23
謙太との話し合いから四日が過ぎた。
相変わらず、川島からは業務連絡が届いているし、謙太はあれ以来、いつも通り長澤を追いかける日々に戻った。
しかし、えにしが、再び休み始めてしまった。
一度、風邪が治った時に元気な姿を見せてくれたのだが、そこからまたすぐに休んでしまった。
何かあったのだろうか。
「なぁ、謙太、えにしさんどうして休んでるか知ってるか?」
「一応、体調不良と聞いているが……どうやら、変な噂が広まっているらしく、それじゃないかって」
「変な噂?」
あのえにしに、変な噂が立つとは到底信じられなかった。
「最近、陸上部で県大会のリレーのメンバー選考があったんだ。えにしちゃんは足が速いから当然選ばれると思いきや、何故か選考漏れしたんだ。その理由が、どうやら会長がフラれた腹いせでメンバーをいじくったらしいんだ。それで、選ばれなかったショックでまた寝込んだとか」
何だその器の小さい話は。
あの、ハキハキと告白していた生徒会長からは、似ても似つかない外道な噂が流れているが、本当なのだろうか。
それはそれとして、えにしが心配だ。
あんなに楽しそうに一生懸命やってきたのに、そんな事でリレーの選考から落とされるなんて間違っている。
そんな理不尽は、彼女には似合わない。
僕は、その日の放課後に、えにしの家を訪ねる事にした。
会ってどうなるわけではないが、会わないという選択肢は、僕には無かった。
今日の授業中もずっとその事を考えていたと思う。
先生の言葉は、一切、頭に入ってこなかった。
チャイムの鳴る数ばかりを数えて、一日が終わったと同時に、僕はえにしの家に駆け出した。
何故ここまで体が動くのか、それすらも分からないが、どうしても放っておけなかった。
インターホンを鳴らすと、この前と同じく、えにしの母が応対してくれた。
「あら、八代君じゃない! 今日も、書類届けに来てくれたの?」
そうだった、何も持たずに来てしまったが、どうせだったら書類を持ってくればよかった。
「あ、いや今日は持ってなくて……」
「もしかして、えにしの事心配してきてくれたの?」
イタズラに微笑むその顔には、僕をからかってやろうなんていう気概は少しも見えなかった。
「はい、そうです。少し、様子を見にきました」
「うふふ、ありがとう。でも今、あの子はいなくてね。落ち込むといつも行くところがあって、今日もそこに行ってるんじゃないかな」
今日も、というところに引っかかった。
あのえにしでも、よく落ち込む事があるという事だろうか。
やはり、人は見た目で判断してはいけないなと、改めて思う。
「そこ、どこですか」
「ここから、少し遠いし……大丈夫?」
前の笑顔とは打って変わって、含みのある言い方だった。
いかにも不安です、といった顔で僕を見つめている。
えにしの母は、どうやら顔に出やすいタイプの様だ。
「はい、大丈夫です」
ぴしゃりと言い切ると、一瞬口角を上げ、スマホの画面を見せてきた。
「じゃあ……場所、ここなんだけどね――」
教えてもらった場所は、確かに遠かった。
が、嫌という程よく知っている場所だった。
お礼を言ってそのままえにしの家を去った。
一度家に自転車を取りに帰り、そこから交通法規を守りながら全速力で、目的地に向かう。
僕は、正直その場所が好きじゃない。
行くだけで、どうしても、自分の弱さや至らない所を突きつけて来られる様な気がして嫌だった。
全ての原点であり、僕を決定づけた場所。
いつも車で通っていた道を自転車で駆け抜ける。
あの頃は、車から見えた景色が嬉しくて仕方がなかった。
けれど今は、向かう事すら億劫だ。
足が疲れてきた。息も荒くなってきている。
目の前に大きな橋が現れる。
最後に、綺麗な川を通るこの大きな橋を渡るのが好きだったが、今はその起伏の大きさに辟易するばかりだ。
やっとの思いで橋を渡りきると、それが見えてきた。
僕らの住んでいる市の市民病院だ。
僕の祖母が入院していた病院でもある。
直接死の原因になった心臓の病ではないが、長らくお世話になっていた為、僕もよく小さな頃に顔を出していた。
ここに来ると、祖母を否が応でも思い出してしまう。
僕のせいで死んでしまった祖母の事を。
自転車を駐輪場に置き、足早に入り口へと向かう。
何故、えにしがこんな所に落ち込んだ時に来るのだろうか。
ただ、受診しにきたというわけではないはず、となると、入院している誰かに会いに行っていると考えていいだろう。
僕は、周りを見ずに、真っ直ぐ入院病棟へと向かう。
市民病院だけじゃなくても、病院というのは苦手だ。
外の世界に比べて、そこにいる人達の寿命の残りが著しく少ない。
健常人と比べてしまったら当たり前の話なのだが、それは僕の目には毒でしかない。
気の毒に思うのは違うと分かっているが、同情を禁じ得ない。
入院病棟の受付につくと、今も坂田さんが受付をやっていた。
寿命は少なからず減っているはずだが、元気そうで何よりだ。
坂田さんは、僕の事を覚えていないと思うので、お堅く行こう。
「すいません」
「はい、どなたかの面会ですか?」
「あー、あの、恐らく面会にきているであろう人に会いたいんですけど……」
我ながら何を言っているのか分からない。
しばらく、坂田さんはぽかんとした後、すぐに気がついた様だ。
「もしかして、八代さんのお孫さん?」
「あ……はい。そうです。祖母がお世話になりました」
「あらやだー! 大きくなってー!」
気がついたのはそっちだったか。
とは、言いつつも、祖母諸共病院の方が覚えていてくれているのは、なんだか心が温かくなる様な気持ちになる。
祖母はまだ色んな人の心に生きているみたいだ。
他愛もない世間話を一言二言交わした後、すぐに探し人について調べてくれた。
「もしかして、面会に来ている人ってえにしちゃんの事かな? あの子なら、談話室にいるわよ」
さすがはベテラン、こういう事には慣れているのか、手際が良い。
「談話室ですね、ありがとうございます」
「うふふ、頑張ってね」
「……? はい」
坂田さんは、温かく微笑みながら僕を手を振って送り出してくれた。
何もそこまでしてくれなくてもいいのに。
昔の自分を知っている人というだけあってなんだか少し照れ臭かった。
この病院の談話室は、僕も昔よく行っていた。祖母が色々な入院患者さんと話すのが好きだったので、よく談話室で誰かが来るの二人で待っていた記憶がある。
そして、祖母がいると途端に談話室は賑やかになるのだ。
そんな姿を見ているのが僕は好きだった。
小さな子供は、絵本や、小さめのおもちゃで遊び、お年寄りはリラックスして座れる椅子が置いてある。
みんなが楽しめる雰囲気の良い空間だ。
談話室に着く前に、子供達がはしゃぐ声が聞こえてきた。
その中に聞き慣れた声も一つだけ混ざっていた。
「えにしちゃん、こっち来てー! おままごとしよー!」
「おままごとか! いいね! やろうやろう!」
案外、元気そうなえにしがいた。
「えにしさん」
声をかけると、えにしは、目をまん丸にして、口がぽかんと開いた。
「八代君!? 何でここに……」
「えにしさんが心配になって、えにしさんのお母さんに聞いたらここにいるって」
「家まで来てくれたの!?」
改めて行動を復唱されると恥ずかしいものがあるな。
何を言われるでもなく、小さく頷いた。
「ごめん! 心配かけて! わざわざありがとう!」
「えにしちゃんのおともたちー?」
おままごとをしていた女の子が僕の事を不思議そうに見ている。
腕には、大仰な点滴が施されていた。
『食事をする 7000』
僕は、頭の上を見ない様にした。
「そうだよ、えにしさんのお友達、ゆういちって言うんだ、よろしくね」
「よろしくね! ゆういちくん! 私、ゆいって言うの! お友達なら、一緒に遊ぼー!」
「うん、いいよ」
「八代君、いいの!?」
またしても、驚いた顔をされたが、ここまで来てえにしさん元気そうだから帰るね、は無理がある。
「じゃあ、ゆういち君はお父さん役ね! えにしちゃんはお母さん役! 私は子供役!」
そう言って、ゆいちゃんは、僕に男性の人形、えにしさんに女性の人形、自身は子供の人形を手に取った。
どうやら、この子になりきる、ロールプレイングタイプのおままごとの様だ。
おままごとは、のんびりと何か特別な事が起こるわけでもなく、淡々と日々をこなしていくだけだった。
何かトラブルが起きるわけでもなく、どこかへ行こうと言う話が持ち上がるわけではなく。ただ、円満で幸せな家庭がそこにぽつんとあるだけだった。
どういった理由で入院しているのかは分からないが、この子にとってはこれが夢で、非日常なのかもしれないと思うと、それだけで胸が張り裂けそうになった。
しばらく、遊んでいると、ゆいちゃんがお手洗いに行きたいと言ったので、えにしが看護師さんを呼びに行ってくれた。
ゆいちゃんと、二人きりになった今、何を話していいのか分からなくなってしまった。
「ねぇ、お父さん」
「……あぁ、どうしたんだい? ゆいちゃん」
おままごとが、続行されているとは知らずに、反応が遅れてしまった。
でも、気まずい空気になるよりかは、遥かに良い。このままおままごとを続けよう。
「ゆいね、病気が治って、大人になったら先生みたいに、人の病気を治せるお医者さんになりたいの」
「……そうなんだね、ゆいちゃんは優しいね。自慢の娘だ」
「ゆいみたいな、辛い思いをしている人達をたくさん治してあげたいの!」
神様は、この健気なゆいちゃんの姿を見てくれているのだろうか。
僕は、溢れ出そうになる涙を堪えるのに必死だった。
こんなにも寿命が見える事を恨んだ事はないだろう。
食事をするなんて、避けようが無いじゃないか。
ふざけるな、ふざけるな。
この子が何をしたって言うんだ。
こんな事を言っても仕方がないのは分かっているが、とても言わずにはいられなかった。
「ゆいちゃんは、すごいね。きっとなれるよ、お医者さんに」
「うん! ゆい、頑張るね!」
口の中が、苦味でいっぱいだった。
舌を噛み切ってしまいたい衝動にかられた。
こんな、慰めにもならない嘘をつく事しか出来ない自分を殺してやりたいくらい憎く感じた。
この嘘は、最低な嘘だ。
「ゆいちゃん、お待たせ! 看護師さん呼んできたよ!」
「えにしちゃん、ありがとう!」
「ゆいちゃん、それじゃあ行こうか」
「はーい!」
手を振りながら、元気良く看護師さんと談話室から去っていくゆいちゃんを、僕は見えなくなるまでじっと見つめ続けた。
「んー! じゃあ、八代君、今日は、帰ろうか」
えにしは、大きな伸びをして、二人きりの談話室でボソリと呟いた。
「うん」
僕は、これしか、言う事が出来なかった。
坂田さんにお礼を言って、僕達は病院を後にした。
えにしも自転車で来ていたが、特に打ち合わせをするでもなく、二人で自転車を引いて歩いた。
日が傾き、夕焼けが街を包んでいた。
「今日、心配して来てくれて、ゆいちゃんとも遊んでくれてありがとう! すごく嬉しかったよ!」
「全然、えにしさんが元気そうで何よりだよ」
「うん、ありがとう」
お礼の言葉とは、裏腹に浮かない表情をしている。
やはりまだ気持ちの整理をつけるのは難しいのだろう。
「ゆいちゃん、良い子でしょ? 私あの子の事大好きなんだ」
「……そうだね、とっても良い子だった」
良い子だからこそ、僕の心は強く蝕まれている。
いっその事、わがまま放題な子なら良かったのかもと思うが、それはそれで心にくるものがある。
結局のところ、僕は、寿命が減る事、人の死というものに向き合う覚悟が全くないのだ。
普通の人は、そんなものは無くてもいいのかもしれない。
しかし、僕にはこれは持たなくてはいけないものなのだ。
世間一般の人の義務教育の様なもので、生きていく上で寿命を減らす事は避けられないし、肉体が先に朽ちて天命を真っ当したとしても死は必ずやってくるのだ。
ふと、川島の事を思い出す。
彼女は、もうとっくにその覚悟は出来ているのだろうか。
「私ね――」
えにしが、少し間を開けて話そうとする。
何か心の中の引っ掛かりを順番に外している様な気がした。
「私、嫌な事があったらね、ここに来てみんなと話して元気をもらうの。病気だった頃、奇跡の復活を遂げた昔の自分に勇気をもらいに来るっていうのもあるんだ。だから、あそこは私にとってエネルギーの充填場所なの!」
「そうなんだ、ゆいちゃんもえにしさんにかなり懐いている様に見えたし、みんなえにしさんが来たら嬉しいだろうね」
「だといいなぁ! 私もみんなに元気をあげられたらなぁ! 」
自分の事で落ち込んでいるのに、他者の気遣いも出来る、こういった優しさが、相手にもしっかり伝わっているのだろう。
確かに、僕も、ゆいちゃんみたいな子達に、今回の様な嘘をつかずに、元気づけられたらどれだけいいだろうか。
己の未熟さを痛感してしまった。
「あの人みたいになれたらいいな」
「あの人?」
「そう、私に勇気を与えてくれた人」
えにしの頬がふっと緩んだ。
直感的に、この人がえにしの好きな人なんだろうなと思った。
胸の中が、強くざわつく気配がした。
「それって、どんな人?」
「んー、すごく優しくて、まっすぐな目をしていて、一番辛い時に、私の一番欲しかった言葉をくれた人かな!」
「そうなんだ」
その人がいるから、今のえにしがいるのだろう。
えにしにとってその言葉がどれだけの救いになったのか、声のトーンが、ひとつ上がったえにしの様子を見ていればよく分かる。
しかし、今のえにしは昔ほどじゃないにしても、辛い状況に置かれているのではないだろうか。
それなのに、人の心配ばかりして、自分の気持ちは仕舞い込んでいる。
じゃあ、今のえにしは、誰に縋れば良いのだろうか。
「えにしさんは、大丈夫? 僕は、えにしさんが心配だよ」
口をついて出た言葉に自分自身が驚いた。
思っていた事が素直に口から出てきてしまった。
「…………」
大丈夫ではないのだろう。
きっと、悔しさも憤りも全て内に秘めて、他者を気遣える優しさに変えてしまっているのだろう。
改めてこの子は優しくて強い子なのだと思い知った。
「もう少し、時間かかるかも……」
「うん、それで大丈夫だよ」
「私の実力が足りなかったんだ。それだけのはずなのに……こんなに悔しいの……なんでだろう」
「えにしさんは、すごい人だよ。僕の先生は実力不足なんかじゃない。すごい人だよ」
「うん、ありがとう」
夕焼けに、えにしの目がきらりと光った。
光の粒は、ゆっくりと頬を伝っていった。
僕は、それを美しいと感じた。
どれだけ頑張っても報われない努力がある。
こうして、頬を伝う悲しみに変わってしまう事が世の中には往々にしてたくさんある。
それでも、人は――えにしは、前を向いて走り続ける力がある。
人の背を押せる、もう一度頑張ろうと思わせてくれる力がある。
だから、大丈夫。
どんな苦境に立たされようとも、どれだけ不運が起ころうとも、きっとえにしなら――。
「えにしさんなら大丈夫。また前を向いて走れるよ」
「……!」
えにしは、ふっと上を向いた。しかし、どうにもならなかったのか、目元を袖でごしごしと拭い始めた。
それでも足りなかったのか、えにしは人目をはばからず、声を上げて泣いた。
泣いて、泣いて、泣きつくした後、「もう大丈夫」と、真っ赤にした目で微笑んだ。
それからしばらく無言で歩いた後、道が別れる事になり、解散する事にした。
「……それじゃあ……また明日ね」
「うん、また明日」
また明日、という言葉がこれ程までに嬉しい事はかつてなかっただろう。
良かった、安堵感が僕に押し寄せる。
「八代君!」
「どうしたの?」
「私に、欲しい言葉をくれてありがとう! 本当に助かったよ!」
「……うん!」
えにしは、手をひとしきり振った後、自転車にまたがって帰って行った。
「少しは、えにしさんの役に立てたかな」
辛い事があったばかりなのに、頬が緩む。
なんだか、無性に颯爽と走りたい気分になった。
明日は、きっと良い日になるだろう。
僕も、一歩ずつ成長していかなければならない。
改めて強く思い直し、えにしの背中を見送ってからペダルを強く踏み込んだ。




