49話:誓う
そんな感じで、また数日が過ぎていきました。
本日……は何月何日でしたっけ。海上自衛隊よろしく金曜日になるとカレーが出てくるわけでは無いので、なんだかこのところ日と曜日の感覚が曖昧になっています……私はサーリャに連れられて、久しぶりにミアのお部屋へと向かっています。カレーライス食べたい。
どうしてかあまり氣が向かず、最近はご無沙汰していたミアのお部屋です。
ずっと暗い部屋に引き篭もっていた私を、この日ばかりは結構な強引さで、サーリャが私の手を引いてきました。外では風が強いのか、お屋敷のあちこちがミシミシといってました。
距離的に海は遠いけれど、この辺りにも、たまに強い風が吹くのですよね。
「ねー、サーリャ、どうしちゃったの?」
私、なんか悪いことしちゃいました?
マーチングバンドコスのあと、日本語の授業しながら、甘ロリ、ゴスロリ、ウェイトレスなどのコスプ……もとい、衣装を作り、着せ替え人形にして遊んだりしたけど、まぁ本望だよね?
わざとサイズに余裕のない寸法で仕立てて、私自身は着れないようにしちゃったけど、いいよね? 良くない? 血涙でちゃう? ごめん。
あとその揺れる縦ロールはどうしちゃったの? ドSに転向でもするつもりなの?
いや似合うけど。
サーリャの新たな魅力発見、ってくらいには似合っているけど。
「大丈夫ですよ、ミア様がティナ様にお会いたいとおっしゃっているので、お連れしているだけです」
「ミアが?」
私達は、お互いの部屋には、自分らが行きたいと思った時に遠慮なく向かう姉妹だ。きて欲しいと部屋に呼びつけることは、あまりない。
……というか、一回でもそういうのって、あったっけ?
……と考えて、そもそも私が何日もミアの部屋に行かなかったことが、最近になるまでは全く無かったことに氣付いた。
あー……。
そっか、それじゃあ、不安にもなるか。
お姉ちゃんが今までにないことをしてる……正確にはしてない……なんて……家族からしてみたら、どうしちゃったのって話だ。
どうしちゃったかってーと……それはまぁ……ここんとこ自室で有り余る時間を過ごしていたので、自己分析はできてるつもりなんだけど。
「ねぇサーリャ……私、ミアのいいお姉ちゃんになれているかな?」
「それこそどうしました? ティナ様はミア様の、最高のお姉様と思いますよ?」
「そうかなぁ……」
私は、ミアの危機を感じても、目の前の問題の解決を優先させた。
パザスさんを向かわせたとはいえ、本当にちゃんと家族を心配するなら、そこはもっと感情的に自分が走るべきだったのではないか……そういう疑念が心のどこかにある。
アリスが拷問された時もそうだ。
どうして私は、後先考えずにサーリャを振り切って、アリスの元へと駆けつけなかったのだろうか?
邪魔をされぬよう、サーリャを落とし、ペタペタとゴブリン化薬を身体に塗り、それが浸潤するのを待って、漸く私は助けに入った。
アリスの悲鳴を聞きながら、待った。
あの時の氣持ちは、赤黒く塗り潰されていて、もう思い出せないけれども。
私は、そこで、冷徹に待ったのだ。
……それが、致命傷でなければ。
アリスは相当に深い傷でも、すぐに回復魔法で回復できる。
だからアリスに関して言えば、拷問されようが、手遅れにならなければ大丈夫だという考えが……心のどこかにはあった氣がする。
それを自分に言い聞かせながら、暴れ回り、荒れ狂う心を必死で押さえつけた感触なら、記憶の片隅に……うっすらと残っている。
だけど私は知っていたはずだ。
人は恐怖と苦痛を感じ続けると、身体が手遅れにならなくても、心の方が壊れてしまうこともあるんだ……ということを。
そういう実例を、私は被害者として身をもって体験してきたし、加害者の側としても、あの時の身近には、そういうモノが存在していたハズだ。
ただ……私が、あの方法以外でアリスを助けられたとは思えない。
それは、落ち着いて考えてみてもそうだ。理性的な判断としては何も間違っていない。それこそ博打でいいなら、薄い可能性は沢山あったけれども、もっとも確実に助けられるのは……あの方法だった。
だから私は、間違ったことをしたとは思っていない。
アリスを、助けられたことを、誇りにも思っている。
だけど疑問は残る。疑惑は拭えない。
私の心は二度、壊れている。
一度目は前世、病気によって壊された。
二度目は今生、クソ兄貴によって壊された。
そうして現世ではこれまた二度、私は救われた。
一度目はミアに。
二度目はサーリャに。
だけど。
私の心は……本当に人間として……ちゃんとした形を取り戻していたのだろうか?
人は理性でなく感情で動く生き物だ。
それは、社会的には推奨されないことであり、現実には、人はやはり理性的であるべきなのだろうけど……それも度が過ぎれば……それはそれで、人間として壊れていると看做される。
氣持ち悪い。
客観的に見て、あの時の私は氣持ち悪い。
妹の危機に、目の前でアリスに行われる残虐行為に、理性的に対処しようとしたあの時の自分が……平時にあっては化け物のようとすら思えてくる。
私は壊れているのか。
それともそうでないのか。
それは答えの無い袋小路だ。
それが……私の足を鈍くさせていた。
私はまだ……ミアと笑い合っていい存在なのだろうか?……と。
やがて、求婚の釣書がうず高く積まれて。
貴族の結婚だ……それは暗に、私に……子供を産めと求めていた。
私が人の子を産む?
こんなどこか壊れたような人間が?
生まれた時から……この生では親孝行をしようと思い……生きてきた。
貴族令嬢であるからには、それに相応しい親孝行というものがある。
だけど……そうだ。
嫌だけどやるべき……そう思っている内は良かった。
自分は求められる側で、許す側だから。
でもそうじゃない。
自分にその資格はあるのか?……そういう疑念が蔓延ると……。
自分に普通の幸せは許されるのか? こんな人間に?
自分は普通に生きることが許されるのか? こんな人間でも?
自分は普通に生きて誰かを幸せにできるのか? こんな人間が?
次から次へ怯え、恐れが心にわいてきて。
私は、自分が何のために生まれてきたのか、わからなくなってしまった。
そうして私は引き篭った。
そうして、私はサーリャに甘やかされて……サーリャに許しを求めて。
「ティナ様」
「……はい」
「ティナ様が鬼でも悪魔でも、私もアリスもミア様も、たぶん構わないと思いますよ?」
「……え?」
そうしてまた……私はサーリャに、救われる。
「アリスに言ったそうですね。”鬼も悪魔も私がなるから、大丈夫”……と」
「……うん」
「なら、私はこう言いますね。ティナ様が鬼でも悪魔でも……元は男性であろうとも、心が年上であろうとも……私はティナ様のことが大事で、大好きです」
なんでもないことのような、その言葉に。
「愛して、います」
衒いなく、婉曲さのカケラも無い、そんな一言に。
「あ……」
心をひょいと、掬われる。
「ああ……」
胸がポカポカしてきて、じんわりと全身が温かくなっていく。
だから私は、これでいいんだと思えた。
こんな私でも、サーリャが好きでいてくれるうちは、いいんだと思えた。
「だから……失礼しますね」
そこで、唐突に、廊下の途中でサーリャが立ち止まる。
「え?」
「ティナ様」「ん!?」
と、次の瞬間、私は手を引かれ、サーリャの胸元へと引き寄せられていた。
何を……と思う間もなく、左手で腰を固定されてしまう。
触れ合った部分があたたかい。
縦ロールが頬に当たって、くすぐったかった。
「私は、反対する私を締め落とし、結果を出してしまったティナ様へ、何も言えません」
「……あ」
「軽挙妄動で飛び出すのではなく、死なないよう準備して立ち向かったのだと聞きました」
アリスから……と、サーリャは少し悔しそうに笑った。
「……ごめん」
そういえば、そのことを、キチンと謝ったことはなかった。
サーリャなら、全部許してくれるからと、甘えてしまっていた。
「いいえ、ティナ様はそれでめざましい成果を残しました。ならばあの場で間違っていたのは私の方。むしろ、力になれなかった自分を恥じるばかりです」
「そんなこと、は……ん」
サーリャの右手人指し指が、反駁しようとする唇をピトと抑える。
細くて、軽く触れているだけの指に、どうして抗えないんだろうと、頭の片隅で思った。
だから、その答えが知りたくて、サーリャの瞳を覗き込んだ。
澄んだ湖のような、綺麗な瞳だと思った。
「はい。ですが、同じ状況に陥ったら、私はやはりアリスを見捨て、ティナ様のお命を最優先としてしまうでしょう」
そういう私を、鬼と思いますか? 悪魔と思いますか?
問うてくる瞳に、そのブルーグレーに、私の心が、きゅうと鳴く。
「それは……」
サーリャの胸の中で、私はサーリャにその胸の内を晒されて、その愛情へ曝されて……。
私は。
私は……。
アナベルティナ・タチアナ・スカーシュゴードは。
その問いへ、真摯に答えようと、応えようと口を開きかけ。
「本当に、失礼します、ティナ様」
「……んくっ!?」
その唇を……サーリャに、奪われていた。
やわらかなモノに、自分のやわらかなモノが捕らえられ、そこへツゥと舌が通り、そのゾクッとする感覚をどこへももっていけないまま、ぎゅっと強く抱きしめられる。
「んぅ!?」
肩を、首を、胸元を、ハニーブロンドの髪が愛撫してくる。
身体に触れるは、いつか確かに、私が縫った……メイド服。
大事にしてくれているから、洗いたての清冽な匂い。
そこへ隠れた、僅かなシトラス系の香氣。
その向こうにある柔らかさ。
穏やかな温度が、私を包み込む。
「ぁんー……」
舌先を、サーリャのそれで優しく触れられる。でもそれ以上は入ってこない。
「んー……ぅ……ぁ……」
そうして、何度か舌と舌のキスが繰り返され、その合間合間に上唇を、下唇を舐られているうち。
「あ、ぁ……」
全身が、甘く痺れているかのように力が入らなくなり。
その中心で、行き場のない鼓動が、激情が、震えだした。
それは、飛び立とうと羽ばたき続ける、小さな小さな雛鳥のようで。
それがなんだか、とてもとても、氣恥ずかしくて。
苦しい。
「愛して、いるんです。私も、アリスも」
「んー……ぅ」
むせかえるような陶酔感。
とめどない多幸感の波に飲まれ、押し流されて。
それへ、何もできなくて、返せなくて。
雛鳥には何もできなくて。
窒息してしまいそう。
「サぁ……リャぁ……」
「同性ですから、結婚したり、同じ血をひく子の親になることはできません。でも、愛ってそういうものだけではないでしょう?」
「サ……んっ」
何かを答えようとするのへ、サーリャの唇が再び私を支配する。
心に、色んなモノがあふれてくる。
『はじめまして、ティナ様。スカーシュゴード家に仕える騎士の娘、サーリャです。本日よりティナ様付の専属侍女の役、拝命させていただきました』
黄金色に蘇る、いつかの記憶。
初めて出会ったのは私が十一歳、サーリャが十五歳の時。
『これが転んだ時に付いた傷ですって!? 騎士の家の娘を見くびらないで! 小さい時から父や兄の治療をしてきた私ですよ! この傷はどう見ても!』
あの頃はサーリャも、まだ今ほどには女性らしくなく、いかにも騎士の家の出の少女らしくて、どこか負けん氣の強そうな顔をしていた。
どこで、それが変わったのだろうか?
最初に、抱きしめてくれた時からだったかもしれない。
ゆっくりと、一緒にいる時間の中で、少しづつ変わってきたのかもしれない。
私達は、十代の二年という、大きな年月を一緒に過ごしたのだから。
『もっと私を頼ってください。貴女専属である、この私を』
氣が付けばサーリャは、優しく包むように笑う、だけど少し残念で、胸部装甲が凶悪に育った……私の大事な人になっていた。
「ん……」
あたたかい。
この温もりに、私はずっと、守られていた。
やわらかい。
この抱擁に、私はずっと、護られてきた。
いつの間にか、そんなかけがえのない存在になっていたサーリャに。
そのあたたかで柔らかな存在に、私の全てが支配されている。
感覚とか、感情とか、この肉体の全てであるとか。
そういうもの全部。
サーリャに、奪われている。
何も考えられなくなる。
ただ全身に感じるあたたかさと、サーリャと繋がっている唇の熱だけが、私という存在の全てのようで……。
その感覚しか、この世界には残っていないかのようで……。
「んぅ……ぁ」
「愛しています、ティナ様」
永遠のような一瞬。
それが、今ここで私の心に、魂に、焼き付けられたのだと思った。
『だから、誇りを取り戻しましょう』
いつかと同じように。
サーリャは私を変えてくれる。チート勇者が世界をそうするように、私という人間を変革してしまう。
暴力で壊すのではなく、無理矢理に入ってくるのでもなく、ただ優しく微笑んで、愛していますと伝えてきて、それだけで、私の弱く脆くなってしまった部分を刷新してくれる。
もしかしたら、それはとても、一番ズルい手口、遣り口なのかもしれないと……ぼんやりした頭で思った。
弱い部分に付け込む……なんてね。
でも、サーリャの唇の柔らかさを、あたたかさを、熱を、幸せな温度を、金色の輝きを、吸い込まれるような瞳の優しさを……全身で感じながら、それでもいいやと思った。
弱い私が悪いのだから。
それが嫌だと思うのならば、私は強くならなければいけないのだから。
そんな風に勇氣をくれるズルさなら、いくらでもしてほしいと思った。
「ん……あ、サーリャ……」
……そうして氣が付けば。
頬に、まぶたに、額に、首筋に、サーリャの唇が何度も落ちていた。その全てが熱い。
胸がいっぱいになって、なぜだか泣きそうだった。
「ティナ様が、ミア様へ無償の愛情を向けられているように、ティナ様にも、多くのそういう愛情が向いているのです。信じられませんか?」
「え……」
何も考えることなく、フルフルと横に振られている、私の頭。
全身が、蜂蜜のような黄金色の何かで満たされていて、直前までぐじぐじと悩んでいたことが全て蕩けている。
これが幸せというのならば。
これを幸せと呼ぶのならば。
私は今、幸せにのぼせてしまっている。
だから何も考えられなくて、ただ。
サーリャの薄桃色の唇と、その灰色がかった水色の瞳を見ている。
悪戯っぽく笑う、十七歳の、だから本当は年下のはずの少女を、ただただ見ている。
私の何かを奪い、支配し、そうして救い、掬い上げてくれた少女のことを、ただただ見ている。
強く抱かれていなければ、もう膝から崩れ落ちそうだとも思った。
「さて」「ぁ……」
どれくらい、そうしていたのだろうか。
永遠にも思えたし、一瞬にも思えた。そんな刻。
「いきましょうか、ミア様が、アリスが、待っています」
「ん……」
だけど、それも終わる。
永遠なる一瞬などないと、現実とはそうして続いてくものと告げられたかのように、私は柔らかな熱から解放され、サーリャに、ハニーブロンド舞う背中を向けられる。
でも、右手はまだ捕らえられたままだ。
そこは繋がったままだ。
いつの間にか、指と指を絡め合う形に、握り直されている。
そこが、今も熱かった。
その繋がりが、あたたかかった。
ふと耳を見れば、サーリャのそれは真っ赤に染まっている。
両耳とも、ハニーブロンドに透けて見えるくらい、真っ赤だ。
その向こうの顔の熱さまで、想像できるくらいに。
そうして、手を引かれ、再び歩き出そうかという、その刹那。
「ティナ様」
一瞬だけ、サーリャはその赤い顔をこちらへ向け、恥ずかしそうに、でも左手の指を軽く自分の唇に当てて、蕩けるような笑顔で、こう言った。
「アリスには、内緒ですからね?」
「え、あ」
ぼんっ……と自分の顔も赤くなったのがわかった。
身体の奥底から。
心の全てから。
感情があふれ、それが涙となってぼろぼろと零れ落ちていく。
意味がわからないほどの奔流。なぜ泣いているのか、悲しくなんてないのに、こんなにも幸せで胸がいっぱいなのに。
「……サーリャ、あ゛りがとう」
お屋敷の廊下を、これ以上何かが零れないよう、目尻を擦りながら、片手を引かれて歩く私がいる。
柔らかであたたかな手は、私のそれよりも少しだけ大きくて、実際に生きた年月は私の方が多いはずなのに、それはもう人としての大きさそのものを表しているようで……悲しいような、嬉しいような、情けないような、誇らしいような、とても不思議な氣持ちだった。
サーリャ、大好き。大好きだよ、サーリャ。
どうか、サーリャのためにも、サーリャの想いに応えられる自分でありますように。
そうしていこうと思った。そうなっていこうと思った。二人の未来を願った。二人の幸せを祈った。
外で、今も強く吹いている風が、まるで私達を祝福してくれているみたいだと思った。
「さぁ着きましたよ、ティナ様、ノックしてあげてください」
「う、うん」
それは、なんだか懐かしいような、ミアの部屋。
その扉。
それを、私は、ためらいがちに、叩く。
「ゅ」「お、きたね」
ん?
中から、戸惑ったようなミアの声と……アリスの声?
「さあ、ドアを開いて」
そっとサーリャに背中を押される。
「う、うん?」
なんだろう、どうしたんだろう。
奇妙な雰囲氣に戸惑いながら、私はミアの部屋のドアを開ける。
ぎいと軽い音。
その向こうはカーテンなど全開のようで、明るい光に溢れていて……。
「ティナ」「おねえちゃん!」「ティナ様」
十四歳のお誕生日、おめでとう!




