砕けた記憶
「私がやりました」
自身の言葉に既視感を覚え、メイドははて、と首を傾げた。
数日前にも似たような感覚に陥った。あれはそう――執務室の壺を思い切り床に叩き付けたときだ。海のような青に黄金の唐草模様が入った、趣味の悪い壺。破片のひとつは証拠としてハンカチに包み、懐に忍ばせてある。
執事長が眉根に皺を寄せてため息を吐き、メイドははっとして居住まいを正した。こうして自分から名乗り出たのは、どういう訳かいつまで経っても壺を割った犯人捜しが始まらないからだった。
「ちゃんとした理由があったのです」
「わかっている。旦那様のしつこい求婚が嫌になって、何とかクビになろうとあの人が大事にしている壺を割った……だろう?」
目を瞠る。なぜ彼がそれを知っているのだろう。旦那様に言い寄られていたなんて、誰にも話したことはなかったはずなのに。
執事長はやれやれと肩を竦める。
「何回繰り返しても、お前は変わらんな」
「……何回、とは」
その問いには答えず、彼は何かをこちらに差し出す。ずっと前になくしたと思っていた日記帳だった。
「なぜ、執事長がこれを?」
「いいから読んでみろ」
目で促され、表紙を開く。日記は去年の四月から始まっているようだった。
四月十日。今日からこの屋敷で働くことになった。精一杯頑張りたいと思う。
おかしい。幼い頃に身寄りをなくしてから、自分はずっとこの屋敷に住まわせてもらっているはずだ。
ページをまたひとつ捲る。
四月十六日。旦那様に気に入られてしまったらしい。所構わずちょっかいを掛けてきて、仕事の邪魔だ。彼に相談してみようか。
荒々しい筆致を見るに、この頃の自分は旦那様を毛嫌いしているらしい。少し面倒だが、そこまで悪い人でもないと思うのだけれど。
四月二十日。旦那様の壺を割ってしまう。海のような青色に黄金の唐草模様が入っている、世界に二つとない名品だ。
メイドの手がぴたりと止まった。
「……これは、一体どういう」
「そう難しい話じゃない。あの壺は『記憶の壺』と言ってな。いわゆる『本物』だ」
執事長の言葉に、メイドは息を呑む。
旦那様が曰く付きの骨董品を好んで集めているのは知っていた。けれど、呪いや魔法なんて所詮は空想上の産物だと思っていたのに。
「記憶の壺は、割った人間の記憶を吸い取って自己の修復をする。一日も経てば元通りだ。欠けた記憶は壺の持ち主の希望通りに補完されるから、壺を割った記憶も残らない。お前は既に五回ほど記憶を改竄されていることになるな」
「五回もですか……学びませんね、私も」
「まったくだ」
お前だけの所為でもないがな、と執事長は苦虫を噛みつぶしたような顔で呟く。
「どういう意味です?」
「考えてもみろ。旦那様は、大事な壺を何故あんなところに置いておくんだと思う?」
メイドは想起する。件の壺の置き場所は、自分が掃除を担当する執務室のサイドテーブルだ。天板が狭いから、掃除中に肘がぶつかって冷や汗を流したことも数知れず――
メイドの背中をふいに悪寒が走る。
旦那様は、壺を割らせたいのだ。彼に対する心証を、よりよく書き換えるために。
「辞めるなら早い方がいい。俺の知り合いに手引きはしてあるから、逃げるならそこへ向かえ。壺は俺が後で直しておこう」
「……ありがとうございます。私、執事長はもっと怖い人だと思っていました」
「うるさい」
言葉とは裏腹に、執事長は眉尻を下げて笑う。その笑顔が妙に印象に残って、メイドはどぎまぎしながら彼に壺の欠片を渡した。
* * *
夢を見た。旦那様が大事にしている壺を割る夢だ。
彼が目を掛けていたメイドが突然行方を眩ませ、フォローに走り回っていたせいで心労がたたったのだと思う。彼女の行方が判明すれば知らせろと口酸っぱく言い置かれていたのだが、数日前に彼女から届いた手紙のことを、まだ旦那様に言い出せずにいる。
――私が貴方の婚約者だというのは本当ですか。
そんな文面から始まった手紙を、執事長は迷うことなく暖炉にくべた。少々抜けた部分がある彼女のことだ、きっと宛先を間違えたに違いない。
本来なら手紙の住所を旦那様に報告すべきだったのだろうが、隠しておくべきだと心のどこかが叫んでいた。
主人の命令に背いたのは、彼が覚えている限りでは、それが初めてのことだった。
(終)
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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作者:杣江