41話:偽の聖女が猛る夜に
<キルサ視点>
「急げ! もう少しだ!」
岩の多い森を、蹄鉄の荒い音を響かせながら、七騎の人馬が疾走している。
上の書状ひとつない身では後詰めの説得に時間がかかった。
この身は、ナハト隊長のお氣に入りとして知られてはいるが、身分としては低い。
おまけに、する報告が前線部隊、全員の戦闘不能状態だ。報告しつつ、我ながら荒唐無稽だなと思っていた。
だがそこは、使用魔法の特定に至っていない竜の討伐隊であるという状況が幸いした。
何であれ、尋常ならざる事態が前線で起きている。そのことだけは伝わったのだろう。後詰め部隊、キャンプ地にいた十一名中、六人が私と共に前線へ来ることとなった。残り五名は三人が待機、二人が更なる後詰めとなるキャンプ地への報告だ。
報告からその態勢が決定するまで四半刻から半刻あまり。正直、拙速が尊ばれる軍にあっては時間を食いすぎだ。ことが終わり次第、なにかしらの改善策を、献策しなければならぬ。
そんな、今この時点においては益体も無いことを考えながら、馬を走らせていると……。
「っ!!……どうした!?」
馬が、何かに怯えたかのように、その足を止める。
見れば周り、六騎が六騎ともその足を止めている。勢い、落馬しかけてもおかしくない急停止だったが、幸い、そこはさすが空中戦を得意とする竜殺し部隊とでも言うべきか、誰も体勢を崩していなかった。槍を構えていたり、酸の小瓶を握り締めている者はいるが。
……危ないな、アレは割れ易く造られているのだが。
「おい! あれはなんだ!?」
ひとりが、空を指差して言った。
全員が頭を上げる。
そこへ……。
星降るような夜空に、何か、赤黒っぽい影が……。
「竜だ」「竜か!?」「赤竜だ!!」
風が届く。
頭上はるか上、人の数倍は大きいはずの、竜の巨躯が大型の鳥程度に見える天空。
そこを、赤い竜が通っていく。
こちらには目もくれず、我らとは逆の方向を目指し、赤竜は悠々と空を渡っていく。
「黒……ではないな、赤い……あれは……」
赤竜と黒竜との関係。それはこの討伐隊でもほんの一握りの人間しか知らない。
いや、それも正確な言葉ではない。
二体の竜に、何かしらの関係があると疑っているもの、それはこの討伐隊でもほんの一握りの人間だ。具体的にいえばナハト隊長、ゴドウィン副官、それだけ。第二王子にも疑惑は伝えられているはずだが、関心はなさそうだった。第三王女は知らされてすらいないだろう。
だが、ここにいた六名は氣付いてしまった。ここは黒い竜の勢力圏。その中を悠然と飛んでいく赤い竜が、黒い竜と何も関係ないはずがないだろう……と。
「ライラ」
「はっ!」
声に、地味な顔をした女兵士が反応する。ここにいる私以外の六人のうちでは唯一の女性。戦闘力はさほどではないし、男運が悪いことも知っているが、真面目で仕事はそつなくこなす。
「これを、後詰めに報告せよ」
「はっ!」
そんなライラが、ことを報告するため、この行軍から抜ける。
多少、痛手ではあるが、そもそも七人が六人に減ったところで戦力不足は変わらない。
事態の深刻さが、より真剣みをもって後詰めに伝わるのであれば、これは必要な一手だろう。
「本当に……何が起きてるんだ……」
呟きは、夜の闇に、とても頼りなく響いた。
<引き続きのアリス視点>
「遅くなったね、アリス。サーリャがなかなか落ちてくれなくて。ちゃんと頚動脈を締めると数十秒で落ちるはずなんだけど、技術がまだ未熟だったみたい」
「ティ、ナ゛……」
「やはり、この者と仲間か、聖女殿」
「友達だよ」「っ……」
チビの言葉を、ティナが食い氣味に断定で断裁した。
それはあたしへ向けてくれた言葉とは違って、親しみもなければ飄々ともしておらず、まるで甘さのない、炎のような物言いだった。
「ほう?」「ティ、ナ……」
ティナが怒ってる。
怒って……くれている。
白い服に、黒い髪。
夜にも目立つ、琥珀色の瞳。
右手に短剣を携えてはいるものの、その手は胸の前に置かれ、更にその甲には左手が、右手を抑えるかのように添えられていた。それはまるで、何かに祈るかのようにも見えて……だから短剣の刃先は、そんなだから、あろうことか自分自身の首筋に当たっていた。
その立ち姿を見て、あたしが真っ先に連想したのは……ティナのその美少女然とした細い身体にはまったくそぐわない……縄張りを荒らされて激怒する野生動物の姿だった。
激昂してるわけじゃない。
声も態度も荒げていない。
それなのに。
それなのに、だ。
ティナは今、猛烈に怒っていて、そのことがあたしにはハッキリとわかる。
荒ぶる波動の波が、その圏外までも伝わってくる。
それは喩えれば嵐。
竜巻のように、荒ぶる暴風が全てを吹き飛ばしていく禍難。
渦潮のように、巻き込むもの全てを飲み込んでしまう災禍。
聖女然とした微笑を浮かべてはいるものの、あれは猛獣だ。
聖母然とした微笑を浮かべてはいるものの、あれは天災だ。
人ならざるモノ。その匂いがプンプンする。
あたしは、ティナの姿を見て反射的に言い掛けた言葉……バカ、どうして逃げてくれなかったの……を、ぐっと飲み込む。
ティナは馬鹿だけど。
本当に大バカだけど。
もう何度も思い知らされた。
この子は……このあたしのママみたいな女の子は……凄いんだ。
ティナの波動、その圏内に、あたしの身体が入る。
死にかけだった身体に、若干の生氣が戻った。
あたたかい。
あたたかいよ……ティナ。
「ナハト隊長様、小さな女の子にあまりのなされよう、感心できませんね」
「この者は魔法使いだ。戦闘力も侮れなかった。見た目幼きといえども、油断はできぬ」
「ここまで痛めつける意味が?」
「魔法使いは何をしてくるかわからぬ。身体の自由を奪い、心を折る必要があった。今も魔法の発動を察したらすぐに息の根を止められるよう、氣を張っているのはこちらの方なのだが?」
「やりすぎ、警戒のし過ぎでは?」
「必要と思ったことは躊躇わず実行する。戦場で子供が近付いてくれば、その背中に刃が無いか警戒する。それが兵士というものだ」
「そうですか……」
「それで、聖女殿は、背中どころでなく、胸元に短剣など携えて、何をお望みかな?」
「……」
「返答次第ではこの槍、そちらへ向けねばならぬのだが?」
「それは……」「ぎっ……」
右肩を貫通する槍が、軽く捻られる。もうあちこち痛くてなにがなにやらわからない。わからないけど、激痛が全身を貫いていく。ティナの波動圏内にいなければ、氣を失ってしまいそうな痛みだった。
「……私はスカーシュゴード男爵家の長女、アナベルティナ・タチアナ・スカーシュゴード。聖女認定された貴族令嬢です。貴方に、私を裁く権利がありますか?」
「命がかかっているとならば、序列など関係ないさ」
「黒竜討伐隊隊長ナハト、槍を収めなさい」
「聖女殿には魔女の眷属の疑いがある。その命令は、聞けぬな」
「そうですか……なら、力ずくとなりましょうか?」「え゛?」
ティナは今、なんて言った?
さっきから耳鳴りがうるさい。よく聞こえない。
「ほう?」
「私は戦いを好みません。血が流れるのは辛いこと。ですが、時に雌雄を決する必要があるのもまた人の世の必定……」
「な゛に゛を……」
何を言ってるの。ティナは何を言ってるの? わからない、どうしてそこで、嘘とハッタリ、舌と言葉の戦いでなくて、純粋な戦闘をするという話になるの?……ティナには戦闘力なんてない。それは間違いなくそう。ティナは多少護身術をかじっただけのお嬢様、それ以上なんかじゃない。
「まぁ、生物的な雌雄は最初から決していますけれど」
だけどティナは、それでもやはり、不敵に笑う。
「これはまた大変に貴族的な冗句を。生憎とこちらは諧謔の趣など嗜まぬ無骨、木石であるゆえ、斯様な高尚、味わう舌など持たぬこの身を、どうぞお許し頂ければ、聖女殿」
チビ……このナハトとかいう男は強い。デタラメのような強さだ。
相性が悪かったのもあるけど、あたしですら敵わなかった。
「……その返し、その方がむしろ貴族的とお見受けしますが?」
「さてな。凶器を携え対峙するモノ同士、そこに身分など関係ないと、こちらは既に述べたが?」
「では、あくまで問答無用であると?」
「無論」
自慢じゃないが、あたしとティナが戦ったら、十戦やって十回あたしが勝つ。
ティナは頭がいいから、もっと完全にあたしのこと……どんな時にどんな魔法を使うかとか……を全部知られてしまい、それに応じた策謀を完璧に張り巡らされたら、わからないけど……でも普通の戦闘なら、あたしがティナに負けることは絶対ない。言い切れる。
「……貴方を殺したら、色々と面倒になるので、できれば武装解除をお願いしたいのですが」
「それは挑発のつもりか? 乗る理由はどこにも無いな」
それなのに、罠も用意できず、策も練れなかっただろうこの状況で、短剣ひとつで、ティナに何ができるというの……。
サーリャは、ティナが落としたと言っていた。それが嘘だとして、この場でサーリャが健在であったとしても、そのことに何か意味あるとも思えない。
ユミファの封印は、あたしがこのままなら程なく解けるだろう。
でも、すぐじゃない。
ティナには少し大袈裟に言っておいたけど、あれの半分はユミファの魔法だから、あたしが結界魔法を使うのを止めたとしても、即、封印解除となるわけじゃない。二週間はかからないだろうけど、どんなに早くても数時間……ううん、半日近くはかかるはずだ。
それに……この場にユミファを解き放つことでどうにかしようとする……そんな作戦は……あの時の……妹ちゃんを封印するだなんて言い出して……サーリャにも止められた……ティナのあの時の顔を思えば……ありえないと言える。
ユミファを期待してのこの自信なら怖いけれど、違うとなぜか確信できてしまう。
なぜだろう。ティナはそんな人じゃないと、あたしの心が信じている。
「いえ、単純な未来予知ですよ? 貴方は私には勝てない。貴方は私と正々堂々、戦って、負けるのです」
なら、ティナのこの自信はなんだ?
ただの強がり……とは思えない。けど……だからといって、その裏打ちとなる何かがあるとも思えない。ティナの武力的非力は、覆しようの無い事実だから。
まだ、いつもの嘘八百、ハッタリと誤魔化しで何かすると言われた方が、あたしは納得できたし、頼もしくも思えただろう。
……頼もしく?
「……正氣か? 聖女殿」
あたしは……ティナに頼ろうとしていた?
この状況で?
ティナはママじゃないのに?
ティナはどう考えてもあたしより弱いのに?
友達が、鎧すらつけない生身の身体で、武装した隊長クラスの軍人に立ち向かうという、まぎれもない自殺行為をしようとしているのに?
「どうでしょうね? どう見えますか? 今の私の姿は」
あたしはティナの顔を仰ぎ見る。
「私は狂っていますか? おかしいですか? そう見えますか? その目にはどう見えるのですか?」
笑ってる。
聖女のように、笑っている。
笑ってる。
聖母のように、笑っている。
変わらず、短剣を持った手を、その逆の……震える手で押さえながら、ティナは聖女のように、聖母のように笑っていた。
左手の震えが、首筋に当たる短剣の刃先にも伝わっていて……だから今にも、そこから血が溢れ、流れてきそうに思えた。
「……ことここに至っては詮無きこと。来るなら来られよ、聖女殿」
「応とも……ね」
戯れに、刃を交えたとでもいうかような言葉の応酬……しかしその交渉は決裂して、月下にはしばし冷たく張り詰めた空氣だけが漂った。
それが実際にはどれくらいの時間だったのか、痛みで脳を焼かれたままのあたしには、もうわからなかった。
わかっていたのは、ティナがずっとその笑みを崩さなかったこと。
しばしの沈黙が、永遠みたいに感じられたこと。
「ぎぅ゛」
そしてある瞬間、あたしの右肩に刺さっていた槍が抜かれ、その痛みにあたしが呻いたこと。
そこからは、本当に一瞬の出来事だった。
ティナが、笑みを浮かべたまま、左手を、右手から退け……。
「しっ!」
刹那、あたしの肩から抜けた槍が、横薙ぎに、ティナの胴を打つ。
「ティ!……」
それは鋭く、霞むあたしの視界では捉えきれない一閃だった。
でも。
「……ナ?」
ティナはそれに……胴へと確実に入った一撃に……しかし何も動じていない。
「なっ!?」「なん……で」
動じないことに、チビはうろたえたんだと思う。
ティナが、短剣を持った右手を頭上へ大きく振りかぶる。
その胴はがら空きになっている。
チビの槍が慌てたように振られ、短い溜めの挙動から豪速の突きが放たれる。
ティナが成長すれば(……するのかな?)谷間ができる辺り、胸のやや上よりの中央へ、槍はまっすぐに放たれていた。
けど……。
「なんだこれは!?」
胸を突かれたティナは、しかし何事も無かったかのように短剣を構え直す。意外と堂に入った構えだった。
「く!?」
わけのわからない光景。
なにがなんだかわからない光景。
まるでそこに結界があるかのように、ティナは物理無効の存在に……なっている?
チビが、お前か!? とでもいうような視線をあたしへ向ける。
ううん、違う。
あたしは、そんなもの張ってない。
張っていないのに。
一瞬で、あたしのその動揺が伝わったのだろう、チビは、ならばなんだ!? とばかりに、四方八方へ視線を巡らせた。巡らせてしまった。
戦いの最中に、本当の敵から目を逸らした。逸らしてしまった。
ティナはその隙を見逃さない。氣が付けば、チビへ距離を詰めていた。
それはもう、槍ではなく短剣の領域だった。
「くぅっ!?」
慌てたチビが後ろに飛んで逃れようとするのへ……ティナは倒れこむように覆い被さり。
「ぐあっ!?」
チビの身体を……どこか斬った。
あたしの視界には、勢いあまってめくれてしまったティナのワンピース、その中の……、ティナの下半身が見えていた。
その肌は。
その色は。
ああ、あの辺の傷、あたしが治したんだよね……と思いながら見るお尻とか、まだ全然太くない太ももとか、そういう……肌の色が。
「ティ……ナ、あんたなんで……緑色」
ゴブリン。
多くのゴブリンの……肌の色……緑色。
『ちゃんと塗ったね、おーけぃ』
そんなバカな!?
ティナの首には確かに、あたしやサーリャが全身に塗ったのと同じ、抗ゴブリン薬の匂いがあった。手とかにも、確実にその匂いがしたのに!?
でも、あたしはティナの身体、その全部の匂いを嗅いだわけじゃない。……変態さんじゃないんだし。
あたしが髪を切って、鎖帷子に着替えている間、ティナは、あのバカ王女のテントに行っていた。王女が着替えたり、(たぶんお手洗い的な意味で)手を洗ったりするのに付き合ったとかで。
緑色の液体だったという、人をゴブリンにする薬、ゴブリン化薬。
その残りは、きっとバカ王女のテントにあったはずだ。
そこへ、ティナは赴いていた。
……そこに残っていた、ゴブリン化薬を、ティナはどうした?
回収した?
回収して……どうした?
あたしは、緑色に染まり、生体魔法陣の証である黒い線が縦横に走りまくった、ティナの太ももやお尻を凝視する。その線はあたしが引いたモノじゃない。ティナは今あたしじゃない、何か魔法生物の生体魔法陣にされている!
……ゴブリンロード?
ティナの下半身は、今はドロワじゃなくて紐パンだから、その淡い曲線が良く見える……そのラインの、肌が全部ゴブリン化……否、ゴブリンロード化している。
……あの分じゃ、下着のその内側ですら、ゴブリンロード化しているハズ。
どうしてティナの身体がそんなことになっているのか。
ティナが回収したはずのゴブリン化薬。
そして首から下がゴブリンロード化しているティナ。
つまり。
ええと、だから、つまり。
……ああ……もう!!
認めたくない。
認めたくない真実が、今あたしの頭の中で結実する。
すなわち。
「塗ったの!?」
「さすがにね、飲む氣はしなかったから、サーリャを落としてから、今ついさっき、こう、ペトペト、とね?」
「とね? じゃないわよ!……う゛っ……ごぼっ、ごぼっ」
「話はあと、とりあえずアリスは自分を治療、いい?」
「いい? ってアンタ!」
「しないなら、今ここで紐パンも脱いで、緑色になったアレもコレもアリスに開陳しちゃうよ? そんなものを見てしまったトラウマ、背負いたくないでしょ?」
「ばっ!?……じゃなくてどうしてそんな身体に!?」
「決まってるでしょ」
そうしてティナはまた微笑む。
「アリスを助けるためだよ」
ゴブリンの肌は、刃を通さないって聞いたから。
そう言って、ティナはチビの血を吸った短剣を、またその胸に抱いた。
白いワンピースが、血で赤黒く染まっていた。
「ティナ……アンタ……ばかぁ……」
「えへへ」
それは……それはもう聖母にも聖女にも見えなくなっていて。
だけど……。
だから……。
あたしの目にそれは、その姿は。
とても美しい。
とても美しい、小さな鬼のように……映った。




