12話:ZM・ストレス展開貮齣落チ
「それで何用でしょうか、お兄様。女子の部屋に許しも無く入ってきたからには、よほどのことかと思いますが」
「余裕ぶるな、妹よ。また幼き日のように教育されたいか?」
「……」
痛くない。
心臓が跳ねたことなんて、痛くない。
「お嬢様の教育はご母堂様より私が一任されております。ボソルカン様のお手を煩わせるには及びませんよ」
「ふん。侍女は黙っておけ。囀るなら俺の部屋へ来い、満足するまで鳴かせてやろう」
「な」
「……私の部屋で……下品な話はやめてもらえますか?」
「下品? あ? どこが下品なんだ? お前は賢いんだろう? もっとそこの下妹にもわかるように説明してみせたらどうだ? あ?」
「ボソルカン様、お戯れになられては困ります。ご当主様に報告しなければいけなくなりますよ? お嬢様は、誘拐騒ぎからまだ心癒えてないのです。ご用件は何でしょうか? あまり長いとティナ様のお加減に障りますので、手短に済ませてください」
「ふん。二ヶ月も部屋に引きこもって、いい身分だな」
「……まだ一ヶ月と少し程度ですが」
「屁理屈を言うな」
「……はい」
大丈夫。今感じているこの痛みは過去のもの。
ここにはサーリャがいてミアもいる。
この痛みは幻想。
しっかりしろ俺。もっと辛い痛みを、俺は耐えたことがあるじゃないか……いや耐えてなかったか……あの頃も泣き叫んだしな。父さん母さん、心配かけてホントごめん。
でも、今は耐えたことにしよう、少なくとも痛みでショック死することは無かったじゃないか。鎮痛剤とかのおかげかもしれないけど、俺は多臓器がぶっこわれてしまうまでは頑張って生きたじゃないか。それを思えばなんてことない。なんてことないんだ。
「俺からの話はひとつだ。俺は竜の討伐隊に参加することになった」
「……それが?」
そりゃあお前は参加するだろう。なにかしらで手柄立てられる時を待望し、切望していたんだろうからな。手柄のひとつも無ければ、家でなんら発言力の無い次男だもんな。
知ってるよ。
お前がその立場にずっとイラついていたってことは。
六つも歳が下の妹に、オラつくくらいにはイラついていたってコト、よく知っているよ。
「お前の不始末だ。何か言いたいことはないか?」
「……私にいかな責任があると?」
でも誰だって好きなように、好きな身分に、好きな立ち位置に生まれてくるわけじゃない。好きな性別に生まれることも、健康な身体に生まれることも、自分の力ではどうしようもないことだ。だから、その怒りに共感はできても、同情はしない、できない。
お前はもう、可哀相な立場で許されるほど、子供でも無垢でも、更正と謝罪の機会に恵まれなかったわけでもないんだよ。何度パパとママが、こいつを心配し叱ったと思っているんだ。何度私が、しぶしぶの、全然心から言ってない風の謝罪に、「もういいよ」と言ってやったと思ってるんだ。そのたびに逆恨みしてくるんだから始末におえない。もう謝れとも更正して欲しいとも思わない。だから私に関わらないでほしい。
「いかな責任が、だと? それが王国の軍に迷惑かけた奴の言うことか。不敬な非愛国者め」
「ボソルカン様、何度も申し上げている通り、先の件、お嬢様には何の過誤も無きことです。部屋でおくつろぎになっておられる際、唐突のことで竜害に遭われたのですから」
「どうだか。竜はお前の部屋をピンポイントで襲ったというではないか。その子爵すらも惑わす容姿で、竜をたぶらかしていたのではないか?」
「……」
「もしそうならお前は反逆者だ。待っていろ、俺がその証拠を見つけてきた時がお前の最後だ。股から口まで槍で串刺し、城下へと晒してくれるわ。せいぜいいい声で鳴くことだ。腹を殴ってやった時よりもな」
「おにーちゃま!」
ミア……よせ。
「下の妹、お前に用は無い。いつまでの幼児のような言葉使いをしよって。お前のような愚者に構っていられるほど俺は暇ではない。まったく、この俺の姉妹がこのような不出来なものばかりとはな。そなたらを生んだ腹は、よほど前世で悪行を積んだとみえる。本当に俺と同じ種の子か? 悔しいよ、優秀なこの俺がもう少し早く生まれていれば、あの女の罪を暴いてやれたかもしれないのにな。業腹とはこのことだ」
「ご母堂様、いいえ、ご当主様にも何たる不敬ですか! いくらなんでも看過できません!」
「ほう? 侍女風情が何とする?」
サーリャもよせ……。
君は騎士の家の娘だけど、実は戦闘に長けてるなんて設定は無いんだぞ。
戦闘メイドなんてどこのファンタジーって話だ。王家の周辺にならいるかもしれないけど、ここは男爵家でサーリャはただのメイドだ。
サーリャの戦闘力は、ぶっちゃけ私とそう大差はない。
サーリャが騎士家の戦闘術で、私のはお嬢様の護身術……胸や下半身に這ってきた手の指を折るとか、後ろから抱きつくフリをし、頚動脈を締めて落とすとか……であるという違いがあるから、単純な比較はできないけど、どちらにせよ正式な戦闘訓練を修めているクソ兄貴に勝てるものではない。
現実の戦闘は、筋力、そして体重という要素がかなり深く影響してくるからだ。
更に双方無手……単純な格闘とならば、その開きは絶望的なモノになる。
それに知ってるんだぞ、サーリャ……君が意外とダメ人間だってことは。
せっかくここまで無かったことにしてあげていた、君のチビリが、またろくでもない事になってしまったらどうするの。
いやだぞ私、メイドさんが憤死するのを見るのは。
……とかなんとか、頭の中はぐるぐる回るけど、ではどうしたらこの場を治められるのか、その肝心のことがまったくわからない。
この兄の厄介なところは、前世の価値観でいえばイジメかっこ悪いな行為を、様々なハラスメントを、明らかに間違った理屈を、本当に、心の底からそれが正しいものと思っていることだ。
悪い意味で、自分なりの正義を貫いている。
正義で動く者に言葉は通じない。
自分の行いは正しいのだから、それを遮る者、否定する者は全て悪……時にそういう仕組みで正義は動く。
揺るがない正義とは、あらゆる「己が正義を揺るがす真実と価値」を拒絶した先にある、確証バイアスの塊だ。
自分は正義でいたい。だから自分にとって都合のいい真実と価値だけを集め続ける。
そうしたモノでカチカチに固めてしまった正義は、もう何をも受け付けない。
誰の言葉も届かない。己から見た悪が斬れるのであれば、どんな悲劇がこの世に創出されようが構わない。
この兄は長男を憎んでいる。この兄は私達を産んだママを憎んでいる。
その憎悪は理解している。痛感している。この身に刻まれてもいる。何度か説得を試みたことだってあるのだ……そこには恐ろしいまでの虚無しか無かったし、そもそも、お前が俺様に言葉をかけることさえ不敬なんだよと、暴力で返される。
スカーシュゴード男爵家の中で、己の存在意義を脅かす者は、彼にとっての悪であり、何をしてもいい存在なのだろう。
それがクソ兄貴の正義だ。
誰になんと言われようが、それはもう彼の中では揺るがない。もしかしたら様々な経験の果てに揺らぎ、変わることはあるのかもしれないが、今、掘り起こしてクソ兄貴を変心させることのできる何かなどありはしない。あったところで「悪に認定されている私」が何を言っても無駄だ。正義は悪に屈しない。屈しないために、ありとあらゆるモノでその身を固めているのだから。
だから言葉は通じない。
言葉が通じないとならば……これはもう、別の手段でどうにかするしかない。
でも……どうにかって、どうによ?
武力、実力行使では勝てないと思ったばかりじゃないか。
だからそれ以外を探って、「自分にとって都合のいい理屈以外は拒絶する」クソ兄貴のパーソナリティに絶望したんじゃないか。
だからどうするのよ。何をどうしたらいいのよ。
どうすればいいか。
どうしたらいいか。
……どうしてきたか。
ああ。
ああ、そうか。
眩暈がするほど、簡単だった。
俺が大人になればいい。
少なくとも前世の俺は、今のコイツよりも年上だった。
子供の癇癪くらい、受け止めてやればいい。
そう思って、ずっとずっと顔も腹も、背中も手足も、ぶん殴られて、ぶん殴られ続けて、蹴られて、蹴り続けられて……そんな仕打ちに、ずっともう耐え続けてきたじゃないか。そうだそれでいい。こいつはクソガキのまま成長してしまったロクデナシだ。
私への暴力で済むならそれでいいんだ。
「お兄様、こたびは私の不始末で迷惑をかけることになってしまい、申し訳ありません」
「お嬢様!」
「いいの。サーリャ。黙って」
サーリャやミアに……手がでることだけは避けなければいけない。
「ほう? 少しは判っているようではないか」
「本当に申し訳ありません。その上でお兄様のご武運、お祈りしています。どうかよき手柄を立てられますように」
「はん。白々しい」
ああくそ、じゃあどうすればいいってんだよ!
「誠意が足りないんだよ、お前は。服を脱いで土下座して見せるくらいのことはできないのか?」
「……はぁ?」
なんだよそれ。
土下座まではまあいいとして……いやあんま良くないけど、謝罪しろってんならそれもまぁわからなくもない要求だ。
だが……裸?……さすがのコイツでも、妹に性的な要求や暴行をしてきたのは、これまで無かったのだが……。
でも……別に、いいのではないか?
私はどうせ俺だ。
だかが俺程度の裸、それで済むなら構わないのではないか?
さすがにそれ以上求めてくることはないだろう。それ以上はクソ兄貴の確証バイアスの塊、狂った正義でさえ、言い訳のしようのない逸脱行為だ。クソ兄貴が、狂ってはいても、こいつなりの正義で動いているというなら、俺の裸に求めるのは、つまりその貧弱さをせせら笑う程度であろう。
それくらいなら……別に……。
「ボソルカン様。さすがにご無体が過ぎます! これ以上お戯れが過ぎるのであれば、即刻ご当主様に言いつけに参りますよ!」
「おっとぉ。お前は使用人の分際で、主とその妹を置いて逃げるのかな?」
「きゃっ!?」「おい!」
やばい。サーリャの腕が掴まれた。
クソ兄貴の暴力への閾値は低い。抵抗できない人間を痛めつけるのが大好きで、ブレーキはとうの昔に壊れている。そうとしかいえない人間であることは私が……私の肉体が一番よく知っている。
男爵家のボンボンとはいえ、それでも一応、日々兵士達の中に混じって鍛錬をし、筋肉をつけている。この部屋にいる人間に、腕力でクソ兄貴に抵抗できる者はいない。だからサーリャだってその腕を振り払えないでいる。
禍々しくクソ兄貴の唇が歪んでいる。
あれは抵抗できないものを捉えた時の顔だ。
嗜虐欲が嫌らしい表情となって表れてきたその顔だ。
やばい、このままじゃサーリャが……。
心臓が痛い。
思い出す。
殴られた瞬間の鋭い痛み。腹に、内臓に、肉に残る鈍痛。蹴られて転がる自分の軽い身体。胃酸がせりあがってきて、それに喉を焼かれる不快。
違う!
思い出すな! そんなモノ!!
動けなくなる、今それを思い出すのは悪手だ。
だけど眩暈がする。心臓が制御できない。鼓動がうるさい。
現実を見ろ、どうにかしなければ。
考えろ、考えろ。
「……いい……でしょう。裸で、土下座したなら、帰って……くれますか?」
「お嬢様!?」
うるさいうるさいうるさい。
プライドとか意地とか、そんなものは捨てろ。
今の私は腕力も権力も無い、魔法も使えない、役に立つチートひとつ持ってない無力な人間なのだから。
それでも何かを守るなら……何を捨てても、それを成さなければならない。
なら、私の土下座も……裸も……安いモノだから……。
自分の手が、ゆっくりとワンピースの襟へと伸びていく。
「おっとぉ? 思っていたよりきちんと反省しているようだな。いいぞぉ、お前が裸でキッチリ土下座するなら、無論許そうではないか」
「いけませんお嬢様! お嬢様がするくらいなら私が……っ!」
ぞくりと。
悪魔が微笑んだ氣がする。
「いっ……痛いです、ボソルカン様!」
サーリャが掴まれている腕……それが、掴まれているその部分が、クソ兄貴の興奮を示すかのように、深く、握り込まれていた。
「ほう。そうか、そうだな、主人の罪は部下の罪でもある。ならばお前が裸で土下座してみせるがいい」
「てめぇ……最初からそれを」
しまった。
クソ兄貴は最初からこれを狙っていたんだ。
裸で土下座というそれを、最初から狙っていたのかはわからない。だが、この家でもっともアナベルティナ寄りの態度と行動を示してみせるサーリャをこそ……この二年間、クソ兄貴の「お楽しみ」を邪魔しまくったサーリャをこそ……今回は狙っていたんだ。
そこに性的な欲が、どれくらい混じっているのかは知らない。そういうのが理解できる頭は前世に置いてきた。だが少なくはないだろう。クソ兄貴が、サーリャを見る時、嘲るようにしながらも、その視線が胸元や下半身を舐めてばかりだったのを、私は知っている。そういう視線に、敏感な性に、なってしまっていた。
マズイ。
私へのそれとは違い、サーリャへのそれは、きっとクソ兄貴にとっての逸脱行為にはあたらない。ヤツにとってのサーリャは、悪(私)の手下なのだから。何をしてもいいし、そうすることが正しいと、いくらでも思えてしまうのだろう。
それに……サーリャのあの見事な肢体を生で見て、クソ兄貴にブレーキがかかるのか?
……ヤバイヤバイヤバイ!
「どうした。自分から言い出したことだぞ。愚妹の代わりに謝罪するのか、しないのか、ハッキリしろ」
「……こたびの件、いくらなんでも行きすぎです。ご自覚はありますか? 私は必ず言いつけますよ?」
「ふん。下女の妄言など大事も無いさ。俺は出兵を前に身が滾っておってな。裸で土下座しないというなら伽でもってその代わりとしてもいいのだぞ? 戦に出向く男の精進落としもまた、女の役割であろう」
精進落としは出向く時じゃなくて帰ってきてからだよ!……くっそ、そんなことはどうでもいい、この世界のそれに相当する日本の風習なんか思い出しても今は役に立たない。知識チート? この場で何が役に立つってんだ。
一瞬、ミアの方に目が行ってしまう。その瞳は潤み、今にも泣きだしてしまいそうだった。
……くそっ!
どうして今私はミアを見た! 妹に一縷の望みをかけようとするだなんて情けない。ミアは私やサーリャ以上に無力な子供。守るべき存在で、頼る相手ではない。
どうにかしなければ。
私がどうにかしなければ。
俺がどうにかしなければいけない。
ここで一番の年上は、本当は私で、俺だろう。
だから私がなんとかしなければならない。サーリャを、ミアを、私を好きな人が、私が好きな人が傷付かないように。
どうすれば。
どうすれば。
どうすれば。
頭が真っ白だ。
どうすれば。
どうすれば。
どうすれば。
心臓だけがうるさい。
どうすれば。
どうすれば。
どうすれば。
サーリャが何かを決断したような顔になる。
いやだ! こんなのイヤだ!
どうすれば。
どうすれば。
どうすれば。
クソ兄貴が、勝利の確信をしたかのように、嫌な笑顔を浮かべてサーリャの手を離す。
そしてサーリャが、どうせなら勢いよくと覚悟を決めた顔で、その服、私が縫ったメイド服に、自由になった手をかけようとして……。
「あんぎゃああああ!!」
「ひ!?」
醜悪な絶叫と、短いサーリャの悲鳴にハッとなる。
「な、な、な!……ぐぎゃお!?」
「きゃっ!」
サーリャがクソ兄貴の近くから、跳んで逃げる。
と。
「うぎゃあああぁぁぁ!!」
ぼんっ!……と。クソ兄貴の髪が燃え上がった。
「ぎゃあぁぁぁ!!」
「何が……っ」
わき腹にぬるんとした感触を覚え、その方を見る。
「にゃぁあぁん」
アリス。
アリス!?
いつの間にそこへ入り込んできていたのか、アリスが私のわき腹に、猫の身をこすり付けていた。
……その意味!
「っ!」
魔法陣は!?
周りを見渡すが、どこにもない。
だがこれは、アリスの魔法だ。
人間社会では禁忌とされる魔法の力だ。
魔法陣は……ベッドが少し振動している。なるほど! 天蓋の上!
考えろ。
もうこれで解決?
そうじゃない。そんなわけがない。
アリスの力は表沙汰にしていいものではない。
アリスはベッドの上に魔法陣を出している。隠そうという意思がそこにある。
ならばそれに応えなければいけない!
クソ兄貴に知られたら何もかもが終わる!
これはヤツにとって、ヤツの正義にとって滅茶苦茶都合のいい真実だ!
事態は変わった。アリスのおかげで対処すべきポイントがずれた。
単純な腕力という、ここにいる三人では対処できない問題は解決した。
だからこそ、この後始末は私がどうにかしなければいけない!
自分の息が荒くなっていくのが判る。
目が、首が、情報を追う猟犬のように動く。
サーリャは? よし、絨毯に腰をつけて、クソ兄貴の方を見て呆然としている。
ミアは? やばい、私とアリスの方を見ている。
ミアは……誤魔化せるか? もしくは秘密の共有者に巻き込むか。
時間が無い。決断しなければ!
部屋にある様々なものを確認。
そうしてまずはベッドの方へ走る!
トコトコとアリスがついてくる。
「うぎゃああ! 俺の髪が! 髪が!」
絨毯に頭をつけ、のた打ち回るクソ兄貴に、ベッドの脇にあった水差しを投げつける。
「ぐぎゃ!」
ヒット! クソ兄貴の頭に、水差しに若干残ってた水がかかり、火は勢いを弱め、消える。
「おいクソ兄貴」
「な……」
「火のついたランプオイルをぶち当てたくらいで、てめぇの頭はよく燃えるなぁ?」
「な……な、な」
(おいっ! 火はわかるけどその前にコイツが絶叫したのは何だ!?)
猫に囁くが、当然答えは返ってこない。
「ぐがっ!!」
だがその代わりに、ハゲ頭になったクソ兄貴がよろめいた。
……部屋の入り口の、脇にあった花瓶が飛んできた?
これがアリスの答え?
挿してあったクロッサンドラが床に散らばっている。
くっそ、憶測とハッタリで動くしかないのかよぉ。
「兵法はまず地の利を活かすことから。てめぇはよぉ、この部屋が誰の部屋かわかって入ってきたんだろうなぁ!? 昔にも味わったろぅ!? 罠にかけられる屈辱はよ!!」
なんかチンピラ口調だけど、人を威圧する喋りなんて他に知らないもん。日本語ならもっと別の表現もできるけど、この世界の言葉だと、目の前のクソ兄貴を真似たこの口調しか知らない。
「なっ……貴様、兄にこんなことをして……ぎゃっ!」
「おっとぉ。そんなところに突っ立ってていいのかなぁ? なんせこのところ暇だったからなぁ? 自分の部屋に細工するくらいしかやることが無くてなぁ!!」
あぶねぇぇぇ。合図してくれよ!
なんか視界に動いたのが見えたから、手をそれっぽく、ナニカを引っ張ったふりをしたけどさ!
今じゃもうサーリャの視線もこっちに向いてきている。ここからは、もっと上手くやらなければいけない!
「ほらほら、今立ってるそこの床がいきなり消えるかもしれないぞ、シャンデリアが落ちてくるかもしれないぞ。おっとそこを越えたら、棚から矢が飛んでくるかもしれないなぁ」
「……貴様、何をしているかわかってるんだろうな!!」
ずくん。
心臓が鈍く跳ねる。
クソ兄貴の睥睨が物理的圧力となって、私へと覆いかぶさってくる。
それはトラウマ、もしくはPTSD。
そういうものが、私の身体には埋め込まれている。
幼い身体を傷付けられ、その傷痕に埋め込まれた、蛆のような何か。
それがじゅくじゅくと肌の下で蠢いている。
「そっちこそ!」
だが跳ね返す!
「ぎゃあ!」
よし! 今のはナイスコンビネーション!
なんとなく背中のアリスへわかるように手を掲げ、振り下ろした。
それに合わせて、アリスはシャンデリアをクソ兄貴のまん前に落としてくれた。
クソ兄貴は腰を抜かしたように尻餅を付く。
トラウマ? PTSD?
幻想だ。幻想だと思え。
「レディの部屋に無理矢理押し入っての狼藉三昧。男として恥ずかしいとは思わないのか!!」
「き……さ……ま……」
心臓の鼓動が早い。
身体に刻み込まれた痛みの記憶が、寄生虫のように肌の直下を蠢き、疼く。
だけどこれは幻想。今は過去のもの。今は今だけを見ろ。成すべきことを成せ。
人は、腕を失うと、あるはずのない幻の腕が痛み、苦しむという。
痛みを感じる器官、神経の張り巡らされた肉は既にそこには無い。それでも痛みは実際に存在する。その痛みは上肢、あるいは下肢を失った患者を苦しめる。
それは確かに実在する痛み。幻肢痛、ファントムペインなどと呼ばれるモノだ。私は、俺は前世で、それに苦しむ患者を見た。幻でも、実際に痛いのだから仕方無いと泣いていた。
この痛みを緩和する治療法のひとつに、ミラーセラピーがある。
失った腕のあるべき場所に、失ってない方の腕を鏡で映して、その鏡像を見ながら自分の意思で失ってない方の腕を動かし……まるでまだそこに自分の意思で動く腕が存在しているかのように……自分の脳に思い込ませる。
脳科学の分野なのか、精神医学の分野なのか、それが人体のどういった機構に働きかけ、結果を出す医療行為であるのか、専門家でない私にはわからない。
それが全く効果を示さない症例もあるだろう。
だけどわかることがある。
幻の痛みってのは、嘘、まやかし、思い込み……そういうモノで打ち消すことも、可能だってことだ。幻は幻に帰す。嘘は嘘に還る。
これは。
だから。
思い込むだけで。
消すことができる 痛 み な ん だ !
そう強く思うと……肌のじゅくじゅくが、少し治まった氣がした。
思い込みかもしれない。
だけど思い込みでいい。
ああそれでいいんだ。
嘘だろうが幻だろうが、このじゅくじゅくが、消えることこそが重要なんだ。
サンキュー、誰とは知らない前世のお医者様。
患者の氣の迷いと、切り捨てても良かったはずの愁訴と、真摯に向き合おうとした最初の誰かに、ありがとう。
これも、現代知識チートっていうのかな?
はん、こんなところで初めて、転生者らしいことをしてしまったぜ。
さあ実践だ。
さあ実戦だ。
この吐きそうなほどの眩暈と疼痛は!
だから打ち克つことができるんだよ!
押し切れ!
勢いを付けろ! 理論や理屈なんて、いくらでも飛躍させてしまえ!
私はこのクソ兄貴に克てる! もう勝てる!
その幻想で、過去の幻想を蔽いつくせ!
帰れ! 幻に!
還れ! 嘘に!
私の幻想に飲み込まれろ!
とにかく今は勝てると思い込むんだ! 無理でもなんでも押し通すんだ!
両腕をクロスさせるように下ろす。
「ひっ!」
両脇の壁方向から何かが飛んでくる。
ダツっ……という音がして。
床に腰を着けていたクソ兄貴の、股間数センチ前に、何かが刺さった。
ひとつは……私の刺繍セットの針ではないですか。やめてよ、まだ使うんだから。
もうひとつは……蝋燭の燭台ですね。それならいいや。
「私は男爵家令嬢、アナベルティナ・タチアナ・スカーシュゴード! 卑劣な男性の暴力には屈しません!」
……あ、やべ、なんかくっころ展開の前振りみたいになったぞ。かっこつかねー。
「き」
「き?」
だが幸い、これは薄い本とかなんかそういう十八禁コンテンツではなかったらしく。
「貴様! 覚えていろよ!」
とても、頭の悪い三下なセリフを吐いて。
「てめぇこそ今の自分の姿! 覚えておけ! クソ兄貴!」
クソ兄貴は部屋から逃げていった。
「……は」
腰が、勝手に床へ……へたり込む。
「は、は、ははは」
心臓がずくんずくん脈を打つ。
耳がキーンとしている。
全身が、トンネルを超高速で通り抜けてしまったかのような感覚。
「てぃ、ティナ様、いかがされましたか!?」
息ができない。
視界が明滅する。
永遠に落ち続けているかのように、永遠に昇り続けているかのように、視界が縦に回り、それが止まらない。
「怖い……え、なにこれ滅茶苦茶怖い」
十秒前には予期してなかった、だけど興奮状態で今の今まで氣付いていないだけだったかもしれない身体の異常に、涙がでてくる。
クソ兄貴はもう去ったのに。
恐怖の源泉はもうここにいないのに。
「お、お嬢様……」
「にゃぉおおおん」
だめだ、クソ兄貴はまだ帰ってくるかもしれない。
やめろ、待てってば、私はまだいける。俺はまだ……。
視界がホワイトアウトしていく。
「いひ、すへなひ……。サー……リャ、た、ふ、へ……」
「ティナ様!?」
「なぉぉおん!?」
だけど、意に反して私の身体は、私の身体からは、何かがどんどんと抜けていく。抜けていってしまう。
胸の痛みが、もう肺なのかどこなのかわからなくなるほど広範囲にへばりついている。
それは前後から私を平べったく圧搾するかのような痛みで、なんとなく本能的に思ったのは、横隔膜が機能してないということ。それが正しいのか、そうでないのかはわからないけど、とにかくまともに息が吸えなくて苦しい。
なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。
全身が重くなり、倦怠感などという言葉では言い表せないような凄まじい重圧が、私に圧し掛かる。
(チクショウ……最後までかっこつけさせろってんだ……)
急速に、失われていく、私の意識。
「おねぇちゃーーーん」
なぜか、おねえ「ちゃま」ではないミアの絶叫を耳に焼き付けながら。
私は。
意識を。
手放した。
以上、12話『いじめっ子にまたイジメさせろって言われた私、でもこっちにはもう対抗手段があるんだからね~今更私で愉悦したいと言われてももう遅い~』でした。違う。




