朝チュン! アフター
「合格おめでとう。」
はい、とプレゼントを手渡せば、圭くんは本当に嬉しそうに顔をほころばす。
もう2年以上経ったのに、天使の純粋さが変わらないことに、私は嬉しいと同時に、少し切ない気分になった。
「ありがとうございます! 開けていいですか?」
「うん。開けて。」
丁寧に包み紙を開けていく圭くんを見ながら、私はいつ、切り出そうかと思考をめぐらす。
「ボールペン、ですか?」
「うん。いろんなところで書類とか書くことも出てくるから、いいボールペン持ってるといいって、私も親からもらったの。確かに役に立ってるから、圭くんにも。」
「ありがとうございます! 大切に使いますね!」
「うん。大切に使ってくれたら嬉しい。」
そう言って、私は言葉に詰まって俯く。
「環さん、どうかしたんですか?」
そっと近づいてくる圭くんに、私は甘えちゃいけないと顔を上げる。
「それでさ、圭くん。私たち、別れようか。」
できるだけ笑顔で伝えるつもりだったのに、目には涙が滲んでいる。
そう、まだ私は圭くんのことを好きなのだ。
でも、だからこそ、圭くんとの別れを決めた。
私が致してしまった責任を取って付き合うようになって、純粋な圭くんが純粋に私を好きになってくれたことに、ずっと罪悪感を感じていた。
私があの時、間違えなければ、圭くんにはもっと違う未来があったのに、って。圭くんにはこの先も色んな未来がある。だから、もう、圭くんを自由にしてあげなきゃって、そう、大学に合格した話を聞いた時に、決めたのだ。
「どうして?」
圭くんがショックを受けて目を見開いている。…そんな顔をさせたいわけじゃない。でも、ここで心を鬼にしなきゃ、圭くんは私が取った責任をずっと負わされていくだけなのだ。
「遊びもそろそろ終わりにしようかなって。」
私も4月から社会人になる。だからお遊びは終わりだよって、そう言って圭くんを振ることにしたのだ。
「環さん、それはどういう意味?」
トーンの変わった、今までと違う口調の圭くんに、ドキリとする。その表情も、私の知っている圭くんの表情ではない。天使とは違う、冷たさを感じる表情だ。
いつもと違う圭くんの様子に私はちょっとひるみつつ、自分を叱咤してずっと考えた次の言葉を口にする。
「私も社会人になるでしょ? もう子供と遊ぶのは終わりにしようかと思って。」
「…子供。」
ぞくりとするほど冷たい声色が、その場に落ちる。
でも、私はそれでいいと私を叱咤する。
「だって、そうでしょ? 私はもう結婚も考えられるようになる年だし、でも圭くんはそんなの考えられる年じゃないでしょ? だから、もう終わりにしようと思って。」
ほら、私はこんなに嫌な奴なんだから、呆れて嫌いになって。
ギシリと痛む心をなかったような顔をして、圭くんに私の願いが届いてほしいと笑って見せる。
「…結婚。」
冷たい表情で、圭くんがぼそりと呟く。
「そう、私に結婚してって迫られても、圭くん困るだけでしょ?」
「環さんは、結婚出来ればいいの?」
「そうだね。ごめんね、私がこんなに打算的な女だと思ってなかったでしょ? 学生のうちは遊んでていいかなって思ってたけど、流石に社会人になるし、そろそろ遊びは終わりにしようかなって。」
「遊び…。」
ギリっと圭くんが唇をかむ。
そんな顔をさせたいわけじゃない。でも、これが私たちの道を違えるための最善の方法なのだ。
私はまだ圭くんのことを好きで、圭くんが私を好きでいてくれる限り、きっとずっと好きでいる。
純粋な圭くんはきっと、刷り込みみたいに私が好きだと思ったままでいるんじゃないかと思うのだ。
でも、そもそもこの付き合いが、間違いだったのだ。
だから、私は圭くんを開放してあげないといけない。
それが、圭くんへの私からの本当の合格祝いだ。
「環さんは、結婚出来ればいいんだよね?」
冷たい顔をした圭くんが私に迫ってくる。
「そうよ?」
「じゃ、俺と結婚しましょう。」
圭くんの真剣と言えるその言葉に喜んでしまう自分に、喜んじゃダメだってブレーキを掛ける。
「何言ってるの? 圭くん4月から大学生になるじゃない?」
「別に大学生になるのにこだわりはないんです。環さんが社会人じゃなきゃ結婚しないって言うなら、大学行くの辞めて社会人になります。」
「何…言ってるの? 圭くんの行く大学、受かるのだって大変でしょ? それに…お医者さんになるんでしょ?」
圭くんは医学部に進学する。頑張ってたのを身近で見てたのだ。それを簡単に捨てて欲しいとか絶対思えない。私との思い出は捨ててくれていいから、しがみついてでも夢を叶えて欲しい。
「環さんは、俺がどれだけ環さんのことを好きか、全然理解してないんだね。」
「それは…単なる刷り込みだよ。初めての相手が私だから、だから私にこだわってるだけ。」
それは間違いなく真実だと思う。だからこそ、圭くんはこの2年間私と別れることなんて考えずに付き合い続けてくれたんだって思うから。
「…俺は、環さんじゃなきゃこんなにこだわってない。」
「そんなことないよ。」
圭くんのその言葉だけで、もう十分だ。私は十分圭くんに好きな気持ちを貰えた。だから、これで諦められる。
「もっと素敵な子は沢山いるよ。」
「…環さんの気持ちは変わらないってこと?」
「そう言ってるでしょ?」
圭くんの言葉に、私は笑って頷いて見せる。圭くんには未練なんてないよって。
傷ついた顔をした圭くんが、ふらり、と立ち上がる。
「さよならなんて言わないから。」
そう言って圭くんは自分の荷物と上着と、私がプレゼントしたボールペンを持って、私の部屋を後にした。
パタン、と閉じたドアの音で、私の涙腺は決壊する。
本当は後を追いかけて、別れたいなんて思ってないって言いたい。でも、そんなことできるわけがない。
圭くんには私のいない未来を選んでもらうって、決めたんだから。
それに、今更あれは嘘でしたって言ったって、きっとあんなに傷ついた圭くんは許してくれないだろう。
あの天使の圭くんが、あんなに怖い顔をしてたのだ。どれだけショックだったかってわかる。
でもきっと、その痛みは癒される。時間と人とに。
私は隣にいられないけど、圭くんの幸せを祈ってる。
だから、圭くんが私と過ごした時間以上に、幸せになって。
最後に会うのを私の部屋にしたのは、私の部屋だと私たちは致さないからだ。部屋の壁が薄いから。致してしまったら、きっと私は別れられないと思ったから。
あのぬくもりを手放せなくなると、わかっていたから。
もう二度とあのぬくもりを感じることはない。
それが、私が致した過ちの、罰だろうか。
****
「ね、環。最近はどうなの? いい人いたりする?」
大学時代からの友達の凛に、私は苦笑して首を振る。
「いないって。凛はいつ会っても、その話だね。他にする話ないの?」
「私だって、別にそんな気はないんだけど。」
ムッとした凛に、私は笑って見せる。
「いつ聞いても同じだって。私には彼氏なんてできません。」
「…圭くんがまだ好きなの?」
「本当に、そろそろ諦めていいのにね。…もう6年も経つよ。あれ、7年になるんだっけ?」
指を折って数を数える。あの私が作り出した最低な別れが7年前のことだと思えないのは、大学の友達たちに会うと、決まって圭くんとの思い出を話す羽目になるからだ。いや会社の同僚と飲みに行っても、圭くんの話をしてる気がする。…私も忘れようとはしてないせいだろう。別に好きでいるのは自由だから。…それでもこんなにずっと好きでいるとか思わなかった。
時々、圭くんは幸せにしてるかなって、そう考えて、きっと幸せにしてるって思って、私も頑張ろうと思ってる。
圭くんの幸せを祈って別れたことは後悔してない。あのまま付き合ってたほうが、きっと私は後悔していた。だから、今の状況も、受け入れている。
いつか、この気持ちを消化できる日が、来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。消化できなくてもそれでもいいかって、最近はそう思ってる。
というか、私に彼氏ができたかどうかみんな聞いてくるんだから、圭くんの話を振ってこなきゃいいのにってちょっと思うんだけど。
「…圭くんも大学卒業したんでしょ? なら、いいんじゃないの?」
「何が?」
凛の問いかけに、私は首をひねる。
「…結婚相手として見てもいいんじゃないの?」
「何の話よ。私がそう思えても、圭くんの方が願い下げってやつでしょ。」
「…でも、そう思えるんだ?」
「…だって、まだ好きだからね。」
ほろり、と涙が落ちる。
「好きでいるのは自由でしょ?」
そう言うと、涙腺が緩む。
「あー、環泣かないで! 本当に泣き止んで! お願いだから!」
ハンカチを差し出して必死な凜に、私は泣きながら笑う。
「そんなに必死にならなくても。」
「だって、悪魔が!」
意味の分からない言葉を発した凜が、口を開けて宙を見て止まっている。
「何? どうかしたの?」
私は凜の視線をたどって振り向く。
そこに、あるはずのない姿を見て、フリーズする。
「環さん、何で泣いてるんですか? こちらの方に泣かされちゃったんですか?」
「…圭…くん。」
なんで、という言葉は声にならない。圭くんは最後に会った時にはまだ持っていた幼さを消して、その美しさに精悍さを加えている。でも、一目見て、圭くんだとわかる。会いたいと思っていた、でも想像もできなかった今の圭くんだ。
「環さん、もう俺は子供じゃないし、大学もきちんと卒業した。医師免許も取った。まだ研修医で一人前の医者とは言えないけど、でも、結婚相手としての資格は持ってると思う。だから、俺と結婚してくれませんか?」
いつか貰った花束を彷彿とさせる花束を差し出してきた圭くんの突然のプロポーズに、カフェの周りのテーブルがざわめく。
私は突然のことに、思考が停止する。
「ね、環、答えてあげて。」
「凛、私幻覚と幻聴が見えるんだけど。」
「環、そこで現実逃避しないで。ほら、悪魔の睨みが私に来るから、答えてあげて!」
…さっきから凜は何を悪魔って言ってるんだろう?
「環さん、俺、さよならは言わないって言ったでしょ。環さんの隣にいる資格ができたら、会いに来るつもりだったからだよ。」
あの最後の言葉がそんな意味だったなんて、あんなに傷つけて別れの言葉を告げたのに。そう思うと、涙が後から後からこぼれてくる。
そっと圭くんが私を包み込む。そのぬくもりに安心したら、もっと涙が出てきた。
「結婚してくれますか?」
圭くんの声に、私はコクリと頷いて、パチパチパチ、と周りの席から拍手が広がった。
完
「ね、悪魔。今泣いてるのはあんたのせいだからね。私のせいじゃ絶対ないからね。」
私は環の耳に入らないように、ひそひそと話しかける。
「さっきからうるさいですね。悪魔悪魔って、人のこと性格悪いみたいな言い方しないでください。」
勿論相手の文句もひそひそ声だ。
「よく言うわ。環に変な虫がつかないように見張っててくださいって、大学の友達たちの弱み握ってはいいように使ってたくせに。」
私も弱みを握られている! …まあ、環の幸せを考えたら、仕方ないと思って手伝ってるんだけどさ。
「いいように使ってたわけじゃないですよね? 皆さんの親切心からの行動だったと思うんですけど。」
私は小さくため息をつく。
「あんた、会社の同僚も同じように声かけてたんでしょ? どこが天使よ。真っ黒黒じゃないのよ。」
環はこの男を語るとき、絶対天使だと言い張る。だが、我々友達の中では、この男は悪魔と言われている。
「うるさいですね。環さんはまだ俺のこと天使だって信じてるんでしょ? 環さんのイメージ、壊さないでもらえます?」
「壊そうとしても全然壊れてくれなかったから、大丈夫。ほーんと、環は純粋だよねぇ。」
私たちは環のこの男の天使イメージを壊そうと試みたのだ。だけど、純粋な環に定着してしまったそのイメージは、何をやっても壊れてくれなかった。
「ふーん。そんなことやったんですねぇ。」
背中に汗が伝う。
「いやいやいや。今日の功労者は私だよ? 攻撃しないでもらえる? 環から結婚相手として考えてるって言葉まで引き出したでしょ?」
「ま、環さんに免じて許しましょう。」
…環、本当にこんな悪魔で良かったの?