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 桜の花びらがハラハラと落ち、歩道一帯をピンクに染めている。

 雨の様に散る花びらは、人目に一瞬の煌めきを魅せた後、路傍にそっと横たわり、いつか土に還れる時をじっと待つ。

 花びらにとっての命が終わる。桜の樹はそれでも地に根を張り、じっと次の開花の季節を待つ為に生き続ける。

 通学鞄を片手に、僕と同じ学校の制服を着た女子生徒二人が、桜を見ながらはしゃいでいる姿を横目に見る。

 ピンクの儚い絨毯の敷かれた道を、上ばかり見てすごいすごいと感嘆の声をあげていた。

 つい数秒前まで、その目を楽しませていた花びらを足蹴にしているのにも気付かずに。


 そして、僕は、無意識のうちにその人達の頭の上を確認し、そっと胸を撫で下ろす。

 また、くだらない事を考えてしまっているみたいだ。


 僕はどうやら真面目すぎるきらいがあるらしい。

 あんまり自覚はないのだが、人は僕の事を堅物だとか、真面目が服着て歩いてる、と言った形容の仕方をする。

 だからなのかは分からないが、少しでも時間があると、つい考えてしまう。


 寿命とはなんだろうか。


 辞書で引くと、命がある時間と出る。

 もちろん生きていく上で、そんな単純なもので理解出来るのはほんの上辺だけだろう。

 肉体が朽ちれば、当然死んでしまう。それはこの世の理で、誰にでもやってくる明確な死だ。

 それを寿命と呼ぶ事だって、間違いでは決してない。むしろ、世間的には圧倒的に正しいだろう。


 世間の寿命の解釈が一般的とするならば、僕の目に映るものは、少し穿った見方をしているらしい。


 再び、はしゃいでいた生徒達の頭の上に目を向ける。


 それぞれの頭の上には、文と数字が浮かんでいる。


『鍵を開ける 50000』


『ひざかっくんをする 200』


 そんな文字を携えて、二人は、笑い合いながら行ってしまった。


「ひざかっくんは大丈夫、鍵は……」


 高校生にもなって、他人にひざかっくんを二百回もやる人間はいない。

 きっと彼女は、自身の命を全うし、老衰で亡くなる事だろう。

 鍵を開ける、という行為を五万回はかなり絶妙だが、ある程度の年齢まではしっかりと生きられるはずだ。

 きっとこの二人には、生まれながらにして与えられたこの寿命以外にやりたい事はたくさんあるはずだろう。


 やりたい事と、やれる事はきっと違う。


 僕は、そっと二人が亡くなるまでにやりたい事が出来ますようにと願う。


 桜の雨が、僕の心をざわざわと揺らした。


 ピンクの絨毯を、僕は一歩ずつ踏みしめるように歩いた。


 僕は、人の寿命が見える。


 寿命とは、何年生きたかではなく、何を何回やった時に死が訪れるか、という事ではかるものらしい。

 見えている僕が言うのもあれだが、いまいちピンときていない。だからこそ、きっとこの数字には、何か意味があるのだと信じたいし、数字を見る度に考えを巡らせる。


 しかし、僕がピンときていようがいなかろうが、世の中はきちんとそうして回っている。


 昔、僕が小学生だった頃、人の頭の上の数字が0になった瞬間を見た。

 それは、僕の実の祖母だった。

 祖母はとても優しい人だった。人当たりが良く、誰からも好かれるような絵に描いた様な良い人だった。

 僕と会う度に笑って小さな飴をくれた。それを嬉しそうに口に頬張る僕の顔が好きだと言って、頭を撫でてくれた。

 祖母は心臓の病で亡くなった。夜中に急に容態が悪化し、そのまま息を引き取ったという。

 あの時の、祖母の訃報を聞いた際の全身から血の気が引いていく感覚を今でも覚えている。

 ちょうど亡くなる日の昼に会いに行き、数字が0になった瞬間を見ていたからだ。

 そこで漠然とではあったが、初めて、頭の上にあるものは無くなってはいけないものなんだと理解した。


 数字が無くなると人も亡くなってしまう。


 訃報が巡る中、頭の中で全てが繋がってしまった時、僕はひどく打ちのめされた。


 葬儀の際、周囲の人は口々に言っていた。なんであの人が、あんなに良い人だったのに、と。

 しかし、僕の目に映る景色はみんなのそれとは少し違った。


 祖母は優しいから死んでしまったのだ。


 祖母の頭の上の文字は、人にありがとうと言う、と書いてあったから。


 きっと祖母は沢山の人にありがとうと言っていたのだろう。

 それはもう沢山のお礼をしてきたはずだ、自分の寿命を使い切ってしまう程に。

 そして、そこにはほぼ必ず笑顔が寄り添っていたことだろう。それは、葬儀の際の参列者の言葉や表情が物語っていた。

 きっとある程度の幸福は保証されていた人生だったはずだ。


 しかし、良い人、幸せだった。なんて言葉は結局の所、推測でしかない。

 もしかすると、寿命を使い切ってでも、祖母はまだありがとうを言い足りなかったかもしれない。

 本当に大切な人にありがとうと言えなかったのかもしれない。

 最後の一回を、僕がお皿洗いを手伝ったお礼になんて使いたくなかったかもしれない。


 そんな事は祖母にしか分からない。


 だから僕は考える。人の生き様や、後悔、散って行った人達の無念を。

 僕は考える。生きている間に、後悔がない様にする方法を。

 考えなければいけない。

 寿命が見えるからこそ、やれる事がきっとあるはずだ。


 昔に物思いを馳せていたら、学校の姿が見えてきた。

 車用信号が黄色になり、横断歩道を渡ろうとしていた歩みを止める。

 僕の横を、小走りに生徒達が走り抜けて行く。

 何故、歩行者用信号をつけないのかいつも疑問に思うが、特に事故が起きたというのを聞かないので、きっと必要ないのだろう。


 黄色から赤に信号が変わった刹那、その時、僕に強く風が吹いた。


「ごめんなさい! 通りますね!」


 よく通る高らかな特徴ある声は、後から聞こえてきた。

 まるで跳ねる様なスピードで、少し後ろ向き加減でこちらを見ながら、手を上げている。

 切れ長なキラキラした瞳を輝かせ、長い髪をなびかせながら僕の横を颯爽と駆け抜けていくその女子生徒の後ろ姿は、さながら、四足歩行の獣の様だった。

 そんな彼女の姿を見ていると、ふと彼女の懐から何かがこぼれ落ちるのが見えた。

 横断歩道の先で、薄い小さな何かが落ちている。


「あっ」


 声をかけようとしたが、落とし物に気を取られていた隙に気がつけば彼女はもう校門前くらいまでに離れてしまっていた。

 ここからじゃ、もう僕の声は届かない。


 落とし物は後で渡せばいいと諦める事にした。

 彼女が校門をくぐる姿を見て良いフォームだなと感心しながら、視線は無意識的に頭の上を確認する。

 もう、細かい文字は見えないが、数字だけは微かに読み取れる。


「……あっ!」


 僕は思わず声を上げた。

 心臓がドクンと強く脈打ち、それをきっかけに体から熱がさーっと引いていき、息が荒くなっていくのを全身で感じる。


 すぐに分かった。祖母が亡くなった時と同じ感覚だと。


 彼女は、校門をくぐっていく、頭の上の1という数字と共に。


 信号が青になる。

 しかし、僕は歩み出せなかった。


「ふぅー……」


 深く息を吐いた。とてもじゃないが、彼女の数字を見て、すんなり受け入れて足が進む程僕は強くは無い。

 脈が体を強く打ち付けて止まない中、落とし物を拾わなければいけないという義務感のみが、僕の身体を校門の方へと押し出した。


 拾ってみると、それは可愛いらしい封筒に包まれた手紙だった。


 封をしているシールはこれまた可愛らしくハートが貼られていた。


 僕は不意に、邪推してしまう。


「もしやこれは……ラブレター……!?」


 とんでもない物を拾ってしまった。

 あの子のせいで朝から心臓が張り裂けそうだ。

 早く届けなければ。 どうせ追いつくはずもないのに、僕は意味もなく、足早に校門をくぐった。


「おっす」

「おはよう」


 前の席にいる飯田謙太と、軽く挨拶を交わした後、人の熱と、春の陽気で暖められた窓際の席に着く。


 まだクラス替えして間もない中、前のクラスでも仲が良かった人同士でグループが出来始め、何となくクラスの全容が固まってきた今日この頃、僕と謙太は、どこのグループに入るでもなく、二人で揃ってだらだらとその姿を眺めていた。


「悠壱、お前またスタートダッシュ遅れたな」

「僕は、そういうのはいい。勉強をしっかりやりたい。それに謙太一人くらいがちょうど良い」

「お、嬉しい事言ってくれるじゃないのー」


 謙太は、手で顔を隠す様な仕草をわざとらしく見せてくる。

 僕としては、顔よりも上の文字と数字を隠してもらいたいと思う。

 しかし、謙太にさえ、僕は寿命が見える事を言ってはいないから謙太が隠さないのも当然だ。

 僕が友達を作らないのは、言わずもがな、寿命が見えるせいだ。決して、できないわけでは無い。

 友達との関わりが多いと、僕の心が保たないのだ。

 一人一人、手抜き無しで付き合おうとすると、どうしても感情が入り過ぎてしまう。それに、自分のせいで他人の寿命を消費するのは申し訳ない。

 そう思う度に、謙太の頭の上を見て安心する。


『逆立ちで校庭を周る 100』


 誰が、こんな罰ゲームみたいな寿命を減らす事が出来るだろうか?

 否、誰もいないだろう。

 小学生の頃、初めて謙太と会って頭の上を見た時、わざわざこれをして寿命を減らしている想像をしてしまって、吹き出しそうになったのを必死で堪えた事を思い出す。

 おかげで僕は、謙太には気兼ねなく接する事が出来ている。


「でもな、俺もお前につきっきりでいられる訳じゃないのよ? こう見えて忙しいんだから」

「また、人の事探ってるのか?」

「人聞きが悪いねぇー、情報収集と言ってちょーだい」


 謙太は新聞部に入っている。

 どうやら将来ジャーナリストになりたいらしく、そういう真似事をしては、僕にネタを仕入れたと言って、嬉々としてメモ帳に書いている所をよく見せられている。


「なぁ、謙太。ちょっといいか?」

「ほうほう、悠壱がそう言ってくるという事は、何か知りたい事……いや、人がいるんだな?」

「鋭いな」

「何年、付き合いあると思ってんだい」


 そう言って、謙太は嬉しそうに席を立った。

 あぁ、これは例のやつか。

 僕は心の中で、一つ腹を決めた。

 数分後、抱える程の紙パックを持って僕の席に露店の様に並べ始めた。


 周囲の、何あれ、という目が気になる。


 机に並べられたパック牛乳を見て、お腹が勝手に締め付けられていく様な感触に陥る。


「まじめな君に、はい、どーぞ」

「……何を買ってこればいい?」

「季節限定、桜餅パンと、苺大福パン! これ食べたいってあの由香ちゃんが言ってたんだよねー! ついでに俺の分も買ってくれるー?」

「……それ、ちゃんと本人から聞いたのか?」

「もちろん! 本人の口から聞いたよ?」

「……」


 この物言い、パンを届けさせるのをやめさせた方がいいだろうか?

 ただでさえ取り付く島もない相手に、このやり方はさすがにまずいのではなかろうか。

 そう、悩んでいる僕を他所に、キラキラとした目で僕の事を見つめ続ける謙太に、何も言えなくなり、そっと牛乳パックを開けた。

 目の前にあるパックを全て空にするのに、五分とかからなかった。


「いつ見ても、良い飲みっぷりですなー」

「まぁね。筋を通す為ならこれくらい」

「ほんと、まじめやのー」


 謙太がケラケラと笑っていると、始業のチャイムが鳴ってしまった。

 先生が前扉から入ってきて、活気ある表情でホームルームを進めていく。

 タイミングを逸したせいで、謙太に頼む内容を伝え損なった。


「謙太」


 そっと呼び出し、耳をこちらに傾けている謙太に対し、殴り書きのメモを渡す。

 紙なんかい、と小声でつっこまれたが、ホームルーム中に会話をするのは決して良い事ではない。つっこまれる様な事ではないはずだ。


 メモを見た謙太から、りょーかいと、気の抜けた返事が来た。


 にしても本当に、大丈夫だろうか。


 一瞬見ただけのあの女の子を本当に探し出せるものなのだろうか?


 僕が覚えている特徴は、手紙の事以外は全て伝えたが、そもそもこれが心許ないが故に、謙太のリサーチ能力が発揮されるかどうかも怪しい。

 そもそも、発揮されたとして探し出せるかどうか。

 しかし、牛乳まで飲んだしまった以上、謙太に賭けるしかない。


 覚悟を決め、ホームルームの終了の合図を聞きながら、跳ねる心臓を落ち着かせるようにして一限の始業の鐘を待った。


 しかし、そこは、やはり自身の生来の真面目さ故か、授業を受けている時は、それらの事を考えずに済んだ。

 世界史の授業の時は、国同士の背景に頭を悩ませたし、数学の問題と対峙した時は絡まった紐を解くように、一つ一つ丁寧に解いていった。それらに没頭している間は、生徒の数字どころか、教壇に立っている教師の数字さえも気にならなかった。

 休み時間に入る度、忙しなく動き回る謙太を見て、頼んだ事を思い出しながら、勤勉に働くその姿に感心していた。

 その労力を勉強に充てればいいのに、なんて言うのは僕が頼んだ手前、言えなかった。


 そして、昼前の国語の授業の時、その時は訪れた。

 下腹部に猛烈な痛みが走ったのだ。

 授業と謙太に気を取られて忘れていた牛乳の仕掛けが今作動したのだと瞬時に気付いた。

 教師の声や、チョークの音でさえも、お腹に響いてはち切れそうな程に逼迫した状況だ。

 謙太の肩をトントンと叩く。


「お、来たかー? さすが、お腹の弱さには目を見張るものがあるなー」

「目的のものなんだったっけ?」

「桜餅パンと苺大福パンな、両方限定十個まで」

「分かった」

「じゃ、いってらっさい」


 時計をチラリと見る。昼休憩まであと十分という所だった。


「先生、お腹が痛いのでお手洗いに行ってもいいですか」


 教師のいいよの掛け声に対し、顔から血の気が引いていくのを感じながら、食い気味に教室の外へと歩き出した。


 僕は、いつもの様に最短ルートで目的地へと向かった。


 きっと、百人が百人言うだろう。

 売り切れ必至の購買のパンを買うのに、わざとお腹を下すなんて事までしなくていいだろうと。

 しかし、どうしても僕には、授業をサボって一番に列に並ぶ事は出来なかった。

 完全なズルをするのはどうしても許せなかった。

 一部の人から見たら、これもズルに入るのかもしれない。

 しかし、痛みを伴いながら、チャイムが鳴った後にスタートする条件ならば、まだ許される気がするのだ。

 これはあくまで自己満足にしか過ぎない事は百も承知だが、真っ当な条件では手に入らないからこそ、謙太は俺に依頼をしてきたのだ。

 よく授業中に寝ているからというのもあるだろうが、謙太から基本的に購買で目当ての物を買えたという報告は聞かない。

 購買が、三年生の教室がある階に存在している事も大きいだろう。

 二年生の教室はもう一つ上の階にあるので、そもそも単純なスピード競争ならまず勝てない。

 スタートダッシュを決めれば、近くの階段からするりと行けなくもないが、三年生の人の波が押し寄せる事を考えたら、余程良いスタートを決めない限りはそれも難しいだろう。

 なればこそ、僕なりの流儀で真剣に謙太の気持ちに応えるべきだろう。

 動機や、パンの使い道に異議はあれど、そこに口出しする権利は無い。


 僕は、購買パン争奪戦開始のチャイムと共に個室を出た。


 このタイミングでも買える様に、万全を期してなるべく購買に近いトイレを使用しているので、間に合わない事はまず無い。それどころか、余程のことがない限り一番乗りになってしまう。


 後方から、バタバタと上級生達のビーチフラッグばりの勢いで扉が開く音が聞こえるが、全ては僕の腹痛の前には無意味だ。


 よし、これで謙太からの報告を待つだけだ。

 そう思っていた矢先だった。


「よいっしょっー!」


 目の前でドタンと、音がした。

 鈍く響いたそれは、どうやら着地音だったらしい。

 僕の視界に突如として人が現れた。目の前で小さくうずくまり、スカートが広がらない様に手で抑えながら片膝立ちをしている女子生徒は、どうやら目の前にある階段から飛び降りて来た様だった。


 こちらに気付いた様で、すくりと立ち上がる。


「あ、ごめんなさい! 危なかったですね! 次から気をつけます!」

「あっ……」


 僕は、驚きのあまり、返事をする事が出来なかった。

 あまりにも衝撃的な事が起こると、世界はゆっくりになるんだと初めて知った。


 階段から突如現れたからだとか、踊り場から一足飛びに飛び込んで来たからとか、スタートダッシュが速すぎるだとか、そんな事ではない。


 探していた本人が飛び出て来たのだ。


 常識外れの身体能力など全て置き去りにするくらいに、そのよく通る高らかな特徴的な声は、僕の耳を捉えて離さなかった。


 そして、しまったと思った。

 こんな所で出会えるなら手紙を持ってくるべきだったと。


 しかし、次の瞬間、僕の無意識の行動で、意見は真反対に切り替わった。


 持ってこなくて良かった。

 心の底からそう思った。


 同時に、ふと、祖母の事を思い出した。

 胸がぎゅっと締め付けられる様な感覚に陥る。


 やはり、この子といると心臓がもたないかもしれない。


「あっ……あーっと……ごめんなさい! 先行きますね!」


 何故か僕を見てびっくりした様に、長いまつ毛をぱちくりさせた後、切れ長な瞳を困った様にキョロキョロと動かしながら、購買へと駆け出す後ろ姿を見て、僕は決意した。


 何があっても、彼女にあの数字は減らさせはしない。


 例え誰に恨まれようとも、憎まれようとも、僕は全力であの1を守る。


 僕は、祖母の死から、必死に考えた、生を全うするという事はどういうことかと。


 そして一つの結論に至った。

 生き続ける事が大事なんだと。


 命に勝る悔いなんかない。


 生きていればこそ、後悔も出来るし、他の事できっと穴は埋められる。

 代用品は必ずある。まずは、生きなければいけないのだ。

 祖母も、生きてさえいれば、今も楽しく笑っていたはずだ。

 生きていなければ、何も始まらない。生きていれば、何も終わらない。


 見てしまったからにはもう、見過ごせない。

 関わってしまったからには、もう戻れない。


 もう二度と、僕の前で、数字が0になる人を見たくはない。


 後ろから、怒涛の勢いで僕を抜かしていく上級生達によって、時計の針が元の速度で動き出す。

 目的の物を買えたのか、嬉しそうにしながらパンを抱えている彼女の姿が頭の上の数字達諸共、上級生達の人波に消えていった。


 僕は、天井を仰いだ。

 手にかいた汗を握り、高まった鼓動を深呼吸で落ち着かせる。


『好きな人に愛の告白をする 1』


 彼女の頭の上の文言は、その姿と共に、反芻する必要が無いくらい僕の頭に強く焼き付いた。


 あの数字は絶対に守らねばならない。


 決意を新たに、僕は、ゆっくりと階段を登り教室へと戻った。


 パンを買い損なった謙太への言い訳を必死に考えながら。


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