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15話:とある夜の風景、閨、あるいは巣


 風が吹く。


 夏の夜に、風が、柔らかに。


 カーテンが舞って、戻ればそこに小さな丸い影があった。


「にゃぁん」

「ん……アリス?」


 とある日の夜。

 屋敷は、それ自体が寝静まっているかのようで、風が、カーテンを揺らす音だけが、やわやわと耳を撫でていく。


 寝ているベッドに、一匹の猫が潜り込んでくる。


「ん、アリスくすぐったい」


 胸に、猫の小さな頭が擦り付けられ、そのくすぐったさに身をよじると、ベッドの、天蓋と寝台との間に大きな魔法陣が(あらわ)れ、程なくして胸に感じる重みが増す。


「ただいま」

「……おかえり」


 もう幾度(いくど)となく()わした言葉を繰り返す。


「寝てた?」

「ん……まだまどろんでいただけ」

「そう」


 アリスが、猫の時にもそうしたように、胸に頭を擦り付けてくる。

 そこは……あまり柔らかくもないと思うのだけど、アリスはよく、そこへ猫が甘えるようにそうしてくる。


「アリス」

「夜、眠る時くらいベッドで寝かせて。ここで、私が人の姿を見せられるのはティナだけ。だったらティナのお布団で眠るしかないでしょ?」


 それもまた、もう何度も聞いた言葉。


 何度か、遠回しにこの土地を離れる氣はないのかと、聞いてみてはいるのだけど、いつも「そのうちね」といってはぐらかされる。


「もう、違うでしょ? ミアもサーリャもいるんだから」

「……いいじゃない。ここが一番寝心地いいんだから」

「いいけどね」


 何をしたいのか、どうしたいのか、何を考えているのか、わからない。

 氣が向いた時だけ擦り寄ってくる。本当に、猫みたいな女の子だなって思う。


 あるいは……満ち欠けがあり常に一定の姿をしていない月かな。


 そういえば今日は満月だ。


 この世界の月も、地球と同じで、けしてその裏側を見せようとしない。

 常に模様は一定で、それは地球のものとはまったく違うけど、おかしなことにそれがウサギのように見えるという人もいる。


 秤動(ひょうどう)と呼ばれる現象により、月はその裏側を多少覗かせはするものの、基本的には常に表面のみを人に見せ、その範囲で満ち欠けをする。


 それはそう、やはり他人の心のようだと思わなくもない。


 アリスは特にそうだ。


「ティナは、今日は何をしていたの」

「んー?……貴族令嬢の毎日に刺激なんてないよ。午前はカテキョに躾けられて、昼はママににこやかな圧をかけられた」

「午後は?」

「サーリャのメイド服を調整したり、刺繍したり、サーリャと庭で部屋に飾る花を選んだり、ミアとチェンバロで連弾したり」

「……楽しそうにしてるじゃない」

「裁縫は得意なだけで、別に好きってことでもないんだけどね。チェンバロも」

「でも、サーリャや妹ちゃんのことは好きなんでしょ?」

「ん……うん、そりゃま、そうだよ」


 サーリャはメイドさんだし、ミアは妹だからね。当然。


「大好きに決まってるじゃない?」

「……ふんっ」


 暖かさが離れる。


 アリスは、ベッドの上に両足で立ち、つるんとした黒の軍服を、ぬるんと脱ぎ捨ててしまう。

 そのまま器用に、不安定な足場の上で片足立ち、ストッキングも脱いでしまう。


 白い肌と白い下着が、月明かりに浮かび上がる。薔薇色の髪が月の光を吸って、ふちだけきらきらと銀色に輝いている。


「ベッドへ入る前に脱いでほしかったな」

「やー。夜はもう寒いもん」

「まだ夏の三月なんだけどね」


 この世界の暦は、一年が十四ヶ月ある。


 四つの季節があって、そこは地球と同じでみつきづつ。だけどこの世界はそこに、ふたつの特殊な月があって、それを足して全部で十四になる。


 年の初めから順番にいうと、


 一月/冬の二月(二十六日)

 二月/(よう)の月(二十四日)

 三月/冬の三月(二十六日)

 四月/春の一月(二十六日)

 五月/春の二月(二十六日)

 六月/春の三月(二十六日)

 七月/夏の一月(二十六日)

 八月/夏の二月(二十六日)

 九月/(よく)の月(二十九日)

 十月/夏の三月(二十六日)

 十一月/秋の一月(二十六日)

 十二月/秋の二月(二十六日)

 十三月/秋の三月(二十六日)

 十四月/冬の一月(二十六日)


 こんな感じ。


 一月が冬の二月な辺りがややこしいけど、これは、この世界の言葉で「二」が「次」、あるいは「継ぐ」のような意味合いを持っていて、ゆえに新年の一月は、旧年の次を継ぐ……というような意味を持たされ、『冬の二月』となっている。


 この辺り、ちゃんと訳すなら十四月にそれぞれ、日本でいう睦月(むつき)とか皐月(さつき)とか神無月(かんなづき)みたいな、ああいう言い回しを付ける方が正しいのかもしれない。しないけど。


 そういえば日本で言う十二月、「師走(しわす)」の語源は、「四季の果てる月」、すなわち「しはつ(漢字で書くと四極)」であるという説があるけど、この世界の「一」には「収束する」というような意味合いがあって、だからこそ年の終わり、年が収束する月である十四月が冬の「一」月であったりもする。


 この辺、異世界というか異文化だねぇ……と思う。


 ただ、これら十四の月の日数を合計してみると、それは奇しくも地球と同じ、三百六十五日となったりもする。奇妙なシンクロ。偶然の一致?


 同じ三百六十五日だから、この世界の二月一日は地球の一月二十七日であるとか、対応させることもできて、その計算でいくと、この世界の十月、夏の三月は地球の八月二十四日から九月十八日に相当して、氣温も大体、日本のその時期と同じか、少し暖かいくらいだったりする。この辺りは雨の少ない地域で湿度も低いため、エアコンがなくとも不快度はそこまででも無いんだけど。


 今はだから、ようやっと夏が終わろうかという季節。

 夜風が、ようやっと涼しくなってくる季節。

 夜はだから、まだ寒いというよりかは、涼しいと言った方が近い。


 アリスの言っていることは、だからおかしいんだけれど、まぁそこは個人の感覚次第だからなんとも言えない、かな。


「ティナももうすぐ十四歳、か」

「そうだね」


 私の誕生日は、来月の二十五日。

 十一月(秋の一月)の二十五日。来月の月末だから、もうすぐって程でもないかな。まあ近いといえば近い。


 十一月の二十五日は、計算すると地球では十月十三日になるんだけど、私の生まれ年は特殊で、うるう年の逆、うるわない年とでもいうべき年(蕭年(よもぎどし)というらしい)で、この年は二月、(よう)の月が、元々二十四日しかないのに更に一日減って、二十三日しかなかったらしい。


 それを考慮すると、十一月の二十五日は地球の十月の十二日になる……のだけど実際はもっと複雑。


 前世の私が死んだのは、地球でうるう年の二月二十九日。


 胎児の脳が、脳らしい大きさに成長するのが妊娠十週目前後。


 正常な出産は妊娠四十週前後。これはチートの知識調べなので、この世界でも正しくそうみたい。俗に言う十月十日というのは、最終月経日を起点とし、四週(二十八日)を一月とカウントするためそうなるのであって、四十週、すなわち二百八十日を月へと換算すれば、地球の暦だとそれは九ヶ月くらいになる。こっちの暦だと実際に十月十日くらいだけど。


 今生(こんじょう)の私が地球の十月中旬に生まれているので、同じく地球の二月末日(イコールこちらの三月上旬)にママが妊娠十週目くらいだったと推定するなら、これは計算があってしまう。つまり地球が一月一日の時、この世界もまた一月一日で同じか、かなり近いと推定できる。できてしまう。


 ゆえに、私は地球がうるう年、この世界がうるわない年に生まれた可能性が高い。


 となれば、私の誕生日は、地球だと十月十一日だったことになる。あー面倒。


「そういえば聞いてなかったけど、アリスの誕生日はいつなの?」

「あれ? 話してなかった? 春の二月の十四日。鍵尾宮(かぎおきゅう)山猫座(やまねこざ)だよ」

「……ぴったり」


 山猫座は……ああ、地球の北斗七星に似ている星座だ。

 胸の北斗七星っぽいブローチって、もしかしてそれにちなんでいた?


「なによそれ」

「まぁまぁ」


 かように、この世界にも星座、星占い、黄道十二宮占いのようなものがあります。


 黄道十二宮は、こちらだと十四宮で、地球のものとは違い、ひとつきにひとつ、特定の星座が設定されています。

 例えば冬の二月(一月)は丸々ひとつき、天躍宮(てんやくきゅう)(おど)()座の月……という具合です。あまり詳しくないけど、つまりこの世界は太陰暦ってことなのですかね?


 私の生まれ月である十一月、秋の一月は温繭宮(おんけんきゅう)(まゆ)座の月で、サーリャには「暖かそうで、ぴったりですね」と言われたりもする。

 ……そんなに温かそうな体ではないと思うんだけどね。腹にも胸にも脂肪がほとんどないから。


「そういえば、アリスは猫以外にも変身できるの?」

「できる、できないでいったらできるけど、面倒かな。変身魔法の魔法陣ってそもそも複雑だからね。調整が難しいの。色を変えるだけなら簡単なんだけど」

「そうなの?」

「うん。この髪は地毛で、色も氣に入ってるからしないけど、その氣になればいつでも金髪や黒髪になれるよ」

「そうなんだ、いいね、それ」


 ここでアリス2Pカラーって言葉が頭に浮かんだ辺り、私もお里が知れますね。格ゲー界にアリスは、既に何人かいらっしゃったような。


「だけど形は難しいかなー。高等魔法とか上級魔法って、因果が遠くて、それを繋ぐ工程が百以上あるものをいうんだけど、私が使う猫の変身魔法って、工程が七百以上あるの。髪の色を変えるだけならこれが半分以下……三分の一かな?……で済むの」

「七百……」

「私が一度に行使できる魔法の工程が千くらいだから、猫に変身してる時は、実はそれ程余裕が無いの。あのクズ兄貴を燃やしたのは、猫のまま使うならそれが一番制御の楽な魔法だったからってのもあるかな」

「ああ……」

「上手く髪の毛だけ燃やしてたでしょ?」

「……頭皮も燃えていたような」


 頭皮っていうか毛根が。


「それくらいなら同じでしょ……ね、ティナ」

「ん?」

「あのクズのこと、どう思っている?」

「……どうって?」

「死んだら悲しい?」


 まさか。


「そんなわけないね。せいせいするよ」

「そ。じゃ心して聞いてね」

「……え?」


 そうしてアリスは、私に告げたのです。


 猫が、咥えて帰ってきた鳥を、住処でボトリ、落とすように。


 咥えてきた今日の外出の成果……恐るべき情報を……私へとボトリ、落としました。


 それはパパへの報告。竜の調査隊からの、訃報。


「まさか」

「本当、多分明日、ティナにも伝えられるんじゃない?」

「だってパザスさんは」

「パザスじゃない。念話で確認したもん。別の竜の仕業」

「そんなことって……」


 クソ兄貴が死んだ。

 幼少期から私をいじめ、虐げてきたあのクソ兄貴が。


「せいせいした?」

「……わかんない。驚きの方が大きくて、すぐには言葉が出てこない」

「……ふーん。まぁ身内とはいえ、あんなのが相手じゃそんなものよね」


 クソ兄貴が死んだ。

 一応は半分、血が繋がっている、兄のひとりが死んだ。


「……騙してるわけじゃないよね?」


 憎まれっ子世にはばかる、殺しても死ななそう……そんな慣用句が頭をよぎる。あまりのことに現実感がない、実感がわかない、それは本当のことだろうか?


「なんであたしがそんな嘘言わなくちゃいけないのよ」

「……それはそうだけど」


 そうだけど、アリスだからなぁ……。何をするかわからない系女子の。

 それくらいの嘘は言って、反応を楽しむくらい……しそう。


 本当に、本当の、本当?


「疑うならこうよ」

「あひゃん」


 わき腹をつつかれました。両方の。両人指し指で挟み込むように。


「それからこうとこう!」

「ちょ、アリス、やめっ、サーリャが起きちゃう!」


 サーリャは、薄い壁一枚隔てた隣室で寝ています。

 あれで変事には敏感で、前には時々、私がうなされて目覚めると、枕元には必ずその心配そうな顔があったくらいです。恥ずかしながらその後、一緒に寝てもらったことも……一度や二度ではないのです。


「いいじゃん、サーリャにはもう正体が知られてるんだし」

「刺激しなーいの。ただでさえずっと一緒に寝てたって言った時のサーリャ、怖かったんだから」


 アレはなんだろうな、レイプ目というか、NTR顔というか。ヤンデレっちゃったというか。

 なんか「そこになおれぃ!」とか言ってレイピア持ち出してきたし。アレは怖かった。


 どうなったって?


 くり出されたレイピアは、なんか結界魔法とやらで絶対防御されてましたよ。結界魔法は防御力次第で魔法的難易度が変わるんだとか。サーリャのレイピアは初級も初級で防げたとのこと。泣くなサーリャ。泣かせるなアリス。


「ふわぁ……もうこんな真夜中なんだからね」

「いい大口のあくびー」

「そっか……クソ兄貴、死んだのか……色々面倒になりそう……」

「面倒? せいせいするんじゃなかったの?」


 それはねー、それはー……なんでだっけ?


「……まぁ今はいいや。もう眠いし。……はー……そっかぁ……死んだのか」

「……そんな感じなんだね」

「んー?」

「ティナは、あの兄貴に、酷いことされていたんだよね」

「んー……まぁ、ね」

「この背中の傷も、アイツにされたって聞いたよ」

「あんっ」


 細い指が背中をなぞる。


 そこには、アイツがミアに手を出そうとした時、激情に駆られ、普段とは違う抵抗をしてしまったためについた、大きめの傷痕がある。もううっすらとしか残っていないけど、なんせ箱入り娘の真っ白な肌だ、髪を上げ、背中の大きく開いたドレスでも着れば、それはとても目立つことだろう。着ないけど。


「んー……まぁね」

「それもそんな感じなんだね」


 あのクソ野郎は、あれでだらだらと血が(こぼ)れるようないじめ方は好まなかった。

 八歳から先は、大仰になると流石に親が黙ってなかったってのもある。


「そんな感じ……って?」

「あまり氣にしてないみたい」

「……まぁ、ね」


 だからこの傷を負った時、私の背中からはドバドバと血が流れ、それを見たアイツは怯えたような顔になって逃げていったのだ。

 それから、アイツはミアへ手を出すことには消極的になった。


 クソ野郎の心理なんて考えたくも、(おもんばか)りたくもない。

 既に死んだしまった今となっては、アイツの頭の中で、なにがどう区分され、整理されていたのか、全ては闇の中だ。


 だけどこの傷は、私にとって、アイツからミアを守った証となった。

 だから私は、これをけして恥ずべきものではないものとして背負っている。


「あたし、あのクズのことはよく知らないけど、女の子の肌にこんな傷痕を残したってだけで万死に値すると思うわ」

「ん……」


 だからいいんだよ、アリス、そんな……怒ったような顔をしなくても。

 さっきからずっと、そんな風に、世の理不尽に怒る、中学生みたいに素直なふくれっ面だけど。


 ね?


 いいの。これはね? いいんだよ。


「うん……そうだね」

「死んで当然のクソ野郎だったんだよね?」

「……うん」

「……煮え切らないわねぇ」

「うん……」


 だってもう眠いもの。

 私は眠いんだよ、アリス。

 眠りたいの、アリス。


 すごく、眠い。


「ふうん。じゃあもう寝よっか」


 だからもう毛布を被って、暖かな布団の中で眠りたい。


「う……ん」


 眠らせて。


 ね?


「……おやすみ、ティナ……いい夢を」

「ん……お、や……すぅ……」


 そこで、私の意識は途切れる。


 消える意識の中で、何か温かいものが近付き、触れたような氣がした。












 月光に。


 少女が立っている。


 その輪郭は、まだ女になり始めたばかりの、少しだけ丸みを帯びたモノ。


 その線が、月の光を受け銀色に光っている。


「そっか……そんな顔なんだ」


 少女は、ベッドで眠る同年代の少女を見て呟いた。

 薔薇色の髪が、薄く開けた窓よりの風にふわり、輝く。


「初めて見たよ、そんな、安らいだ顔で眠るティナ」


 少女は思い出す。


 このところ、毎日のように一緒に眠った同年代の少女が、時々うなされていたことを。どんな夢を見ているのか、うわ言で「助けて」や「痛い」を呟き、閉じた目のその端に、時に涙を浮かべ、苦しんでいたことを。


 ここへ来た当初の目的はティナのお尻の傷を、痕がのこらないよう完治させることだった。

 だから最初の時期に、ティナがうなされだした時は驚き、どこか別のところに異常があるのではないかと、その身体をあちこちまさぐったものだ。


 ティナの傷が完治して。


 ここにいる理由もなくなって。


 でも。


 うなされるティナを何度か見て、その肌と波動の暖かさに包まれて。


 そうしている内に。


 この場を離れる気は、いつの間にか融けて無くなっていた。


「……ずっと不思議だったんだ。昼間はあんなに明るく、落ち着いて見えるティナが、どうして夜眠る時だけ、あんな険しい顔で眠るのか。それはあたしがあのクズを燃やしてからも変わらなかった」


 少女は、表情というものが消えた、氷のような顔で、同年代の少女を見つめる。

 その(ぼう)を浮かばせる心底にあるのは、子供ゆえの残酷さか、それとも痛みを分かち合う覚悟か。


「だから言ってあげる。パパもママもいないあたしが言ってあげる。血縁関係のない人達が、愛情いっぱいに育ててくれたあたしが言ってあげるよ……昼に、普通に言うと不謹慎ってティナにも(さと)されそうだから……今言ってあげる。ティナ、血の繋がりなんて特別なものじゃない」


 少女は。


 人の世から離れ、狭く閉じた世界の中で生育した少女は。


 少女は。


 親の愛を知らず、土地に根を張り暮らす人々の中で生きたことのない少女は。


 同年代の少女を起こさないよう、小声で、何かに怯えるように、躊躇(ためら)うように……でも、早口で。


「言わせない。誰にも言わせない。身内の死で喜ぶのが人でなしだなんて。だってティナは喜んでない……多分これから先も、起きている間はそんなそぶり、絶対にしない。だからあたしが今、ここで言うの」


 決意した顔で、続ける。


「ティナがこんな風に眠れるようになったのなら、あのクズはやっぱり死んで良かった」


 エンドクサが推す善徳(ぜんとく)を無視し、少女自身の人間性と、善性で編み出した言葉を紡ぎだす。


 人の死を、祝福とする言葉を。


 それはパラドクス……或いは擬似の。


 アリスという関数は、その生い立ちが育んだ漸化式(ぜんかしき)によって、同じ引数(ひきすう)から人とは違う解を出力する。


 それは少女の正義。社会の常識においては否定されるべきものであっても。


 教えてモンティホール、それが叡智か憶見(おっけん)か。


 それは何にも縛られることがない、あるいは反逆の断行そのもの。




 ……だのに。


 そうであるというのに。


 少女の声はとても優しく、そしてそれは、普段の彼女ならまず発することのない、とても慈愛に満ちたモノで。


「良かったね、ティナ。その顔で眠れるようになって」


 安らかに眠る少女の額に、小さな薔薇色の唇が落ちる。


 その頬は、好いた人に自分との共通点を見つけた、幸運な乙女のように薄く紅潮していて。


 だけどそれは、月すらも見守ることのできない、影の中で。


「月が綺麗……」


 月は、秤動(ひょうどう)によりその裏面を(かす)かに覗かせる。


 その時観えていた貌は、どれだけ裏側だったのだろうか?


「それにしても黒い竜か……ううん、あれから四百年も経っているんだから……氣のせいよね」


 観測者の無い言葉が、誰にも届かず、揺れていた。




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