26話:※メイドさん個人の見解です
<サーリャ視点>
ティナ様の様子がおかしい。
目は虚ろで息も荒く、まるで高熱にうなされでもしているかのようです。
「アリス、ティナ様のご様子がおかしい」
私が知る限り、ティナ様は、風邪ひとつひいたことがありません。
こんなご様子を見るのは初めてのことです。
それだけに戸惑います。これはいったい、どうしたことなのでしょうか?
「……アムンはいつも頭のネジが外れたような奴だったから、あんま氣にしてなかったけど、そういえばこれをやるとアイツのテンション、いつもの倍増しで変になっていたような」
「アリス! ティナ様は大丈夫なの!?」
「大丈夫……サーリャ。私は……大丈夫。今アリスの魔法を止めた、ら……落ちちゃう……でしょ?」
「……そうなんだけど。まずいわね。ティナが酔っ払いみたいになってる」
「ティナ様! お嬢様!」
ティナ様が、くてっと私の身体にもたれかかってきます。
頬が上氣し、瞳をとろんとさせるそのご様子は、あるいは色っぽいと言えなくも無いのですが、そこはまだ十三歳の幼さです。むしろ大人に無理矢理お酒を飲まされた子供のようにも見えて、そのいとけなさが痛ましく思えます。
むしろこの状態でなお、弱音を吐こうとしないそのいじらしさに、余計に痛々しさを感じてしまいます。
ティナ様は、幼い頃から兄の暴力にさらされ、痛みや苦しみを我慢することに慣れてしまいました。
色々あって、私には漸く少し、もたれかかってくれるようになりました。
それでも、ティナ様はあまり人に弱みを見せようとしません。
先程の、アリスへの言葉だってそうです。
『アリスはどうすればそれを現実にできるかだけ考えて。……全てが終わって、それがアリスの満足のいかない結果だったら、私の全てをあげてもいい』
どうしてそこで、捨て身の取引を持ちかける必要があるのでしょうか。
アリスはティナ様のことが大好きです。そんなの、見ていればわかります。
ティナ様が、アリスを心から頼るのであれば、そこに対価など必要ないはずです。
それなのに、そう言わなければ氣が済まない。
『どうしても腹に据えかねているというのであれば、私の顔に酷い痕が残るような傷でも創ってください』
痛ましい。
『サーリャは、ミアは……私のことが嫌いになった?』
あんな、この世の終わりみたいな顔、もう見たくない。
『うるさいな! 放っておいてくれよ!』
ご自身が傷付くことでミア様を守ってきた、その過去が関係しているのでしょうか。
今、布越しに密着しているティナ様のお背中の傷……それを、ティナ様は勲章と言いますが、女の子が傷を勲章にしなければいけない、その時点でおかしいのです。
ティナ様の他人への接し方には、どこか自暴自棄なところがあります。
それはティナ様の悪癖です。
人は見返りがなければ動かない……貴族社会においては、それは真とも言えるでしょう。
ですが。
そうでない人間関係だってたくさんあります。人の世は天国ではないけれど、けして地獄でもないのです。ティナ様には、それをもっと信じてほしいのです。
「サーリャ、クソ兄貴が、私の部屋にきて、妄言を吐いて……アリスが助けてくれた時、私、氣絶しちゃった……よね。これ、あの時と似てる……アリス……これ……生体魔法陣……私が氣を失っても、使える?」
「使える。いいよ、氣を失っても」
そうじゃないです。
アリス、そうじゃないんです。
ティナ様は、そこで氣を失って楽になれるお方じゃないんです。
「そ、なら」
簡単に予測できたティナ様の動き……空を飛ぶ黒い船の、でこぼこの壁面に、自分の腕を押し当て、傷を作ろうとする動き……それを、細い主人の手首を掴んで阻止します。
「サー、リャ……なん……で?」
「自傷の痛みで意識を引き戻そうだなんて、させませんよ」
「……この期に及んで自傷とか、なに考えてんの?」
「なにかを、考えたいから、痛みが必要。アリス、お願い。サーリャじゃ、無理」
キッ! とアリスを睨みつけます。
「……やらないわよ。アンタは子連れの熊か」
「アリス……お願い……サーリャ……お願いだから……」
「……睡眠魔法」「アリス!」
「……ふにゃ?」
「え?……ちょっ、なんで効かないのよ!?」「……え?」
「や、ちょっと眠くなったけど……」
「睡眠魔法! 睡眠魔法! 睡眠魔法!」「ちょっとアリス! 大丈夫なの!?」「睡眠魔法! 睡眠魔法! 睡眠魔法! 睡眠魔法!」
「あっ」
アリスが睡眠魔法と言うと、その度にティナ様のまぶたが落ちていき、それが七回目か八回目でしょうか。
ティナ様の身体から、最後の糸が切れたかのように力が抜けました。
「ふー。なんなのよもう!……陽の波動って睡眠魔法に耐性でもあるの?……まぁいいわ、しばらくこれで寝かしておく。どっちにしろもう少しは、しばらく飛んでいるだけだし……あたしはちょっとパザスと連絡を取るね。サーリャは船の前方に高い山でも見えたら教えて。今はもう自動操縦みたいなモノだけど、方向を変える時だけは意識しないといけないの。あたしは後ろのユミファを見てるからね……あ、パザス? ん? そりゃ生きてるって。それでね」
ティナ様の、今も光る小さな身体を抱き締め、今は銀色の髪を撫でて、その体温と心臓の鼓動を確認しながら考えます。
竜は今も、私達を追ってきています。
ティナ様の目標設定は、あの竜を遠くまで誘導して、それから本陣に戻ること。
……それ自体は可能でしょう。この船は、その氣になればあの黒い竜よりも早く飛べるそうですから。
ですが問題は、その先ではないでしょうか?
黒竜はアリスに怨みがあるようでした。それなのにアリスは黒竜を殺せないときています。
正直、これはアリスと黒竜ユミファとの問題です。私やティナ様が巻き込まれる由縁はないのです。いざとなれば……恨まれるのを覚悟の上、ミア様をおひとりにするおつもりですかと……そう言って、ティナ様にこの事態から手を退かせるべきでしょう。それが主人の安全を最優先とする、メイドのお仕事です。
ですが、主人の意のままに動くというのもまた、メイドのお仕事です。
ティナ様はアリスと黒竜との問題を解決したいのでしょう。その上で、陰謀めいた事象が進行する本陣へと戻り、その解決を果たしたいのでしょう。
後者は前者とは逆に、アリスが巻き込まれる由縁はありません。ですからこれはトレードなのです。後者の解決と、前者の解決の。
ティナ様は後者の解決をもって、前者の解決の助力をアリスに頼み込もうとしていた……ご自身の未来まで賭けて。
メイドならば、その意を汲まなければいけません。
お父さん……どうか私に、勇氣を。
……ですが、ハードモードですね、これ。
希望があるとすれば、あの日、お屋敷に現れた赤い竜、ティナ様のお話ではパザス様。この方と合流できれば、また事態が変わるかもしれないということくらいです。
「うん……ごめんなさい。あたしが出て行っても刺激するだけだったみたい。……そんなことするわけないじゃん。四百年だよ? それだけ経っても、あの子の悲しみは消えないんだなって思うと……そりゃもうあたしだってパザスに全部任せてしまいたいよ……しまいたいけど……そういうわけにはいかないじゃない……だってパザス弱いし。あの子、強くなってたよ。アムンのこと、覚えてる?……うん、あれと同じことができるようになってた。……たぶん三つ。ひとつひとつは大したことないと思うけど、ひとつが三倍でも……それが三つ揃ったら何倍? 二十七倍?……それじゃさっきは本当にヤバかったかも。……うん、擺脱魔法で剥がした。え?……うん。ティナがね、凄いの」
その名前に、耳が反応します。
アナベルティナ様。……そういえば、私はティナ様が、なぜアナと呼ばれるのを嫌がるのかも知りません。なんでも話してほしいのに。どんなものを預けられても、私はティナ様の味方でい続けるのに。
意識を失って重みの増した、それでも軽い身体を、なるだけ楽になるよう、その姿勢を整えます。
眉毛やまつげまで銀色に光っています。意識を失ってなお、ティナ様は私達を守ってくれています。魔法を使っているのはアリスですが、それを、黒船ごと飛ばすまでに増幅(?)しているのはティナ様なのですから。
「このまま飛ぶと、数時間後にパザスと合流できるかも」
「そうですか……今、お父さ……本陣はどうなっているのでしょうか?」
「……言い直さないでよ。敬語もだからいらないって。サーリャは普通に親の心配してなってば。孝行したい時に親はなしなのよ」
ツインテールを揺らしながら、なんでもないことのように、アリスが言います。
でも……アリスは、幼いうちに両親を亡くしていたはずです。
母親からの贈り物であるという、七色に光る瞳が、今は光を無くして紫に染まっていました。
……踏み込んでいいのでしょうか。
私とアリスはお互い、ティナ様を通じて繋がった関係にすぎません。
親しめの言葉を交わすことも、あったとは思いますが、それは全てティナ様が一緒にいる場合に限られていたと思います。
「アリスは、あのユミファさん?……を、どうしたいの?」
「ん?」
「説得したいの? それとも昔のことを謝って、許してほしいの?」
「……わかんない。とりあえずはっきり言えるのは、パザスと合流するまでは時間を稼ぎたい」
この時、ひとつの問いが、私の頭に浮かびました。
その言葉を……私はアリスに投げつけるべきなのでしょうか。
踏み込みすぎだと思います。
……ですが。
「パザスさんと一緒に説得しても成らなかった、だから仕方なく殺した。その言い訳がほしいの?」
言ってしまいました。
アリスは……怒ることもなく、複雑に顔を歪めながら、瞳を赤くしたり青くしたりして、考え込んでいます。
「意外と言うね、サーリャ。さっきまで、ご主人様が起きていた間は全然だったのに」
「出過ぎない……それもメイドの仕事よ? アリス」
「ふん。出るトコ出過ぎてるクセによく言うわ」
「……うらやましい?」
「ばっ……そんなにあっても邪魔なだけよ!」
「そうね。暑いと蒸れるし……」
「うわ~、なんかムカつくー」
よく、肩がこると言いますが、私は、それに関しては今のところ苦労していません。
というか、ティナ様のお傍についてより、疲れや身体の不調などは、ほとんど起こらなくなりました。汗で蒸れると不快は不快ですが、肌荒れなども滅多におきません。
陽の波動という、ティナ様の「特別」が、何か関係しているのでしょうか?
「……でも、そうかもね」
「?」
「あたしはユミファをなんとかしてあげたいって思ってる。でも、もうどうにもならないかもって、そうも思ってる。もうちょっとあの子が、言葉の通じる子だったら良かったんだけど、アレだもん……パザスが説得できなければ仕方ないって思っている……思っちゃってた」
「アレ、ですか?」
「見たでしょ? まるで獣。言葉なんか通じそうにない」
アリスの言葉に、私は黒竜の様子を思い返します。
「あたしはユミファを殺す理由を、言い訳を探していた……そうかもね。あたし、酷い人間だ」
アリスを見た瞬間、殺意を滾らせて襲ってきた黒竜。
「ティナがあの時、ユミファを殺せって言ったら、あたし……それに従って……いたのかな……」
確かに、理性と呼べるものはほとんどなく、もはや殺意が塊となって襲ってきているかのようでした。アリスを殺したくて殺したくて、仕方無いかのように。
……?
何かが引っかかります。
『だってあたし達を宝石の中に封印したの、ユミファだし。封印が解けたら伝わる仕掛けでもあったんじゃない?』
「……四百年前、どうしてユミファさんは、アリスとパザスさんを殺さなかったの?」
「ん?」
「どうして封印なんて遠回りをしたの?」
どうして四百年前には封印をしようとし、今は殺そうとしてくるのか。
「あの子は……ティアに騙されていた。四百年前はね。四百年前、あたし達を殺さずに封印したのは多分ティアの指示。そうすることであたし達がより苦しむからとか、そうすることでエンケラウが生き返るとか、多分そんな嘘をついたんだと思う。でも、ティアは人間。すごく胡散臭いヤツだったみたいだけど、それでも人間だったってみんな口を揃えて言ってた。なら、もう生きているはずがない。今は、ティアが死んだから、その制御から外れて暴走しているんでしょ」
「では、そのティアという方は、なぜアリスとパザスさんを殺さずに封印したの?……いいえ、そもそもどうして仲間を裏切ったの? なにがしたかったの?」
そうです。そこのところの根本が、不明のままです。
アリスは私の問いに、瞳を紫にして、ふてくされた幼子のような顔で答えました。
「……出過ぎるのは胸だけにしておけっての。乳オバケ」
すこしカチンときますが、ここで怒ったら負けです。
「ティナ様をお守りするのが私の職分であり本分です。その為に必要なことならなんでもします。なんでもすると決めたんです。おせっかいでもでしゃばりでも……その時の主人がそれを望んでいないことでも……しなきゃいけないことはするんです」
胸を張れ、私。
これまでも、そしてこれからも、私はそうしてティナ様をお守りしていくの。
アリスは私の、そんな強がりの笑顔から、怯んだように目を逸らしました。
「ぐぬぬ……あんた達ってほんと……アレね、いいコンビ? 似たもの主従? 胸だけ見たら凸凹コンビの癖して、根っこが一緒ね」
「失礼な、お嬢様のお胸は凹んでなどいませんよ。さすがに」
「……アンタのソレも十分に失礼な氣がするけど……あーもー! ティナにもまだ話してないことなのに! なんでアンタなんかに先に話さなきゃいけないのよ!」
「そういう巡り合せもあります」
「あーもー! わーったわーった! 話すわよ! その代わり!……ティナにはこれから話すことの中で、黙っておいてほしい部分があるの。それは喋らないで!……約束できる?」
「はい」
必要と思えば、私は多分喋ってしまうのでしょうが、ここは約束してしまいます。
アリスもまだまだ子供ですね。女に喋らないは、無理な相談ですよ?
「じー……」
と、あまりにも簡単に返事をしたせいでしょうか、アリスが疑わしげな目を向けてきています。ティナ様はこういうのをジト目と呼んでいましたね。
「喋らない、喋りません。大恩ある男爵家に誓います」
まぁ私の忠誠はティナ様個人に捧げられているんですけどね。
契約不履行? 不忠である?
私はご当主様、ご母堂様より「なによりもまず娘(あの子)の味方になって欲しい(の)」と頼まれていますよ?
……はい、この命に換えても。
「……まぁいいわ。いつかティナにも話すつもりだったからね」
諦めたように、アリスが話し始めます。
「あのね、九星の騎士団は、パパとママが愛し合ったことで、二つに分裂したの。パパママについてきたのがパザス、アムン、アイア、エンケラウの四人で、副団長だったリルクヘリムが、オズ、ルカの二人と一緒に、あたし達と敵対を選んだの」
「エンケラウさんは、味方だったのですね。……ティアさんという方は?」
「ティアは騎士団が分裂してからどこかへ消えていたの。だからあたしも会ったことがないんだけど……」
「えっ?」
おかしいですね。確か先程……。
『あんなやつ裏切り者で十分よ!』
「あたしがティアの名を耳にするのは、騎士団の分裂から数年後。ティアが……ママを攫って……殺したって聞いたわ。パパもその時に……」
「なっ!?」
「あたしはまだ小さくて、その時は、詳しい事情は何も教えてもらえなくて、後から聞いた話なんだけど」
「アリス……」
なんでもないことのように言う、その瞳が潤んでいます。
涙は、グラグラと揺れるこの船の上であっても、けして零れ落ちたりはしませんでした。ですが、アリスが両親を慕い、今も偲んでいるのは確かなことでしょう。
辛かったね……と言って慰めてあげたい氣持ちがこみあげてきます。
だけど今、私がこの胸に抱いているのは、ティナ様です。
放さないよう、ぎゅっと抱きしめます。
「パパとママを失ったあたし達は、パザスに連れられて各地を転々としたわ。あたしの仲間はパザス、アムン、アイア、エンケラウの四人と、ユミファだけになった」
「ああ……」
そういえば、アリスの胸には、今も七つのブローチが輝いています。
九星の騎士団なのに七つ星なのは、それがアリスの両親と、四人と一匹の仲間達を表すモノだからなのでしょう。深紅はお父様、玉虫色はお母様、くすんだ赤、赤、黄、青がそれぞれパザス様、アムン様、アイア様、エンケラウ様で……黒がユミファさん。
「パザスが竜にされちゃったのはその途中。あの魔女が単体であたし達を襲ってきたのか、それともリルクヘリムかティアの差し金だったのか、それは今でもわからないの。でもその戦いの途中で……エンケラウも、ゴブリンにされてしまったの」
「ゴブリン!?」
「今の人はもう知っている? ゴブリンはね、魔法生物なの。ゴブリン自体が魔法を使うことは滅多にないけど、その身体には、超微小な『マナに触れられる手』が無数に存在してるの」
「……後者は、知りませんでした。そんな説、今初めて聞きました」
アリスがふぅと、その少女の容貌に相応しくない、重いため息をつきました。
表情を見れば苦々しい、渋りきったものです。
「ここからがティナには話してほしくないことよ。あのね、魔女ドゥームジュディの魔法は、呪いは、つまり『マナに触れられる手』を新しく生み出す力だったの」
「え!?」
「ティナは魔法に憧れを持っている。ティナは……きっと魔法を使いたいんだよ。あたしが魔法を使うたび、すごく羨ましそうな顔をしていたもん。……でもね、魔法を使うには、だから『マナに触れられる手』が必要なの。……わかる? どうしてあたしが、これをティナに話したくなかったのか」
つまり。
力を得るには……代償が必要?
「……パザスさんはどうして竜になっているの? いいえ、それだけでなく、どうしてエンケラウさんも……ゴブリンになってしまったの?」
「それよ。魔女ドゥームジュディの魔法は呪いだった。『マナに触れられる手』を与えることで人にその形を捨てさせる……醜悪な呪いだったの」
くらっと。
頭が、船の揺れによるものでない、精神的な眩暈によって揺れます。
そんなもの、ティナ様が欲していいモノではないです!
「わかったでしょ? ティナには危ういところがあるわ。魔法が使えるのなら、人の形くらい簡単に捨ててしまうかもしれない……そういう、今の自分を全然大事にしない危うさが、ティナにはあるの」
こんなに可愛く産んでもらってるのにね……アリスの呟きが空に溶けていきます。
わかります。それは日々私が痛感していることです。
ティナ様は美少女です。年相応の可愛らしさも、それはありますが、父親譲りの氣の強そうな顔は、絶世の美女、麗人と呼ばれる未来を、容易に想像させます。
非の打ち所の無い美貌で、どこか飄々とした態度を崩さない少女。
それはある種の男性に、いえ女性にさえ、傅かせたい、曇らせたい、虐め、いたぶりたいという欲求を抱かせることでしょう。自分の一挙手一投足に動じ、揺らぎ、いじわるをすれば萎縮して怯え、微笑みかけてやれば安心して寄ってくる……そういう「可愛らしい」存在に、してしまいたくなることでしょう。
これは誰にも言えないことですが、私には、亡くなられたボソルカン様の氣持ちも、少し理解できるのです。どれほど否定しても拒絶しても、似たモノは私の中にもあるのですから。私はそれを、暴力や虐待などという形にはしないだけです。
様々なことに才能を持って生まれた天才性、たおやかな美少女の外見、その割に動じない、物怖じしない、安易には何者にも靡こうとしない年齢不相応の落ち着き。
それは、手折りたいと思わせる、花の姿にも似ています。
野に咲いているには美しすぎて、手折り、自分の領域へ飾りたくなる、そういう美貌。
ティナ様は「特別」です。
その「特別」が、私やボソルカン様のような凡人の欲望を刺激するのです。あの特別な人間を支配したいと。自分という人間の一部にしてしまいたいと。「愛せる」存在にしてしまいたいと。「可愛らしく」させてみたいと。
アリスも「特別」です。
優れた容姿を持つ者が多いというエルフ。
四百年前のエルフと人間との戦争、その開戦事由を語る、あるいは騙る俗説のひとつに、人がエルフを、最上級の愛玩奴隷として高く取引し、残虐に扱っていたからだというものがあります。
魔法使いであるエルフを、どうやって人間が制御していたのかなど誰も氣にしません。俗説ですからね、信憑性など二の次なのです。百年以上、幼さの残る美貌を維持するのだから、そういう扱いにもなるだろうと誰もが納得してしまう程、エルフの優美は有名なのです。
その血を引いているだけあって、アリスはティナ様に、勝るとも劣らない氣の強そうな美少女です。光の加減や本人の情動で七色に変化する瞳など、見る人が見れば特別な宝石のようと評することでしょう。ティナ様はまったく動じず、当たり前のように接していますが。
おまけに彼女は、人智を超えた沢山の魔法を操る魔法使いで、歴史に名を残す偉人とも繋がりがあります。その「特別」、ひとつくらい分けてくださいと言いたくなるほど、属性が山盛りてんこ盛りです。
だからなのでしょうか、アリスは、ティナ様を支配しようとはしません。
凡人がティナ様に抱く、醜い欲望とは違う何かで、ティナ様を求めています。
だからこそ、今まで誰もそこにいなかった、ティナ様の友人というポジションへ、すっと入ってこれたのでしょう。アリスはティナ様に、自分と同じ「特別」な魂の色を見たのでしょうか?
泥棒猫! と言いたい氣持ちも、最初は少しあったのですが、私はアリスがいてもいなくとも、どちらにせよティナ様の友人というポジションには、絶対に入って行けなかったと思います。私の中にはティナ様を支配したいという欲望があって、なんなら私に依存してほしい、私に愛されて、私なしでは生きられない人間になってほしいと……そのようにさえ思ってしまっています。その醜さは自覚してます。恥じてもいます。
ですが……消せないのです。
だからアリスが、ティナ様と同じ目線で楽しく笑い合えるというなら、それはティナ様にも必要なモノです。私は、この醜い欲望を持つからこそ、二人の友情を引き裂くわけにはいかないのです。
だって、これほど醜い欲望を抱えていても、そうであってさえ、私は、ティナ様に笑っていてほしいのですから。特別なティナ様が「普通」に笑い合える、特別なご友人など、滅多に得られるモノではないのですから。
私はティナ様を幸せにしたい。
何を裏切れても、その想いだけは裏切れません。
ティナ様は私の「特別」なのです。
それなのに。
自分に自信を、そして誇りを……いくら私がそう口を酸っぱくして言っても、ティナ様はご自身の価値を、なにかと引き換えにできるモノとしか、認識してくれません。
貴族令嬢としては。
貴族令嬢としては、それは、おそらくは賢く、正しい自己認識で、それだけに聡い少女であると言えるのかも知れません。
ですが、いえ……いいえ。
それでも、それはやはり愚かです。
ティナ様は、もっと自分の価値を知るべきなのです。そうでなければ私は……ティナ様を本当の意味で守れているとは言えないでしょう。
この世界には、何とも引き換えにできない価値というものが、あるのです。
少なくとも、私にとってティナ様は、そうしたもののひとつです。
「話を戻すわ。ユミファが、ティアが、あたし達を殺さずに封印した理由。それはあたしもハッキリとは知らない。だけどひとつ確かなのは、ティアはママに何かをさせたがっていた。だからいきなり殺すんじゃなくて、攫ったの。攫って、何かをさせようとしていた。だけどママは死んじゃった……だからその代わりを、娘のあたしにさせようとしていた……パザスはそう推測していた」
「でも……そのティアさん……という方は、もう亡くなられているんですよね?」
「うん。だからユミファにも、あたしを殺さないでおく理由が無くなった。ゴブリン化したエンケラウを殺したのは……間違いなくあたし達だったからね……聞きたい?」
この時、アリスは、笑っていました。
空洞な、この世の何も見ていない瞳で、それなのに笑っていました。
思わず息を呑みます。
この顔には見覚えがある。
出会ったばかりの頃、ティナ様が時々浮かべていた……あの顔、あの表情。
それがどんな心境から、どういう心象風景から浮かび上がるものなのかは……愚かな私にはわかりかねます。でもそれが、子供が浮かべていい表情でなかったということだけは、確信をもって言えます。
「あたし達はエンケラウを殺した。ちゃんと言えば、パザスがユミファを抑え込んで、アムンとあたしでエンケラウのゴブリン化を解除しようと頑張った。でももう手遅れで……最後にはアイアが……あたしの擺脱魔法でゴブリンの物理無効結界を一部無効化して……首を刎ねた。……あのね……あたし達ね……エンケラウには本当に酷いことをしたの。最初はお酒を沢山使って、次は解毒魔法……病気とかを治せる魔法が何種類かあってね、その全部を試してみて、ダメで……『マナに触れられる手』を壊せばどうにかなるかもしれないって、擺脱魔法を連発してみたんだけど……それは少しだけ効果があったみたいなんだけど……やっぱりダメで……だから……あたしとアムンは……その……擺脱魔法を最大出力でかけると少しだけひび割れみたいに開く隙間から……エンケラウの肩から先の腕を切って……新しい腕を生やしてみたり……したの……あたしは、アムンと一緒ならそういうことができたの……どんな肉体の欠損も、相手が生きている限りは完全に欠損部位を再生……ううん新生して治療してしまう……そんなデタラメなことがね……できちゃったの……エンケラウが生命力の強い狼の獣人だったのも幸いした……ううん、違うかな……不幸だった……生えてきた腕は一瞬でまたゴブリン化しちゃってさ……なんなのよあれ、デタラメもいいところよ!……それでも一回やそこらじゃ諦め切れなくて……何回も……何回も……ユミファにはそれが、あたし達がエンケラウを拷問してるみたいにでも見えたんじゃないかな……ううん……そうかな?……本当に……うん、そうかもね……あたしはエンケラウをただ苦しめただけだった」
ごくりと、自分の喉が鳴るのがわかりました。
壮絶な過去です。アリスが喋る、その言葉の抑揚には、当時の修羅場を伺わせるものがなく、淡々と、起きた事実をただ平坦に語っているかようでした……顔には笑みにも見える表情を浮かべながらです。
ですが、そこに人間の感情を、人が仲間を、なんとしてでも助けたいと思う氣持ちをそこに当てはめて考えると、ことは修羅の様相を呈してきます。
持てるあらゆる手段をもって仲間を救おうとするアリス。そしてその手には、残虐ともいえる回復手段の候補がありました。
どんな葛藤があったにせよ……アリスはそれを実行し……そして失敗したのです。
「……だからアリスは、あの竜を、ユミファを、殺せないのですね?」
今も船を追いかけてきている黒竜。心做しか、今やその顔にも壮絶な決意を感じられる氣がします。先程までは、ただただ暴力的なまでの殺意としか思えていなかったのに。
「実際に会ってみてわかった。あの子はまだエンケラウを愛してる。四百年よ? あれからもう四百年も経っているのに、あの子はエンケラウのことを忘れてない。……その姿を見たら……殺せなくなったの。……エンケラウが死んで悲しかったのは……あたしだって……一緒……だったから……」
アリスの声は、後ろに行くにつれ、まるで消え入るように小さくなっていき……そして途切れました。
続く言葉は後悔か罪悪感か、そうしたものに押し潰されてしまったのでしょう。
「アリス……」
あの竜が、我が子と呼ぶエンケラウとの間に、どのような友誼、親愛の情を築いていたのか……それはわかりません。
ですが、あの殺意が、あの決意が、その出所が、それほど壮絶なものであるのならば……それは私にも理解の及ぶものです。
私も、ティナ様が酷い目にあわされる姿……そんなもの、想像でさえもしたくありませんが……を目撃してしまったら、正氣でいられる自信はありません。いえ……実際に正氣ではいられませんでした。出すぎたことをし、その結果自分の胸で泣いてくれたティナ様を、後半は泣き疲れ寝てしまったティナ様を、その今よりももっと小さく、幼かった身体がどうしても手放しがたく、長い時間、下着を不浄に汚してさえ、ずっと抱きしめていたのです。
「どうしよう。あたしどうしたらいいの? ユミファをこのままにしていたら、あたし誰も守れない。ティナの力を借りれば、簡単には殺されないだろうけど、ティナがこんな様子なら、いつまでもそうしているわけにはいかない。あたし、ユミファを殺した方がいいの? そうしてこの因縁を終わらせた方がいいの? どう考えても悪かったのはあたしなのに。そのあたしがユミファを殺すの? それでいいの? それが答えなの?」
「……」
すがるように問われ、私は考えます。
……ここで。
ここで、アリスにハッパをかけ、黒竜を殺させるというのも、ひとつの手でしょう。
アリスは折れかかっています。私でも、それは手折れるでしょう。
アリスがどう思おうとも、あの竜はもう手遅れです。
竜の討伐隊とはつまり、竜を殺そうとしていた部隊ですから、それに関しては正当防衛といえます。ボソルカン様も、あの時点で既に、死に値する罪は背負っていたお方でした。
だからそのことを、どうこう言う氣はありません。少なくとも私は。
ですが、ここまでもつれた過去と感情があるなら、もうどうしようもありません。
男爵家は貴族で、貴族というのは土地の裁判官でもあります。ティナ様は三権分立どうなっているんだと、なにやらよくわからないことを話していましたが、事実としてそうです。
実務は他のものが執り行うにせよ、刑罰の執行書、たとえば死刑の執行命令書にサインされるのはご当主様です。その家族から怨まれることもあります。
その怨みも、理解はできます。家族を奪われることがどんなに辛いものか、わからない人は少ないでしょう。
ですが仮に、罪人の家族が男爵家に仇なさんとし、それを実行に移したのであれば。
それもまた、厳罰に処さなければいけません。
それもまた、地域の秩序を守る統治者の義務なのですから。
その辺りのことをアリスに噛んで含め聞かせ、納得してもらい、ここでユミファを討伐させるというのもひとつの手です。それが正道ともいえます。
「……アリス、ユミファに頭を冷やす時間を与えましょう」
ですが、私はそんなあらゆる正論を無視します。
私は残念なメイド。時折ティナ様にそう評される、不出来なメイドなのです。
醜い欲望を押し殺し、正しくあろうと苦心し、だけど完璧には出来ない凡人です。
だから私は、私にできることをします。
「……え?」
ティナ様は、アリスが満足のいく結果になるよう考えると言いました。
納得する結果ではありません、満足する結果と言いました。
なら私が汲むのはそのお氣持ち、ただそれだけです。
どうしようもないか、それともあるかなんて、私が考えることではありません。
現実問題、ここでユミファを殺したアリスが、その後使い物になるのかという疑念も存在します。
アリスには、この後にしてほしいことが山ほどあります。
それを、真っ当な精神状態で行ってもらわなければいけません。
だから私が今、しなければいけないのは、ただひとつ。
「ユミファを、今度は逆にアリスが何かしらの手段で封印する。そういうことはできないの?」




