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35話:『ナハト』


 弱いとは罪だ。


 この世界に存在を許されないほどの、それは罪なのだ。






 その少年は、病を患っていた。


 生まれつきではない。七歳の秋、その(とき)まで、彼は健康にすくすくと育った。


 健やかに育つ幸福な日々の中、彼は突然、その身を奈落へ堕とされた。


 咳、吐血、関節の痛み、時に熱と眩暈(めまい)、息苦しさ。


 断続的に、死ぬほどの苦しみに襲われる。

 その間は、痛苦という感覚、それ以外の全てが、少年から奪われてしまう、そんな病。


 親が必死に金をかき集め、やっとの想いで呼んだ医者は、少年の身体をあちこち弄くりまわし、様々な器具を身体のあちこちに当て、刺し、挿入して、およそ大人でも耐えられないような様々な辛苦と激痛を彼に与えて……その末に……「これは天がこの子を呼んでいるのでしょう」とだけ言い……匙を投げた。


 これは人に伝染る病気ですから隔離するべきでしょうと言い残し、金だけはしっかり満額を要求し、受け取って、医者は帰っていった。


 だが少年は、天に召されはしなかった。


 夜は喘息のような咳が、昼は延々と続く熱と倦怠感が彼を苛んだが、それでも彼は死ななかった。手足が棒のように細くなりながらも、彼の心臓は鼓動することを止めなかった。


 それからの数年、彼は窓を閉め切った暗い部屋のベッドで、病に苦しみながら過ごした。


 兄弟は勿論、父も母も彼を見放した。


 ただ、騎士である父の、従者だけが、彼に食事を運び、身体を拭き、喋るのは苦手といいながらもたまに短い言葉をかけてくれた。


 従者は戦場で傷を負い、退役した、元騎士であり軍人だった。


 その従者は足を()いて歩く。

 身体は古傷だらけ。

 荒削りな彫刻のように無骨な顔、しゃがれた声。


 そこに、健やかな、健全な、かつて少年がいたはずの世界にあったものは何もなくて……つまりこの者は「この場所に相応しい」者として自分に送られてきたのだろう……と……少年はそう思った。


 いや「こんな自分に相応しい」者か……とも思った。




 最初はそうだった。


 なんと驕っていたのだろうと、後に彼は唇を噛み締めることになるのだが、最初は本当にそうだった。


 やがて少年は、その者に縋るようになる。


 たったひとり、自分を見捨てないで、機械のように毎日毎日、同じ仕事をして、同じ態度で、泣き言を言わず、揺るがず、一定の規律をけして()げることなく、自分の世話をし続けてくれる従者に、少年は……それが信頼と呼べるモノなのか依存というべきモノなのか、それすらもわからないまま……いつしか心を預けるようになっていた。


 だから少年は泣かなくなった。

 そして少年は絶望することを止めた。




 病魔にも、魔のモノらしく氣まぐれというものはある。

 無限の苦しみにも、寛解(かんかい)と呼べる時期はある。


 そんな瞬間に、少年は従者のことを知りたがった。


 どんな騎士だったのか。


 彼が戦場でどのように戦い、敵に打ち勝ち、どのように感じ、何を思ったのか。


 身分が、肉体が、それを許すのであれば、まだ戦いたいと思っているのか、どうなのか……少年はまるで恋を患った乙女であるかのように繰り返し、繰り返し……従者へと問うた。


 従者は無骨で、もとよりの寡黙な気質もあって、その言葉は常に短く、意図の読みにくいものばかりであったが、少年には、有り余る時間だけはあった。


 やがて少年は理解するに至る。


 従者は、かつて高潔な騎士だった。

 従者は、かつて勇敢な兵士だった。


 戦場では数多くの敵兵を打ち破り、屠り、味方を、そして国を守った。


 彼は勇士だったのだ。


 特に驚いたのが、彼が若き頃、竜を倒したことがあるというその逸話だった。


 竜。地上最強と伝え聞かされる伝説級の生き物。

 竜。それは災害に匹敵する人類の天敵。

 竜。だがそれを人の身で打ち破るは、間違いなく勇者である。


 少年は、従者に、竜を打ち破った時の話を何回も何回もせがみ、繰り返し繰り返し、そのしゃがれた声に、病魔に侵された血肉を湧かせ、躍らせた。


 そうして少年の胸に、騎士であった彼への、兵士であった彼への、勇士であった彼への……勇者への……憧憬が募っていった。


 ある日、少年は槍を望み、それはいとも容易く与えられた。


 自殺のためであるなら……それはそれで良しと判断されたのだろう。


 だが、か細くも胸に憧憬の火が灯った彼に、自死の意図は皆無であった。


 少年は狭い部屋の中で、可能であれば、昼夜を問わずベッドから降りてはそれを振り、それすらも不可能な時は腕の力だけで槍を操るようになった。


 従者へも教えを乞い、苦しくとも、辛くとも、彼は槍をふるい続け、それだけを愚直に、毎日、休みなく続けた。


 それはもう本当に……刻を選ばず、彼は人の何倍もの時間、槍を振り続けたのだ。




 それは少年が病に臥してから八年が経過した、彼が十五歳の時のことだった。


 病状は一向に快方に至らず、しかしそれでも致命的な何かは起こらず、少年の身体も病床の中にあって、それでも不可思議な成長を遂げていた。


 背は一般的な女性の平均と同じか、やや高い程度。


 だがその細い身体には……しなやかな縄を埋め込んだかのような筋肉が……全身にみっちりと付いていた。


 ある日。


 そんな彼の身体を、従者はいつものように拭きながら、こう言った。


「坊ちゃん。あたくしは、しばらく、坊ちゃんのお世話を、できなくなるかもしれません」


 世界でもひっくり返ったような衝撃を少年が受けている中、従者は……この彼にしては珍しく、長々と……その理由を語って聞かせてくれた。


「戦争が、また始まるんで。旦那様が、参軍なさるんで……あたくしも、従軍する方向で話が進んでいるんで」


 どうして。


 左のふくらはぎに重傷を負い、まともに歩けなくなり、退役した元軍人がなぜにと。


「今度の戦争は、あちらさんも本氣のようで、下手をしたらうちらに侵攻され、領土を侵されてしまうかもしれないんで……旦那様も力を尽くす覚悟をされたようで」


 だからどうしてお前まで!


「……旦那様は、あたくしの望みを覚えていてくれたのでしょう」


 なにを!?


「あっしは戦場で死にてぇ。沢山の仲間の命が散って、それと同じくらい、あたくしの槍によって沢山の命が散りやした。あの場所であたくしも……あっしもあの場所で死にてぇんです」


 な……に……を。


「あたくしの命はあそこに置き去りのままなんで、それを取り返しにいきてぇんです」


 どうして! どうして! どうして!


 わけのわからない激情が、少年の胸の(うち)を掻き乱しました。


 行ってほしくない。


 死んで欲しくない。


 それ以上に自分を置いていかないで欲しい。


 自分を見捨てないで欲しい。


 小康状態と言っていいのかすらわからない、毎日、死ぬほどではない苦しみに延々と苛まれるという……この氣だるい地獄の中に、自分をひとり残し、行かないでほしい。


 だが……。


 でも。


 やがて、そんな激情の醜さ、みっともなさに、自分自身氣付くと。


 少年は、もう従者を止めることができなくなっていた。


 少年が従者を止める理由、正当性。


 そんなもの、八年間、ただ苦しみ、世話をされていただけの少年になぞ、あるはずも無い。


 だが誰が少年を責められようか?


 少年には、暗く狭い部屋の外に、出ることすら許されなかったのだ。

 何を手に入れることもできない狭い世界。

 その小さな世界で延々苦しむだけが、少年に許された人生、そのものだったのだ。


 誰も少年を責めない。


 従者も少年を責めない。


 少年を見捨て、切り捨てている父と母、兄弟、親族、世界そのものも彼を責めない。


 責めるほど関わりたくない。


 だって彼は病に倒れたのだから。


 仕方無いことで、どうしようもない。


 それはこの世の理不尽そのもので、できることがない以上、関わりたくもない。


 見たくない、聞きたくない、悲劇などどこかへ行ってしまえ。


 死の、その時まで隔離する……それだけが唯一の対処。




 少年の心は壊れた。


 誰も訪れることの無くなった世界で、彼は……新たに部屋のドアの下へ作られた小さい扉から差し込まれる……食事すら食べることがなくなり、いつも起きているのか、寝ているのかわからないような朦朧とした意識のまま、急速に()(おとろ)えていった。


 ある日、彼は窓を……釘を打ち付けられ、締め切られていた窓を……どこにそんな力があったのか、その拳で破り、身を投げ、死のうとした。


 びゅうと鳴く風と共に、少年へと叩き付けられたのは。


 恐怖。


 そこは屋敷の最上階、四階に造られた隔離部屋だった。


 ぼやけ、揺れる少年の視界に、人を殺す、人を殺せる高さは……根源的な……なにか心底よりゾゾリと這い上がってくる、凍えるような、心胆寒(しんたんさむ)からしめる強大な恐怖を伴って……映った。


 死を望み、窓を破った……そのはずなのに、彼はどうしようもなく恐怖してしまった。


 死にたくない。


 死にたかったはずなのに。


 死にたくない。


 こんな苦しみが続くならいっそ……苦しみの中で何度もそう思ったのに。


 死にたくない。


 どうして。


 死を望み、戦場に(おもむ)いた彼をまだ尊敬しているのに。


 どうして。


 どうして僕はこんなに弱いのか。


 どうして僕はこんなにも虚弱なのか。


 どうしてこんな僕に生きる意味があると思えるんだ。


 でも死にたくない。


 無理だ。


 自分にはこの恐怖に、打ち克つ強さすらない。




 小鳥が、舞い込んだ。




 開けた窓から、少年の小さな世界に、小さな鳥が、迷い込んだ。




 喰った。


 直前まで食事を拒絶し、餓えていた少年は、それを捕まえ、喰ったのだ。


 壊れ、狂っていた少年は、それを捕獲し、貪り喰ったのだ。


 まだ生きたいと氣付いた少年は、生あるものを捕食したのだ。


 生から死へと転じたばかりの肉の塊を見て、少年は(ようや)く生きることに……執着した。




 それはあっけない解放だった。


 それはあっけない開放だった。


 それはあっけない解法による快方だった。




 少年がもう少年ですらなくなった十八の時、父とその従者の訃報が、少年の耳にも届いた。


 十八になった少年の身体には肉がつき、肌には明るい色が戻り、その瞳には生氣が戻っていた。いつも何かを睨んでいるかのような目付きと、その下の濃い隈は、細いながらも無駄のない筋肉質な身体と相まって、彼を背の割に男らしい、強靭な戦士であるかのように演出していた。




 少年の病、その快方を決定付けた治療薬は、戦場よりもたらされた。


 敵方の捕虜、彼らが常備していた薬の中に、少年の病を打ち滅ぼすものがあったのだ。


 それは少年の国にはなかったもので、しかし敵方の国では何年も前から当たり前のものになっていた薬だった。なんでも……戦場における病の流行は致命的なものであり、それを抑えるため、敵国の軍には様々な薬が配備されてるという。


 情報源となった敵方の捕虜、それを捕らえたのは少年の父親だったという。


 その情報を元に、戦場より少年へ薬を送ってくれたのはあの従者だったという。


 だけどその二人はもういない。


 戦場に散り、遺体が帰ってくることもなかった。




 やがて健康になった身体を、少年は苛め抜いた。


 自分は弱い。


 弱かった。


 そのことがどうしても許せない。


 弱いとは罪だ。


 この世界に、存在を許されないほどの、それは罪なのだ。


 その激情、その狂氣が彼を鍛えた。


 騎士の息子とはいえ、騎士爵は相続されるものでもなく、少年もまた、かつて自分を見捨てた母や兄に、頼るつもりなどなかった。

 彼は、だから家を出て、平民の身分で軍に志願した。


 激情、そして狂氣に鍛えられた彼は、やがて頭角を現し、数年で、個人の武技においては国で有数のものであると認められるに至る。


 女性と同程度にしか育たなかった体格は、掴まれたり組み敷かれたりすれば不利になることもあったが、長めの得物、特に槍を操らせればその冴えは他に並ぶものがなく、あまりにも他とレベルの違うそれは、他人に嫉妬すらさせない類の何かであった。


 彼は想う。


 自分は戦場に、一度は膝をついた者に育てられた。


 自分は戦場に、恩師を奪われた。


 自分は戦場に、だが救われた。




 ならば自分という人間は、戦場に、その因縁の清算を果たさなければならない。


 それは戦場で勝つことによってのみ()される。


 戦場は、弱さという罪を刈り取る、鎌を持った死神なのだから。




 しかし彼は戦場に恵まれなかった。


 父親、そして恩師が死んだ戦争から十年、この国に戦争はなかった。


 彼は戦争を待っている。


 彼は戦場を求めている。


 彼は激情の捌け口を求めている。


「これは……なんだ?」


 十年、無為が育てた彼の狂氣は、今、かけられた呪縛を打ち破る。




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