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 えにしは、水道で顔や足を洗っていた。

 白くか細い脚は、細かい擦り傷や泥で汚れ、戦った証が強く刻まれていた。

 黙々と体から泥を落とすえにしは、いつもより静かで、近寄り難い雰囲気を纏っていた。


 それもそうだろう。こんな泥だらけになって気分が良い訳は無い。

 起き上がってから、すぐにこっちに向かっていた所を見ると、大きな怪我はしていない様だ。

 しかし、擦り傷もあるし、このまま保健室へ連れて行こう。


「やめとけって!」


 咄嗟に腕を掴まれた。

 振り返ると、そこには謙太がいた。

 謙太は、鬼気迫る顔で僕の事をじっと見つめていた。


「今はそっとしといてやれよ」

「こういう時こそ、声をかけるべきだ」


 僕は、謙太の手を振り払った。


「テントに戻っててくれ」


 謙太は、しばらく何か悩んだ様な顔をしながらテントの方に戻って行った。


「えにしさ――」

「あー!! 負けたー!!」


 僕の声を掻き消すようなえにしの急な大声に、僕は驚いて声をかけるのをやめてしまった。

 そこで僕は強く納得した。

 えにしは、泥だらけになった事に対して不服そうな顔をしていた訳ではなく、勝負に負けた事が悔しかったのだ。

 側から見ていたら、勝負は分からなかったが、走った本人にはよく分かっているのだろう。

 そうなると、最後のスライディングも、バランスを崩した末のえにしなりの勝負だったという事か。


 いかにもえにしらしい。

 恐らく、チーム全員に合わせる顔がないとでも、思っているのだろう。

 だから、黙々と一人で泥を落としているのかもしれない。


 謙太の言う通り、今はそっとしておいて欲しいと思っているかもしれない。

 僕は、しばらくその場で逡巡した後、意を決してえにしのもとへと向かった。

 やはり、もし自分だったら悔しい時に一人でいる方が余計に悔しさが湧いてくる。

 誰かと話すことで紛れる事もあるだろう。


「えにしさん、大丈夫?」

「……うん、大丈夫」


 僕が来た事に驚いているのか、反応が遅く、いつもよりも暗い。

 いざ、目の前まで来てみると、なんて声をかけたらいいか分からない。

 何を言っても逆効果な気がしてきた。

 それどころか、さっきの大丈夫の声かけすら間違っている気がしてきた。


「怪我、してるよね。保健室行こう」

「うん」

「歩ける?」

「うん」


 いつもの明るいえにしが、ただのお返事ボットになってしまっている。

 ただの部活動対抗リレーだけでこんなに真剣になれるなんて、むしろ病的な何かを感じてしまう程に、えにしのおちこみ様はすごかった。


 水を止めて、保健室にゆっくりと歩き出す。

 部活のユニフォームと靴は泥まみれで、歩く際の不快さがこちらにも伝わってくる様だ。


「かっこ悪いところを見せちゃったね」


 誰にいうでもなく、えにしが呟いた。


「全然、かっこ悪いだなんて思わなかったよ」

「八代くんの先生してたのに……先生なのに負けちゃったよ」

「先生でも、上手くいかない事はあるでしょう? 追い上げていく時とかかっこよかったし、何より諦めないぞって思いがすごく伝わってきたよ。それに……」


「楽しそうに走ってた」

「……そっか」


 えにしのその返事は、少しだけ元気が戻っていた。

 雨が少しずつ強くなってきた。

 これは、確実に午後の競技は中止だろう。


「雨強くなってきたから、保健室に急ごう。泥だらけの格好のままだと風邪ひいちゃうから」

「うん。それ、いそげー!」


 えにしがそう言いながら、お茶目に駆け出して行ったのを、慌てて追いかけた。

 校舎に入ると室内は閑散としていて、まるで二人だけの世界に放り込まれた様だった。


 雨が本降りになってきた。

 校舎の中は、雨の音しか聞こえない。


「静かで心地が良いね」

「そうだね」

「まるで、二人だけしか世界にいないみたい」


 僕が考えていた事と全く同じ事を口にされたので、返事が出来なかった。


 保健室につくと、まるで予期していたかの様に保健室の先生が色々と準備をして待っていてくれていた。


「あんなに派手に滑ってたのだから、来ると思って用意してたわ。にしても遅かったわね?」

「ちょっと、足とか洗うのに時間かかっちゃって」

「とりあえず、保健室にある着替えを使っていいから、その泥だらけの服、変えなさいな」

「はい」


 着替え、という単語と共に、僕は保健室から退室しようとした。

 が、一つ聞き忘れた事を思い出した。


「えにしさん、さっきの走り後悔してる?」

「……してない!」

「なら、最高だね」


 後悔さえしていなければ、彼女はきっともっと前に進んでいくのだろう。

 常に全力で真っ直ぐに、一瞬も後悔の無いように。

 一度無くした命の上で成り立っている延長戦のような幸せを、彼女は真剣に享受し続ける。

 だが、それを見守ってあげる人がいないと、きっとそれはすぐに壊れてしまう。

 ブレーキをかける役が必要だ。

 それが後悔に繋がろうとも。

 そしてそれは恐らく僕の役目だろう。


 保健室を出て、雨音響く廊下を歩いていると、見知った顔がいた。

 今日は、知り合いがよく関わり合ってくる日だ。


「よう」


 長澤が、僕の目の前に立ちはだかるように廊下の真ん中にいた。

 いつもの自信満々の顔が、少し曇っている様に見える。


「長澤、えにしさんなら保健室に送って行ったよ」

「あぁ、ありがとう。それに、さっきは助かった」

「こちらこそ、謙太を止めてくれてありがとう」

「あぁ、ちょっとその件で話があるんだ。八代、ちょっとこっち来てくれ。雨でみんなが教室に戻ってくる前にささっと話したい」


 長澤が、近くにある空き教室にそそくさと入って行こうとしたので、ドアを開けられない様に先に割って入った。

 そのまま一人で入って行った後、しばらく入らなかったらどうなるか少し興味があったが、後々の事を考えた時にポジティヴな事は何一つ浮かばなかったので、大人しく入っておく。

 そういえば、前もこんな様な事があったな。

 謙太に心の中で謝っておくか、いや、今回は別にいいだろう。

 神妙な面持ちをしている長澤が、いそいそと教卓に両肘をついて話す体勢を整えるのを待つ。


「今回来てもらったのは他でもない」


 それっぽい事を言っているのは分かるが、具体的に何をイメージしているのかさっぱり汲み取れない。


「……謙太の事だよな」

「……あぁ、そうだ。そうだよ」


 間違えた事を言ってしまったのだろう。

 長澤の切れ長の目がさらに細く僕を睨みつけている。

 それはさておき、長澤も、もしかすると謙太に対して僕と同じ様な違和感を覚えていたのかもしれない。


「あいつなんかおかしいと思わないか?」

「あぁ、上手くは言えないが、いつもと違う」

「そう、いつもと違う。さっきだって、私が声をかける前から私を見つけて駆けつけて来るような奴が、私が声を掛けた後に『あ!』って言ったんだぜ? 明らかにおかしい。まるで……」


 まるで、の後は僕にもよく分かる。

 最近、思い当たる節が多過ぎる。


「何かを隠しているみたい……か?」

「…………」


 また、間違えてしまったのか。

 長澤の目は更に僕を睨みつける。

 もし、長澤という人物をあまり知らずにこの顔を見たら、絶対に空気に耐えられずにビビって逃げ出したいただろう。


「そうかもしれない……し、そうじゃないかもしれない可能性もなきにしもあらず」

「どっちなんだ」

「……真実はいつも一個!」

「それはそうだが、長澤はどっちだと思うんだ?」

「ガチレスやめろよ!」

「なんでそうなる」


 謙太以前に、長澤の方がおかしいのだが。

 何かを求められている気がするが、僕に応える事は少し難しそうだ。


「んだよー! ノリ悪いな!」

「それは、ノリというやつなのか。具体的に、どの辺がノリだったのか教えてもらいたい」

「もういいよ! そんな事聞くな! 真面目すぎなんだよ!」


 僕の、こういう所が真面目だと言われてしまうのか。

 もう少し、ウィットに富んだ返しが出来る様にならないと。

 特に長澤の前では、常に試されているという事も忘れてはいけない。


「とりあえず、飯田は様子がおかしい。特にお前に対して何か隠している様に見える。わたしは、今日ので確信に変わった。八代は何か心当たりないのか?」

「心当たり……」


 そう言われると、最近やたらと僕と行動を共にしてこようとするというか、一緒に行動させようとしてくる事が多い。

 後、寿命が1減ったのは、恐らく無関係では無いのだろう。


「体育祭の練習の時とかに、ひょっこり出てきてよく一緒に行動しようと強いられたな。その後も、いつもの謙太にしてはやけに束縛が強かった気がする」

「そうか……」

「もしかして、長澤何か心当たりがあるのか?」


 謙太が何かをしようとしている事は間違い無いのだが、具体的にどうしたいのかが見えてこない。

 長澤に見えているのなら是非とも教えてもらいたい。


「さっぱり分からん」

「そうか、ありがとう」

「あ、今お前、私の事ちょっと期待外れだとか思わなかったか?」

「いや、いいや思ってないよ」

「思っただろ! 私そういうのには敏感なんだかんな!」

「思ってないけど、そう思わせたならごめん」

「ふん、まぁ、素直に謝れる男は及第点だ」


 長澤の合格ライン超えられる人間なんてこの世に存在するのだろうか。


 少しずつ、下駄箱の方が騒がしくなってきた。

 流石に午後が中止になり、部活動対抗リレーの表彰式とかが終わり、みんなテントから引き上げてきたのだろう。

 少しだけ雑多な音が入り込んでくる教室に、長澤と二人きり。

 早くこの状況をどうにかせねば。

 もし、謙太に見つかろうものなら余計に面倒な事になる。


「謙太のやりたい事分かったら教えてくれないか」

「んー、なんで私が、と言いたいところだが、それには協力してやる」

「ありがとう。助かるよ」

「よせよ、当たり前の事をしただけだ。」


 長澤は、もっと褒め称えよとか言ってくるのかと思っていたが、意外にも真摯な発言で少し虚を突かれた気分になった。


「それでも、いつもなんだかんだ謙太に言ってるのに、謙太の事ちゃんと見てるんだな」

「やっぱり今の話全部なしな、お前らなんかどうにでもなってしまえ」

「なんて殺生な……」


 教室についた肘は、僕に奮うためか、長澤の両脇腹にピシッと収まり、完全に格闘技の構えを取られていた。

 やる前から負けている僕は、大人しく両手をあげた。

 僕の態度をみて、深く一度頷き、よろしいと言いながら、「とにかく! 私は伝えたからな!」と言って、開け放しておいた扉から教室を去って行ってしまった。


 僕は、一人残された教室で、様々な考え事が頭を巡っているのに、上手く繋がらない様な気がしてモヤモヤしていた。

 あともう少しで何かが繋がりそうなのに、そこが上手く絞れない。

 特に体育祭終わりの浮ついた雰囲気でいい案がまとめられるわけもなく、頭を抱えていると、携帯が鳴った。

 いつもの如く、川島からの連絡だ。

 また業務連絡の様な内容なのだろうと、このやりとりにそろそろ辟易しだした頃だったが、内容を見て僕の顔から汗が吹き出てきた。

 恐らくこれは、僕の人生でもしかしたら二度と経験する事は出来ないかもしれない。

 僕は、既読をつけてしまったその通知をそっと閉じ、返事を真剣に考え続けた。

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