにしさんは」
「そんな事ないよー!」
目に見えてわかるくらい嬉しそうだ。お世辞を言って機嫌を取っているわけではないが、ここまで嬉しそうにできるのも中々に素直な人なのだと思う。
えにしと確実に仲良くなっている手応えを感じる。
「ところで、えにしさんは好きな人とか、いるの?」
しまった。
言ってから気が付いた。
これじゃあ、手紙についてパスを出したみたいなものじゃないか。
なぜこんな質問をしてしまったのだろうか。
会話の中の流れで、盛り上がっていた手応えと熱が一気に失われていくのを感じる。
えにしが急に何も言わなくなった。
沈黙が重く、苦しい。息が詰まる。
「いるよ」
「え ?」
「いるよ。私の中で、とっても大事な人」
心の中が強くざわつくのを感じた。
「告白しようと思ってね、ラブレター書いたんだけど、どっか失くしちゃった! まぁ、渡せたかどうかは怪しかったから、ちょうどよかったかなーなんて」
息が、数秒できなくなった。
彼女は、人知れず命の危機に遭って、それを間一髪で逃れていたのだ。
いざ、彼女の口から、あの手紙がラブレターだと聞くと、想像していた時よりも、心に重くのしかかるものがあった。
僕にしか見えない綱渡り。文字通りの紙一重。
もし、えにしが手紙を落とさなかったら、拾ったのが僕じゃなかったら、ほんの少し勇気を出して差出人に渡していたら。
想像するだけで、目を背けたくなるような悲しみが押し寄せてきた。
「何か言ってよー! 乙女の恋路を聞いたんだから―!」
「あー、ごめん」
「もー、頼むよー? 一度聞いたらもう引き返せませんからね! 矢代君は、最後まで付き合ってね」
最後まで、付き合って。言葉を脳内で反芻する。
確かに、僕は、彼女の恋路に付き合うべきだ。
最後まで彼女が、告白しない様に見守る。
彼女の命の為に。
「……うん、分かった」
「私の事応援してね? ちゃんと背中押してね?」
そう言った声は、儚くか細く感じた。
「……うん、分かった」
僕は、人生で初めて嘘をついた。
初めてついた嘘は、意外にも僕の心を強く蝕む事はなかった。
長距離走を走った後の様に、ただ、鉄の味がしただけだった。
これから後、何回この子に嘘をつけばいいのだろうか。
考えただけで、体がどっと疲れた。
その後すぐに、えにしとは別れた。
バイバイと手を振る姿はいつまでも見ていられるような気がした。
そういえば、結局、何故一緒に帰ろうと誘ってくれたのかは、分からないままだった。
それでも、大事なことを聴けたから良しとしよう。
脈打つ心臓が鳴りやまないまま、生ぬるい夜を、僕は一人帰った。