恋も知らない
―思い出―
迫りくる炎が恐ろしくて、裸足のまま真っ暗な山道をとにかく走った。
後ろでは見慣れた自分の村が焼け落ちていく。
優しかった家族が、昼間お手玉をして遊んだ友人が、お菓子をくれた隣人が、多くを教えてくれた師が、
全て炎に包まれて消えていく。
このままだと自分も殺されてしまう。
あの銀色の髪をした悪魔が、鋭い爪で切り裂きに来る。
そして村や家族と同じように燃やされてしまう。
子どもの足で、どこまで逃げることができるだろう。
そもそもこの山を越えた先の、自分が育った村以外のことをよく知らない。
逃げ切れるだろうか。一人ぼっちで。
恐怖で息がうまく吸えない。
「あっ…うぅっ…ふっ…」
やっと吐き出した息も、嗚咽で、苦しい。
ただでさえ走りづらい山道で、焦りで足がもつれて何度も転ぶ。
草を踏みしめ、藪を分けるこのガサガサとした音で、悪魔に見つかり殺されるんじゃないかと思うと暑くもないのに汗がわいてくる。
息もうまく吸えなくて、もう走れそうにない。
倒れた樹が重なる陰に滑り込み、両手足を抱えてできるだけ小さくなって身をひそめる。
震えが止まらない。
「たすけて…」
祈ることしかできず、無力な自分が苦しかった。
自分から全てを奪ったあの銀色の悪魔が、とにかく憎い。
Ⅰ
東の宗教国家、夏国の首都、来栖は内陸部で海こそないが、大河が近く肥沃な大地を持ち、多くの物流の要となる大都市だ。
近隣の国や地域の大きな道は、すべてこの来栖にたどり着き、大河は肥えた土と海からの船団を引き入れる。
ありとあらゆる人種、商品、そして学問、文化が集まるのだ。
旅の商人が盛んに市を出し、食事の屋台が並び、大河近くの農民たちも野菜や魚を売り歩き、大通りが活気づく。
夜になるとその大通りも昼間とは少し違った雰囲気になり、酒を出す店や娼館が明かりを灯す。
昼間とは違う活気が出るが、酒が入ると喧嘩やもめごとは多少なりとも起こる。
それを取り締まる仕事は僧兵たちが当たる。
僧兵たちは首都内を巡回して回り、治安維持に当たる。
その治安、経済、政治の全てを管理するのは、国の最高責任者である大僧正。
そしてその側近の12人の僧たち。
管理と言っても大僧正は主に祈りに時間を費やしているそうで、実権を握っているのは12人の僧たちだという。しかし実際の寺院の中は一般人には解らないことが多い。
年に一度、新年の祝賀の儀には大僧正も国民の前に姿を現すが、その姿は重たそうな衣服に身を包み、顔は厚いベールで何重にも覆い隠され、一言も言葉を発することはない。
しかしそれもまた、神聖で荘厳な雰囲気を民衆が感じ、信仰を集めている一因である。
国政の中心、大僧正の膝元である首都来栖は学習機関も多い。
学びたい若者は首都に来れば、何でも学べる。
多くの優秀な人材確保のために奨学金制度も充実しており、毎年借り入れる学生は多くいる。
貸付先は国であるため奨学金を利用し卒業した暁には、その知識と能力を国に返還するために官吏とならなくてはならないが、要は国家官僚、僧兵、最低でも国管轄の機関の掃除人くらいにはなれるので、将来の生活も約束される。
借り入れにはもちろんだが適性試験があり、学校入学時の成績順位で金額の増減があるため、皆勉学に励んだ上での受験、奨学金申請となる。
「俺さ、やっぱり医者になる。だから首都で学校に通おうと思ってる。」
旅芸人の大梅一座のの布張りのテント。ステージ裏の薄暗い控室で食事机の上のランプの明かりが時折揺れる。
今そこには、掃除のために残っていた少女と、一座を率いる女座長の息子である少年の二人しかいない。
今日はこの街の公演の最終日だったから、他の多くの者は街に食事と酒盛りに出かけた。残されたのは酒が飲めない子供だけだ。
二人だけになるのを待って、ひそひそと伝えてきたところから、首都での勉学への意思がまだ秘密なのは少女にも理解できた。
少年は今年16歳になる。聖という名で、大きな茶色みがかった色素の薄い目をしている。髪の毛の色もこの国の多くの民族より色素が薄くやや明るい。年齢より幼く見える顔立ちと、声変わりをして間もない少年独特のテノール。少し太めの眉が、下がっているため優し気な雰囲気に見える。近眼のため黒い目立つフレームのメガネをかけている。
今はランプの明かりだけでは壁際に立っている聖の表情は、良く解らない。
ステージ衣装ままで、青い漢服自体は闇に沈んでいるが襟元の金糸の糸だけがランプの明かりに浮かび上がって見える。
ステージの掃除を終えて、モップや雑巾をまとめて片付けるのをいつもなら手伝ってくれるのに、今日は見ているだけで何もしないと思ったら、言いたいことがあってタイミングをはかっていた、というわけだ。
しかし嫌な予感がする。
「ここを出ていくってこと?座長はお許しになったの?」
座り込んで雑巾を洗っていた少女はバケツから顔を上げ、聖の表情を見極めようと薄明かりの中目を凝らす。
「まさか!母さんが俺を一人で首都に出してくれるわけ無いよ。だから話してないし話さない。」
壁際から数歩近付いてきてくれたおかげで、ランプの明かりに照らされ表情が見えるようになった。
神妙な顔をしているかと思っていたが、どちらかと言えば悪戯をたくらむ子供のような顔だった。
パッチリとした二重瞼が、今はにやりと眼鏡の奥で怪しく細められている。
いくら今ここには二人きりだと言っても、他の子とか万が一誰かに聞かれたらどうするつもりなんだろう。
「座長を謀って、一人で首都へ行くなんて無理だと思う。きちんと説得した方がいいよ。ちゃんと話せばきっとわかってくれると思うよ。」
この表情の悪戯を手伝って、いい結果が出たことはない。
少女は出来るだけそっけなく言い返す。
座長の息子である聖ならば何をしても怒られ方もそれなりだろうけど、
ただの団員、特に金で買われた身である少女の方は家出の片棒を担いでバレた場合、タダでは済まない。
「スイだって、ここにいて一生軽業師なんてするより、首都に出て働いた方がいいよ。いつまでも一座の所有物階級なんてよくない。俺と一緒に行こう。」
聖が近付いてきてすぐ側にしゃがみ、視線を合わせて力強い目で見つめてくる。
「私も?」
なぜ自分まで。
この手のお願いに負けて、何度痛い目を見たかわからない。
ムカつく先輩の食事に刻んだジョロキアを入れたり、鼻毛を書いたりと些細なイタズラはもちろん、一緒に夜どうし星を見て行方不明だと騒がれたり、勝手に街に行ってスリをしたこともある。
発案者はいつも聖で、年下のスイは実行役だった。
すばしっこくて、身が軽いのがスイの特技だ。
大抵のイタズラは持ち前の小回りでうまくやったが、必ずバレる。
バレれば怒られる。大体ぶん殴られた。しかし殴られるのは所有物階級のスイだけだ。
座長の息子は怒られない。
しかも聖は小狡くて、いつもニコニコと知らぬ存ぜぬだ。そもそも、スイがぶん殴られるほど怒られているのを知りさえしない。
しかもスイはその事実を聖に悟られないように毎回できる限り努力してきた。
イタズラの結果、スイだけが叱られたのを知れば聖を悲しませることになると思った。
売られてきたばかりの頃、口を利かず、食事もとらず、可愛さのかけらも無かった小汚い自分に聖はずいぶん世話を焼いてくれた。
笑顔を向けてくれた。
殴られたり、芸の練習で傷ができれば手当てをしてくれた。
話をすれば楽しい。話題も合う。聖に疎まれて、遊べなくなるのが嫌だった。
少し鈍感なところはあるものの、親切で優しいこの恩人兼友人を悲しませるのが嫌だった。
それゆえ、断れもせず今まで散々聖の誘いに乗って付き合ってきた。
「私は無理だよ。まず自由になるお金をほとんど持っていない。首都で頼る先もない。それに一座や座長には食べさせてもらって、芸を教えてもらってきた恩もある。弟子たちのことも置いていけない。」
理由はどうあれ、今回はその“イタズラ”に乗ることは出来ない。
座長の一人息子の共をして逃げるなんで、所有物階級の自分には考えられないレベルの大罪だ。
聖はそのことがわからないのだろうか。
いくら何でも無知、鈍感すぎる。
だいたい、突然首都に行ってどこに住むというのだ。
奨学金をもらって学校へ通うなら、聖は寮にも入れるだろうが、スイはそうはいかない。
スイには大した学もないから、同じように学校へ通うこともできない。
一緒に逃げて、首都で放り出されたら死んでしまう。
スイは14歳で、クセのない黒髪を顎のラインで切り揃えている。
この国では一般的な女性の髪の毛は長い。女で髪が短いのは子供か年寄り、所有物階級の者だけだ。
色白でややつり目の大きな瞳。血色はあまり良くないがその分舞台化粧がよく映える。
加えて少し早い成長期も迎えた後で、手足もスラリと長く女性らしいふくらみもある。
年齢よりかなり落ち着き大人びた雰囲気がある。
成長期をまだ迎えていない聖と並ぶと背丈もほぼ同じで、同年齢か、下手をしたらスイのほうが年上に見えるくらいだ。
今は仕事用の袖のない紅色のチャイナ服に合わせ、同じ色のアイラインと口紅を塗っている。
その容姿で髪が短いとなれば、身分の低さは見て取れるだろう。
一人で首都を夜にでも歩き回ったり、野宿なんかしていれば、人さらいに遊郭にでも売られかねない。
「でもスイには自由に生きてほしいんだ。一座への恩なんて、こんなに頑張ってるんだ、もう返したも同然だよ! ね、行こう!俺が必ず自由にしてあげるから!」
聖が言葉を重ねてくる。
「…だったら、学校を卒業して医者になったら迎えに来てよ。こればっかりは、今は付き合えないよ。私は所有物なんだから。」
所有物階級という立場から脱したいのは誰よりもスイ自身だが、子どものイタズラレベルの計画ではとてもじゃないけど付き合えない。
バケツに視線を戻して、残った雑巾を絞る。
「次の公演先は首都に近いから、そこに行ったら時期をみてこっそり抜けようと思うんだ。今の時期なら、どこの学校もその頃受験が始まるから、タイミングとしてはバッチリだよ!一緒に行こうよ!首都に入ったら、まずは兄妹ってことにして酒場で働かせてもらおうと思うんだ。酒場は昼間はやってない店だから、その間は寝泊まりさせてくれるところが多いらしいんだ。」
本当に子供の計画だ、無謀すぎる、と口には出さないがスイはやや呆れる。
「その計画は、多分私がいない方が成功するよ。二人で逃げれば目立つし、一気に二人も雇う酒場がそんなにあるとも思えないよ。まして、私は短髪だから兄妹にも見えないと思う。」
もう掃除用具の手入れから視線を上げるのもおっくうだ。バカげている。
「スイ、諦めないでくれよ。大丈夫だって!絶対に俺が何とかするから!」
その後も聖がいろいろ言って説得を試みてきたが、スイは生返事を決め込んだ。
こんな風に興奮して計画を話しているときの聖の説得は難しい。
そして今回は何時に増してしつこい。こちらの意見が全然聞こえている様子がない。
いつもなら、もう少し落ち着いて計画を立てると思うのだが、就学年齢的にも焦っているのだろうか…
スイは聞こえよがしにため息をついたが、聖には届いている様子がない。
Ⅱ
夏国の寺院が信仰している神は女神だ。悪魔を封じたとされている。
今から1000年ほど昔のことだ。
当時の国々は化学力を極め、多くの兵器を保有していた。
しかしそれらは使用されることはなく、表面上は平和を保っていた。
神話の悪魔はある日突然現れたらしい。
大国の指導者達をたぶらかし、戦争を起こさせ、多くの兵器が使われるきっかけを作った。
さらに情報を攪乱し、人の心を惑わせ、不安を植え付け、憎しみ合い、殺し合うように仕向け続けた。
国は滅び、人も動物も死に、大地は爆撃で穴だらけになった。
ちなみにその穴は今もあらゆる場所に大きな湖として点在している。
また利用された化学兵器の残骸が集められた、塵の谷が大陸の東西に今も横たわっている。
塵の谷を大きく迂回するため、東西交易にも時間がかかる。
それゆえ夏国は西国とは国交はあるものの頻繁なやり取りはない。
年に数度は、大型船団が行き来しているが一般人の往来はほぼない。
それゆえ、夏の主な外交相手は、南北の国々だった。
さて、夏の女神だが、その慈悲と愛をもって悪魔を自らに包み込み、共に大樹へと姿を変えたとされている。
女神が居なければ、世界はとっくに滅んでいたという。
この内容が国の子供から大人まで浸透している。歴史と神話がごちゃ混ぜだ。
真実は、一部の人間のみが握っている。
夏歴代の大僧正は件の女神の声を聴くものとして女性でなくてはならないとされている。
その選出方法は前任の大僧正の指名によって決定される。
いわゆる神託というものによる。
歴代の大僧正はだいたい初潮を迎えたばかりの国内の少女が選ばれ、大きな問題がない限りその生涯の長くを大僧正として過ごす。
慣例として女神に仕える大僧正は処女であるべし、という風潮があった。
僧自体も12側近僧も女性に限定されてはいないし、むしろ男性の方が多い。
彼らは事実上最も権力を持つ者たちだ。
何時の時代も、権力者の出自は大体想像がつく。家柄だ。成り上がりは一部に過ぎない。
首都の中心部に位置する大僧正寺院の敷地は広い。
正門の前にはかなり広いモザイクタイルの広場があり、新年の祝賀の儀の際に大僧正が塀の上に現れる。その時には広場が民衆で芋洗い状態になる。
その正門以外出入口はない。敷地は高い塀で隙間なく周囲がぐるりと囲われている。
その塀の中にはいくつもの小さな寺院、僧学校や図書館、役所もある。
それらが更に塀や植木で仕切られ迷路のように複雑だ。
どの建物の壁も白い漆喰で塗られ、朱色の瓦か、藍色の瓦が乗っている。
朱の瓦は寺院にだけ許された特別な色だ。その他の建物は藍色の瓦だ。
この敷地自体は正門で所持品検査を受ければ一般人も出入りはできる。
しかし中心部に行くにしたがって、寺院の割合が増え、中門がいくつも設置され、通行にはその都度許可証が必要となる。
大僧正の居住がどこかは公には知らされておらず、出入りできるのは数名の女官と12人の側近僧だけだ。
大僧正自身も先に述べたようにその姿はおろか顔は決して見せないが、側近たちもまた、顔を出すことは少なく冠の上に長方形の板を乗せた冕冠にレースの前垂れを付けている。
高位の者は、滅多に下級の者に顔を見せない。
そしてこの冕冠こそが、12側近僧の一人である証でもある。
今、深緑色の冕冠を被った長身の人物が小さな朱色の瓦の建物の前に跪いた。
「参上いたしました。千歳でございます。」
落ち着いた低い男性の声。
前合わせの白い着物に冕冠と同じ色の布を袈裟懸けしている。
袖は合わせて礼の姿勢をとっているが、その袖口は何枚か重ねられている着物のため色とりどりの生地がのぞく。
黒く絹糸のような髪の毛が腰まであり、それを白と萌黄色で編まれた組紐で後ろに一本に縛りそっけなく流している。
凝った髪型ではないが、むしろそれが髪の美しさを際立たせているようだった。
間もなく観音開きの木製の朱の扉が開かれ、髪を結いあげ真っ白な着物に薄桃色の布を腰回りに重ねて巻いた、若い女官が二人現れた。目の端には紅がさしてある。
「大僧正様が、お会いになられます。中へどうぞ。」
二人声を合わせて無表情なまま告げる。
衣服と髪型が同じだから、まるで双子の様に見える。
千歳は立ち上がり、二人の女官に礼をすると扉の中に入っていった。
入ると同時に、女官たちも扉を閉めながら、共に中へ入る。
「大僧正様は、奥の間でお待ちとのことです。」
二人の女官は先ほどと同様に、無表情に声を合わせて告げる。
建物の中は奥へ進むにつれ幾何学模様の布が何重にも垂れ下がっていて薄暗く、天井近くの明かり取りの窓だけでは目が慣れるまでよく見えない。
布を分けながらゆっくり進むと、部屋の奥には円をいくつも組み合わせた幾何学模様のラグが敷いてあり、その中心に大きなクッションがいくつか重ねてある。
本来そこにいるべき大僧正はおらず、千歳はそのラグを踏まないようにさらに奥に回り、部屋の隅にある1mほどの高さしかない小さな扉を開けた。
「千歳!待っていたのよ!お料理が冷めちゃうじゃないの。何をしていたの?」
腕組みをして、先ほどの女官たちと同じように髪をまとめ、目の端に朱を入れた壮年の女性がムッとした表情をしている。
裾を引きずる長さの朱色の着物に白い割烹着を付けて、いかにもお母さん、といったい出で立ちだ。
扉を開けたそこは、まるで別世界。
桃色や水色の淡い色合いの布団のたっぷり入った天蓋付きのベッド。
丸い円形テーブルにも桃色のクロスが敷いてあり、その上には湯気の上がるクリームシチューが二人分置いてある。
奥には小さいけれど、手入れの行き届いた土間のついた台所。葉物野菜の入った籠が置いてある。
台所は土間付きで和風だが、部屋のインテリアは少女趣味のフリフリした洋風だ。
「お待たせして申し訳ございません。少々午前の仕事の切れのいいところを見失いました。」
千歳は深々と頭を下げた。
「この部屋に来たら、それはやめて頂戴っていつも言ってるでしょう。頭を上げて、早くその冕冠をとってあなたの顔を見せて頂戴」
今度は拗ねるように言う。
「では失礼して。」
千歳は冕冠を取り、女性に顔を見せてやる。
長い前髪で片目は見えないが、目鼻立ちの整った美青年だ。
「我が息子は今日も美しい。母は満足です!さあ食卓へ!今日はシチューを作ってみたのです。口に合うかしら?」
顔を見ると満足げに頷き千歳の手を取りテーブルへ誘導する。
促されるまま食席につき、にこりと微笑み返す。
「大僧正様のお料理はとてもお上手ですから、美味しいに決まっていますよ」
「千歳!ここでは大僧正はやめて!お母さんと呼んでちょうだい」
ころころと表情が変わる。その無邪気な様子が幼子の様で少女時代から今に至るまでの長きにわたり、国の最高責任者をしている人間とは思えない。
「…はい、お義母さん。」
困ったように眉を下げ、それでも千歳は応じた。
千歳はもちろん大僧正の実子ではない。
まだ幼い頃、首都の孤児院にいるところを引き取られた。大僧正が直々に見初めた。
―この子は多くを学び、経験すれば、立派な僧侶になります―
引き取られてから、幼いうちはこの小さな部屋で寝食を共にした。
大僧正は優しく、本当の母親の様に慈しみ、世話を焼き、自ら学問を授けた。
彼女自身は自由に街に出ることができないが、千歳が街の様子を知ることができるようにと共を付けて外出もさせてくれた。
そして帰宅後、彼が話す首都の様子を楽しそうに聞いた。
年ごろになると、幼年学校へ通わせてもらい、勉学に励み、剣術、武術を極め、異例の速さで僧学校を首席で卒業した。
育ててくれた大僧正の力になれればと、彼なりに努力し続けた結果だ。
そして今や史上最年少の12側近の一人になった。
12側近になれたのはもちろん大僧正の後押しが大きいが、他の側近に有無を言わせないだけの能力が千歳にはあった。
また、身にまとう気配が常人のそれとは違った。
その完成された美しさや所作もあって、畏怖を抱かせるような、そんな青年だった。
食事が終わりに差し掛かった頃、
「そういえば、頼まないといけないことがあったのよ。島の民のことなんだけどね、」
夕飯の話題でも出すように何でもない雰囲気でに大僧正が話し出した。
“島の民”
その言葉に、千歳の肩が跳ねた。
「貴方の頑張りもあって、最近はずいぶん話を聞かなくなったじゃない。でも、だからこそ、取り逃しの無いようにしたいってことなのよ。」
「…どういう意味でしょうか?」
綺麗に弧を描いていた眉がひそめられ、声が少し震える。
「貴方をどうこうしようってことじゃないのよ?心配しなくても大丈夫。そうじゃなくて、あのね、逃げちゃった子達を探して欲しいのよ。いたでしょ?逃げちゃった子。何人か。」
千歳の様子を気にした様子もなく、大僧正は残り少ないシチューを口に運びながらのんびりした口調で続ける。
「…捕らえよ、と仰っていらっしゃいますか?」
恐る恐る、という風に尋ねる。
「そうね、そういうことだと思うわ。要は今までと同じように処理してほしいみたいだけど… どうする? 一人でやる? 何人かつければいいかしら?」
皿の中身も空になり、大僧正は顔を上げて千歳の顔見た。
「取り逃がしの捜索ならば、大きな軍団などは必要ないでしょう。私一人で問題ないです。」
あまり動揺してはいけないと、努めて自然に返す。
「そう? じゃあ、今やってもらっている仕事は他に引き継いで、千歳はその捜索に専念してちょうだい。」
「わかりました。では引継ぎの準備をして、本日中には…。お義母さんの食事はやはり美味しかったです。ごちそうさまでした。」
食事も終わり、話もひと段落したようだと思い立ち上がる。
「あらあら、待ってちょうだい、話はまだ終わっていないわ」
大僧正が袖を掴む。
「これは失礼しました。」
ゆっくりと再び椅子に腰かける。
「ごめんなさいね、これから忙しくなるのに引き留めて。」
「いえ、もったいないお言葉です。本当に失礼いたしました。」
お互いに笑顔を交わす。
「これは私からの提案なのだけど…」
大僧正は少し息を吐いてから続きを話し出す。
「まずはあの女の子を探してはどうかと思うの。昔貴方が話してくれた特別な子よ。覚えているかしら?」
探るように上目遣いで尋ねてくる。
「あの子…ですか?もちろん覚えていますが、なぜ彼女を?」
真意が解らず問い返してしまう。本来ならば大僧正に質問など恐れ多いことだが、親子として接してきた気安さが、この部屋にいるためか出てしまう。
「貴方はその子をいたくお気に入りの様子だったから、早いうちに見つけて、近くにおいたらいいと思うの。そうすれば貴方も安心でしょう?他の僧たちに気付かれないように新しい名前を付けて、まだ若いと思うし、私の女官に加えてもいいわ。それに私、ぜひ会いたいのよ。貴方が特別だと感じた子なんて、運命の相手かもしれないじゃない!ね、どうかしら?」
胸の前で手を組み、うっとりと言う。本当に無邪気だ。まるで恋でもしている少女のような表情だ。
それを見て、つい苦笑してしまう。
「別に運命の相手などと言う、ロマンチックな感情ではなかったような気もしますが… お義母さんがお望みならば今度こそ捕らえて御前に連れて参りましょう」
「いいじゃないの!私はこんな立場だもの、恋の一つもできないわ。可愛い息子に運命の相手がいるなら、それを夢見るくらいは女神様にも許していただきたいわ。」
ぷくっと頬を膨らまして見せる。
本当に幼子のようだ、と千歳は再び苦笑し、大僧正の小さな部屋を辞した。
Ⅲ
旅芸人の大梅一座はのろのろと大河に沿って東から西へと移動していた。
スイはテントの布の一部と、自分の芸に使う道具を背負い、左右に自分より幼い弟子たちの手をとって歩いていた。
大陸の春は風が強く、時々砂埃が上がる。大人も子供もゴーグルをして口元までストールを巻いている。
「うぇ…スイねぇ、お口にスナ入った…」
右側にいるより幼い方の少年がスイの手に顔をこすりつけてくる。
「あー、かわいそうに。ヤン、どれ。ストールちゃんと巻き直してあげるから口ちゃんと隠して歩くんだよ」
しゃがんでストールを巻き直してやる。
「スイねぇ、ありがとう。」
少年は世話を焼いてもらって嬉しそうだ。
「そんくらい自分でできるだろ。甘えんじゃねぇ」
左側にいる年かさの少年が悪態をつく。
「いいじゃない。これくらい、ヤヲもこのスイねぇが巻き直してやるよ~」
からかうように顔をのぞき込んでやる。
「いらねぇよ!俺もう6歳だし!そんくらい出来る!」
むきになって言い返してくるところが可愛い。
「あら残念。やってあげたかったなぁ~」
この弟子たちも売られてきた。
年少のヤンはつい先日来たばかりだ。まだ4歳だ。
ヤンにしてもヤヲにしても、まだまだ親が恋しい年ごろに見える。
スイがこの年頃の頃はまだ家族で故郷に暮らしていた。
スイはこの二人の教育係をしている。だから弟子と呼んでいる。
自分が売られてきたのはもう9歳だったから、芸を仕込んだのは大人の先輩でとても厳しかった。
しょっちゅうぶたれた。
不幸中の幸いだったのは、生まれつき身軽で、軽業師として才能があったことだ。
もし芸が身につかなかったら、他にまた売られていたことだろう。
一座は芸さえ覚えてしまえば居心地のいい場所だと思う。
きちんと仕事をすれば、それ相応の食事と待遇が提供される。
大人たちの中にも売られてきて成人した者もいるが、仕事が終われば酒もふるまわれるし、給料をもらう者もいる。
少なくとも娼婦や、どっかの金持ちのオモチャにされるよりは全然マシだ。
自分が教育係を務めているヤンとヤヲも、しっかりと芸を覚えてもらうことが明日のご飯と幸せにつながる。
そんな中で今一番の気がかりは聖だ。
次の街で本当に家出をするだろうか。
スイにとって聖は大事な友人だ。夢はかなえばスイも嬉しい。学校に行けるなら、ぜひ行くべきだ。彼は勉強は出来るし、今も多くの本を読んでいることは知っている。話をしていても物知りで面白い。とは頭で考える。
でもいなくなるのは正直寂しい。友人がいなくなっては、寂しい。本音を言うなら、一座に残って母親である座長からいつかこの一座を譲られ座長になってほしかった。
そうしたら友人の自分は気楽だ。
聖は先頭の方で座長と並んで馬車を引いている。
この機会にきちんと親子で話し合っていてはくれないだろうか。
…ないな。仲悪いもんな、あの親子。
大きなため息が出る。
「スイねぇ、どうしたの?疲れたの?」
ヤンが不安げに見上げてくる。
「大丈夫だよ。私も頑張るから、ヤンも頑張って歩いてね」
「うん!ぼく、がんばるよ!」
可愛い。子供は本当に天使。
その頃、聖はスイの心配した通り、隣に座った母親と一言も話さず過ごしていた。
ただでさえ親に反抗的になる年頃だ。
さらに聖は元々この母親を苦手としていた。
根っからの旅芸人である母は派手な見た目をしている。
顔は聖とは似ておらず、化粧をしていなければ一重の細い目でむしろ貧相な顔をしている。
聖はベース型の骨格をしていて、童顔でやや頭が大きく見えるが、母親は面長で顔も小さい。黒々とした長い髪も、アーモンドのような黒目がちな瞳も、色素の薄い聖とは違う。
どんな時でも濃い目の深紅の口紅、しっかりと引かれたアイラインのきつめの化粧をして、
衣装のチャイナドレス以外の服も、体のラインの出るようなものが多く、その豊満な身体を隠そうともしない。
そして父が亡くなってからというもの、その色気を隠すことも無くなり実際に何人もの愛人を作っていることは息子である聖にも知れていた。
どうしてもその全面に出る色香が、不潔に感じられる。
そして、息子にそう思われていることを母親の方でも気づいていたが、特に取り繕うことも、その派手な男性関係も控えるつもりもないのだった。
聖の胸の内には、昔からこの母親のもとから自立したい気持ちがあった。
父親は10歳の時に事故で亡くなったが、それ以降自立の意思はさらに強くなった。
父の容姿は聖とよく似ていた。いや、聖以上に明るい髪と瞳の色をしていた。
夏国より西国の血が混じっているということだったが、自らの出自を多く語ることはなかった。
なんとなく不思議なところはあったが、優しい父で勉強を教えてくれたし、よく遊んでもくれた。
そしてその父が、医者だった。
どのような経緯で母と結婚したかも知らなかったが、医者である父が旅芸人の一座に身を置き、行く先々で患者を診ていた。
愛想がよく優しく、腕も良い医師であった父は皆に愛された。
尊敬している父。
自分もああなれたらと思う。
そのためには何としても首都の学校へ通い、専門知識を学び、医師の資格試験に受からなくてはならない。
そして今家出を焦っている理由はスイだ。
買われてきた時のスイはひどい見た目だった。
一体どうしてこんな姿になったのだろうかと聖以外の者も思ったことだろう。
ボロボロに敗れたシャツで、ズボンは膝から下が焼け落ちたみたいになっていた。
そのボロボロの服から出る手足はどこもかしこも痣や擦り傷だらけだった。
髪の毛は今と違って腰のあたりまであったが、なぜか片側が短く、ざんばらに切られている。
今の時代、戦争があるわけでもないし、こんな汚い身なりの商品はいない。
だいたい貧しい地方の子どもたちが売られてくるのだが、それなりに綺麗にしている。
高値で取引されるために、着飾っている状態で売りに出されている少女もいる。
しかしスイの様子は貧しいにしてもあんまりな状態だった。
本人も表情がなく、口もほとんどきかなかった。返事の一つもしないし、目も合わない。
唯一、自分の名前だけはなんとか言えた。
障害のある子どもだと思われたようで、取引値も安かったと皆が噂していた。
小汚くて、意思疎通もまともに出来ない子供の相手など大人たちも嫌がる。
芸を教える人間も、言葉が通じないと思っているから、身体に覚えさせると容赦なくスイを殴った。
買われてくる子供は、一座には毎年一人か二人はいるので珍しいものでもなかったが、
スイは特に無気力で、最初は興味もなかった聖も、このまま別に売られるか捨てられるんじゃないかと、さすがに心配になってきた。
食事もあまりとらず、やせ細って見るからに痛々しい。
とても芸事どころではない様子に見える。子供の聖が見ても生きているのがやっとの状態だ。
そこでこっそり、自分の食事やお菓子を分けるようになった。
子どもが捨て犬の面倒を見るような庇護欲で、聖はスイの面倒を見ていただけで、特に深い気持ちはなかった。
最初は聖が差し出す食べ物も、興味なさそうに見ていたスイだが根気よく毎日声をかけているうちに、ある日饅頭を差し出すと手に取った。
しばらく手にして見つめ、口に運ぶ。
一口含むと、なんとボロボロと涙をこぼし始めるではないか。
初めて聖が見た、スイの感情だった。
声も出さず、涙だけがボロボロと落ちていく。
不思議だった。声を出さずに泣く子供がいることをこの日まで聖は知らなかった。
「…だ、だいじょうぶ?」
おずおずと尋ねると、
「ありがとう。だいじょうぶ。」
意外にもはっきりとスイが答え、で聖の顔を見つめ返してきたので驚いた。
この瞬間まで、正直、聖もスイが障害児だと思っていたが、はじめてきちんと交わされた、たったこれだけの会話で、スイが人とコミュニケーションを取れない訳でないことを理解した。
それだけ、スイの視線はしっかりとした意思のあるものだった。
それ以降、聖は面白くなって、それまで以上にスイのもとへ行き、返事がない時もしつこいほどに声をかけた。
お菓子を分け合い、時には外に連れ出して一緒に川を、空を、花を見た。
前は障害があると思って、犬猫に対するように一辺倒なことばかり話しかけていたが、コミュニケーションが取れると分ってからは、一座の仲間の噂話や、昨日読んだ本の話、その地域の風習や天気や天体のことなど、知っていることを全て話題にした。
何がスイの興味を引くのか、何の話題で表情を変えるのか、知りたくなったからだ。
徐々にスイも心を開き、笑顔を見せるようになり、会話が弾むようになった。
聖や他の一座の仲間の誰も予想しなかったことだが、意外にもスイは多くの知識を持っていた。
むしろ一般的な9歳の子供よりかなり多かった。
有名な物語はあらすじを大体知っていたし、日常生活で困らない程度の文字の読み書きもできた。
天気の仕組み、植物の種類、天体の動き、歴史、地域ごとの風習なども知っていた。
父から受け継いだ知識を、スイとの会話ではふんだんに活用でき、さらにお互いの意見を述べ合える。
時にはスイから学ぶこともあったし、聖が教えることもあった。
聖にとって、こんなに会話を楽しめる相手は父以外では初めてだった。
拾った犬同然だったスイへの気持ちは、すっかり変わり親友として誰よりも信頼するに至った。
1年もすると、スイ自身も一座の誰とでも普通に会話ができるようになり、
買われてきて3年たった12歳の時には一座の舞台に軽業師として立った。
覚え始めると芸事も見る見るうちに上達し、玉乗り、逆立ち、綱渡り、ジャグリングにナイフ投げと多くを身に着け、今や一座の人気芸人となった。
かといって、驕るような態度をとることも無い。
自分の立場を理解し、真面目に働いていた。
大梅の座長である聖の母親は見る目があって、最初から磨けばスイの見た目は美しくなるだろうと思って期待していたが、まずはその聡明さに喜びスイをとても可愛がった。
彼女自ら化粧を教えてやり、舞台に立ってからは偏ることの無いように食事もしっかりと摂らせた。
そして、座長の目論見通り、栄養をしっかり摂ったおかげか女性としても美しく成長した。
こうなると、何が何でも一座に長く留め置いておきたい。
商品として売られてきた人間も、身分のある一般の者と結婚するか養子になるとその所有物階級の身分を脱することができる。
要は、スイも誰かと結婚すれば、晴れて自由の身となってこの一座を出ていくことも許されるのだ。
夏の婚姻は女は16歳、男は18歳からだ。人気芸人となったスイが、下手をするとあと二年で出ていくかもしれないのだ。
座長としては、可愛がっている大切な稼ぎ頭をどこの馬の骨に連れ去れては困る。
かと言って仲がいいのは知っているが、聖と結婚させるわけにはいかない。
子供が、所有物階級と結婚するのを喜ぶ親はあまりいない。
そしてそれ以上に彼女としては、一人息子と縁付けることで息子が更に生意気になることを心配した。
彼女はありとあらゆるイタズラの首謀者が息子であることも、外面はいいが腹黒いことも理解していた。
人気芸人の美しいスイを手に入れれば、天狗になるかも知れない。
そもそも、息子が本当は一座にいたくないことも気付いていた。スイを連れて出ていくかもしれない。
そんな時、スイが年頃になったら妻にしたいというものが現れた。
一座で道化師をしている40代の小太りの宋という男だった。
所有物階級ではなく、親切で真面目な男だが、とにかく醜い顔をしている。また、愛想もない。
その醜さ故か、40歳を過ぎても独身であったというわけだ。
先代からこの一座にいるこの男であれば、結婚したからといって一座を抜けて出ていくことはないだろう。
また所有物階級同士を結婚させれば、身分を得たいがために他の男と逃げ出さないとも限らないが、この男ならばスイも身分を得ることもできる。
スイの普段の様子を見れば、この醜い男とも普通に話をしているし、見た目が悪いからと拒むことも無いだろう。
そもそも立場を理解しているスイが、断るはずがない。
男には、スイが16歳になるまでには結婚できるように説得するから、もう少し待つように伝え、
スイには理由を伝えずに、これから髪を少しずつ伸ばすように指示した。
スイは、顔になんの感情も出さずに素直に頷いた。
さて、ここまでは座長としては問題なかった。
問題は、スイに髪の毛を伸ばすように伝えたのを聖に聞かれていたことだ。
聖はすぐにそれを疑問に感じたし、その疑問を解くための情報収集をあっという間に始めた。
そして、まだ宋と座長以外誰も知らないはずなのに、その日のうちにはあの不細工がスイを嫁にと望んでいるようだと察した。
ここで聖の中で何かがはじけた。
あの不細工なんかに、自分の大切な親友をくれてやれるものか、と腹の底から激しく怒りが込み上げてきた。
無意識に握った拳が震える。
男のでっぷりとした腹、あばただらけの頬、デカい鼻。
その身体がスイに擦り付けられるかもしれないと思うと気色悪さに吐きそうだ。
その瞬間から聖はスイを異性として意識していたことを自覚した。
あの男に抱かれ、この一座の中で見世物になり続けるくらいなら、自分が奪って逃げてしまった方が絶対にスイのためになると盲目的に思うようになった。
そして、この申し出を受けたであろう母親に、一層の嫌悪感を抱いている、と言うわけだ。
ここで親子関係が元々良好であれは、聖も素直に母親へ医師になりたい意思も伝えただろうし、スイの婚姻にもなんだかんだ得意の言い訳を付けて反対できたかもしれないが、なにせ普段からほとんど口をきかないのだからどうしようもない。
今だって、馬車の手綱を引き隣同士に座っているのに、ここ数時間一言も口をきかない。
Ⅳ
大梅一座の舞台はパオと呼ばれるテントで行う。
パオの大きさに合わせ柱を数本立て、放射状に梁を渡す。
そこに色とりどりの幕を何枚も張り巡らし、美しい影ができるように工夫し、外側に暖を取るためフェルトをかけ、仕上げに雨水が染みこまないように蝋を塗った布をかぶせる。
中央には舞台を組み立て幕、観客席はゴザを敷く。
舞台になるパオ以外にも、一座の寝泊まりするものもいくつか立てる。
一座は50人ほどの大所帯なので、簡易の小さな集落の様になる。
そのパオ建ての作業を興行地につくと子供から大人まで全員で行う。
男たちは力仕事を主に行うが、その他の女子供たちは主にパオへの布掛けを手伝う。
スイは軽業師なので、そのジャンプ力やバランス感覚を生かして高所での作業を主に請け負う。
他の軽業師たちと一緒にロープや幕を持って飛び回る。
昼に宿営地を決定してもすべてのパオが完成するのは夕方だった。
女たちは途中から食事作りに移っており、完成の頃には夕食が配られた。
スイは食事作りではなく、パオの設営に最後まで携わっていたので動き回りすっかり疲れていた。
着ている普段着の紺色の7分袖のシャツの袖で、顔の汗をぬぐう。
今日は天気が良く、宿営地にしたこの草原から見える夕日が赤々と地平線に沈んでいく姿がきれいだ。
少し離れた場所に、大きな街がある。
流石に首都である来栖に近いだけあって、規模が大きい。
街の中にいくつかの楼閣も見え、商隊も絶えず出入りしている。
今回の興行は客が集まりそうだ。きっと儲かる。
儲かれば子供にも少し小遣いがもらえる。
休みももらえたら、ヤンとヤヲを連れて買い物に行ってお菓子でも一緒に買いたい。
そんなことを考えて、スイは少しワクワクとする。
最近は聖のことが気がかりで、他のことはやや上の空だったがこうして大きな街を見て興業のことを考えると少し気がまぎれた気がする。
天気がいいので、一座はゴザをひいてそのまま外で食事をとることになった。
食事をもらおうと列に並ぼうとするとヤヲがヤンの手を引いて駆け寄ってきた。
「スイねぇ!オレたちがメシとってきてやるから座っててくれよ! 座るところ、オレたちの所もとっておいてくれよ!」
ヤヲはヤンが来てからしっかりしてきたなぁ、お兄ちゃんの気分なんだろうなぁとスイはほほえましくなる。
「やった!ヤヲ気が利くー。ありがとう、むこうで待ってる。走らなくてもいいからね。」
スイが嬉しそうに応えると、ヤヲに手を引かれたヤンが得意げに応じる。
「わかったぁ。今日はね、にくだんごのスープだよ!ぼくもおだんご、丸めるの手伝ったんだよ!」
楽しそうに二人は食事の列へと駆けていった。
スイは二人に言われた通り、三人が座れる場所を確保するためにゴザへと向かった。
二人が来てすぐわかるように、端の方に正座で座る。
すると大柄な男がスイに声をかけてきた。
「ここに座ってもいいか?」
宋だ。
「あ、ヤンとヤヲが来るので、その分を空けてもらえれば大丈夫です」
「そうか、では」
膝を折って、宋はスイの隣に座ってきた。
周りのゴザにはまだ余裕があるし、宋はいつも同年代の男たちと行動を共にしているので珍しいことだ。しかも大の男が膝を折って、行儀よく座るなんてちょっとおかしい。いつも皆あぐらをかいている。手ぶらで、まだ食事の皿さえ持っていない。
違和感を感じたが、あまり物事を深く気にするたちではないスイはそれ以上を考えるのをやめた。とりあえず、ヤンとヤヲには反対隣りに座ってもらおう。
宋は無口なこの男にしては珍しくスイにさらに話しかけてきた。
「実は、お前に頼みたいことがある」
スイは何を頼まれても快く受けるし、所有物階級という立場的にも普段から一座内で物を頼まれることは多い。
「はい、何でしょうか?」
身体の向きを少し宋の方に向き直し、何の雑用を頼まれるのだろうと少し首をかしげる。
「あのな、その…」
宋は何かを言いあぐね、まだ暑い季節でもないのに額にぐっしょり汗をかき、それを必死に手ぬぐいで拭きだした。どこか具合でも悪いのだろうか。
「大丈夫ですか?お水を持ってきましょうか?」
スイはいつもと違う宋の様子に心配になる。
「大丈夫だ、違うのだ。いや、なんと言うか、その…」
言いづらいことなのだろうと察して、スイはそのまま待った。
宋はしばらくそのままもじもじして、相変わらず額の汗を拭き続ける。小さな目で、あちこちせわしなく視線を泳がせる。
その状態が5分近く続いた。
「何か言いづらいことでですか?場所を変えた方がいいですか?」
いい加減にその状況に飽きてきて、ついにスイは自分から話しかけた。
「いや、ここでいい。今すぐにという話ではないのだ。」
「ではいつ頼まれればいいのですか?」
これ以上もじもじされては、食事もしづらい。さらに畳みかけて、ヤンとヤヲが来る前にさっさと要件を聞き出そうとする。
「いつ…と言われれば、早くても2年後の話なのだが…」
「2年?!」
思いがけない先の話に、つい大きな声が出てしまった。しかし宋はそんなスイの様子は気にする余裕もないようで、そのまま話し始めた。
「そうだ。座長にはもう話してある。お前に先に言わなかったことは申し訳ないが、今お前は座長の所有だから許してほしい」
「はぁ…」
何の話かいまいち分からないスイは何と答えればいいのか良く解らず、あいまいな相槌をする。
そんなスイの顔をまじまじと宋は見つめてきた。
「俺が何の話をしているか、解らないといった顔だな。」
「申し訳ないのですが、何の話かはちょっと分からないです。」
スイは素直に答えた。
「座長からは、何もまだ聞いていないか?」
宋は探るように遠回しに聞いてくる。スイはこういった回りくどい言い方はあまり得意ではない。
はっきり言ってもらわないと解らない。
そもそも宋は普段はこんな遠回しな言い方はしない。
元々も口数も少ないし、必要なことだけを簡潔に言う。
「特に思い当たることはないです。」
宋は少しがっかりしたように視線を下に落としたが、すぐに顔を上げスイを再び見つめてきた。そしてあろうことかスイの両手を取って握りしめてきた。
びっくりして、身体が少し後ろに引いた。
「な、なんですか?」
こんな風に男性に手を握られることなど無いスイはうわずった声を出した。
そんなスイの手を離さず宋は逆にやや近付いて、意を決したように告げた。
「お前が16になったら、俺の嫁になってもらいたい!」
それは、宋本人にとっても思いがけないほどの大きな声だった。
「え!!ヨメ!?」
すぐに反応したのは、言われたスイではなく両手に食事の皿を持ってやってきたヤヲだった。
「ソウさんとケッコンするってこと!?」
隣にいるヤンも即座に反応した。
二人とも目を真ん丸にして、驚いた顔をしている。
スイ自身も多分同じような表情をしていると思う。
宋の声が大きかったことと、ヤンとヤヲが騒いだことで他の一座の面々もこちらを見た。
そんなことを言われるなんて全く想像していなかったスイは、ヤンとヤヲ、宋、そして周りを忙しく見まわして助け舟を出してくれる者はいないかと無意識に探す。
ふと、少し離れたところに聖が立って、こちらを見ているのが見えた。
しかし聖はスイと目が合うと、すぐ視線を逸らして踵を返してどこかへ行ってしまった。
…裏切者が、コノヤロー!!!!
スイはムカついた。聖に対して。いつも自分の困りごとや思い付きにはいくらでもスイを巻き込むくせに、こんな時に何もしてくれないなんて友達甲斐のないやつめ!!
しかしそれを顔には出さない。
今は目の前にいる宋を何とかしないといけない。
必死に頭をフル回転させる。
何と答えるのがベストか。
そこに大笑いしながら、踊り子をしている姉さん達が、どやどやと割って入ってきた。
「ヤダよ!宋さん!まだ14のスイにそんなこと言ったって、困ってるじゃないか!見た目はちょっと綺麗になったって、スイはまだ子供なんだよ!」
「そうですよ!私たちを残して先にスイが嫁に行くなんて、順番が違うじゃないですかぁ。失礼しちゃう!まったく。」
「ほら、いつもの仲間とあっちで飯食っておいでよ。ここは私たちの席なんだからさ!」
「私たちの嫁入り先も見つけてきてくださいよ~」
そしてうまく言いくるめて、その場から宋を追い出した。
ヤンとヤヲも引っ張ってきて側に座らせ、スイを囲んで腰を下ろす。
そして小声でスイに口々に声をかけてきた。
「災難だわね、あんな不細工に気に入られて。」
「いい人なんだけど、どうも冴えないわよね、宋さんって。」
「しかもよりにもよって、こんなみんな見てるとこでさ。これじゃもう断れないじゃないね、あんたの立場じゃさ」
「座長にはもう話してあるって言ってたしね…」
優しい姉さん達の助け舟で、ほっとしたが、そうだ、これは断る事の出来ない話だ。
「ありがとう。私なんて答えたらいいかわからなくて、ボケっとしちゃった。助けてもらって助かりました。」
姉さん達に深々と頭を下げる。
いいのよ、気にしないの、と姉さん達は口々に笑い合う。
18歳から30歳の5人で、この踊り子達の中でも一番の年上のリーダーと一番年下が所有物階級の者だ。
一座では普段は階級の差もなく、皆仲良く過ごしている。
この踊り子の様にチームのリーダーを任されることもある。
そのリーダーが寂しそうに下を向き、ぽつりと言った。
「でもさ、宋さんはあんなだけど、これは私らみたいな階級にはいい話だよね。あの人と結婚したら、階級抜けだよ。私なんて、踊りしかできないし、あと何年やってられるか…」
皆が何とも言えない表情で黙ってしまう。
「あ、やだよ、ごめんよ!気にしないで!さ、ご飯食べて、明日のためにさっさと寝よう!ね」
リーダーはパッと顔を上げて明るい声を出し、それに促されるように他の踊り子たちもワイワイと再び騒ぎながら食事が始まった。
数人の少女たちが寝ているテントで、同じ布団に並んで寝ながらヤンとヤヲにおとぎ話や歌を聞かせてやる。これはスイと幼い二人の決まりだった。
本当なら男の子の二人は、少年たちのテントに行くべきだったが、ヤヲは今年いっぱい、ヤンも6歳まではスイと一緒にこのパオで眠ることを許してもらった。
二人と一緒に過ごしたくて、スイが座長やほかの少女たちに頼んで許可をもらった。
スイにとっては、幼い二人は可愛くて仕方なく本当の弟のように思えた。
二人がスイに甘えているように、スイも二人の存在に甘えていた。
今夜はさっき寝る前に空に見えた星座のおとぎ話をした。
熊の話だ。熊に変えられた母親を親とは知らず弓で打とうとしてしまった息子の話だ。
お話が終わると、ヤンがスイにすり寄ってきて聞いてきた。
「スイねぇ、宋さんのオヨメさんになるの?」
「そうだね、今はまだ私は子供だから無理だけど、もう少しお姉さんになったらきっとそうなると思うよ」
スイは出来るだけ優しく答えた。自分が不安がったり、嫌がったりしているなんて思われたら困る。もしそう思われたら、この幼い二人はスイに懐いているから宋に対して嫌な感情を抱くと思う。同じ一座の中で所有物階級がそういう気持ちを持つのは良くないことだと思った。
「スイは、宋さんが好きなのか?俺にはそんな風に見えなかったぞ」
ヤヲが遠慮なくずけずけと言ってくる。
スイは図星をつかれて、ついクスクス笑ってしまった。
「どうして笑うの?」
不思議そうにヤンが聞いてくる。
「だって、今までヤンとヤヲ以外に好きかどうかなんて、考えたことなかったんだもん。ヤヲは私のことをよくわかってるね。」
「そうだろう。俺はそういうの、わかるんだぜ」
ヤヲは得意げに応える。
それもおかしくてスイはまた笑ってしまう。
「好きじゃないの?でもケッコンは、好きな人同士がするって、おかあさんにおしえてもらったことがあるよ。好きじゃないなら、ケッコンしちゃダメなんだよ」
今度はヤンが得意げに言ってくる。
「今までは好きかどうかなんて考えたことなかったけど、私のことを好きだから宋さんは私をお嫁にもらってくれるって言ってくれたんだよ。じゃあ、私も私を好きになってくれた宋さん
のことを好きになるよう頑張るもん。好きになるよ。だから結婚しても大丈夫なんだよ。」
スイは自分に言い聞かせるように、自分が納得できるように、ゆっくりと言葉にした。
「ぼくもスイねぇが好きだから、ケッコンできる?」
ヤンがぎゅうぎゅうくっついてくる。
「ヤンが大人になるころには、私は宋さんのお嫁さんになってるから、ヤンは別の人と結婚してね。でも、私は今もこの先もヤンもヤヲも大好きだし、ずっと私たちは仲良しだよ。」
「うーん…よくわかんない、ぼくもスイねぇが好きだから、すぐ大人になるのに… ケッコンできないなら、ぼく、クマの親子みたいにスイねぇとなら星になりたいなあ…」
ヤンは眠くなったのか、最後は小さな声でむにゃむにゃと話し、眠りに落ちていった。
「ふん。大人ぶって都合のいい言い訳してんじゃねー。バカじゃねぇの」
ヤヲはふてくされたように、逆の方へ寝返りをうってしまった。
まだまだ素直で甘えん坊なヤンと、ちょっとひねくれて大人ぶるヤヲ。
二人のこんなところも本当に可愛いと、スイは思う。
スイは二人の寝息を聞きながら考える。
姉さん達が言ったように、これは断れない話だ。
自分は所有物階級で、所有者の座長にはもう話したと宋は言っていた。
少し前に、座長にこれからは髪の毛を伸ばすように言われたことを思い出す。
あの時はなぜだかわからなかったが、要は結婚する2年後に階級抜けをする際短髪では見栄えが良くないと考えてくれたのだろう。
宋と結婚すれば、所有物階級を抜けることができる。それはむしろありがたい話だ。断る理由はない。
踊り子のリーダーは自分でも言っていたように踊りしかできない。それは踊り子としての商品価値がなくなれば、よそへまた売られる可能性があるということだ。
踊り子は見た目が重視される。どんなに化粧を施しても40歳まで務める者は今までいたことがない。
それは彼女があと10年以内に、別の場所、例えばもっと過酷な労働場所か金持ちの屋敷の下働きかへ売られていくということだ。
それまでに誰かが貰ってくれれば話は変わるが、必ずしも誰もがその幸福を掴めるわけではない。
自分だってそうだ。怪我でもしたら、同じだ。
宋のことを好きかと聞かれれば、別に好きでもなんでもない。というか、本当に考えたことも無い。
まず年齢が親子ほどに離れている。
そしてチームが違い、さらに口数の少ない宋とは、そんなに話をする仲でもなかった。
話しかけられれば応じるが、スイにとっては一座の中でも顔見知り程度の気持ちだった。
宋の大きな腹や、あばただらけの頬、大きな鼻、小さな目を思い出す。
決して美男子ではないし、不愛想で一見すると化け物じみて怖いような気もするが、真面目で親切なところも知っている。
仕事となれば、普段とは打って変わり人を笑わせる道化師として表情豊かになる。パントマイムが特にうまいのだ。
酒を飲んでも暴れたり、馬鹿みたいに騒ぐことも無く、酔った仲間を抱えて戻ってくることもある。
良くは知らないが良い人物なのだと思う。
不細工だから、年上すぎるから、できれば結婚したくないなどと思うのは相手に対して失礼だろうと思う。
また自分のような所有物階級がそうでない人物に望まれるなんてことは、またとない幸せなことだ。
でもどこか納得しきれないのは、自分がまだ子供だからだろうと、スイは思う。
これから2年かけて、ゆっくりと納得していかなくては、と正直どこか気乗りしない気持ちで考えているうちに、外が明るくなってきてしまった。
驚いた。いつもどんな時でもよく眠ることが自慢のスイが、まさかの不眠で一晩過ごしてしまうなんて。
Ⅴ
もう一人眠れない夜を過ごした人物がいる。
聖だ。
宋がついに一座の人々の前でスイにプロポーズしてしまった。
所有物階級で、素直なスイが公衆の面前でのプロポーズを断るはずもない。
断れば宋のメンツに泥を塗ることになるし、そもそも階級意識のしっかりしているスイが座長や宋に命じられ断れるわけがないのだ。
もはや事は一刻を争う。早くスイを一座から連れ出さなくてはならない。
本来ならば聖はイタズラに関する悪知恵は働くし、綿密な計画を立てられるタイプだったが、今回ばかりは自覚してしまった恋心に思考も行動も短絡的になりがちだった。焦っている。
そして本人はそれを自覚していない。
スイを渡したくない一心で、気持ちばかりが先行していた。
夜が明けると、子どもたちと数人の軽業師、道化師が街へ興業の宣伝のビラ配りに出る。
子どもがビラをまき、軽業師は簡単な体操技を見せ、道化師は風船を配ったり手品を見せて盛り上げてくるのだ。
もちろん皆衣装をきっちり着込んで、化粧もしっかりする。
その15人ほどの隊列に、ここ最近にしては珍しく聖が混ざった。
もう16歳になる腹話術師の聖は、最近では大人たちと行動を共にしていたのだ。
スイは年も若いし軽業師なので毎回ビラ配りに参加する。
そして今日は宋も参加していた。
要は聖としては二人がこれ以上親密にするのを阻止したいのだ。
それと首都の来栖逃げるならば、この街の交通などの下見もしたかった。
スイは昨日助け舟を出してくれることもせず、自分が困っているときに無視をした聖に対して少し怒っていた。
今日は口をききたくないし、家出の片棒なんて絶対に担いでやるものかと、朝から知らんぷりしていた。
「今日はキゲンがわりーのか? 俺、寝相わるかった?夜けったりした?」
隣に立つヤヲが気づかわし気に見上げてきた。若葉色のチャイナ服に黄色の腰ひもを巻いて腰ひもと同じ色の裾のしまったズボンをはいている。
「え!? 嘘!? 私、不機嫌に見えた?そんなことない、大丈夫だよ!」
慌てて言い訳する。
イカンイカン、これから仕事なのに不機嫌に見えるなんて良くない。
しかも今日私が不機嫌に見えたら、宋との結婚が嫌だと周りに勘繰られてしまう。
それは宋に対して失礼だ。
「…うっそくせ。何隠してんだよ」
ヤヲは子どもなのに鋭すぎる… じろりと睨みつけてくる。
「なんも隠してないよ。…ちょっと眠れなかったけど」
ここで誤魔化せば誤魔化すほど、ヤヲは気にするだろうからスイは少し事実を混ぜてやる。
「ふーん…」
ヤヲは何かを理解したように納得して見せた。
「ヤヲはさ、あんまり聡いよ。今からそんなだと、逆に苦労するんじゃない?」
つい本音が漏れれば
「スイねぇに言われたくねぇ。大人ぶりやがって」
打てば響く会話に、スイはいつも面白くて仕方なかった。
そこに50㎝ほどあるパンダの人形を抱えた聖がやって来た。
「おはよう。今日は俺も同行するからよろしくな」
愛想よく、いつも一座の仲間に見せるのと同じ爽やかな表情で、まさか腹の中に嫉妬が渦巻いているようには見えない。
「おはようございます。よろしくお願いします。」
ヤヲが礼儀正しく挨拶する。スイ以外の先輩たちにはきちんとした態度を取るのだ。
そんなヤヲの頭を聖はパンダで撫でてやる。
「おはよう。腹話術師さんのご参加なんて珍しいコト。」
スイは嫌味交じりに応えてやる。
「おいおい、ただでさえきつい化粧してるんだから、少しはにっこりしないと、怖いぞ」
おどけて返してくる聖に対してもスイは警戒心を解かないことにした。
ここで何時ものように応じたら、きっと家出の片棒を担がされる。
いつもは参加しないビラ配りにいること自体が怪しいのだ。
「これは座長直伝の舞台メイクです。文句言わないで。」
横目で睨みつけてやる。
それでも聖は気にした様子もなく
「はいはい。でもその化粧でする流し目は確かに悪くない。母さんもそれが狙いでその化粧をスイにさせてるのかなぁ」
パンダを抱えていない方の手を腰に当て、少し前かがみにのぞき込むようなポーズをとる。
「なに?スイねぇ機嫌悪いの、聖さんのせいなの?」
スイのチャイナの裾を引いて、ヤヲが小声で聞いてくる。
「……。」
何と答えるべきか、スイは困った。その困った顔のままヤヲを見下ろす。
「なんだよ…」
じとっとした目でヤヲに睨まれため息が出る。
「なんでもない…」
最近ため息ばかりだ。
「スイねぇー!! ビラもらってきたよー!!」
そこにヤンが元気いっぱいに走ってきた。
自分が配る分のビラを取って戻ってきたのだ。
私の天使が帰ってきた!スイが抱きとめようと腕を伸ばしてしゃがみ込むのと同時にその少し手前で
ビターン!!と派手な音を立ててヤンが転んだ。
手に持っていたビラが落ちて広がる。
「ヤン!」
スイとヤヲが走り寄る。
顔を上げたヤンの額に血がにじんでいる。
「ヤン!血が…」
スイはヤンを立たせて、ポケットからハンカチを出して血を拭いてやる。
「おい、大丈夫か?服とか汚したら怒られるんだぞ?」
ヤヲも心配そうに声をかける。
「だいじょうぶ… ビラおとしちゃった…」
申し訳なさそうなヤンに大きな影が無言でビラを差し出してきた。宋だ。
「宋さん、拾ってくれたの?ありがとう!」
ヤンは喜んで受け取り、宋に礼を言った。
「ん。」
ビラの束を渡すと、にこりともせず多くを語らず、そのまま行ってしまった。
いつも通りの宋だが、スイは意識せずに見られない。
やっぱり、いい人なんだよね…
いい人なんだから、私は…
聖はその様子を、元の場所に立ったまま黙って見ていた。
ヤンが転んでビラを落とした瞬間から、宋はすぐ動いていた。
あの重そうな身体が、信じられないくらい敏捷に動いた。
複雑な重たい気持ちがどろどろ渦巻いているのを感じていた。
興業の宣伝は盛り上がって終わった。
大きな街だ。人の出が多い。ちょっとした芸にも人が集まり、宣伝の隊列に街の子どもがついて歩く。
今回初めてヤヲはビラではなく芸で参加した。
スイと組んで、ジャグリングを披露した。
一定の距離を取り、カラフルなボールやピンを一気に投げ合う。時に後ろ向きになり、横向きになり、移動しあいキャッチする。
ヤヲは生意気だが同じくらい負けず嫌いでもあるので、夜も一人で練習を積んで、簡単なジャグリングは大体マスターした。
今はナイフ投げを練習中だ。
興業の宣伝が上手くいき、他の先輩や子供たちに褒められたのでヤヲは機嫌が良さそうだ。
スイも弟子の成功に鼻が高い。
今日はヤヲのデビューばかりを途中から気にしていたせいか、帰りの頃には聖が消えていたことにも気づかなかった。
宿営地のパオに戻ると、座長に呼ばれた。
待たせてはいけないと、着替えもせずそのまま座長のパオに向かう。
「失礼します。スイです」
パオの外から声をかける。
「あ、ちょっと待ってちょうだいね、いいって行ってから入ってきてちょうだい」
返事はすぐにあったが、なかなかいいとは言われず、スイはその場にしばらく立ち尽くしていた。
こんなことなら着替えてくればよかったかな…
ぼんやり考えていると、中から日焼けし引き締まった体をした若い男が出てきた。
びっくりして一歩下がり、咄嗟に頭を下げる。すると向こうも頭を下げ、すれ違っていった。
「いいわよー」
のんびりした座長の声がかかる。
「失礼します。」
布のたくさんかかったベッドの上に、肩があらわになったビスチェに薄い布地の長いスカートをはいた座長がクッションに寄りかかるようにけだるげに座っていた。
「悪いんだけど、まずお茶を入れてもらってもいい?」
甘えるような甘い声だ。
「はい。」
スイは短く返事をして、そのパオの中にあったポットで茶を入れ始める。
「ごめんねぇ、呼んだのに待たせちゃって。もう少し早く帰らせるつもりだったんだけど、あの子ちょっとしつこくて。でも色男だったでしょう?」
何と答えていい物か困る内容だ…。多分自分が呼ばれたのは宋との婚姻の話だと思う。それなのに今出ていった座長の恋人と思われる男の器量など問われても困る。
そもそもまだ14歳のスイに男女のナニガシの話など匂わされても気のきいた返事などできるわけもない。
無言になってしまったスイをからかっているのか座長は喉の奥でクツクツと声にならないような笑いを上げる。
「あらあらぁ、恥ずかしくなっちゃたかしら?耳まで真っ赤よ?可愛いわね」
長い髪を指に絡めてもてあそびながら楽しそうにスイを見つめる。
「正直言って、殿方の容姿の良し悪しは私にはよくわかりません…」
茶器から顔を上げずにスイは答えた。
「アハハ!正直ね!いいわ、教えてあげる。あれは見た目はいい男だけど、女の扱いはイマイチなダメンズだったわ。」
声を上げて楽しそうに言われて、スイはますます困る。
「…お茶が入りました。」
盆にのせて茶器を運び、ベッドサイドのローテーブルに乗せる。
その様子を黙ってじっと座長が見つめている。視線を感じ、指の先まで緊張する。
乗せ終わると同時に座長に勢いよく腕を引かれそのままベッドの上に倒れ込んでしまった。
「!?」
何事かと、ぎょっとしているうちに、座長組み敷かれる。黒目がちな瞳を細め、怪しく微笑む座長と目が合った。今日は口紅が少し取れているようだがそれでも弧を描く唇はなまめかしい。
「私が教えてあげましょうか?オトナのコト、イロイロと」
近付いてきて、耳元で囁かれると、その声の甘さにゾクゾクするし、なんだか花みたいないい匂いはするし、元から恥ずかしさ火照っていた頭がくらくらしてくる。
「あの…ご用は、これですか?」
なんとか振り絞った声で、なんとか振り絞った問を投げかけてみる。
「どうかしら?私は男の子でも女の子でも、綺麗なものは何でも大好きなの。どちらでも美味しくいただいてしまうのよ?」
冷や汗が出る。これから何をされるのかと思うと膝が震えだした。
その様子に気付いた座長はまた声を上げて笑うと、スイを自分の下から解放した。
「そんなに怖がらないの。大丈夫よ、本当に食べちゃったりしないから、冗談よぉ。そのままそこに腰かけてて頂戴。話しましょ。」
そう言って、自分はお茶を一口飲んだ。
スイは居住まいをただし、ベッドに座りなおす。同時に額の汗を腕でぬぐう。
「私が今日あなたを呼んだ理由、わかるかしら?」
座長が身体ごとスイの方に向き直る。さっきとは打って変わり、真面目な顔をしている。
「…宋さんのことですか?」
自分が誰かに結婚を申し込まれたなんて話なんだか照れる。うかがうように、少し上目遣いで座長を見る。
「そうね、みんなの噂になってしまったわね。ギリギリまで、ナイショにしておこうと思っていたのに。宋ったら、我慢できなかったのね。」
「…。」
今日はここに来てから何と言っていいか困る事ばかりだ。
「だって、これじゃあ結婚する前もこれからずっと、みんな貴女達を夫婦みたいな目で見るじゃない?それって、若い貴女にとってはどうかなーと思ったのよね。しかもほら、宋ってイケてないじゃない?あんなイケてないのと2年したら結婚って思ったら、さすがのスイでも逃げ出したくなるんじゃないかと思って。」
まるで踊り子たちのような調子で言ってくる。
しかしこれは牽制だとスイは思った。宋との結婚が嫌だからと言って逃げるな、という。
スイは聖ほどこの人を毛嫌いしてはいない。
むしろ可愛がってもらっている自覚はあったし、育ての親と思いそれなりに慕っている。
座長の決定である結婚が嫌だから逃げるなんて選択肢は元から持たないつもりだ。まして、今は弟分の二人もいる。スイにとってはここが家族だった。
「ご心配していただいてありがとうございます。でもこんな勿体ない話はないです。男女のことは解りませんし、恋の一つもしたことのない私ですので、2年あれば、宋さんのことを好きになれると思います。」
スイは回りくどいやり取りが苦手だ。だから今考えている素直な気持ちをそのまま伝えた。
座長は目をぱちくりさせてスイを少し見つめ、ぽつりと
「恋も知らない…ね」
と口にした。
その後すぐ表情をまた緩ませ冗談めかした口調で続けた。
「それにしても宋は焦ったんでしょうね。スイは毎日綺麗になっていくし、聖があんまり仲良くするから、牽制したくなったのかもね。言わないで、って言ってあったのに」
「聖、ですか?」
突然出てきた聖の名前にぎくりとする。
そういえば、宿営地に帰る前あたりから聖を見かけなかったような気がする。
まさかもう家出をしていて、探られているんじゃないかと不安になる。
でもそんなスイの様子には頓着した様子もなく、座長はどこか寂しそうにも見える微笑みを浮かべたまま話続ける。
「そう聖。あの子は本当に貴女が好きだから、きっと今回のことは腹に据えかねるでしょうね。気づいていたかしら?あの子が貴女を特別に思っているのを。」
今度はスイが目をぱちくりさせる番だった。
「親友として、ではなくですか?」
「やっぱり貴女は全然そんな気もないのね。そして気づいていなかったのね。さらに聖もまだ貴女には告白もしていないのね?」
「は?」
「そもそも聖も無自覚なのかしら?あんなに独占欲むき出しで皆気づいてると思うんだけど… わかっていないのは当人たちだけね」
「へ?」
「…ちょっと、貴女、ずいぶん呆けた顔をしているわ。そんなに意外?考えたことも無いの?」
「なかったです」
間髪入れずにスイは答えた。
本当になかった。聖は話も合うし、親切だったし、これ以上ない遊び相手だったが、あまりにも距離が近くて、男性として考えたことも無かった。兄妹のような感覚の方が近い。
「我が息子ながら情けないヤツだわ。好きな子に意識させることすらできてないなんて、この5年間あの子は何をしていたのかしら」
呆れたように座長はため息を吐き、スイの手を取って真面目な表情になった。
「でも、ごめんね。あの子と貴女は結婚させられないの。これは私の身勝手で申し訳ないんだけど、やっぱり所有物階級である人間と息子が一緒になってほしくはないのよ」
スイは別に今まで聖と結婚したいなどと考えたことは一度もなかった。
聖には申し訳ないが、本当にただの一度も考えたことはなかった。
自分は所有物階級で、代替わりしたら所有物権が聖になるだろうとは思っていたが、それ以上のことは望んだことがなかった。
でも今、聖の母親である座長にこう断言されると、なんだか悲しくなった。
別に望んでいたことでもないのに、泣きそうになる。
「…はい…」
へんな声になりそうで、それ以上言えなかった。
「本当にごめんね。これはちゃんと、聖にも伝えるわ。貴女だけに辛い思いをさせたいわけじゃないから。」
さっきの様な怪しい雰囲気は一切なく、母親のような優しさで座長はスイを抱きしめた。
されるがままになりながら、スイは今度はクラクラを通り越して頭がガンガンしていた。
Ⅵ
なんだか元気が出なかった。
明日から公演が始まるのに、こんなに気合が入らない状態で大丈夫なのだろうか。
スイはぼんやりと食事のパンをかじる。もそもそして、味がしない。
「スイねぇ、パンにジャムぬらないの?」
ヤンが心配そうに声をかけてくる。
「え?ジャム?あれ、嘘、ジャムついてないじゃんね!」
そりゃ味がしないはずだ。
「何なの?キゲン悪いかと思ったら、今度はぼんやりして、寝てなくてさすがに眠いのか?」
呆れたようにヤヲが見てくる。
「そうかもしれない… 私眠いのかもしれない…」
実際ぼんやりする。幼い二人から見てもぼんやりしている。
「えー!?スイねぇだいじょうぶ!?今日はお話しなくてもいいから、はやくねよう!」
「ヤン、今日も天使だね…癒される」
「頭大丈夫か?」
思いっきり心配してくれるヤンに手を引かれ、スイは早々に布団に入った。
ヤンは添い寝をしてくれて、いつもスイがしているように子守唄を歌ってくれる。
「ヤンは本当に優しいね。ありがとう。私はいつもヤンのこと考えると、頑張れるような気がするんだよ」
たまに調子の外れる子守唄を聞いているうちに、穏やかな気持ちになってきてスイはヤンの手を握る。
「へへ。でも、ぼくはみんなにやさしくできないんだ。ぼくがやさしくできるのはスイねぇだけだよ」
意外な言葉が帰ってきて、思考力の落ちているスイもつられて意味もなくヘラヘラ笑う。
「へへ。えー?そんなことないでしょ」
「そんなことあるよ。ぼくは好きな人にしかやさしくできないもん。おかあさんが言ってたんだ。みんなにやさしくするのはムツカシイけど、好きな人にだけはゼッタイやさしくしないといけないって。だからぼくは、スイねぇに、ぼくのぜんぶのやさしいの、あげることにしてるんだ。」
ドキッとした。
こんな小さな子にも、好きだ特別だ、という感情があって、自分にそれが向けられている。
宋さんも、聖も、小さなヤンさえそれを知っている。
自分はいったいどこにそれを落としてきたんだろう。
それとも持たずに生まれてきたのか…
情けない気がした。
その頃ヤヲは一人、板を相手にナイフ投げの練習をしていた。
本番で使うのとは違う練習用の錆びたナイフ。
そろそろ錆びを落としておいた方がいいかもしれない。
なかなか刺さらないそれを、自分の腕より錆びのせいにしながらヤヲは悪態をついた。
「クソ、このサビサビめぇ…」
ふと近くに人がいることに気付いてそちらに顔をむけると、すぐそばに聖が立っていた。
「あ…こんばんは。」
ヤヲは焦って声をかけた。目上の人に先に挨拶されるのはあまり良いことではないからだ。
しかも独り言で悪態をついていたのが恥ずかしい。
「こんばんは。スイはどこにいるかわかる?」
夜に溶けるような黒い上下に、紺の亀甲柄の羽織を羽織っている。いつもと同じ、穏やかな笑顔。
「スイねぇは調子があまり良くないようなので、もう寝ました。」
その笑顔に、今夜はなぜか不審な雰囲気を感じ取って、ヤヲはまじまじと聖の顔を見る。
「そうかぁ… 話したかったんだけど、じゃあしょうがないね。」
踵を返そうとする聖にヤヲは咄嗟に声をかけた。
「あの!」
「ん?なに?」
同じ笑顔で振り返った聖に、ヤヲは何を言いたかったのか自分でも良く解らなくなる。
「あの、なんていうか、その… スイねぇは…」
「スイ?」
聖が首をかしげる。ヤヲの言葉を待っている。
「スイねぇは、別に宋さんのこと、好きじゃないと思う…」
なんでこんなことを言っているのかヤヲ自身にも解らないが、なぜか言い訳しておきたい気持ちになった。なぜか解らないが、聖が怒っているような気がしたからだ。
「俺も、そう思ってるよ」
静かな声で聖は答える。表情は変わらない。
「じゃあ、聖さんは怒ってないですか?スイねぇに、怒ったりしないですか?」
「もし怒ってたら、どうする?」
聖がヤヲに近づき、目線を合わせてしゃがむ。悪戯っぽくヤヲの顔を覗く。
顔は笑っているのに、怖い。ヤヲはぐっとお腹に力を入れた。
「スイねぇは俺の師匠で、ねぇちゃんです。もし怒ってるなら、怒ってるうちは、聖さんだってスイねぇに会わせられないです。」
力を込めて言い放つ。
聖は面食らったような様子をして、その後笑った。
「大丈夫だよ。俺はスイを怒ったりしないから。安心して」
そして今度こそ行ってしまった。
…俺はなにを言ったんだ。聖、なんかこえぇ…
ヤヲはその場に膝をついた。
一方聖は自分の寝床に戻りながら思った。
怒ってる様に見えるかー。気を付けないとな。それにしても、もし俺が、スイを連れて逃げたらあの子達の方が怒るだろうなぁ。悪いなぁ。
その顔には、もはや笑顔は張り付いていなかった。
翌日の公演は満員だった。
ヤンとヤヲを見習いだ。裏方仕事を手伝う。小物の準備や客の誘導を行う。
料金受付は見た目がいい踊り子たちが主に行う。
スイは裏でウォーミングアップを行う。他の軽業師たちと手足を伸ばし、柔軟を行う。
「おい、お前マジで宋と結婚すんのか?」
開脚したスイの背を押しながら、軽業師の一人が聞いてくる。
30代の筋肉質な男で全体的濃い顔立ちをしている。この男の手を土台にして、その上に逆立ちで乗ったり、抱えられてその上で皿回しをしたり、投げられたりとスイは組むことの多い男だ。
「…そうですね。今すぐではないですけど、そうなるでしょうね。」
うんざりした気持ちでスイは答える。これからはこんな冷やかしのような目に晒されるのか…
「よくあんな不細工となんてOKしたな、お前天使か?あんなのに迫られると思うと、俺はゲロ吐きそ。」
思ったままを素直に言う男なだけで、悪気はない。しかしひどい言いようだ。
「ちょっと、辞めなさいよ。スイにも宋さんにも失礼だよ!」
見かねた他の仲間が割って入る。
「でも宋でもいいなら、俺でも良かったくらいだよな。勇気あるよなぁ宋も。聖君のお気に入りにさぁ」
「ちょっと!!」
止められてもやめない、おしゃべりな男だ。重ねて言うが、悪気はない。
スイは聖の名前が出たことに驚いて背中を押す男を振り返ってみた。
「あ?どした?」
男は突然振り向かれて不審そうに尋ねる。
「あの…聖はそんなに私を気に入っているように見えてましたか?」
おずおずと口にすると、男だけではなく他の軽業師たちも口々に騒ぎ出した。
「今更何言ってんだ?べったりだったじゃんか、お前に。」
「子犬みたいにじゃれついちゃって、私たちに対するのと全然態度違うよ!聖君はアンタ以外にはいつも同じような愛想笑いしかしないんだから!」
「まぁ、あのくらい腹黒い感じじゃないと座長業とかは務まんなそうだからちょうどいいんじゃない?」
「私はもう二人は付き合ってるのかと思ってたよ。」
「それはないでしょ、スイは大人だから聖君とそんな仲になれないことわかってるもんねぇ!」
「じゃあむしろ良かったんじゃね。今回の話は。宋と結婚しなきゃ、愛人扱いになるとこだったろ?座長みたいにさ。」
「座長は手癖悪いもんね… 親子だし、可能性はあるかぁ…」
言いたい放題だ。
こんな閉鎖社会だから、この手の噂はみんな大好きなのだ。
「あ!あの!」
スイはたまらず大きな声を出した。
「ごめんなさい… もういいです…」
真っ赤になったスイを、年上の女がぎゅうぎゅう抱きしめて叫んだ。
「もぅー!!ウブなんだから可愛いー!!!」
自分が気が付かないところで、そんな風に思われていたなんて…
恥ずかしくて消えちゃいたい…
「オイ!猿どもうっせーぞ!客が入ってきてんだからそろそろ静かにしろ!」
「うぃー!」
他のチームの男に注意されて、軽業師たちは口をつぐんだ。
ちなみに一座では身軽な軽業師たちは“猿”と呼ばれている。
「本日は我らのショーへ足を運んでいただき一座を代表して御礼申し上げます。これからご披露するのはどれも人間離れした妙技でございます。皆さま時には息をのむ思いで、時には感動と笑いを感じていただければ幸いでございます。」
舞台上で羽扇を持ち、手を動かしながら挨拶する座長の姿は色気に満ちて不思議な妖女でも見ているような気分にさせる。
元々踊り子をしていた座長は魅せる動きを熟知している。その動きを、最近ではスイにも覚えさせようとしている。手足の伸びたスイならば、効果的に芸に行かせるだろうと考えたからだ。
スイは脇からこっそりと座長の挨拶を盗み見る。
あれが大人の女というものなのだろう。
男を侍らせ、色気を振りまき、40歳を前にして妖艶さに磨きをかける。
あの動きをマスターしても、とてもではないが自分があの妖艶な生き物になれるとは全く想像できなかった。
公演後はスイはいつものように舞台の掃除に残った。
ヤンとヤヲをは小物の片づけに駆り出されている。
他の少女たちは食事の支度や衣装の繕いなどへ行く。
スイは炊事や繕いものが苦手だった。どうやら不器用なようだ。時間もかかるし、失敗も多い。
そこで自ら掃除を買って出る。そうしているうちに暗黙の了解で、終了後の舞台掃除はスイが担当することになった。
男たちはゴザを上げたり、換気をしたり、主に力仕事にかかる。
舞台の雑巾がけをしていると、聖がやって来た。手に雑巾を持っているから今日は手伝ってくれるらしい。
なんとなく話しづらくて、スイは黙って雑巾を動かし続けた。
しかし聖は近付いてきて雑巾をかけながら何事も無いように話しかけてきた。
「昨日、街を見てきたよ。」
そっと小声で言う。スイは答えない。
「首都へ行く馬車がある。朝早くに出るやつだ。それに乗ろう。」
スイが答えなくても聖はしゃべり続ける。
「興行の最後の日、夜が明けないうちにここを出て、馬車が出るギリギリまで隠れてるんだ。隠れる場所も見つけてきた。最終日なら、みんな酒飲んでるし、そうそう簡単には起きないよ」
スイはムカムカしてきた。なんて勝手なんだろう。私の気持ちや都合は全然聞きもしないで、何もかも自分がいいように進めている。
ここ数日で、スイはすっかりキャパオーバーの状態だった。
好きでもない人に結婚を申し込まれ断れない。
親友に恋心を抱かれていることを自分以外の皆が承知していた。
そして自分は望んだことも無いのに座長には息子とは結婚させないと宣言されなぜか傷ついた。
あげく、その親友は恋心も告げてこないくせに自分を攫ってここを逃げるという。
自分が全く考えもしないことが、知りもしない男女の在り方が、現実が突然一気に突き付けられた。
知りたくもないし、考えたくもないのに!
聖の話を聞いているうちに、普段あまり怒ることのないスイの、怒りの沸点が振り切れた。
無言でスックと立ち上がり、なんだ?と見上げた聖の顔に、おおきく振りかぶって雑巾を力いっぱい投げつけた。
舞台を拭いた汚い雑巾が顔面に当たり、聖の眼鏡が飛んだ。
「なにするんだよ!」
驚いた聖が叫んだ。スイも負けじと叫ぶ。
「黙って聞いてれば、どれだけ自分勝手なの!?私の立場や気持ちを少しでも考えてるの!?聖って思った以上に馬鹿なのね!」
「は!?考えてるよ!これはスイのためでもあるだろ!?」
眼鏡を探して聖は視線をスイから離した。自分から視線を外すその動きさえも馬鹿にされているような気になってスイはさらに大きな声で喚き散らした。
「私のため!?どこがよ!?私は今仕事も充実してるしヤンもヤヲも可愛くて満足してた。それを勝手に不幸せみたいに言いやがって、何様なのよ。たとえ親友だからって思い込みも甚だしい!いくら所有物だからって少しは気持ちを聞くでしょ、何の話も聞きやしないじゃないの。私は今、私のことで大変なのよ!聖の無謀な計画には付き合えない!」
少しつり目がちの目をさらに吊り上げ、普段見せない表情なだけに恐ろしさも気迫もすごい。
聖は面食らって、そのスイの権幕を少しの間ぽかんと見つめたが、普段から軽口を言い合う気安さからすぐに持ち直し言い返す。
「好きでも無いオッサンとの結婚があるの、にこれから先幸せって言いきれるのかよ!?」
「これから好きになるのよ!」
「はぁ?!どうやって?」
「そんなこと解んないけど、好きになるんだからいいでしょ!私のことは、ほおっておいて!」
「ほっとけるか!俺は許せない!」
「聖は関係ないことでしょ!許可なんていらない!これは聖になんとかできることじゃない!」
ぐっと聖が黙った。睨みつけるようにスイを見上げて、悔しそうに唇を噛む。
普段声を荒げることの少ない二人が舞台上で怒鳴り合っている。その珍しさから、一座の面々がちらちらと様子をうかがっている。
スイは激高しているのでその様子に気付かないが、聖は気付いていた。
ここでお前を連れて逃げてやるとは言えない。
いや、もうこれは周りにバレバレか。
とりあえず何か言わないことには、スイの怒りは収まらない。
今この場で間違えれば、スイが聖のものになることは永遠にないような気がした。
睨み合う。気迫でスイに負けそうだ。聖でさえ今までこんな怒鳴るスイを見たのは初めてだった。
「……好きなんだ。オッサンになんか渡したくないんだ、スイのこと。」
観念して聖は正直に言葉にした。
聖としては、ここでスイは少しきゅんとなって落ち着くものだと思っていた。
が、怒りが頂点に達しているスイはそんなことでは全く落ち着かなかった。むしろ火に油を注いだようなものだった。
「だから何だって言うのよ。そんなの、一座の皆がもう感づいてることだよ。今更だよ。好きだからって、私をおもちゃにしないで!宋さんと結婚しないでこのまま聖とつるんでたら、どうせ私を都合のいい愛人にするんでしょ!そうじゃなくて、今ここから連れて逃げたって、私にいいことなんてある!?頼る人も仕事もない首都で、明日の食事にも困って、路頭に迷うのよ!」
「!?」
予想外の反応に聖はたじろいだ。返す言葉が思いつかない。
「自分勝手な聖なんて、だいきらー…」
スイが最後まで言う前に、ぴしゃりと厳しい声がそれを遮った。
「やめなさい。みっともない。」
舞台の下には、白いノースリーブのロングワンピースに紅梅色の羽織を引きずるように羽織った座長が腕組みして立っていた。
「こんな人前で大声で喧嘩して。二人ともホントにお子様ね。今すぐそのまま私のパオに来なさい」
威厳ある態度で言い捨て、戻っていく。
舞台上の二人は、言い返す言葉もなく、お互いに目も合わせることもせずその後ろに従った。
「まぁ、話は大体解ってるつもりだけど、説明して貰おうかしら。聖。言ってごらんなさい」
ベッドに悠然と腰かけ顎を上げて促す座長の姿はまるで女王様のようだ、と、どこか冷えた頭でスイは思う。なんだか早くも怒り疲れた。
拗ねた顔で黙り込み、子どもみたいに意地を張って立ちすくむ、そんな聖の姿をチラリと盗み見て、なんだか何もかもがバカバカしい気さえしてくる。
こんな子供っぽい聖に振り回されてバカみたいだ。
ずっと友達だと信頼して尊重して、大切にしてきたつもりだったが、相手は友達だとは思っていなかったようだし、あげくこっちの気持ちは尊重する気がないようだ。
「聖、だんまりは辞めて。それともスイに説明させるの?それこそみっともないと思わないの?」
座長がもう一度促す。
座長の言葉が癇に障ったようで聖は睨みつけるように顔を上げる。
「スイの結婚の話が気に入らない。スイの意見も聞かずに先に自分と宋さんとの間で決めるなんておかしいと思わないのか?」
睨まれても、座長の態度は全く変わらない。呆れたように大きくため息をついた。
「じゃあ、アンタはスイの気持ちを聞いていたの?自分の気持ちを伝えて、想い合っている仲だったの?」
「それは…違うけど、俺はスイとは仲が良かったから、アンタよりはスイの気持ちを解ってる!」
聖は噛みつくように言う。
スイもため息をつきそうになるのをなんとか我慢して無表情を決め込む。
その様子をチラリと座長が見てきたので、目が合った。
スイの表情をを確認して、座長は聖に諭すように話し出す。
「聖は本当にスイの気持ちをわかってるの?だったらどうして結婚話をスイが受けたか簡単に想像できるでしょ?スイはスリリングで人に反対されるような危ない恋の橋は渡りたくないようだけど?」
聖はスイの方を見るが、スイはそちらを見ない。まっすぐ、座長の胸元のあたりを見つめていた。
今目を合わせても、聖にどんな顔をしてやればいいか解らない。
「そもそも、アンタみたいな坊やに、女の気持ちの何が分るのかしら?大体の女の人生なんて、男の生き方に振り回されて、好きなようになるもんじゃないわ。それを知ってて、アンタは自分の生き方にこの子を引き回す覚悟があるのかしら?あ、ちなみに私レベルになると話は別よ。私は自分の人生に男を振り回してるんだから、んふ」
最後の方は冗談めかしてニヤリと笑う。
妖艶だなぁ、男が惹かれる悪い女っていうのはこういうもんなんだろうなぁ。座長を前にすると自分の青臭さがわかるなぁ、とスイは思う。
たぶんそれは聖も同じで、きっと今、自分の青臭さにがっかりして、毛嫌いしている母親になにも言い返せなくて、やりきれない思いだろうな、と手に取るようにわかる。
大丈夫だよ、そんな聖でも大切な友達だよ、といつものように慰めて笑いかけたい気持ちが浮かんでくるが、宋との結婚を受けた以上これからは先はもう聖と今までのようにじゃれ合うことは出来ないとスイには解っていた。
だからもう聖の方は見ない。まっすぐ前だけ見つめる。
そんなスイを見て、座長はどこか悲しそうに微笑むと、花のようないい香りを振りまきながら二人の側にやって来た。
「聖、物分かりが良くて貴方よりずうっと大人で、貴方よりずっとつらい思いをしても我慢しているスイに免じて、貴方に一つご褒美を上げる」
「なんだよ…」
聖がムスッと言い返すが、さっきまでより元気がない。
「アンタを首都の医学校に行かせてあげるわ。どうせ父親みたいな医者に、と思っていたんでしょう?そしてスイをそれに連れていくつもりだった。そうでしょう?」
何もかもバレている。
そもそも50人はいるこの一座をまとめ上げ、それを商売にし、各地を回ってきた女主人で、
男だって何人も篭絡してきた百戦錬磨だ。青臭い二人の計画や隠し事に気付かないわけがない。
「スイを連れていくことは許さない。スイは私の一座の人気芸人で、宋の婚約者になったの。ヤンとヤヲも慕っている。貴方の勝手には巻き込ませない。これは私の勝手だけど、私は許されるのよ?スイの所有者なんだから。だから貴方は一人で行きなさい。」
強い命令の言葉。
逆らえない力のある声音。
「あと、奨学金を借りることも許さない。お金を借りるってことは官吏になるってことよ。国に縛られるってことよ。貴方はあの人と同じで、国なんかに縛られず好きに放浪する医者になりなさいよ。私の…スイの稼ぐお金で学ぶのよ。」
ぐぅっと、喉から変な声を出してバタバタと床に涙を落とす。
あぁ、男の子って、こうやって泣くのか…これが悔し泣きってやつなんだろうな。
「スイ」
ふいに呼ばれてはじかれたように座長の顔を見る。
「男に大嫌いって言っちゃだめよ? いっぱい期待させて、骨の髄までしゃぶるには、皆に“貴方が一番素敵ね”って言ってやるくらいがいいのよ?」
ふふ、と天使のような笑顔で小悪魔が笑った。
地平線に沈む夕日を見ながら並んで岩の上に座る。聖は足を投げ出して、スイは体育座りで。
「夕焼け、綺麗だから明日、晴れるんだろうな…」
夕日に照らされているせいだけではない、目の周りが朱に染まった聖がぽつりと言う。
「それはこんだけ極端に真っ赤なんだから、むしろ雨かもよ」
化粧もとっていない赤いアイラインのままのスイが応じる。
「賭ける?」
赤い目元で聖がニヤリとする。
「何を?」
スイは訝しむような視線を送ってやる。
「晴れたら、俺と行く!」
「賭けるわけないでしょ。馬鹿なじゃないの。」
間髪入れずに答える。
残念だなーと、適当な声音で聖が笑う。
「…私、今は誰も好きじゃない。」
体育座りの膝を抱えなおして、スイは言う。自分に言い聞かせるように、ぽつりぽつりと。
「…うん」
それを聖は静かに聞く。
「でも、これから先、聖に恋をすることはない。」
「…うん」
「この街で、サヨナラだよ。」
静かになる。どちらも何も言わない。
しばらくして先に沈黙を破ったのはスイだった。
「…“うん”は?」
聖は夕日を見つめたまま、何も言わない。
「聖、“うん”は?」
スイはもう一度返事を促す。
「…言えない」
聖の頬をまた涙がつたう。
「言いなよ、本当に馬鹿なんだね」
Ⅶ
1か月ほどの滞在で公演は滞りなく進み、客入りも上々だった。
季節も春から初夏へと移ろうとしている。
明日には一座は次の街へ行く。
1日早く、聖は旅立つことになった。
大き目のリュックを背負って、朝日の差す街へと向かって歩き出す。
一座の面々は見送りに出ていた。
「ちゃんと学校受かれよ!帰ってきたらカッコわりーぞ!」
「たまには座長にも手紙書いて差し上げてね」
「お体を大切にしてください!」
「いい女見つけろよ!」
口々に言い合い、皆笑っている。
聖もそれに応えて笑顔を見せ手を振る。
スイもヤンとヤヲと一緒に見送りに出たが、少し遠巻きに見るだけにした。
きっともう話すこともない。
そしてもう語るべきこともない。
聖もまた、スイには何も言わなかった。
最後にこちらを見つめていたが、スイは気付かないふりをした。
聖の影がが小さくなっていく。
ふと、スイの隣に大きな影が現れた。
見上げると宋が立っていた。
「いいのか?」
気遣わしげに問われる。
「何がですか?」
「着いて行かなくてよかったのか?」
スイは宋の真意がつかめず首をかしげる。
「なぜですか?私は行きたいと思っていません。ここに残りいずれあなたと結婚します。」
真面目な顔で答えると宋はさらに心配そうにする。
「俺はこんな見た目で、お前とは年も離れている。お前には申し訳ないことをしたと思っている。彼の方がお前と仲も良かったし、年の頃も近い。もしお前が彼を好いていて、本当に行きたいと思っているなら、俺は…その、あきらめて協力してもいい。」
最後の方は泣き出してしまうんじゃないかと思うほど力ない声だった。
この人は私を本当に想ってくれている。
もったいないほど真っすぐに、想ってくれているのだ。
なんだか照れ臭くなって、下を向く。
「あの、手を、つないでいただいても、いいでしょうか?」
おずおずと手を出す。
「え!?あ、ああ、かまわないが…」
宋もおずおずとスイの手を握る。
大きくて、ごつごつした手だ。
ヤンがぼくも!と反対の手に飛びついてきて、ヤヲが横眼でチラリとだけ見てきた。
スイはふふ、と笑い、宋にはにかんだ笑顔で告げた。
「私、今はまだまだですが、宋さんを誰よりも好きになれると思います。」
「失礼します。スイです。」
パオの外から声をかける。
「あ、ちょっと待ってちょうだいね、いいって行ってから入ってきてちょうだい」
返事はすぐにあった。スイはその場にしばらく立ち尽くして待った。
間もなく中からいつか見た、日焼けし引き締まった体をした若い男が出てきた。
びっくりして一歩下がり、咄嗟に頭を下げる。すると向こうも頭を下げ、すれ違っていった。
「いいわよー」
のんびりした座長の声がかかる。
「失礼します。」
「彼ったら、懲りずにまた来たのよ。この期に及んで行かないでくれ、俺のためにここに残ってくれってバカなことを言うのよ?私が一座を捨ててどこかへ行くわけないじゃないねぇ。お前が全部捨ててついて来いって感じよ。まったく、馬鹿な男だわ。アッチはしつこいし、もう会うことも無いわね。」
髪の毛の先を持ち上げて、枝毛を探しながら座長は鼻息も荒く言ってくる。
スイは何と言っていいか困って苦笑して見せる。
「貴女も、男に振り回さないでガンガン振り回しなさい!聖なんて、小物すぎるわ。もっともっと大物を手のひらで転がすぐらいの意気込みを見せてね。貴女ならきっとできるわよ!美しくなるわよ!これからもっと!」
「でも、私には宋さんがいますので…」
おずおずと返事をすると、枝毛探しから視線をこちらに向けてニヤリと笑う。この悪い笑顔は聖にしっかり受け継がれていると思う。
「あら、アイツはあんなデブだし、きっと長生きしないわよ。結婚しても10年も我慢したらきっと未亡人よ。貴女はまだまだ女盛りだろうし、チャンスなんていくらでもあるんだから!」
「!!」
それはいくら何でもあんまりな話だとスイはぎょっとする。
座長はそんなスイを無視して呆れたような顔で話し続ける。
「そもそも、アイツは昔からいいヤツだけど、無口だし冴えないし、何しろ不細工なのが残念よね。要領もイマイチ良くないし… 言ったかしら?私とアイツは幼馴染みなのよ。親も仲が良くてね、昔からイロイロやらかす時は付き合ってもらってたんだけど、アイツのせいで失敗したり、足を引っ張られることも多くて… でも本当にいいヤツなのよ。何かあると必ず私を庇ってくれるのよ。面倒事も進んで引き受けて貧乏くじばかり… その不細工が、最近本気で恋してるっていうじゃない。ぐずぐずメソメソして、うざったいから脅して聞き出したらなんとロリコンってわけでしょ? もうこりゃ望み無いなーとは思ったわ。不細工でペド野郎ってもう救えない感じじゃない?でもいいヤツなのよ。本当にどうしようもなくいいヤツなのよ。だからこうしてちょっと強引に話をまとめてやったってわけ。ごめんね?」
言いたいことだけを、ダーッと勢いよく言われ相槌の打ちようもない。
「…いえ、大丈夫です…」
なんとかそれだけ言葉にする。
「そう?それは良かった。これで不細工な変態も救われるわね。」
ニッコリと、また天使の様に微笑みながらとんでもない侮蔑の言葉を吐き散らす。
「ところで、貴女が来たってことはあの子はもう行ったのね?」
「はい、見送りをしなくて良かったんですか?」
スイは不思議に思っていたことを素直に口にする。
息子の門出の日に、男を連れ込んでいるのはどうも変な話だとスイでさえ感じる。
座長はまたニッコリ笑ってスイを見た。
「だって、あの子、亡くなった旦那に顔がそっくりなのよ。それを見送ると、また旦那が離れて行っちゃうみたいで寂しいもの。」
こんなハチャメチャそうな女性でも、忘れられない誰かを心から想っている。
そう思う、スイは胸が暖かくなるような気がした。
「お茶、飲みますか?私入れますよ?」
スイも笑顔で尋ねる。
「あら、気が利くわね、ぜひお願いしたいわ。でも、美味しく入れてね?貴女が入れるお茶は、びっくりするくらい不味いのよ。」
―思い出―
空気中にある水分を右手にかき集める。
この一帯は山に囲まれていて、樹が多い。
これだけ乾燥すれば、あっという間に燃え広がるだろう。
左手で石を投げる。小さな火花が散る。それを大きくして左手に乗せる。
自分はこんなことをするために頑張ってきたのだろうか?
ふと、罪悪感が胸に広がりそうになって、頭を振る。
考えたらいけない。考えたら負ける。
眼下に、寝静まる村がある。
左手に乗った炎を出来るだけ大きくして、力いっぱい投げた。
しばらくすると、大騒ぎになった。
炎から逃げ惑う人々。一人も逃がすことは出来ない。
右手に乗った水分を刃の形にして、飛び出してきた男に突き刺す。
男は変な声を出して倒れ込む。しばらく何か掴むように手を動かしていたけど、そのうち動かなくなった。
今度は燃え盛る家の中から、子どもが這って出てきた。
同じように水の刃を突き刺す。
でもその子供が死ぬことはなかった。
その子に当たると、刃は砕けて元の水に戻ったんだ。
そんなこと初めてで、びっくりしてその子をまじまじと見た。
目が合った瞬間、恐怖に引きつるその瞳。黒玉みたいな吸い込まれそうな瞳だった。
捕まえたい。この子が気になる!
手を伸ばしたら、長い黒髪の一部を掴んだ。
そのまま引き寄せようとすると、その子が突然どこから出したのか短剣みたいなので
掴んでいた髪を切っちゃたんだ。
そしてすごい勢いで逃げちゃった。
手のひらに、ひと房の髪が残った。
いつかまた会えるだろうか…