優しい人
―思い出―
咳が出る。
そんなに酷くはないけれど、そろそろ吸入をした方がいいかもしれない。
でももう少し窓の外を見ていたい。
夕方の人通りが増えてきた時間帯。皆が橙色に染まっている。
今ちょうど、はぐれていた幼い兄妹が再開して喜び合っているところだ。
手を取り合ってぴょんぴょん飛び、並んで帰っていった。
夫婦と思わしき壮年の男女が買い物袋を抱えて歩いていく。
客引きの娼婦らしい露出の高い女性も出始める。
この時間が一番いろんな種類の人間を見ることができる。
自分は経験することのできない人生を生きる人たち。
あの人達が必死に生きている間、私はずっとこの部屋から外を見るだけで何もしていない。
時々発作を起こして、息が吸えなくなると、医者が来て、吸入をして、ベッドに座らされて、ただただ時間を過ごしていく。
やって来るお医者様達と、年老いたお手伝いさん達と、たまにしかいらっしゃらない父上様。私は妾腹だから生みの母上様にはお会いしたことがないし、奥方様にはあまり好かれていないようで年に一度お正月にしかお会いしない。
誰と会うわけでもなく、本を読むくらいしかない退屈な毎日。
そんな中、最近父上様が私のために西国から新しいお医者様を召された。
髪の毛も瞳も薄茶色の若い医師。西国では皆そんな色なのかと聞いたら、金や栗色、白金や赤みがかった金の髪もあるし、瞳の色は緑や蒼もあるという。
私は自分の住む国のことも、書物や人の話、窓から見る景色だけでしか知らない。
遠い西国の話も、自国の地方の話も、同じように絵物語のように聞こえる。
この若い医師だけが、私の話し相手になってくれた。
話の上手いこの医師は私の退屈を紛らわすのに丁度良かった。
こんな夕暮れも、一緒に見てくれたらいいのに。そうしたら、この寂しさも少しは薄れるのに…
Ⅰ
過呼吸で倒れたスイを訪ね、公演が終わった宋とヤヲとユーが公演衣装のまま慌てたように駆け込んで来て、その勢いのままユーがスイを抱きしめた。
「知らなかったんだね…ごめんよ、教えてあげなくて…さぞ驚いたんだろう」
スイよりもユーが今にも泣きだしそうな声だ。
宋は申し訳なさそうにしている。ヤヲも黙ってうな垂れたままだ。ヤンはまだ眠っている。
「ねぇさん、大丈夫です。心配かけてごめんなさい…」
スイはユーを抱きしめ返す。そうしていたらなんだか安心して、千歳と話していた緊張も解けていくような気がする。
間もなくスーラとマオ、座長も着替えを済ませてやって来た。
「あら、もうずいぶんお客さんが来ているのね。大丈夫なの?スイ?」
座長がスイの側に来て膝を折り、皆一歩引いた。
「公演に穴を空けてしまい、本当に申し訳ありませんでした。もう大丈夫です」
スイは深々と頭を下げる。
「聖のこと、知らなかったんでしょう?…と、言うか、皆が知っていたことに私はびっくりしたくらいだけど。噂ってどこから漏れるのかしらねぇ?」
座長は後ろに控える面々をチラリと見て、見られた方は都合悪そうに各々目を泳がせる。
「私は生きて、何とかなってるとは思うんだけど、こんな状況でしょう?お金や手紙が届かないのは仕方ないわよね?でも正直私も心配してるのよ?大事な一人息子だもの。何かあったら、とても困るわ」
座長は表情こそ少し困ったように眉を寄せているものの、いつもとあまり変わらないのらりくらりとした口調で話す。
「でも心配したって仕方ないわ。こんなこともあるかもしれないとは覚悟して出したんだもの。私たちはやるべきことをして、毎日を大切に重ねていくことが大切よ。スイ、貴女も気にしすぎは良くないわ。あの子は大丈夫だと強く信じてあげて」
優しく諭される。
「はい…」
スイは返事をする以外どうすることも出来ない。「やるべきことをして」という座長前にすると、このくらいで動揺して公演に穴を空けてしまった恥ずかしさが込み上げる。座長にとって聖は子供なんだから、スイ以上に心配しているのは当たり前だろうに、こうして気丈に諭してくれる。
「明日からまた、頑張ります」
スイは少し喉の奥がきゅうっとなるような気がした。思いがけず涙声みたいになる。
「いい子ね。スイ」
座長はスイの頭に手を乗せて微笑んだ。
「さぁ、あなた方もそんな訳だから、噂なんて気にせずに毎日頑張ってちょうだいよ。暴動が長引いて景気が悪くなれば私たちの商売は悪くなる一方なんだから、今のうちに稼ぐわよ!」
座長は立ち上がり、振り返るとその場にいた面々に手を叩いてはっぱをかける。
「はい!」
それぞれ背筋を伸ばして返事をする中で、珍しい人物が口を開いた。宋だ。
「いや、あの、何と言っていいか… これはそんな問題なのか?」
皆がその珍しさに驚いて宋を見る。
「どういうことよ?」
座長が腕組みをして無遠慮に宋に詰め寄り顔を見る。
「その… とりあえず何とかなっているだろう、などと簡単に割り切れる話なのか?」
相変わらずモソモソとはっきりしない喋り方で、それでも必死に何かを伝えようとする宋に座長はイライラしたように応える。
「だから、どうしろってのよ?」
座長は一座のメンバーの前ではいつも比較的のらくらとした含みのあるしゃべり方をする。
あまり感情をむき出しにした様子を見ることはない。それなのに今は宋に対し不機嫌を隠しもしないし攻撃的にも聞こえる口調だ。
見守るユーとスーラは冷や汗が出るし、スイとヤヲとマオは何事かと凍り付く。
「だから、その、アレだ… 俺が首都の様子を見て来よう…かと」
「ハァ!?」
思いがけない申し出に、座長の口から素っ頓狂な大声がでた。
「ば、馬鹿じゃないの!?首都は今危ないのよ?アンタみたいな愚鈍な男が行ったら巻き込まれて逆に帰ってこられなくなるわよ!?正気!?」
「お、俺は、ちゃんと正気だ…。だから、スイも連れていきたい。スイならば…素早くて腕も立つ。賢いから、危険が及ぶ前に知らせてくれる、と、思うのだ…」
突然名を上げられてスイは目を見開いた、が今は何も言うまいと黙って成り行きを見守ることにする。
「尚更危ないわ!!スイはうちの看板芸人なのよ!?いくら腕が立つって言ったって、まだ子供なんだしアンタのお守なんてさせられる?!」
「芽衣」
突然名を呼ばれ、座長ははじかれたように黙り、まじまじと宋を見る。
「心配なのだろう、聖が。だとしたら、スイ以上に、適任な者がいるだろうか?聖に、怪我でもあれば、スイが慰めるのが一番効果があるだろう… 聖に、何か言いたいことがあった時、スイになら、素直に弱音も、吐くだろう… 金も、持たせるなら、スイからならば素直に受け取るだろう。聖は、そういう男、だろう?」
座長は黙っている。悔しそうに唇を噛み、言葉を探している。
「俺は…スイのお目付け役として、共に首都へ上る。俺は、お前の言う通り、愚鈍な男だが…スイのことは、必ず守る…つもりだ」
悔しそうに言い返さない座長、饒舌な宋、その二人の様子が珍しすぎて所有物階級の5人は黙って成り行きを見守る意外出来ない。
「…考えさせて」
座長は硬い表情のままパオを出ていった。
「スイ」
「はい!?」
宋に名を呼ばれ、スイは跳ね上がるように返事をした。
「準備をしておけ。芽衣は、必ず俺とお前の首都行きを許可する」
「なぜそう思うんですか?」
スイより先に、ユーが間髪入れずに聞いた。
「長い付き合いだ。子供の頃から、芽衣の考えることは、なんとなく、解る」
そう言い残して、宋もパオを出ていった。
「意外ねぇ…今まで座長に意見するような人には見えなかったわ」
「幼馴染みっていう話は聞いたことあったけど、仲がいいように見えたことなかったし、あんなはっきりモノいうタイプとも思わなかった」
マーラとユーがポツリとつぶやき、マオがスイの側におどおどとやって来た。
「スイねぇ、首都に行くなら、私薬草で、たくさんお薬作るからね。無事に帰ってきてね?」
「ヤンが起きたら大騒ぎだな。僕も行く!って言うんじゃねぇの?」
ヤヲはいつも冷静だ。
Ⅱ
数日後、本当に宋とスイに首都行きの許可が出た。
「一体どういうことなんですか?」
スイは不思議に思い、相変わらずべたりと四六時中側にいる宋に食事の時間に聞いてみる。
ヤンとヤヲは食後の皿を下げに行ってくれていて席を外しているから今は二人きりだ。
「あれも人の子で、人の親だということだ」
「そんなこと言われなくても、私もずっと座長はお優しい方だと思っていました。そうではなくて、本当に私が適任と考えているのかということです。腕っぷしなら秀英の方が立ちますし、聖と彼は同年でそれなりに仲良くしていたように思います。彼の方が適任者では?秀英なら一人で行って帰ってくることも出来ると思います。私と宋さんでは、二人も一座から役者を抜くことになります」
相変わらず遠慮も無くズバズバとスイは思ったことを言うが、宋は気にした風もなくいつもの無表情のまま答える。
「あれは母親で聖のことを良く解っている、からこそ、スイなのだ。聖は、プライドの高い男だ。秀英などに、素直に、自分の状態を、話すとは思えん」
「そこまでひねくれていますか?聖は?」
スイには聖はいつも優しかったし、素直に何でも話せる間柄だったから面倒くさい性格なのは理解しているが、そんなにプライドが高いのかどうかは良く解らない。
「…ひねくれている、というかどうかは、何とも言えん。が、スイには素直に話すだろう。そして俺のことは、いても、いなくても、聖は気に留めたり、しないだろう」
宋はスイを見る聖の横顔を、彼らが幼い頃から見てきた。
そして婚約が決まった後の聖の自分を見る目も知っている。
宋は自分のことを聖が元々見下していることに気付いていた。不細工で腹の出た何の取柄も無い男と、バカにしているというのを聖は隠しもしなかった。
さらに婚約後はロリコン趣味の汚らしいオヤジと侮蔑の視線を送って来る。宋自身、自らのことをそうだという自覚が多少あるので何も言い返すことはない。その通りで恥ずかしいことだ、と思っていた。
そんな宋が付いて行ったところで、聖は無視するか、嫌味を言ってくるぐらいだろう。
スイに会える喜びの方が聖にとっては大きいはずだ。
下手をすれば、暴動のゴタゴタでスイを連れ去ろうとするかもしれない。
それはまぁ、スイ次第なところもあるからそこまで心配していない。
今スイは首をかしげて何かを考え込んでいる。
「首都へ行くのは、怖いか?」
宋は珍しく会話を続ける。スイの様子が少しいつもと違う気がしたからだ。
スイは何か迷うようにしてから、
「暴動がどのようなものなのか、気にはなります。もちろん聖は親友ですので、心配です。このような形ですが、首都へ行くことができるのは興味をそそられます。今はまだ、怖いとは感じていません。不謹慎ですが…。私が気にしていることは…何と言うか、違うことなのです」
珍しく、歯切れの悪い口調だ。
「では何を、思い悩んでいるのだ?」
スイは迷った。千歳のことを宋にどこまで話すべきか。話せば芋づる式に島の民の話もしなくてはいけないのではないだろうか。自分がそんな出自だと知ってなお、宋や一座は受け入れてくれるのか。一座に居場所がなくなったりしたら、生きていけない。
しかし首都へ行くことで、万が一にも千歳と遭遇した場合、宋が知っているのと知らないのとでは状況が全く変わってくるかもしれない。
自分の千歳に対する気持ちも整理できていないのに、説明できるだろうか。千歳に会いたいのか、会いたくないのか、それすら判断できていない。
「あまり多くの人に聞かれたい話ではないんです。私があまり、歓迎される出自ではないという話も含まれるので…首都への道々、ゆっくりお話ししたいのですが、その時は、聞いていただけますか…?」
宋はスイの何だって受け入れる覚悟をして、重々しく頷いた。
許可の出た翌朝には二人は首都へ発つことにした。
聖の時と違い皆で見送るわけではない。目立たぬように出かけるつもりだった。
それでもヤンとヤヲ、座長とユーと軽業師の仲間が数人見送りに出た。
「大丈夫なのかい、スイ?あんた自分で髪もまともに結べないのに、旅なんて…」
髪を結わってくれた先輩が心配そうにスイを見る。
「ヤンとヤヲのことは任せろ、きちんと教育してやるからな!」
スイとペアを組むことの多い筋肉質な男が二カっと笑い拳を握って見せる。
「やだよぉ~、ぼくもいきたい~!!」
ヤンが泣いてスイに縋りつく。それを容赦なく剥がしてヤヲが叱りつける。
「危ない所に行くんだよ、俺たちが行けば足手まといになるんだよ!わかれよ、バカ!」
でもヤヲも今にも泣きだしそうだ。
「私のいない間、病気とか怪我に気を付けてね」
そんな二人を見るとスイも泣きそうだ。
「これ、マオから預かったの。傷薬だって。こっちは私から。まじないを込めたから」
そう言って、ユーはスイと宋の手首に葡萄色と萌葱色の糸で編んだミサンガを結んでやる。
「俺からも、これ」
ヤヲも何やら細かくたたまれた紙を出した。
「俺、首都出身だから、覚えてる限りの首都の地図描いた」
ぶっきらぼうに渡してくるが、心優しく気が利くヤヲにスイはいつも助けてもらってきたと改めて実感する。
「みんな、ありがとう…。私、聖に会って、元気にちゃんと帰って来るからね!」
今度はスイの方からヤンとヤヲを抱きしめた。
「これに入れなよ」
ユーが首から下げられる芥子色お守り袋をスイの首にかけてやる。
スイはそれにマオの薬とヤヲの地図を入れた。
「皓然、これ、聖に渡してちょうだい。手紙とお金だから落とすんじゃないわよ!!」
座長が厚みのある封筒を布でぐるぐる巻きにした状態で宋に渡した。
宋はしっかりと頷いて見せる。
「あと、これお金。あまり多くないけど、往復の旅費くらいにはなると思うから、使ってちょうだい」
それも受け取り、スイと宋は皆に向かってしっかりと頭を下げた。
「あんた、ちゃんとスイを守りなさいよ。怪我とかさせたら承知しないから」
座長は腰に手を当て、宋を睨みつけてびしっと言い放つ。
それに対し、宋は真面目な顔で無言でまた頷いて、スイは少し笑った。
一座で歩くような大隊ではない。二人は足早に進み、昼には近隣の村から馬車に乗り、二日後の夜には早くも鉄道のある街にいた。
寺院によって化学力はほとんど使わない生活を強いられている夏の民だが、夏はとにかく広い。そのためか、運河や船を利用できない大都市には鉄道もいくつかある。
駅は木造の簡素なものだ。ホームも無く、機関車の入り口の位置に踏み台がボン、と置かれ客はそれを昇って機関車に乗る。
聖と別れた首都の近くから、冬までに広に移動した際も一座は鉄道を利用した。
お金もかかることだし、一座全体で鉄道に乗ることは滅多にはない。
一座が慌てて南下したのも、もしかしたら座長はこの暴動の可能性を感じていたのかもしれない。
移動先の街で、どうやって見つけてくるのかは解らないが必ず男を引っ掛けている。その男たちの職業や年齢もバラバラだ。色々な情報を聞き出していても不思議ではない。
「こんなこともあるかもしれないと思って出した」と聖についても言っていた。
「芽衣は昔からずる賢い女だった」
このことについて話しているとき、宋はスイにそう言った。
スイはきょとんとして聞いた。
「賢い、ではなくて、狡賢い?」
宋は大真面目な顔で答える。
「あぁ。良く言えば、賢い、だろうが、スイのような、賢さではない。あれは妲己のような悪女だ」
あまり真面目に宋が言うのでスイは噴き出した。
「信じていないな? あれには酷い目に、何度も合わされている。飯を横取りするのは、子供の頃はしょっちゅうだ。イタズラの犯人にされたり、男を引っ掛けるために、俺が、強姦の真似をさせられたこともあるんだぞ」
珍しく声を荒げた宋に、スイはついに声をあげて笑ってしまった。
「なぜ笑う?」
宋は怪訝な顔でスイを見る。
「だって、座長のその様子も面白いし、宋さんの怒った顔もなかなか見られなくて、お二人ともまるで
子どもの様だから!」
それを聞いて、宋もふっと笑った。
「そうだな、まるで子供だ」
スイはまだ、千歳の話を宋に出来ていなかったが、宋もまた聞いてこなかった。
スイが話しだすのを黙って待ってくれているのだろう。その気遣いがスイを安心させた。
一座にいて、四六時中側にいた時はうざったいような気までしてきていたが、こうして二人きりで行動してみると頼るべき人が宋しかいないせいか、近くにいると安心してしまう。
なんてゲンキンな自分だろう。こんな風に思うのは宋に失礼だとも思うが、今は側にいてくれるだけで頼りになるように感じてしまう。
宋も一座でヤンやヤヲが近くにいた時より、緊張していないのか、逆に気を使ってくれているのか、多少饒舌だった。それもスイを喜ばせた。
さて鉄道だ。
夏の鉄道は蒸気機関車だ。燃料やその構造について一般人には秘匿とされている。
一座で乗った時は馬や馬車もあったし、人数も多いので格安な貨物車にぎゅうぎゅうだった。
スイはその臭いと狭さで乗り物酔いを起こし、数回吐いた。今回もそれが心配だった。あまり楽しい気持ちで鉄道に向かう気にはなれないが、急ぐ旅だ。陸路ではとんでもなく時間がかかるから鉄道に乗らないわけにはいかない。
駅のある街に着いた翌日の朝、宋は一般客車の切符を買った。
スイは驚いた。一般客車を初めて見た。椅子があるではないか!しかも布張りだ。大きな窓もある。その窓も開閉式なのだ。これなら具合が悪い時に外の空気を吸うことも出来る。
「そ、宋さん!先のある旅なのに、こんなところで贅沢をしていいんですか!?」
驚きで声が上ずってしまった。
「お前は知らんのかも知れないが、この席は、そんなに高いものではないのだ。貨物が安すぎるだけだ」
宋はスイの頭をなで安心させようとするが、スイの興奮は収まらない。
「椅子に座ってみても、いいですか!?窓も開けてみていいですか!?」
「あぁ」
スイは大喜びで椅子近づき、恐る恐るといった様子で腰かけた。
「座り心地も問題ないし、しっかりしています!」
「あぁ」
宋は面白そうにスイを見ている。
「それにしても、今日は空いている。普段は椅子も、床も、窓も、見えないほど人がいる」
たしかにその日は途中から乗ったにも関わらず、椅子に座れるくらい空いている。
持っていた荷物を座席に置いている客もいる。
「そうなんですか?それは幸運でしたね!」
初めての一般客車に興奮しているスイは、あまりそのことについて深く考えないようだったが、宋は不穏なものを感じた。
こんな首都から離れた地方でさえ中央方面へ行く人が減っているとするならば、聞いているより中央のもめごとは大きくなっているのではないだろうか、と。
Ⅲ
スイは窓にかじりついて数時間過ごしていた。
貨物車では、上の方に明かり取りなのか換気なのか解らないような申し訳程度の窓しか付いていなかったから、こんなに風景が流れるのを知らなかった。近くの物は速く、遠くの物はゆっくり流れる。
線路は大昔に作られたものを発掘して、直しながら使っているそうで、縦揺れも横揺れも多い。
それでも外を見ていると、前回よりも酔わずに済んだ。
景色に、客車に、はしゃぎ過ぎたせいか、スイは気付くと眠っていた。
古い鉄道は安全のため夜は走らない。
夕暮れよりだいぶ早い午後には、スイたちの乗った機関車は運行を終えその日の終点に着いた。
まだ長江も越えていない。まだまだ長い道のりだ。
スイは宋に起こされ、ふらふらとしながら機関車を下りた。
やはり乗り物はあまり得意ではないのかもしれない。どこかぼんやりとした頭で周囲を見渡す。
季節は春の終わりになっている。
ポンチョは持ってきているが、この時間なら長袖の上下に腰巻だけで過ごせる。吹き抜ける風が気持ちいい。
「大丈夫か?」
「はいぃ…平気です…風がとても気持ちいいです」
「………。」
どうも大丈夫に見えなかったようで、宋に無言で見つめられる。
「ほんとうに、大丈夫なんですけど…。ちょっとくらくらしてますけど、前より全然いいです」
「……朝から何も食べていない。食べられそうか?」
「もちろんです!」
心配をかけまいと力強く答えたが、そんなに食べたい気はしていなかった。
まだ午後もそんなに遅くないせいか、あまり食事の屋台が開いていない。昼の営業を終了し一度締めているようだ。
二人は諦めて先に宿屋を探した。
駅があるような大きな街だ。宿屋はたくさんある。しかし食事の屋台と違ってなかなか見つからない。機関車は空いていたのに、意外なことだった。
数件目の宿屋でカウンター上のベルを鳴らすと恰幅のいい女将が現れた。
「あらあら!お客さん?」
「二部屋、空いているか?」
「申し訳ないんだけど、もう一杯で…一部屋なら空いていますよ」
「では一部屋でもいいが、つい立てか何か借りられないだろうか?年頃の娘だ、父親と同室は嫌なんだそうだ」
「ええ、それなら大丈夫ですよ、お貸しできます」
二人で行動するようになってから、宋はきちんと店員や駅員など出会う人々ともきちんと会話をしている。きちんと話せるんだ…スイにとって意外な一面だ。そして親子という設定なのか…
スイは会話にいつもなら混ざろうと思うが、今は乗り物酔いで調子が悪いので頭があまり回らない。聞き役に徹することにする。
台帳にサインをしながら宋は続けて女将に話しかける。
「それにしても、どこも一杯で驚いた。鉄道は空いていたが…」
宋の疑問に女将は驚いたようでカウンターに身を乗り出してきた。
「アンタたちは、地方から来たのかい?今は首都が大変だから、中央から避難してくる人らが大勢いるんだよ。中央からの鉄道は屋根に乗ってるやつもいるくらいの混雑だって言うよ!こんな時期にアンタたちは親子で中央方面に何しに行くんだい?」
「上の子が、首都の学校に行っている。だから迎えに行こうと思ってな」
意外なことに宋の口からはでまかせがスラスラ出てくる。
「あらあら…それは大変ね…。ずいぶんひどい状況みたいよ。お子さんご無事だといいけど…」
「ひどい状況?」
スイも気になり、つい口を開いた。
女将は宋をチラリとみて小声で「お嬢ちゃんに聞かせても?」と尋ねる。宋は小さく頷く。
「大僧正派と革新派に分かれて寺院内では僧侶が睨み合ってたらしいけど、先に学生たちが各派閥に分かれてドンパチ始めちゃったみたいでね。若いから血気盛んなのか、お互いに武器を取り合って結構な死傷者も出てるとか… 民家に火をつけたとか、僧兵を袋叩きにしたとか。物騒な話ばかり。市民もかなり巻き込まれているみたいよ。そんな中で大僧正様は行方不明。おかげで街から出る人は革新派に片っ端から荷物荒らされて、確認されて、大変らしいよ。物流も滞って、首都は食べ物もまともに手に入らないらしいから、行くならしっかり持っていきなよ?」
「学生が先に…?」
「お兄ちゃん?それともお姉ちゃん?どっちか解らないけど、無事だといいね…」
女将は同情するようにスイと宋を交互に見た。
スイは乗り物酔いと女将の話で本格的に食欲を無くした。
宋もそれを察して、スイを寝かせると、一人出かけて行った。
街の喧騒の聞こえる宿の部屋。ベッドはなく、箱をつんで一段高くした台に薄い布団が敷いてある。客が増えたので急ごしらえで作った部屋の様だ。窓が高いから、元々倉庫だろうか。
スイは天井をぼんやり見ながら外の声に耳を澄ませる。今ここでは感じられない物騒な出来事が首都で起きている。自分は聖を見つけられるだろうか。
さっきまで機関車で寝ていたので、眠くはない。
しばらくすると、女将がついたてと箱を持ってきて、ついたての向こう側にもう一つ簡易のベッドを作っていった。もう終わったかと思っていたら、女将は再びやってきて、スイに囁くように声をかけた。
「さっきはびっくりするような話をして悪かったね。これ、サービスだよ。少し飲んで、気分を変えておくれ」
そしてテーブル用の箱にグラスを乗せて出ていった。
身体を起こすと茶色の液体に輪切りのレモンが浮いている。多分紅茶だと思うが、見たことのない飲み方だ。一口飲んでみる。爽やかな甘みが広がって、少しスッキリしたような気がした。
優しい女将さん。無口だけど優しい宋さん。所有物階級の私を送り出してくれた優しい座長。別れの贈り物を渡してくれた優しい一座の面々。
自分の周りには優しい人であふれている。
不安ばかり抱えても仕方がない。送り出してくれた人たちに恥じぬ働きをしなくては。
スイは気合を入れなおすために、伸びをして自分の頬を叩いた。体がなまっては万が一の時動けない。
宋が夕食をもって宿屋の部屋に戻った時、スイは床で柔軟体操をしていた。
「だ、大丈夫なのか?」
ぐったりとしているだろうと心配していたので意外な様子に驚いた。
「大丈夫です。まだちょっとムカムカもありますが、さっきよりずいぶん良くなりました」
「そうか、なら、良かった」
宋は少し困惑したように手にしているどんぶりを二つ箱の上に置いた。
「女将さんがお茶を入れて下さったんです、レモンの入った紅茶なんて初めて飲みましたけど、すごく美味しいです!おかげでスッキリしました」
「そうか、なら、良かった」
今度は安心したように宋は箱の前にあぐらで座った。それにならって向かい合って箱の前にスイも正座で座った。
「何を買ってきたんですか?」
「粥にした。食べやすいだろうと思って」
「おかゆの屋台なんて、あまり見かけませんが…」
「…少し探した」
本当はかなり探したと思う。粥はまだ湯気が上がっているが、宋が出て行ってからかなり時間が経って外は日が傾いている。
「…ありがとうございます」
スイはそれを思い、宋に頭を下げた。
「気にすることはない、俺もさっぱりしたものが食べたかったのだ」
二人は向かい合って何を話すわけでもなく食事を摂った。元々スイは食事はワイワイ食べるのが好きだったが、こうして宋と向かい合って過ごすうちにこの静かな時間も悪くないかな、と思うようになってきた。
「食事が済んだら、風呂を貸してくれると女将が言っていた。声をかけに行くといい」
「本当ですか!やったぁ!」
スイは喜んで食後風呂をもらいに行った。
風呂から上がり部屋に戻ると、宋はぐうぐうといびきをかいて床に転がっていた。
疲れていたのは自分だけではないとスイはハッとした。むしろ宋の方が年齢も上だし、普段から運動している軽業師のスイよりも体力も無いかもしれない。そんなことも気にせず、ここ数日かなりの強行軍をしてきた。なんだか申し訳ない、もっと気にしてあげるべきだったのではないか…自分ばかり人の親切に甘えて、誰にもその親切を返せていない。
「宋さん、起きて下さい。いくら何でも床は冷えます。風邪をひきます。布団へ行きましょう」
声をかけるも、宋は全く目覚める様子がない。
スイは困った。少し考えた後で、掛布だけ持ってきてとりあえず掛ける。
でも床は冷えるだろうなぁ…自分だけちゃんとベッドで寝るの申し訳ないなぁ…
スイは持っているポンチョをかぶり、掛布をかぶり、宋の見える位置の壁に寄りかかって寝ることにした。
失礼だが、見れば見るほど不細工な人だ。眠る姿はまるでトドだ。そしていびきもかなり煩い。
スイはふふ、と笑ってしまった。なんだか、その姿がほほえましく見える。
なんで神様はこんな親切な人間をこんな姿で地上に送り出したのだろう。いい人なのだから、もう少しマトモな見た目だったら若いうちに誰かと結婚出来ただろうに…
そうしたら自分は今、ここでこうして過ごしていなかった。宋もこんな危険な旅を申し出たりしなかったと思う。いくら座長と幼馴染みと言え、自分に家族がいたらこんなことを買って出ることはないだろうし、これは多分スイのためにしてくれているのだと思う。めぐりあわせは不思議だ。
彼の目に、一体自分はどう映っているのだろう。自分はこんな失礼なことを考えているのに、それでも危険な旅に出てくれるほど好いていてくれるなんて。
そんなことを考えていたら、スイもウトウトしてきて、気付いたら眠っていた。
Ⅳ
二人は日の昇る前に起きた。日の出から間もなくの始発に乗るためだ。
床で眠る宋と、壁で眠るスイは、目覚めてお互い見つめ合ってしまった。
宋は、なぜ自分がここで眠っていて、スイがなぜ壁に寄りかかって眠っているのか分からないと首を傾げ、スイはそれを見て可笑しくて笑った。
女将が準備してくれた衝立は、結局必要なかった。
伸びた髪をまとめるのに少し手間取る。なんとか宋からもらったピンでハーフアップを作る。
その様子を、宋がじっと見ていることに気付いた。
「なんですか?」
手際の悪さを見られていることが恥ずかしく、スイは少しぶっきらぼうに聞く。
「いや、あの、その、ピン、使ってくれているのだな…」
「…おかげさまで…」
何がおかげ様なのか解らないが、スイは言葉に困り、手でピンを隠すようにしながら視線を逸らして答えた。まだ薄暗い室内だ。頬に熱が上がったのは、宋から見えていないことを祈る。
女将が握り飯を土産に持たせてくれた。スイと宋は多くの親切に礼を言い、明るくなり始めた街に出た。駅に着くと機関車はもう止まっている。昨日と同じように一般客席に乗る。
始発であることを差し引いても、昨日より更に他の客は少ない。
この先徐々に中央方面の鉄道は人が減るのだろうということは、二人にも容易に想像できた。
数日間そういった生活を繰り返した。
歩くより速いし座っているだけなので楽だ。
そう自分を鼓舞しスイは出来るだけ酔わないように、窓を開け外の空気を吸うようにした。
宋は眠っていることもあるし、一緒に外を見ている日もある。
スイは、首都に赴くにあたって自分もちゃんと宋を守ろうと、鼻息荒く外を見続けた。
しかし、何日たっても鉄道に慣れることはなく、午後下車する頃には、朝の意気込みはどこへ行くのか、スイはしっかり乗り物酔いで出来上がってしまう。
吐くまではいかないが、どうしても食欲が出ない。食べなくては力が出ない。いざという時動けない。
スイは自分にがっかりし、宋は毎日どこからか粥を探してきてくれる。
そんな夜は気持ちが弱るのか、不安が口をついてしまい、スイはついに宋に千歳の話をぽつぽつと始めた。
「ヘンな人が、来て、一緒に首都へ行こうって言ってきたんです…」
唐突に出た話題に、宋は一瞬何を言っているのか分からないといったようにスイを見つめ返す。そしてハッと何か思い至ったようで慌てて
「まさか、俺のことか…?」
と口にする。
「違います!!そんなわけありません!!宋さんはヘンな人ではないです!」
そうしてスイは、公演で見たと千歳が握手を求めてきた時の言いようのない気持ち悪さと、先にスーラ達が広で千歳と出会っていたようだという内容を話す。
そして公演後のパオに唐突に現れ、同じ民族であるから母親のいる首都に同行してほしいと言われたと伝える。
「同じ民族?スイは、少数民族か何かの、出なのか?」
スイは迷った。言うべきか… 言ってここで放り出されはしないか… 最近すっかり信頼を寄せている宋に拒絶されたら、きっとショックだろう。
「宋さん… 宋さんは、私の何をお気に召していらっしゃるのでしょう?もし私が不吉な生まれだとしても、私をお嫌いにならないか、それが不安なのです」
身体が弱っているせいか、素直に不安を口にする。こんな確認をするのは、ズルいことではないかとチラリと頭をよぎる。そもそも自分は宋を好きかも解っていないのに、相手にはそれを確認するということ自体が卑怯ではないのか。しかし一度口を出たものは引っ込められない。
宋は表情は変化していなかったが、内心慌てていた。
若い婚約者は今体調が万全ではなく、涙目で不安を訴え、自分のどこが好きか教えてくれとすがって来る。
どちらかというと強がりで、大人ぶるところがあるスイが、心の内を明かしてくれているだけでも信頼を得られたと思い嬉しくて仕方なかったのに、このいい年して恋の一つも経験したことのないオヤジに
向かって「私のどこが好き?」などと聞いてくるのだ。
冷や汗が止まらない。
何と言えばいいか、考えもまとまらず、視線が泳ぐ。
「どうして答えてくれないんですか… やはり、ただでさえ卑しい身でありながら、さらに不吉な一族の出だというのは、耐え難い事ですか…?」
スイは体調不良でウルウルとした目を伏せる。
まつ毛が長い。伏し目がちも美しい…
宋は考えることを放棄しそうになった。しかしこのままでは愛しい若い婚約者は泣き出すかもしれない。それは困る。泣き始めては、もっと対応に困るではないか。体調不良で潤んだ瞳を宋は勘違いしていた。
「あ!う!なんと、言うか、あのだな、お前の、出自が何であろうと、今更、どうでもいい事、だ」
「…本当ですか?でも、もし私の話を聞いて、お嫌いになったら、その時は隠さず教えてください。その時は、私…」
今度はそのウルウルした目で必死に見つめてくる。
何を言っても、冷や汗の止まらない表情をされる。宋自身は表情こそ相変わらずほとんど変化していなかったが、滝のように汗をダラダラ流していた。
「や、約束、するから、話してみろ」
スイは意を決したように胸の前で手を組み話し出した。良かった、どうやらどこが好きか、という難問には答えずに済みそうだ。
「島の民、というのをご存じですか?」
「島の民?」
はて、聞いたことのあるような、ないような。宋は学のある人間ではない。真面目一辺倒であるが賢いわけではない。
宋が分らないようなので、スイは夏の寺院経典に出ている話をざっと聞かせる。
たしかに夏は宗教国家だが、寺院の教えをきちんと理解しているのは僧侶と知識階級が圧倒的に多く、一般の市民は学校に行った者ならばそこで軽く習う程度で、宋や大梅の多くの者のように学校にも通ったことのない者は経典の内容などほとんど理解しない。
口伝えで、おおまかな伝説を知っている程度だ。
「スイは、賢い。良くそのようなことまで知っているな」
宋はその内容よりも、経典や歴史を語るスイの博識ぶりに感心した。
その宋の反応が意外なものだったようで、スイはキョトンとしたあと、褒められたことに照れたのか、視線を逸らし、頬を染めた。
「子供の頃、良い先生に教えを受けたのです。その方のおかげです」
「それは、素晴らしいことだな」
潤ませた目を伏せ頬を染めるスイを直視するのは、宋にはきつかった。平常心が揺らぐ。スイは真面目に話しているようなのだし、自分がきちんと聞かなければ怒るだろう。きちんと答えて、誠実なところを見せたい。
「その、島の民、というもののことは、俺は良くわからん。多分座長も、他の大梅の仲間も、解っている者は少ないと思う。だから、スイは、そのことを気にする必要は、なにもない。そのことで、俺がお前を、疎ましく思うことも、ない」
スイはゆっくりと顔を上げ、再び宋を見つめた。宋は見られていつも以上に緊張する。
「その、なんだ、その怪しい男は、多分お前を買おうとした男だ。俺は芽衣に付いて行ったから、顔を見た。美しい人形のような顔の若い男だろう?商人だと言っていたぞ」
「商人?彼は私に自分は僧侶である、と言いました。そして首都にいる母親が捕らわれたから、一度首都に戻り、落ち着いたら再度来ると言いました」
「首都に…?」
ここでさすがの宋も考えを集中することが出来てきた。
「なるほど、素性は未だ知れんが、今後、会う可能性はまだある、と」
「私は自分のことなのに、わからないのです。本当に同族であるならばその男から島の民についてもっと聞き出したいような気もしますし、でも怖いような気もするのです。最初は気持ち悪いとしか感じていなかったその男から、母が大切だと言われた瞬間この人も人間なのだなと感じてしまい、なんだか名残惜しいような気さえしてしまいました。あの男が知ることを全て聞き出したい、自分にまつわることを知りたいと思うことは、危ない考えではないのか、とも…」
宋も混乱する話だった。スイの悩みも不安も、ポイントが良く解らず、話を聞いた今でさえ理解にしがたい。
「…難しいことは、俺にはわからんが、賢いスイに、俺が知る限り、一番難しい言葉を伝えよう」
スイが見つめてくる。その目は、さっきまでと同じ潤んだ目だが、好奇心がちらついているように見える。
「『行雲流水』。父から子供の頃から言われていた言葉だ。俺の親もまた大梅で旅をし暮らしていた。『行雲流水』は諸国を修行してまわる僧侶のことにも例えられるそうだ。『深く物事に執着せず、自然の成り行きに任せ行動せよ』という意味のこの言葉を旅人である父から聞かされた」
「こううん、りゅうすい」
「知らない言葉だったか?」
「はい、初めて聞きました」
「賢いスイに、物を教えられえることがあるとは、思わなかった」
宋は誇らしくなる。スイはその得意そうな宋の様子に微笑む。
「怪しい男に付きまとわれていることも、これから首都に行くことも、俺と共にいることも、すべて、成り行きだ。スイは考えすぎている、のかもしれん。この成り行きに、身を任せ、過ごしてみても、きっと得るものは、あると思う」
スイはしばらく考えた様な風に真面目な顔をしていたが、パッと顔を上げ
「宋さん、ありがとうございます。とても気が楽になったような気がします。ありがたいお坊さんにでもお話を聞いていただいたような気分です。素晴らしい教えだと思います!『行雲流水』」
すがすがしい様子で宋に告げた。
多分、宋が聞き覚え伝えた意味より、スイはずっと深くこの言葉を捕らえた様な気がする。
宋から見ればスイは何事も深く考える質に見える。
まぁそれでもいいのだ。この少女が少しでも満足してくれるなら、宋は無い知恵も絞る。
Ⅴ
この鉄道の旅を繰り返し、二人はついに夏の二大大河の一つ長江に至った。
そこは長沙という太古からある大都市だ。首都にも匹敵する経済と産業、学問の街で、大昔から歴史ある学校が多く、学生が多い。風光明媚な場所として、観光客も多い所だ。
一座が公演で来るときは、いつも郊外に宿営地を取るので街の中心部まで見ることは少ない。
スイはこの大都市に口が開きっぱなしだった。隣を見ると、宋もどうやらそのようだ。
とにかく人が多い。良く解らないが、色鮮やかでおしゃれな若い女性も多い。娼婦でもないだろうに、露出もある服を着ている。これが流行なのだろう。スイも舞台衣装で歩いても目立たないかもしれないくらい、いろいろな格好の人間がいる。
見るからに薄汚れた旅人である自分に、スイはなんだか恥ずかしくなった。
どちらに進めばいいのか迷って駅前をしばらくウロウロしていると、中央方面からの鉄道が到着したようで、スイや宋のような旅装束の人間がどっと駅からあふれてきた。
二人は危うくはぐれそうになり、慌ててお互いの手を握った。
駅前の混雑はなかなか解消される様子がないので、二人はそのまま流されるように通りを下った。
しばらく行くと駅前の混雑ほどではなくなり、二人は安心して互いの手を放す。
「なんて人が多いんでしょうね。それに広い…これではどこに行けばいいか、迷いますね…」
スイは本当に困ったなぁと周囲を見ていたが、宋は今しがたまで繋いでいた手を見てぼんやりしている。
「宋さん?」
「あ、ああ!そうだな!」
スイは呆れた。来年には夫婦になろうというのに、手をつないだくらいでこうも呆けられては先が思いやられる。
その呆けた宋に若い男が一人すれ違いざまにぶつかった。
これだけ混雑した道だ、黙って立っていれば人にぶつかるのは仕方ない。宋は申し訳なさそうにしたが、スイは見逃さなかった。
「宋さん!スリです!」
そう叫ぶとスイは今ぶつかった男に飛び掛かった。しかし乗り物酔いで本調子の出ないスイは、交わされてしまった。
「スイ!」
宋が叫んだが、スイは逃げる男を全力で追いかけた始めた。姿勢を低くして人の間を小動物のように進む。
「そこにいて下さい!取り返します!」
「おい!」
止めようとしたが、その頃にはもうスリの姿もスイの姿も見えなくなっていた。
そして自分の懐を改めて探って驚いた。よりによって芽衣から預かった聖宛の大金の方を掏られたことに気付いたのだ。
スイは素早さにかけては自信があるが、スリの男もまた早かった。
スイには土地勘がないから見失ったら捕まえられなくなる。長時間の鬼ごっこは体調が万全でないスイに不利だ。ぐずぐず迷っている時間はない。路地に入り込んだところでスイは動いた。
「クッソがぁあ!!」
スイは雄たけびをあげ、回転をつけ高く飛んだ。その勢いでスリの前に着地し、回転の余力でスリに向かって体当たりした。今度は外さず右手でみぞおちに入るように拳を叩き込む。
「が!」
スイの腕力では、体当たりと足しても男を気絶まで落とすことは出来ない。
それでも的確な位置に入った拳に、男は苦痛の声をあげよろけた。
「返せ、バカ!」
スイは容赦なく今度は後ろに回り込み男の足を払って転ばせた。そして転んだ男が逃げないように腹部を力いっぱい踏みつけてやる。
「うぐっ!」
「出して。どこに持っている?」
冷たい目で見降ろし、迫る。踵に力を入れ、更に腹を押す。
スリは観念したように胸元を探り出す。スイは油断せず、その様子を見ていたが自分の足で取りづらいのだろうと少し足を浮かせた。そして今度は下腹部めがけて再度踵を落とした。
「うがっ!」
「早くして」
スイは冷たく命令し、スリはついに厚い布で包んだそれを出した。
スイはひったくるようにそれを受け取り、後ろに飛びのいた。もたもたしていて刃物でも出されればさすがのスイも困る。
受け取ったそれは確かに座長が宋に渡していた包みに見える。偽物を掴まされている様子はない。
スリが何か不穏な動きをしないとも限らない。スイは急いでその場を離れた。
大通りに出たものの、ここがどこだかさっぱりわからない。
宋にそこにいて、と言った手前戻らないといけないが、戻れる気がしない。スイは途方に暮れ、とりあえずそうかと思う方にトボトボ歩いた。
駅で待ち合わせとかにすればよかった… お金を取り戻しても、宋に出会えなくては困ってしまう。
しばらく歩いたが、どこだか全然わからない。どうしたものか、とたまたま通った公園の椅子に座って
空を仰ぐ。
初夏の爽やかな風が吹き抜ける。公園にはスイのような旅装束の人間がたくさんいた。家族連れなどもいる。
「スイ!」
聞きなれた声がして顔を上げた。宋がドッスンドッスンといった様子で走って来る。
「宋さん!!」
スイは嬉しくて駆け寄った。
「見つけて下さって良かったです!私すっかり迷っていました!」
「俺もだ。この人が、案内してくれたんだ」
そう言って宋が指し示した相手は、さっきスイが散々踏みつけたスリだった。
親からの送金が途絶えた。
学費に関してはむこう一年分は収めているから退学はしなくていいが生活費がない。
そもそも首都にいる家族の安否も解らない。
彼の名は高博文。国内では五本の指に入るくらい大きな商家の長男として生まれた。15歳から実家のある首都を離れ、この長沙で経済学を学んでいる18歳の青年だ。顎髭を生やし、切れ長の目を持つ。
首都の学校は寺院の膝元であるため奨学生が多く、のちのち官吏として銀行勤務などにあたる者が多いが、長沙ではどちらかというと博文のような商人をめざす者が多い。
しかも首都育ちの彼は、今後国内全域の商売を担う高家の長男であるため、後学のためにも他の街で学ぶことを父に勧められた。博文本人も、実家を離れて気ままな生活が出来ると思い喜んで承知した。
彼は別に勉学が好きなわけでも、勤勉なわけでもない。成績も別に大して振るわなかった。学校にも真面目に通っている訳ではなく、サボっては仲間と街で時間を潰したりもしていた。
金持ちの坊ちゃんである博文は、生活費も他の生徒より多くもらっており遊び方も派手で、仲間に驕ることもたびたびあった。
それなのにその送金が無くなったのだ。
家族も心配だが、金がないなどとはプライドから仲間に言えるわけもない。
そこで首都から流れてくる人間たちを主に狙ってスリを始めた。
逃げてくる者たちは持てるものを出来る限り持ってくる。だから大金を持っていることも多く楽に稼げた。その金で相変わらずの派手な生活を維持する。
博文は商才よりスリの才能を感じていた。
そのオヤジはデブでトロくさそうだし、連れているのも若い女だ。
見た感じまぁ美人だが髪が中途半端な長さをしているから所有物だろう。
所有物を連れているくらいなら金はありそうだ。美人に鼻の下を伸ばして隙だらけ、これなら行けるだろうとカモにした。
そして、思った以上のしっぺ返しをくらう羽目になった。
あんな乱暴なの女に出会ったことはなく完全に見誤った。用心棒だったのだろうか。
散々にやられ路地で動けず、しばらくひっくり返って建物の間から空を見た。育ちのいい自分はこんなに他人に殴られたことは初めての経験だった。
急に自分は何をやってんだ、と、情けない気持ちになり
「ふっ…はは…」
力なく笑いながら、涙が流れないように袖で目を抑えた。
しばらくしてから路地を這い出て立ち上がりなんとか歩き出す。
人が多い時間になってきた。今日は帰ろう、と家に向かう途中、いつも突っ切る公園でさっきの女が途方に暮れたように座っているのを見つけた。
またぶん殴られたらたまったもんじゃない。今日は公園を通らず帰ろうと慌てて迂回する。
すると今度はカモにした方のオヤジが、道行く人間を片端から捕まえて女の行方を聞いていた。
オロオロとし、汗を拭きながら、心配している様子を見ているうちに、なぜか自分が子供の頃を思い出した。
迷子になった自分。再会した時の親の安堵した顔。
自分も安心して、親に縋りついて泣いた。
「あの、その女性なら、さっきあっちで見ましたよ」
無意識に、気付くと博文は声をかけていた。男は相手がさっき自分をカモにしたスリとは気付いていないようで、丁寧に礼を言って駆けだそうとした。
「よかったら、ご案内します」
なぜだか自分でもわからないが、この男を放っておけず案内まで買って出てしまった。
「どうしてアンタが…?」
女は侮蔑を込めた視線を隠しもしない。
それを見て博文は男を案内したことを後悔した。
「なんだ、知り合いか?」
男は暢気に聞いている。
「宋さん!コイツはさっきのスリです!また何か取られたりはしていませんか?!」
女の方は全く警戒心を解く様子もなく博文を指さしてきた。
「とってねぇよ!さっきは、その、悪かったよ…。でもお前も謝れよ、好き放題に蹴りやがって!」
少ししおらしく謝罪してやるが、さっきボコられまくったことがどうしても消化できない。
「アンタは犯罪者でしょ!僧兵に突き出されないだけマシだと思いなさい!」
「んだとぉ、てめぇ、こっちは親切にオッサン連れてきてやったんだぞ!」
「それはそれ、これはこれでしょ!」
「可愛くねぇ女だな!所有物階級のクセに口の利き方も知らねぇのかよ!オッサン、この女多分オッサンにネコかぶってんぞ!」
「アンタに丁寧に話してやる必要なんか無いわよ!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎ出した若者たちに、男は慌てて間に入ってきた。
「やめるんだ、二人とも!やめろ!目立っているぞ…」
夕暮れの公園で、今にも掴みかからんばかりに揉める男女など、誰でも気になる。周囲の人々がチラチラと見てくる。最近の公園には首都からの避難民が多い。ここで目立てば、前にスリのカモにした人間に見つからないとも限らない。僧兵も来るかもしれない。
逃げようと思い方向を変えると、意外と近くにいた男にぶつかってしまった。
男がよろける。
「宋さん!大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ」
「チッ」
今日はなんだかペースが乱れる。つい舌打ちする。
よろけた宋を支えるスイ。
宋はお人好しすぎるとスイは心配になる。こんな優しい人を暴動の真っただ中に連れて行って大丈夫だろうか。
そんな二人を博文は様子を見ている。
目が合うと険しい顔をしたが、ゆっくりまた近付いてきた。
「なに?」
スイが警戒し、ぶっきらぼうに答える。
「マジで悪かったよ。お前ら、今日泊まるとこあんのか?」
スイは眉をよせ、訝しむ。
「残念だが、まだ宿を探していない。どこかあるならば、教えてほしい」
宋は素直に答える。
「着いて来いよ」
そう言って博文は再び歩き出した。
宋とスイは顔を見合わせ、宋が「行こう」と促したのでスイは怪しいと思いながらも仕方なく後を付いて行った。
Ⅵ
大通りに出て、宿屋や屋台の出る繁華街を抜ける。人通りは多く、音楽が聞こえ、大道芸人も見える。相変わらず旅装束の者が多い。午後だから買い物に出る主婦などが多いのは解るが、学生と思わしきスイと同年代の若者も多く出ている。
何軒もある宿屋を素通りして、路地を抜ける。
すると今度は歓楽街と思われる派手な建物の並ぶ通りに出た。
昼間っから娼館の提灯が下がり、呼び込みをする女もいる。その中の一人の遊女が先頭を歩く博文の袖を引いた。
「博文、今日は一人なの?寄って行ってよ、みんな会えないと寂しがるんだから」
真っ赤な唇を少し突き出して、甘えるような上目遣い。胸元の大きく空いた着物から豊満な胸がこぼれ出そうだ。香水のキツイ臭いが少し離れたスイにまで感じられた。
「悪いな、今日は客人がいるんだ、また今度来る」
博文は遊女の尻を軽くはたくと手を振り先に進んだ。
遊女は甲高い笑い声をあげている。
こんな真昼間から空いている娼館があることも驚きだが、遊女のノリはスイが思っていた以上に砕けている。男に尻をはたかれて、笑う感覚が理解できない。
娼館の話などは一座の大人たちが話しているのを盗み聞きしたことがあったから、どんな場所かは知っていたつもりだが、こんな間近で本物の遊女が絡んでいるのは初めて見た。
スイは自分が娼館に売られなかったことを、改めて良かったと感じる。
それにしても、この辺りもずいぶん若者が多い。
少し行くと博文はまた別の者に声をかけられた。
今度は山波や獅子紋などの派手な柄の入った羽織を引っ掛けた三人の若い男たちが酒屋の軒先の低い塀に座っている。その手には、まだ明るい時間だというのに酒瓶と湯呑がある。
「おい、博文!今日も奢ってくれよ!いい酒入ったって話だぞ!」
「今日どこ行ってたんだよ?誘おうと思って探してたんだぞ」
それらの声にも博文はひらひらと手を振り
「今日は先約があるんだ、また今度な」
と交わしていく。
なんだかチャラそうな輩だ。こいつらは昼間からこんなところで酒を飲み、一体何をして暮らしを立てているんだろう。スイの中に釈然としないものが渦巻く。
何処をどう歩いたのか良く解らないが、気が付くと落ち着いた雰囲気の住宅街に来ていた。
道幅もある程度あり石畳が続いている。街路樹も等間隔で植えられ、大通りと違い清掃が行き届いている様子でごみの一つも落ちていない。小さな家も大きな家も、どの家も立派な塀を回しており、スイはこんな高級住宅地にはどんな人間が住んでいるのか気になった。
夕飯を作っているのだろう、食欲をそそる匂いがする。家路を急ぐ子供たちとすれ違い、どこからか赤ん坊の泣く声がする。
国のどこかで暴動が起きているとか、公園に首都からの避難民が溢れているとか、昼間から歓楽街で騒ぐ若者がいるなんて、ここにいると全く感じない穏やかさだ。とてもこんなところに宿屋があるとは思えなかった。
一際美しいタイルで装飾された塀を回した家に来ると博文は一緒に中へ入るように促した。
宋とスイはまた顔を見合わせた。状況が良く分からない。
「お、お邪魔します…」
恐る恐る入ると玄関ホールも華やかな装飾の柱で飾られ広く、ガラス細工が天井からいくつも釣り下げられている。
スイはあんぐりと口を空けて天井や壁をまじまじ見た。
「おい、不躾だぞ、所有物。ジロジロ見てないでさっさとこっち来い」
罵倒されても、言い返す気にもならない贅沢な造りだ。
「ここは…?」
流石に宋も困惑した様子で尋ねる。
「俺んち」
「は!?」
スイは大きな声を出してしまった。
「うっせーな。デカい声出すなよ。俺んちっつーか、親の持ってる別宅を今は俺が住まわせてもらってんだよ」
めんどくさそうに頭を掻きながら答えるのを見てもスイは黙らない。
「親の?アンタお坊ちゃんなの?なんでスリなんかするのよ?」
「お前、さっきからアンタアンタって、失礼だぞ。俺は高博文。高商会って知らねぇか?親父がやってる会社なんだけどよ。俺はそこの長男。今はここで経済の勉強中の学生だ」
言いながら近い部屋に入っていく。
そこは玄関よりもはるかに豪華で、大きな窓があり池のある庭が望めるようになっている。朱塗りの円卓があり、大勢で食事をすることを考えてか椅子がたくさんある。
壁には幾何学模様の刺繍の布がかけてあり、床にも大きなラグが敷いてある。クッションもいたるところに置いてある。
「立派な家系ではないか。高氏は、代々、とても有名な商人だ」
宋が小さな目を真ん丸にしてつぶやいた。
「そうだな、親もご先祖も立派だけど、俺は今んとこそんなに立派じゃねぇ。とにかくさっきの侘びだ。うちに泊まっていけ。食うもんも、いくらかはある」
「いいの?」
スイが確認する。
「家主がいいって言ってんだからいいんだよ。オッサンには悪いことをしたしな」
言いながら近くのクッションに座り「お前らも座れよ」と促す。
あまりに豪華で広い部屋だから、二人はなんとなく身の置き場がなく、遠慮がちに端に座る。
「では今夜、世話になる。宋晧然だ。旅の遊芸一座の大梅に所属している」
宋があぐらをかき礼をする。スリだし、昼間ボコボコにしたので頭を下げるのはなんとなく抵抗があったが、スイも仕方なく宋にならい正座で礼をする。
「同じく、スイです」
「なんで遊芸一座の一員が一座を離れて別行動してるんだ?」
博文は不思議そうに尋ねる。
「私からしたら、こんな金持ちなのにスリをしているアンタの方が不思議だわ」
スイは悪意無く零す。
「オイ、いい加減そのアンタってのやめろよ。失礼だぞ」
「博文さんは、このように裕福でいらっしゃるのに、なにゆえに犯罪行為などなさるのでしょう?」
スイは咳ばらいをして言い直してやった。
「うっわ、今更きしょ。呼び捨てにして普通にしゃべれや」
全く名家のお坊ちゃんとは思えないとスイは呆れた。
「おい、見下した顔してんじゃねーよ」
スイは一座の座長の息子の安否を確認するために首都へ行くことをざっと説明した。
こういう時は宋は口下手なのでスイが話す方が手っ取り早そうだったし、宋自身そのつもりなのか、スイの方を見るばかりで一向に語ろうとしなかった。
「ふーん。それにしてもなんでお前らなの?他に適任者いなかったの?悪いけど、オッサンは見るからにドンくさそう」
博文は無遠慮に二人をジロジロ見てくる。
「失礼なこと言わないで!」
スイは体を少し浮かせたが、宋が腕を伸ばしそれを遮った。
「スイ、本当のことだ」
スイは納得いかない。なんでこんなにいい人な宋さんがドンくさいとか今会ったばかりのヤツに言われなきゃならないんだ。たしかに、ちょっと、ドンくさいけど…
スイの腹が収まらないのを解っているのかいないのか、宋がたどたどしく説明した。
「座長の息子は、スイの親友だ。そして俺は、スイの婚約者だ。残念だが、スイはまだ階級抜けをしていない。一人で、行かせるわけにはいかん。だから同行している」
それには博文が驚いて叫んだ。
「ハァ!?つーかお前ら婚約者同士なわけ!?どうりで、なんかただの主従関係にしちゃ親密に見えたわ」
そう言われて、二人揃って視線を泳がせる。
「しかもなに?清い仲なわけね。オッサンしっかりしなよ…」
「あ、ああ…」
「宋さん!適当な返事しないでください!」
スイが勢いよく叫ぶ。
「マジうっせー女だな、お前」
「うるさいわよ!ほっといて!つーか博文はなんで金持ちなのになんでスリなんてやってるのよ!?」
「金が欲しいからに決まってんじゃん」
「は?」
悪びれた様子もなく、開き直ったように言い切られ、スイの頭には疑問符が浮かんだ。
「こんなでっかい家に住んでるのに…?お金ないの?」
スイに聞かれ、面倒くさそうに博文は頭を掻く。
「俺の実家は首都なんだよ。学費はもう納めてるからいいけど、生活費の仕送りが無くなったんだよ」
「ご家族の安否は…?」
宋が気遣うように尋ねる。
「それもわかんねーよ。とりあえず俺にも生活があるんだよ、だから困ってんだよ」
苛立ったようにまた頭をガシガシ掻いて、吐き捨てるように答える。
暴動の影響が、こんな形で国中に出ているのだろう。
家族の安否を心配する者がいて、生活を奪われる者がいる。
スイは政治を預かる者が国民の生活を危険にさらしてはいけないと思う。
スイは歴史には少し明るいが、大昔から時の為政者の自分勝手な行動で一番苦しむのは市民だ。
ムカムカと怒りがこみ上げる。こんな苦労知らずの坊ちゃんが犯罪に手を染めることになんて…
そんなスイを気にも留めず、宋はおもむろに博文に近づき、視線を合わせると突然博文の脳天に拳を振り下ろした!
スイはびっくりして声も出なかった。宋が人に手を上げるのを初めて見た。
「―なッ!?」
殴られた博文も意味が分からず頭を押さえて宋をまじまじと見た。そして弾けた様に怒鳴った。
「何すんだよ!突然。お前ら二人揃ってずいぶん乱暴じゃねぇか、何様だ!」
宋は怒鳴られても動じる様子もなく、いつものようにボツボツ切れ切れに話し出した。
「失礼だが、君は、反省が、ないように思える。何か、深い理由があるのかと思っていたが、違うようだ。君の育った環境は、この国の多くの者が、望んでも手に入れることが出来ない、恵まれたものだ。それなのに、その自覚もない。ずいぶん悪い仲間がいるようだし、娼館にも、赴いているようだ。親から貰った金、人から奪った金、そんなものでする贅沢は、人を堕落させるだけで、成長させない。そんなことをしている暇があるならば、もっと家族の安否を心配しろ」
スイは自分の目玉が落ちるんじゃないかと目を見開いて宋を見た。
こんな一面があったなんて、感じたことも無かった。
宋は大人だったのだ。スイは、もたもたしたところがある宋のことを、年上なのは解っていたがどこか自分と同じくらいの精神年齢と勘違いしていたような気さえした。
こんな風に人に諭せるようなきちんとした考えを持っていることを感じたことがなかったのだ。失礼だったとスイは自分が怒られたわけではないが、急に恥ずかしくなった。
それにしても、急に怒り出すとは思わなかった。
さっきまでむしろスイよりも博文に対して友好的に見えたのに、何かが宋の怒りに触れたのか…
「君のことは、軽蔑する。今夜の宿は、結構だ。スイ、失礼しよう」
宋がスイを促して立ち上がった。
「は、はい!」
慌てて立ち上がる。
「ま、待ってくれ!」
驚いたことに、激しく怒鳴り散らすと思っていた博文が、立ち上がった宋に縋りついた。
しかし宋は本当に怒っている様で、縋りついてきた博文を引きはがそうとする。スイはあまりの珍しさに、言葉もなく成り行きをただ見守ってしまう。
「頼む、茶!そう茶くらいは飲んでいってくれよ!」
「…金が無いのだろう。そんなところで、茶を貰えるか」
宋が精一杯の嫌味を返している。
「茶ァくらい、まだある!」
「弱い人間から、散々巻き上げた金の茶、だろう」
「違う!元々家にあったんだよ!」
「親の…「茶ァくらいは買ってもいいだろ!?」
スイはそのやり取りをしばらく呆然と見つめていたが、我に返り止めに入った。
「ちょっと、離れて博文!なんで宋さんを引き留めるの?」
スイにはボコボコに殴られているので喧嘩をしても勝てないのは解っているはずだ。それでも博文は離れなかった。
「たしかに今までうまくやってたよ。捕まったこともボコられたことも無くて調子こいてた。だからお前にボコられて、ヤバいことだってやっと自覚できた。それに」
そこで宋を見てから観念したように続けた。
「オッサンが、お前を探してるの見て、なんか、放っておけない気持ちになったんだよ… 自分でもうまく説明できねぇけど」
スイと宋は今日何度目かの顔を見合わせた。
「でも、宋さんは怒ってるから、いいよ。放っておいてくれて。私たち、野宿でもなんでも大丈夫だから」
スイはまるで子供に言い聞かせるように優しく語り掛ける。対する博文はワガママを聞いてもらえない子供のように何も言わず膨れっ面をしている。
「ちょっと、博文何歳?まるで子供みたいだよ?」
スイは遠慮なくズバズバ言い、博文の腹回りに腕を回し引っ張る。博文も宋の腹に相変わらず縋りついているから、三人団子になってもみ合う。
スイは何とか博文を諦めさせようとあれやこれやと話しかけるが、博文は何も言わず離れない。
そんなことをしているうちに、外が薄暗くなってきた。
スイはイライラしてきた。二人とも何も言わなくて、自分だけが延々と誰も答えないのに話かけ続けている。なんだかバカらしい。
下を向き、二人からすっと距離をとった。
急にあきらめたのかと博文はチラとスイの方を見て、宋も雰囲気が変わったスイを気にして不思議に思った。
次の瞬間、
「二人とも、いい加減にして、下さいッ!!」
スイのスライディングキックが二人の足が重なった部分にヒットした。
博文は腹に回した腕に力を込めていたから、蹴られれば当たり前に足をすくわれる。
その博文の足がぶつかり、スイのスライディングキックの余力で踏ん張っていた宋も足元がおぼつかなくなり、さらに倒れ込む博文に引きずられ、もつれあって二人は倒れ込む。
「ずいぶんと頑固なんですね!お二人とも!二人の相手で私はすっかり疲れました。今夜は博文の好意に甘えてここで休みたいです!何なら今すぐお茶も頂きたい!」
スイは立ち上がり堂々とした態度で言い放つ。
「わ、わかった…泊まろう…」
「俺は、お茶を入れる…」
勢いに押され二人はスイの要求に頷く。
Ⅶ
高屋敷は広い。調度品も良く、スイは使ったことも無い豪華な寝具に緊張した。
宋は不機嫌で食事も摂らずあてられた部屋にさっさと籠ってしまった。
スイは風呂を借り、最初の部屋を覗いた。博文が煙草をふかしながら窓の側にクッションを重ねて座って外を見ている。
「なに?貴方は煙草も吸うの?」
スイが呆れたように聞くと、博文は振り向かずに盃も上げて見せる。
「晩酌もなさっている、と。別にどうでもいいけど、お風呂ありがとう。私も寝ます」
そのまま部屋に引っ込もうとすると博文に呼び止められる。
「おい、お前も飲んでけよ、夜更かししたってどうせ明日は鉄道は出ないぞ」
「どうして?」
「点検日だよ、月に何回かあるんだよ。知らないのか?」
「知らなかった」
宋は知っているのだろうか、今聞いて良かった。
「腹減ってねぇの?つまみがあるぞ?」
博文が盃を下げ、変わりに枝豆の入った皿を上げて見せる。
正直お腹は減ってきた。少し迷うが、誘いに乗ることにした。今の博文はどうも話をする気があるようだ。なにか面白い話も聞けるかもしれない。
適当に重ねてあるクッションの山から一つ掴み、スイも博文の横に並んで座る。
「美しい庭ね」
「そりゃどうも。酒は?」
「私をいくつだと思っているの?まだ15になったばかりなの。枝豆だけにさせてもらうわ」
「15!?婚約者がいるくらいだし、でっけー胸だし年上かと思ってた」
「!?」
体つきを見られていたのかと思うと、風呂上りでTシャツにズボンだけの薄着も恥ずかしく顔に朱が上がる。
「なんだぁ、オッサンと言い、お前と言い、ウブなんだなぁ」
博文はニヤリと口の片端を上げる。
「やめてちょうだい、ふざけないで」
「心配しなくても、お前相手に何もしねぇよ、またボコられてもたまんねぇし」
まぁ、それもそうだろうとスイは思う。昼間あれだけ踏みつけられて何かしようと思うならバカだ。
遠慮なく枝豆をつまませてもらう。
これも盗んだ金で買ったのだろうかと思ったが、考えるのをやめた。今はおなかが空いている。そんなことを考えれば食べづらくなる。
黙々と枝豆を食べるスイを呆れたように見ながら博文はため息をつく。
「お前はオッサンが怒ってんのに、俺が盗んだ金で買った枝豆を何の抵抗もなく食うのか?」
「…」
スイは少し考えた。そして持ち上げた枝豆を見ながら話す。
「私も悪いことだと思う。でも、今まで贅沢しかしたことのない坊ちゃんが、突然節制した生活をするのは難しいんだろうな、と思う。あれだけ殴る蹴るしておいて悪いけど、博文みたいな堕落した生活していた人は、この時代背景を思えば、そんな行動に移るのは仕方ないのかな、って。暴動が起こるきっかけになった世の中も悪いのかな?って」
スイのその、枝豆意外に対して興味がなさそうな視線と、語られる話を聞いて博文はキョトンとした。
「お前、ヘンな女だな」
「貴方も失礼ね」
スイはまた枝豆を口に入れる。
「飲み物ある?お酒以外で」
しかも遠慮なく飲み物の要求をした。
博文は仕方なく厨へ行き茶を入れる。ついでに干物も少し手にする。
博文が戻るとスイは大きな窓を開けて、庭に向かって座り足をブラブラさせている。
たしかに、その動きは見た目より子供っぽい。身体は一級の娼婦にも負けない妖艶さがあり15歳には見えないが。
でもその話す言葉は自分の考えの斜め上だ。あれだけ殴っておいて俺より世の中が悪いと言う。そして滅茶苦茶に強い。自分だって歓楽街で遊んでいれば喧嘩くらいしたことはあるが、あんなに足蹴にされたのは初めてだ。
「本当にすごい庭ね。私、商家とか詳しくないんだけど博文の家は本当に大きな商家なのね」
そして無邪気なところもある。
「マジお前ヘンだな」
「うるさいな、さっきからなによ」
「ほれ、茶、干物は?」
「いただきます!」
並んで窓の外に足を出す。
ここは親の持っている別宅だ。子供の頃はたまに家族でここに来た。この庭で弟妹たちと遊んだ。
母は過保護な人で、少し転んでもすぐに庭に飛び出してきて心配する。朝から晩まで、どの子供にも世話を焼く。
父は仕事が忙しく、あまり会うことも無かった。無口で、気難しい父だ。でも家族を気遣っていたのだろう。生活で苦労したことも無かったし、こうして長沙の学校に進学するにあたっても普通の学生が貰う仕送りより多くを貰えていた。
「昼間さ、」
「ん?」
干物をかじりながら茶を飲んで庭を見ていたスイが、話しかけられてこちらを向いた。
「お前を探してるオッサン」
「うん」
「母さんみたいに見えた」
「は?宋さんは男だよ」
「んなことは解ってるわ」
スイが小首をかしげる。こういう動きをすると可愛く見えるが、自分を踏んづけた時のあの冷たい目を思い出すと、萎える。しかも話し方や身振りにイマイチ色気がない。
「母さん、すごい過保護で、勝手に俺の部屋とか見たりとか、ちょっとでも危ないことが起きないかっていつもソワソワしながら俺たちのこと見てた。ずっとうぜぇって思てたけど、どうしてっかな…」
スイはなんと言っていいか解らず、黙って聞いている。
「オッサンに言われた通り、マジ俺バカな息子なんだわ」
新しい煙草に火をつけ、自嘲し笑う。スイはやっぱり黙っている。
「…オイ、なんか言えよ」
スイは干物をちぎって咀嚼しながら、首を傾げまた少し考える。
「馬鹿なのには気付いたんだ。良かったね」
「……お前、ホントにヘンな女だな。普通慰めるとかしてくれるんじゃねぇの?」
「なんで慰めなきゃいけないの?」
スイの心底不思議そうな顔をみて博文は大きくため息をついた。
「俺、へこんでんだから、優しくしてもいいんじゃねぇ?」
「なんで博文に優しくしなきゃいけないの?私と宋さんの大事なもの今日盗んだくせに、優しくされると思ってるの?」
「…まぁ、そうか」
「今まで皆に優しくされてたの?お店のお姉さん?家族以外の人たちは、今日見た感じ博文のお金目当てだったんじゃない?」
遠慮なくズバリと言われムッとする。
「オイ、失礼だぞ」
「あ、ごめん。でも今日の昼間見た人たちがお友達なら、なんかやな感じだったなって思ったんだもん」
スイには遠慮という言葉は無いのだろうか。言いたい放題だ。
「あれでも話が合うんだよ」
「そうね。博文もチンピラっぽいし似た者同士なのかな。でも私が友達なら、奢れとか、昼間から酒飲もうとか誘わない。こんな大変な時に、お金に困ってる人にさ」
「アイツらは俺の仕送りが途絶えたの知らないんだよ」
「友達なのに、気付いてくれないの?相談しないの?」
「俺にも立場があるんだよ」
「犯罪者になってまで守る立場って何よ?」
言い合うだけ負ける気がしてきた。正論で潰される。スイや宋は真っすぐ過ぎる。自分のような者のプライドなんて察する様子もない。
「もういい… お前と話すとボコ殴りにされてる気分になる。マジ萎えるわ」
「そうなの?でも、自分がバカだって気付けて本当に良かったね。きっと気付かないよりは明日はいい人になれるよ」
ズズっと音を立てて茶を飲み干し、
「美味しいお茶だった。入れ方上手いんだね。ご馳走様、そろそろ寝るね」
そう言って、スイは立ち上がった。今度は博文も引き留めなかった。
翌朝早く目が覚めたスイは、宋の部屋に行った。
宋はもう目覚めており、支度をしている。宋に鉄道の整備点検があることを伝えると、知らなかったようで目を真ん丸にした。
そこへ博文がやって来た。
「ついて来てほしい場所がある。今日付き合って」
昨日から何度目になるか、宋とスイは顔を見合わせた。
相変わらず土地勘のない広すぎる街を博文の後ろをついて歩く。
どうも大都会というのは田舎育ちの自分には合わないようで疲れる。
成り行きはどうであれ、こうして前を歩いてくれる人がいないと安心して歩けないと思う。
それにしても、あんなに怒った宋がよく黙って付いてきたものだとスイは内心驚いている。
広い通り、狭い路地を、いくつか抜け、昨日の歓楽街でも繁華街でもない、似た様な規則正しい形の建物の並んだ街並みに出る。
そしてレンガ造りの一軒の前に立つ。
門の前で、三人は立ち止まる。博文が深呼吸をする。そして意を決したように門をくぐり、宋とスイはそれに続いた。高商会の長沙支店の門を。
入ってすぐに広いホールがあり、広いカウンターにしっかりと施された化粧に立ち襟のかっちりした服装の女性が一人座り、書類に判を押している。三人の姿を見て、顔を上げ、優雅に微笑んだ。
「いらっしゃいませ、どのようなご用件でしょうか?」
緊張した面持ちの博文が、うわずった声で答える。
「ご、ご無沙汰しております。博文です。支店長にお会いしたく、参りました」
カウンターの女性は、一瞬わからないと言った顔をするも、一拍置いて
「あ!あぁ!坊ちゃん!お待ちくださいませ!」
そう答えると、慌てたように裏に消えた。
「覚えててもらえて、良かったね」
スイは小声で博文を小突いた。
間もなく客間に通された三人の所に、宋よりもまるまる太った中年の男が転がり込むように入ってきた。
「ぼ、ぼぼ、ぼ坊ちゃん!!お探ししておりました!何度かご自宅へ伺ったのですがお留守でしたので!」
「申し訳ありません。学校で寝泊まりしていることもあったもので…」
「それは勉強熱心でいらっしゃる!」
呑み歩いていただけだろうと、冷ややかな気持ちで見つめる宋とスイに博文咳ばらいをした。
「いつぶりでしょう?ご入学の頃に来ていただいて以来ずっかりご無沙汰しておりました。ところで、そちらのお二人は?」
支店長は二人の冷めた視線に気付かないのか、気にしないのか、そのまま話し続ける。
宋とスイは立ち上がり二人で頭を下げる。それに合わせ博文が紹介する。
「先日街でお世話になった旅のお二人です。これから首都へご友人を訪ねられるということなので、首都の様子を教えて頂きたくて来ました。あと、父からの便りも無くなったので、安否がわからないかと思って…」
支店長は難しい顔をした。
「社長の安否は、私どもも探っているのですが判らないのです。首都へ行った商隊も戻らず、様子を見に行ったものも戻りません。検問が厳しくなっている様で、首都への出入りはかなり難しいようです…」
どうも思っているより事態は深刻なようだ。
「逃げてきている一般人が沢山いるようですが、そういった方々に混ざって様子を見に行った方は戻らないのですか?」
スイは我慢できず尋ねる。
「中央からの鉄道は一杯で、乗ることが出来る者はごく一部だと聞いています。馬を使っても陸路だと
時間がかかります。無事だとしても、おそらくまだ戻れないでしょう」
三人は押し黙った。何とも言い難い状況だ。
「学生の多くが武器を取っていると聞きます。その影響でこの長沙でも一部で教師を巻き込み学生運動が起こり始めていると聞きます。坊ちゃんの学校ではいかがなのでしょう?」
「………。」
宋とスイは博文が何と答えるのだろうと見る。宋は冷ややかに、スイは面白そうに。
「授業の、なくなる日も出ていますね…」
あぁ、学校が休みになることがありそれで街に若者が多かったのか、とスイは納得する。
学校の多い街だと聞いたから、学生運動に参加しているのはまだ本当に一部なのだろう。
「学校の授業が行えない日もあるなら、泊まり込むほど熱心な坊ちゃんにはさぞ困った自体でしょうな…」
支店長は同情するように言う。スイは噴き出しそうになったが、なんとか我慢した。
解っていて嫌味を言っているのか、本当に鈍いのか、どちらか解らないがこの支店長はさっきから痛い所をついてくる。
笑いで肩が震え、たまらず下を向く。博文が睨みつけてくるのが分かるが止まらない。
宋が困ったようにスイを見る。
「おっ、お前!!俺のこと馬鹿にし過ぎだろう!!」
高商会の長沙支店を出てしばらく歩いた所で、それまで黙っていた博文が顔を真っ赤にして振り返った。
「だって、可笑しかったんだもん」
スイは至極当然だという風に真顔で答え、宋はまた困ったようにスイを見る。
「オッサン!やっぱりコイツ、オッサンにネコかぶりすぎてるぞ!こんな女と結婚していいのか!?」
噛みつくようにスイを指さし叫ぶ博文に宋は真顔で答える。
「お前に、なにがわかるのだ…。しかしスイ、あそこで笑ってはいかん」
「はい、ごめんなさい。でもあまりに博文が滑稽だったもので」
「それは、同意するが…」
「オイ、マジでお前ら失礼だぞ」
三人は繁華街の屋台で昼食をとることにした。テーブルがある場所を選び、揃って牛肉面を頼む。
「ねぇ、なんでまだ博文が一緒なの?もう別行動でもいいんだけど…」
昨日の宋が怒っていたこともあるので、スイは切り出してみる。
「俺は今日付き合えって言ったんだから、まだいいだろ」
スイはチラリと宋を見るが、特に何かを気にした様子も見せずしらっとしている。どういうことなんだろう…
麺をすすっていると、昨日の派手な柄の入った羽織を引っ掛けた三人の若い男がやって来た。
今日は派手だが違う羽織を羽織っている。毎日羽織を変えられるほど、彼らも裕福なのだろうと思う。
「オイ、博文、こいつら誰だよ?俺らほっといて、何してんだ?」
「今夜はどうなんだよ?」
博文の肩を組み誘う。
少し目を伏せてから博文は三人に言う。
「いや、俺はしばらく無理だわ。今あんま金ねえぇの、だから奢れねぇし」
「オイオイ、冗談だろ、高商会の坊ちゃんが、金ねぇとか」
「ヘタな嘘つくなよ~、娼館のあの子も待ってるぜ」
「…」
博文は答えない。宋とスイは成り行きを見ながらも、麺をすすり続ける。
「マジだよ、悪いな」
しばらく黙っていたが、博文は小さな声で答えた。
しばらくやいのやいの騒いでいた三人だが、その後何も言わない博文に諦めたように去っていった。
「いいの?立場はどうなったの?」
麺を間食し、汁も残さず飲み干してスイは博文に声をかけた。
「いいんだよ。クッソみてぇなプライドだ」
「ふーん…?」
スイには良く解らない。聖もプライドの高い男だと評されていた。男はスイには良く解らないプライドを抱えて生きているのだろうか。今思い出すと、千歳もなんだかそういう物がありそうな感じに思えてくる。宋も何かあるのだろうか。
自分だって、仕事にはプライドを持ってやってきたつもりだったけど、それとは違うのだろうか。
「なぁ、お前らに頼みがある」
真面目な表情で博文が頭を下げる。
「え?え?今度は何?」
スイが困惑し、宋と博文を交互に見る。
宋は食事が始まって以降ずっと黙っていたが、博文を見つめ「なんだ」と短く応えた。
「首都に行ったら、お前らの友達のついでに、俺の家族が無事か確認してくれないか?それで、伝えてほしいんだ」
すがるような目で、宋を見る。
「なんと?」
宋はまたしても短く応える。
「俺が、ちゃんと勉強してるって。卒業したら親父の仕事手伝って、家族のために働くって。だから安心してくれって。無事でいてくれって」
「…その言葉に、偽りは、ないのか?」
宋の問いに博文は頷く。
「嘘にはしない。ちゃんとする。バカだって、気付いたから、昨日よりいいヤツになる。明日はもっと、いいヤツになれるようにする」
宋はしばらく無言で博文のことを見つめていたが、無表情のまま答えた。
「承知した」
と。
Ⅷ
「宋さんは、なんで怒っていらしたのに、結局博文に最後まで付き合ったんですか?」
長沙発の始発に乗り、窓を空けながらスイはずっと疑問だったことをやっと宋に尋ねた。
宋は彼にしてはぶっきらぼうに答える。
「家族を、蔑ろにする者は、好かん。しかし、彼はまだ子供だ。子供は、失敗し、何かを学ぶのに、導き手となる大人がいる。彼には、それにあたる者が、側にいない様だった」
スイは今回は宋の知らなかった一面を多く見た様な気がした。
「なるほど…。宋さんは本当にお優しい方。そして立派な大人です。私もいずれ、そのようになりたいです」
朝日を浴びる宋がまぶしく見えた。
「それにしても驚きましたね…。博文に8人も弟妹がいるなんて…」
スイは話題を変え、最後に博文に聞いた家族構成について率直な意見を述べた。
「さすがは金持ち… そんなに多くの子を、よくぞ食わせていけるものだ…」
宋も感心したように言う。
手には博文にもらった首都までの定期券がある。博文はしばらく帰ることは叶わないので代わりに使ってくれと別れ際に渡されたものだ。一人分でも、かなり旅費が楽になる。
「でも賑やかで、楽しそうですね、そんなに兄妹がいたら。家族で一座が出来ますね」
ふふ、とスイが笑う。
「お前は、子どもが好きだからな。ヤンとヤヲも、本当に、可愛がっている」
「はい!マオも可愛らしいですし、大好きです。叶うならば、私も何人か子を持ちたいです」
大した深い考えも無くスイは無邪気に口にする。しかし宋には色々思うところがあったようで途端にゆでだこのように真っ赤になった。
「……?…あ!いえ、違います!そういった意味で言ったのではありません!いえ、そういうことですが、違うのです!」
スイは宋の顔色を見て慌ててまくしたてるが、そうしているうちに自分も真っ赤になって手で顔を覆った。
「~ッ!ちがうのです…」
他人が見たら呆れるようなやり取りだ。二人を乗せ空いた鉄道は中央へ向け走っていく。
―思い出―
「どうしてこんなことになったのか、説明してもらおうか」
刻まれた皺をさらに深くして厳しい顔で尋問される。
「逆に伺いますが、貴方は何故彼女のお腹があんなに大きくなるまでお気づきにならなかったのですか?」
私は負けまいと、彼を睨み返す。愛する女性の父親に対する態度ではないとは思うが、この男は娘を愛してなどはいないのだ。父親として敬意を払う必要もない。
「今は私が聞いているのだ。黙って質問に答えてもらおうか、ミスター」
私が睨んだところで怯むことなど無いのだ。虫でも見るような目で見てくる男に、私は力強く言い放つ。
「彼女は閉じ込められ、父親にも相手にされず、さらにその父親の道具にされ、孤独の中で生きてきたのです。私は幼い頃から彼女を見てきました。愛する女性の寂しさを埋めたい。そう思うのは男として至極当然のことではありませんか?」
「なるほど。わかった。ではその愛する女の子どもは父である貴方に取り上げてもらおう。それまでせいぜい楽しい時間を過ごしてくれ」
それだけ言い捨てると、男は出ていった。
もう少しで産まれてくるであろう我が子。
きっと産まれてくれば私と一緒に殺されることだろう。
いかにして彼女と子供を守るか、考えることのできる時間はあとわずかしかない。