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13話:アナベルティナ三歳~十一歳


 (いち)(こく)『十年前 ~ティナ三歳~』


 転生なんてするんじゃなかった。


 どうして俺はこんな痛みの中にいるんだろう。


「■■■■■■■!! ■■■■!!」


 楽しそうに、自分の身長より何倍も大きい少年が、俺の腹を蹴る。

「ぐっ……」

 小さすぎる俺の身体は、ごろんごろんと石畳の上を転がる。


 一年前、この世界の父親(と上の兄)が戦争に出兵してから始まった、下の兄からの暴力。

 最初は苛立ちをぶつけるかのようだったそれは、回を重ねることによって、やがて(くら)い悦びの氣配を帯びるようになっていった。

 この兄は暴力を楽しんでいる。

 今では殴る蹴るの合間、ずっと微笑を浮かべていることすらあるくらいだ。


「■■■■!! ■■■■■■■!!」


 髪を引っ張られ、無理矢理起こされる。

 床を転がった時に、まぶたでも切ったのか目に血が入ってくる。


「■■■? ■■■■■■■!!」


 (あざけ)りの氣配。言葉はわからないが、侮辱されたんだと思う。

 はっ……なにいってっか、わっかんねぇよ……。


「うぎっ……」


 拳が下っ腹にめり込む。


「げっ……がっ……」


 胃から何かが逆流してくる。

 慣れた風に、下の兄はそんな私を突き飛ばした。


「げっ……ぐっ……げぇぇぇ……」


 壁にぶち当たり、崩れ落ちながら嘔吐する。

 また服が汚れてしまった。


 これが最近の……俺の日常だ。


 俺だって、この状況をなんとかしたいと……思わなかったはずがない。


 最初の一回で、腕力で反撃は無理と痛感した俺は、ならば罠だと落とし穴を掘り、高いところに固いものを置き、いつも殴られる腹に、針を立てた板を仕込んだりしてみた。


 罠、それ自体は、まぁ成功した。


 頭の悪い下の兄は、あっけなく落とし穴に落ちたし、棚の上から落ちてくる鍋やハンマーでたんこぶを作った。殴ったその後に拳を抱えてのたうち回ったりもした。


 ……だけど俺は……私は、この兄の妹で、同じ屋敷に住んでいて、つまり……仕返しからは逃れられない環境にいた。


 落とし穴に落とした後は、しばらく遭遇するたびに階段から突き落とされた。逃げても追いかけられ、つまみあげられ、そうしてやっぱり落とされた。

 たんこぶを作ってやった後は、樽に閉じ込めれ、汚物や名前を言いたくもない虫を大量に放り込まれ、そのまま執事の人に助けてもらうまで、何時間も放置された。

 腹パンにカウンターしてやった後は……その板に立ててあった針を折られ、それを爪の間に捻じ込まれた。


 いくらなんでもこれは酷すぎる。


 俺は、この世界で私を産んでくれた母親のところに直訴しに行った。

 まださほど言葉は喋れなかったけど、なんせ証拠が身体のあちこちにあるのだ。

 身振り手振りを交えて、下の兄の暴虐を訴えた。


 母は動いた。

 執事を連れ、下の兄にわが子への暴行をやめるよう、直接赴いたのだ。


 ()わされた言葉は、よくわからなかった。


 その時は、生まれた家の事情を何ひとつわかっていなかった。


 例えば兄二人と私の母親には、血の繋がりが無いということ。

 例えば母は後妻であり、実家の身分もあまり高くないんだということ。


 そんなことは、もっとずっと後で知ることだった。


 だから、俺にわかったのは、下の兄、執事、母、それぞれがどんな表情を浮かべ、どのように喋ったのか……それくらいのことだった。


 下の兄は、執事へ居丈高になりながら、母をずっと嘲るように煽っていた。


 母は、最初こそ子を叱ろうとした母親だったが、やがて下の兄の言葉に何も言い返せなくなっていった。

 執事は、渋い顔でずっとそんな二人を見ていた。


 俺は悟った。

 この母も、執事も、下の兄に逆らえる立場ではないのだと。


 それを理解してからは。


 私は暴力に反抗することをやめた。




 次に採ったのは無抵抗主義だった。


 ……まぁどこかの偉人がやったみたいな、そんな高尚なもんじゃない。


 いじめっ子を楽しませないよう、なるだけ反応しないように、しかし逆らわず暴力の嵐が去るのを待つ、学校や社会の片隅なんかには時々存在する……いじめられっ子ムーブ。


 後ろ向きだ。


 果てしなく後ろ向きだ。


 だけど……じゃあどうしろっていうんだ。


 最初はお城の武器庫に忍び込み、対抗するための武器を持ち上げようとして、二歳の女児に大人用の武器は扱えないという、あまりにも当たり前の事実に絶望した。


 それでも抵抗できる力を求め、魔法を使いたい、魔法を使いたいんだ、もう魔法しかないと……読めもしない書斎の本棚を漁ってみたこともあった。


 だが当然のことながら、魔法に関する本は、実は日本語で書かれていたとか、マンガで描かれていて俺だけが読めたとか、そういう奇跡は無く、まずはこの国の言葉を覚えなければ話にならないという結論しかでなかった。


 マジックアイテムの存在を知った時には、小躍りするほど「これだ!」と思ったものだが、すぐにそれが男爵家程度では手に入れられるモノでは無いと知り、それはもう、一旦期待した分、どん底まで落とされ、武器庫へ忍び込んだ時よりもっと、深く深く絶望したものだ。


 まだやれることがあるだろうって?


 家出?


 ああ家出ならしたさ。すぐ執事によって連れ戻されたけどな。七回くらいやった後で、これも無理だなって諦めたよ。チクショウあのサラリーマン執事め。


 父方でも母方でもいい、祖父母はどうしたのかって?


 父方の祖父母は、私が生まれた時には既にいなかったよ。

 だからパパが男爵をしているんだし。


 母方の祖父母は、二歳児の足じゃ到底辿り着くことのできない遠くに住んでいる。

 いや……初めては八歳の時だったか、もう少し成長してから訪れた時には、馬車と篭で三日の距離だった。距離的には、アスファルトで舗装された道でもあれば、車で一時間もかからないくらいなのだろうよ。


 だけど途中に山道があり、道の無い道もあり、そもそもママに、おじいちゃんとおばあちゃんはどこにいるの?……と聞いても、幼子の私には寂しそうに笑うだけで、何も答えてくれなかったのだ。


 この辺りはまた複雑な事情があるのだけど、ともかく、父方の祖父母にも母方の祖父母にも、幼子の私は全く頼れなかった。


 まだあるだろう? 自殺?


 誰がするかよ。


 この暴力は父親が戦争に行ってから始まったものだ。まだ希望はある。戦争が終われば父親が帰ってくる。そうしたらまた何かが変わるはずだ。

 だから耐えろ……もう少しだ、もう少しできっと戦争は終わる。


 そう、心を強く保とうとしても。


「■■■■■■■■■!! ■■■■■■■!!」

「ぎっ……やぁぁぁぁぁぁぁぁ……」


 こんな風に、嘔吐してるその身体を折るように踏みつけられたりすると。

 どうしても思ってしまうのだ。


 転生なんかするんじゃなかったと。








 ()(こく)『八年前 ~ティナ五歳~』


 弟か妹が生まれる。


 仮に妹だとしたら、きっと母は哀しむことだろう。

 貴族の妻というのは、まず男児を産んでこそ認められるモノだからだ。

 初子が私、女の子だったから、次の子も女の子となると……それはきっと、母の貴族の妻としての地位を……大幅に下降させるのだろう。


 弟だったら……私の価値が今以上に下げるだけだけど。


 そこまで冷静に考えて、思う。


 この世界は、どうしてこんなにもくだらないのだろうか。


 一年前、父が戦争から帰ってきた。

 私の惨状を、その目で見た父は激怒した。


 期待した通りに、しかしあまりにも遅すぎた二年の果てに、父は(ようや)く激怒してくれた。


 本当に……この世界はどうしてこんなにもくだらないのだろうか。


 毎日のように繰り返されていた暴力は止んだ。

 下の兄は、根性を鍛え直させるといって兵の訓練所送りにされた。


 そんなわけで、この一年は大体平和だ。


 くだらない。


 大きな家の中で、腫れ物のように扱われる私は孤独だった。


 くだらない。


 父が帰還してより数ヶ月、母が妊娠した。


 なにを盛ってやがるクソ親どもが。


 くだらない。


 くだらない。


 くだらない。


 母のお腹はどんどん大きくなっていった。


 なにもかもがくだらない。こんな世界に生れ落ちてくる命は不幸だ。


 父と母が幸せそうだ。


 くだらない。


 くだらない。


 くだらない。


 本当にくだらない。


 くだらない。


 くだらない。


 くだらない。


 なにもかも死ねばいいのに。


 くだらない。


 くだらない。


 くだらない。


 なにもかも消え去ってくれればいいのに。


 この世界の全てがくだらない。


 たまに帰省してくるクソ兄貴が陰湿ないじめを仕掛けてくる。


 どうしてこの世界はこんなにもくだらないことに満ち溢れているのだろうか。


 母のお腹は今にも破裂してしまいそうなほど大きくなっている。


 どうしてこの世界はこんなにもくだらないことに満ち満ちているのだろうか。




 ……そうして、産声が聞こえた。


「ほら、貴女も抱いてあげて。貴女の妹よ」


 それは幸せそうな。


 子供の性別なんて何も氣にしてなさそうな。


 上氣した顔で、本当に幸せそうに笑う……くだらなかったはずの母親から……その小さな命を……預けられた時。


 一年間、いつもいつも、朝から晩まで、ずっとずぅっと呟いていた呪詛が、私の中からすぅっと消えた。








 (さん)(こく)『五年前 ~ティナ八歳~』


 下の兄が帰ってくる。


 三年間、真面目にやっていた……かは知らないが、軍隊で鍛えられた兄が帰ってくる。


 パパとママは甘い。


 アイツにとって暴力は娯楽だ。

 自分より弱く、抵抗できないモノをいたぶるのが好きで好きでたまらない……アレはそういう人種だ。

 根性を叩き直す? 無理だよ、あいつの嗜虐趣味は地金なんだから。


 もしかしたら、その趣味を育ててしまったのは私だったのかもしれない。

 だけど責任なんか感じない。どう考えても私に非は無いのだから。


 そこは、転生して素直に良かったと思えることだ。


 虐待された子供は、悪いのは自分と思い込みがちなのだそうだから。


 そんなわけない。


 そんなわけないじゃん。


 妹は、ミアは三歳になった。


 それは無抵抗でアイツの嗜虐趣味に付き合ってやったあの頃の私と、同じ年齢。

 アイツの呪われた成功体験が(うず)くかもしれない。


 だがそんなことはさせない。


「ねーちゃ?」

「んー? どうしたのミア?」


 相変わらず魔法は使えない、マジックアイテムも手に入らない、少し体は鍛えたけど、二次性徴前の少女の身体では限界がある。ましてや相手が軍隊上がりの十四歳ならなおさらだ。全く嫌な中二病だぜ。

 その代わり、チートを駆使して、自分が貴族令嬢として有能であることは、この三年間で証明してきた。パパとママの覚えもいい。


「ねーちゃ、こわいかぉしてゅ」

「んー? そう? それはねぇ……ミアのこと、食べちゃいたいからだー、がおー」

「ひゃ……もー、ねーちゃ、ふゅぅ~」


 だから覚悟しよう。


 それでも私にできることは少ない。


 パパとママに、多少貴族令嬢としての価値を認めてはもらえた分、アイツだってすぐにそれとわかる痕跡を残すことは避けるだろう。


 もしかしたら、私の身はクソ兄貴の姿を見ただけで震え、何もできなくなってしまうかもしれない。染み付いた恐怖が、私を動けなくするのかもしれない。


 それでも引くことはしない。

 ミアにだけは、手を出させない。


 私は殴られても蹴られても我慢できる。できるはずだ。


 ミアにだけは、ミアにだけはその手を伸ばさせない。

 あの汚らわしい拳は、私の地点で全て止めてみせる。


 私は壁でいい。この三年間、私へ幸せをくれた天使を、なんとしても守るんだ。








 ()(こく)『二年前 ~ティナ十一歳~』


「はじめまして、ティナ様。スカーシュゴード家に仕える騎士の娘、サーリャです。本日よりティナ様付の専属侍女の役、拝命させていただきました」

「……そ、よろしく」


 初対面では……余計なのが来たな……それだけしか思わなかった。


「この傷はなんですか? ティナ様」

「うるさいな、なんでもないよ」


 そうしてすぐ次に思ったのは、邪魔しないでくれということ。

 私には使命がある。クソ兄貴の暴力を引き受けるという使命が。


「これが転んだ時に付いた傷ですって!? 騎士の(いえ)の娘を見くびらないで! 小さい時から父や兄の治療をしてきた私ですよ! この傷はどう見ても!」「うるさいな! 放っておいてくれよ!」


 この女はなぜそれを非難してくるのか。なぜ見なかったことにしてくれないのか。この家の執事がそうしているように、どうして私のことを放っておいてくれないのだろうか。


 だけど……。


 そうしてひとり部屋に閉じこもり、ベッドの中で毛布にくるまれながら思う。


 親以外で、自分を心から心配してくれてる存在がいるというのは、どうしてこんなにも心が温まることなのだろうか……と。


 それだけに怖い。


 みすぼらしい自分を見られるのが怖い。


 みすぼらしい自分を知られてしまうのが怖い。


「……この服の汚れは、嘔吐ですよね? それに傷も、服を脱がないとわからないような、そんな位置にばかりついています」

「ごめんな、洗っといて。ホラさっさと行った行った」


 惨めな私を見るな。


 情けない私のことなんか、いないものとして扱ってくれ。


 くっさいだろ? ゲロがついた服だぜ?


 フィクションの中じゃそういう情報は伝わらないだろうけどな、少女の身体の中からでも、出てくるのはどうしようもなく汚臭のするソレなんだぜ?


 自尊心なんてもう捨てた。私が成すべきことを成すのに、それは必要じゃないから。


 目的があるから大丈夫。何を捨てても、どんなに惨めでも、情けなくても、汚臭を漂わせていようとも、やらなければいけないことはある。だからする。どこまで堕ちていこうとも。どれだけ心を壊されても。


 でも。


 それを誰かに見られたいとは思わない。

 とかく、「いい子」には見て欲しくない。

 惨めで情けなくて、どこかに消えてしまいたくなるほど、今の自分はみすぼらしい存在なのだから。


「ティナ様!」


 サーリャはいい子だった。


 こんなみすぼらしい私と違って、とてもいい子だったんだ。

 だから辛い。

 だから心配されると余計に辛くなる。


 そのまっすぐな瞳の中に映る私が、どれだけ薄汚れていて、ボロボロなのか。

 それを知るのが怖い。




「ご当主様に、全てをお話ししました」


「……なんだって?」

「私が見たもの全てです。これまでの傷のことも全部、お嬢様が口汚い言葉で罵られながら、無抵抗に暴力を受け入れてたことも全て」

「見たのか!?」

「失礼とは思いましたが、先日、後を付けさせていただきました」

「!!……あの時、すぐに執事がやってきたのは」

「私が呼びに行きました」


 なんてことをしてくれたんだと思った。

 私は約束していた。

 ミアに手を出さない……そのことを守ってくれるなら、私はなにをされても、それを誰にも言い付けないと。


 だから我慢した。

 痛いのも苦しいのも、自分はもう慣れたんだと言い聞かせて頑張ってきた。


 その苦労を。

 その努力を。

 その辛酸を、お前は無かったことにするつもりか!


 どう答えたらいいかもわからず、無言で猛る私に、サーリャは諭すように言葉を繋げる。


「お嬢様。お嬢様は自分の価値を低く見積もりすぎです」

「……なに?」

「失礼ですが、どうして男爵家の、たかがいち令嬢に、専属の侍女が付いたんだと思われますか?」

「……知るかよ」

「ティナ様が優れたご令嬢だからです。普通の十一歳が、職人も裸足で逃げ出すほどの刺繍をされると思いますか? いくつもの楽器を自由自在に演奏してみせると思いますか? たくさんの大人向けの歴史書を通読していると思いますか? 更にはその中から素晴らしい詩を編むと思いますか?」

「それ、は……」


 だって私の中身は大人だ。

 そしてその能力は、私が自分で努力して勝ち取ったものではない。


 チート……ズルだ。


「お嬢様。アナベルティナお嬢様は、たった一度見かけられただけで、上位貴族を熱烈なファンにしてしまうほど可憐です」

「う」


 その子爵のことは言わないでくれ。


「私も、お嬢様の近くにいると、誇らしいような、ほっとするような、どこか温かいものを感じるのですよ?」

「……錯覚だ」

「ここへ来る前は不順だった生理も落ち着いたし、ほら」


 なぜか手を取られ、そのままメイド服越しの胸に抱かれてしまう。

 むにゅんむにゅんと、やわらかくて温かいけれど、いやらしい氣はぜんぜんしない。


「おっぱいだってこのところ急成長なんですよ、私」

「それはただの成長期じゃ……」

「アナベルティナ大明神様って思ってます」

「なにそれ……頭大丈夫?」

「平たく言えば、私は、ティナ様のことを敬愛しています、ということです」

「っ……」


 こんな惨めで、みすぼらしい私を?

 君みたいに、まっすぐに生きてきた子が?


「ティナ様は、ちゃんと着飾れば、この国の誰にも負けないお姫様になれます」

「……私は」


 私はこの世界に生まれてから、何にも勝ったことが無い。

 譲って、退(しりぞ)いて、心が壊れたり、小さな命にすがったり、そんな風に、地べたを這うように生きてきた。


 負け犬だ。


 それは病に負けた前世からしてそうだった。


 私は前世の両親にも迷惑をかけ、病院で、死んでいく人を見送りながら自分の番を待ち、そうして当たり前のように巡ってきた死を、やさぐれながら、それでも受け入れてしまったのだ。


 生まれ変わり、生まれ変わっても私は何も変わらなかった。


 なにもできず、なににも勝てず、ただ暴力を、ただ暴虐を、それを運命と、仕方無いからと容認してしまった。


 そう。


 私はこの人生で何もなしていない。


 成せそうにない。


 ……思い出す。


 生まれ変わる前は、何もなさなくていいと思っていた。


 真っ当に人生を送れるのであれば、なにも成さない人生でいいと思っていた。


 だけどこれはなんだ?


 ひたすら惨めで、情けなくて、みすぼらしい人生。


 クソ兄貴の、憂さ晴らしのサンドバックという、クソみたいな運命。


 あの拳に、あの膝に、折れれた身体は、脳も臓腑も全部腐ってしまった。


 私はずっと腑抜けで死に体で、ただ呼吸をしていただけ。


 本当に、どうしようもなく。


 無価値に貶められ、無意味に押し込められ。


 私は。


 俺は。


 私は。


 なにも、なにも、なにも……。










「ミア様のお身体に、傷はひとつもありませんでしたよ?」

「な」

「それは、ティナ様が勝ち取ったものでしょう?」

「う……え、あ」

「騎士の家の娘として、心より敬服致します。貴女が今までしてきたこと、自分の大事を、自分の何を犠牲にしてでも守り抜くというのは、誰にでもできることではありません。貴女は強い」

「う……うう」

「だから、誇りを取り戻しましょう」

「う、う、ぇぅ……ぁ」

「だからもう、一人で戦わなくていいんです」


 そっと、その成長期の胸に、頭が抱き寄せられる。

 やわらかくて温かい。それにいい匂い。……だけどいやらしい氣はぜんぜんしない。


 ただひたすらに安心できる……そういうやわらかさがそこにあった。


「もっと私を頼ってください。貴女専属である、この私を」

「うわあああぁぁぁん」


 泣いた。


 壊れたように泣いた。


 最近ではもう、痛みにも屈辱にも流れることの無かった涙が、でまくった。


 嗚咽した。


 殴られても、蹴られても、もはやさほどあがることも無かった嗚咽が、なぜだかでまくった。


 限界まで張り詰めていた何かが切れ、私はその時、それ以前の私とは、何かが完全に変わってしまったんだと思う。


 惨めで、情けなくて。


 でももう、全然みすぼらしいとは思えない自分が、そこにいた。


 子供のように泣いた。

 子供の身体で、本当は年下の女性に抱かれ、泣いた。


 ざまぁみろクソ兄貴。


 てめぇは最近、私が泣かなくてつまらなそうにしてたけどな、人間ってのはな、本当に号泣するってのはな、暴力なんかにじゃねーんだよ。


 そんな風に思いながらも……泣いた。


 そんな私を、サーリャはその日一日、ずっと抱き締めてくれて……これは一年以上経ってから聞いたことなのだけど……私がぜんぜん離してくれないから……この時、サーリャは……その……トイレが……下の方が色々とやばかったらしい。これは恩があるから詳しくは言えないのだけどね。


 ごめんね、苦労をかけるね。


 感謝している。


 氣づかいの足りない主人でごめんね。


 迷惑、かける。


 うん……これからも多分、いっぱい……迷惑、かけるよ。


 でもサーリャが始めさせてくれたことなんだよ。


 自分を誇り、引かず、その価値の全てを発言権にして、頼るべき人に頼るという戦いは。


 ね?


 私の(そば)に来てくれて、ありがとう。




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