16
頬に急に冷たい感覚が襲ってきた。
何事かと振り向くと、えにしが缶ジュースを持って立っていた。
「お疲れ様!」
ジュースを僕の手にねじ込む様に渡して来る。
「ありがとう」
もらったジュースを喉に通すと、渇きが一気潤っていく様な感覚に陥った。
そんなに疲れてないと思っていたが、体は意外と疲れていた様で、入ってきた冷たい液体を待ってましたと一生懸命に吸収している気がする。
「全然ダメダメだったね。せっかく教えてもらったのに申し訳ない」
「そんな事なかったよ。まぁ、私の一番弟子としては、負けちゃったのは悔しいけど、走りは良かったし、何より楽しそうに走ってた。それが一番だよ」
えにしは、いつになく真剣な声色で話している。
「八代君は、さっきの走りに、後悔はある?」
さっきの走りに後悔はない。強いて後悔を挙げるとするならば、もっときちんと練習しておくべきだった。
「ないよ」
「うん、なら最高だね!」
えにしにとっては、後悔さえしなければ最高になるのか。
えにしは、どうしてそこまで後悔というものにこだわるのだろうか。
後悔するくらいなら死んでもいい。
そう言い切ったえにしに、あの時僕は強い憤りを感じた。
自分の命だからと言ってそんな事を言っていいものではない。
後悔出来るのも命があってこそのありがたみだ。次に活かす事も命がなければできない。
命を賭してまで、後悔したくないなんて理由でやるべき事など一つもない。
「どうして、えにしさんは後悔する事をそんなに嫌がるの?」
「え!? みんな嫌じゃないの!?」
「いや、えにしさんのそれは少し人より大きいというか……」
後悔したくてする人間なんていないに決まっている。
何かをした後に、悔やむ事が後悔だ。
えにしは、やらなかった後悔についてひどく毛嫌いしている様に見受けられる。
やらなければ良かったという後悔だってたくさんあるというのに。
「んー……」
えにしは、少し考えた後、意を決した様に言った。
「私ね、大きな病気をしてた事があるの。命に関わるくらいの」
「え……」
驚きだった。
健康優良児の代表格みたいなえにしが、まさか大きな病気をしていただなんて。
「あー! 今は、なんともないんだけどね! ほら、この通り元気元気!」
と言いながら、えにしは、ボディービルのサイドチェストのポーズをとってみせる。
「まぁ、それで、小さい頃何にもやれる事がなくて、すごく寂しい思いをしたの。それに、命に関わる病気を乗り越えて、元気な今があるから、元気な今を精一杯生きようって強く思ってる」
えにしは、小さく丸くなる様に体操座りをした。
「だから、後悔したくないなーってだけ」
「そっか、そうだったんだね、なんか、ごめんね、昔のしんどい思いをほじくり返す様な事聞いて」
「んーん! 全然いいよ! それに、そこまでしんどい思い出でもないしね! 現に今、こうして元気だし!」
「そっか、ありがとう」
と、えにしは、明るく言ってくれたが、僕とえにしの間には、気まずい沈黙が流れる。
僕は、手持ち無沙汰を解消する様に、ジュースを飲み干した。
「あ! 障害物競走始まるよ! 謙太君出るんじゃないかな!」
そう言って、えにしはグラウンドの方へ駆け出して行った。
僕は、追いかける気になれず、その姿を黙って見送った。
空になった缶を、ゴミ箱に捨てる。
まるで定位置のように、僕は練習の時に使っていた木陰に腰掛ける。
えにしの話は、少々意外だった。
一から十まで元気印の様なえにしに、そんな過去があったなんて知らなかった。
しかし、それを考慮した上で、えにしの発言を考え直すと、もしかすると、えにしにとって、今生きて健康でいられる事は、ラッキーな事なのかもしれない。
本当は、潰えたかもしれない命を使って楽しんでいる、言い方は悪いが、延長戦の様なもの。
だから、後悔なく、やりたい事をやりたいだけやろうという事なのかもしれない。
僕には、これまでの話を総合すると、えにしはそう主張しているかの様に聞こえてしまった。
命は燃やすものとよく言われるが、燃料が潰えかけた怖さを知っているからこそ、いつ燃料が尽きても良いように、やりたい事を真剣にやる。
そういう考え方がある事は理解できた。
しかし、理解した上でそんなの、やはり間違っていると僕は思う。
精一杯生きるというのはいい。でも、やはり後悔するくらいなら死んでもいいというのが根幹にあるのは許せない。
僕は、もう誰にも目の前でいなくなって欲しくない。
やり残した後悔を埋め尽くすほどの良い事がきっと、人生には待っていると僕は信じている。
その後悔を忘れるくらいの、強い魅力を放つ光が人生には溢れる出るほどあるはずだ。
今、ちょうど謙太が目の前のトラックのカーブ付近でパンに齧り付いた。
やはり、身体はまっすぐ気をつけの姿勢のまま飛んでいて、一発キャッチで現在の競走のトップに立っている。
謙太は常々ジャーナリストになりたいと言っている。
僕は、その夢を応援しているし実際に謙太ならなれると思っている。
だが、もしジャーナリストになれなかったら?
謙太は死を選ぶのだろうか。
きっとそんな事はない。
謙太にとっての第二、第三の人生が必ずあるはずで、そこにはそこにしかないかけがえのないものが見つかるはずだ。
謙太の寿命は、全うできるものであるからこそ、たくさんの選択肢を持って生きなければいけない。
もちろん、老衰するまで生きられない人だって複数の選択肢を持たなくていいわけじゃない。
えにしにだって、後一回好きな人に告白しただけで寿命がなくなってしまうとしても、そんな事は関係なく、生きる事に必死になって欲しい。
後悔をしない事に必死にならないでほしい。
謙太が一着でゴールしたらしく、遠目でえにしがはしゃいでいるのが見える。
近くに男女何人か観ている人がいて、その人達とも知り合いなのか、和気藹々と話をしている様に見える。
視線や、表情なので何かを読み取れる様な事はなかった。
そもそも自分にそんな事が出来るのかすら怪しい。
えにしと視線があった。
微笑みながら手を振ってくれている。
僕も、小さく手を振り返した。
もしかすると、友達が少ない上に、唯一の友達は競技に出ているから、一人ぼっちの僕の事を気遣ってくれているのかもしれない。
少し嬉しいなと思いつつ、他の人もいる中で近寄るのは少しバツが悪いのでそのままえにしを監視する事にした。
すると、どこか見覚えのある一人の男がえにしに話しかけた。
一言二言会話をした後、遠目から見ても分かるほどにもじもじしているえにしがどこかを指さした。
その後、二人はグラウンドを後にして、人気のない所に歩いて行った。
僕がいる木陰を横切り、校舎の裏へと消えていく。
反射的に隠れてしまった。
えにしは、俯いたまま、見知った顔の男について行った。
生徒会長だった。
ひょろっとした姿は変わらないが、いつぞやの時に比べると覇気がある。
えにしに、なんの用だろうか。
いや、えにしが生徒会長に用があるのではないだろうか。
そしてそれは、告白なのではないだろうか。
正直、こんなに早くえにしの状況に変化が生まれるとは思っていなかった。
僕の心と体が全く追いつけておらず、心音が一人でに鳴き散らしている。
いや、もしえにしが生徒会長に用があったらどうする。
これは、追いかけて行くしかない。
万が一、生徒会長が告白するのなら、返事で愛の告白をさせなければいいし、もしえにしが告白しに行くのであれば、全力で止める。
あぁいうのは、本来見て見ぬ振りが鉄則なのだろうがそんなのお構いなしに問答無用で校舎裏に行こうとした時、肩をがっしりと掴まれた。
「よー! 悠壱! 俺の華麗な競走見てたか! すごかっただろー! みんなの教えの通り! ほんと、優秀な先生はただただ尊敬するなぁ! なぁ! 一着! すごいだろ!」
やたらとテンションが高い謙太が絡んできた。
喉はもう大丈夫なのだろうか。
「あぁ、すごかったな。パン食いの時の体の真っ直ぐさたるや」
「だろー! さすがは親友! よく見てくれてるぜ! さ、テントに戻ろうぜ!」
謙太にしては珍しく、肩を組んできて僕をぐいぐいと引っ張って連れて行こうとする。
「ちょっと待って、僕には行きたいところが――」
「行きたいとこ? まずみんなの応援が先だろー」
確かに、それはごもっともではあるのだが、こちらも急を要する話だ。応援こそ後回しにさせていただきたい。
「よー、八代と飯田じゃねーか」
特に、否定することも出来ずに、為されるがままに引っ張られていると、これまた聞き馴染みのある声が聞こえた。
「あ! あー! 由香ちゃん! 俺の走り見ててくれたかなー!?」
謙太は、まるで、噛みついたスッポンを水に付けた時の様に、僕の肩からするりと離れた。
「おぉー、見てたぞー。パン食う時気をつけの姿勢でピシッと飛んでたなー」
「由香ちゃん!目の付け所が素晴らしい! 由香ちゃんだけだよ! そんな所まで見てくれてるのはー!」
僕も同じ事言ったはずなのに、無かった事にされている。
そんな事はさておいて、長澤が謙太の気を引いている隙に、僕は二人が向かった所へ行かせてもらおう。
長澤にありがとうと一人でに伝えると、それが伝わっていたのか、目がぴたりとあった。
早く行けと言わんばかりの目力に、長澤は僕達の一部始終を見ていたのだと悟った。
長澤はきっと、えにしが心配なのだろう。
謙太は、事情が分かってないから仕方がない。
なんだか、少し違和感を感じるが、ひとまずはえにしが優先だ。
謙太にバレないようにそっとその場から離脱する。
急いで校舎裏に駆けつけると、そこには二人きりで話をしていると思しきえにしと生徒会長がいた。
バレないようにゆっくりと物陰伝いで近づいていく。
声が聞こえ始めたので、その場で停止した。
距離で言うと、三メートル程の木の陰から体を出さないようにじっと耳を澄ませる。
生徒会長が何やらごにょごにょ言っているのを、聞き取るようにさらに懸命に耳を澄ます。
「僕と……」
あ。
気がついた時には時既に遅し。
僕は、そっと天を仰いだ。
「僕と、付き合ってください!」




