朝チュン! メイキング
「圭司、また見てんの?」
俺がじっと見ている窓の外に、中1から腐れ縁でまた今年も同じクラスの卓也が視線を向ける。
「見んな。お姉さんが腐る。」
「…腐んないだろ。」
呆れた声がため息とともに落ちる。
「腐るの。お姉さん見ていいのは俺だけ!」
学校の中で、神社の境内がのぞける場所は高等部のこの窓だけだ。4月、中等部から高等部に進級して、何の気なしにこの窓から境内にいる猫を見ていた。そしたら、お姉さんがやってきて、猫たちに一瞬で囲まれる、という奇跡の瞬間を見た。お姉さんはどうやら神社の境内に日参しているのか、猫たちから懐かれているようで、自由自在に猫たちをモフモフしている。その笑顔がかわいらしくて、ここから見える猫と戯れるお姉さんの存在に心が癒された俺は、それから毎日、お姉さんが来ていないか休憩時間ごとにこの窓を覗くのが習慣になった。お姉さんの名前とか住んでるところとかはまだ全く分からないが、服装の感じと毎日やや不定期にこの境内にやってくることから、たぶん大学生じゃないかと思っている。
卓也はいち早く俺が窓の外の何に気づいたやつで、その勘の良さを認めてはいる。
「…子供か。」
そう言いながらも、卓也は窓に背を向けて壁に寄りかかる。流石卓也、俺の機嫌を損ねるとどうなるかはよくわかっているらしい。
「あー。俺もお姉さんにモフモフされたい。」
「…下ネタかよ。」
「ちがうよ。純粋になでなでされたいの!」
「へー。健全な男子高校生が、なでなでされるだけで満足なんだー。」
明らかに棒読みの卓也は、俺の心の奥底まで読み切っているらしい。
「この顔でそんな下世話な話したら、お姉さんに嫌われるかもしれないだろ。」
「ベビーフェイスだもんなぁ。」
ククク、と卓也が笑う。
この顔、まだ中学生と言っても言って通じてしまう童顔で、個人的に非常に気に入ってない。ちなみに卓也は大学生と言っても信じられそうな老け顔だ。…褒めてはない。
「で、俺を馬鹿にするってことは、それなりの覚悟があるんだよね?」
「ナイナイナイナイ! そんなものないって! 林の二の舞とかごめんだから。」
慌てて否定する卓也が出した名前は、4月に俺に絡んできて面倒だったから生徒会役員に推薦して忙しくしてあげたやつだ。今の生徒会役員はなかなかの精鋭ぞろいで、たぶん林くらいのスペックで自意識過剰なやつだと、精神的にぼこぼこにされているだろう。
俺はあの生徒会に入りたいとはこれっぽっちも思わないけど、林は最初ものすごく喜んでいた。何しろ優秀な人間が集まるところ、だと言われているから。自分も優秀になったと勘違い出来て最初は嬉しかったんだろう。でも今じゃ、目が死んでいる。
だが初対面で「お前ネコだったりするわけ?」とか聞いてくる輩に、優しさを見せる必要などないだろう。俺の顔を揶揄っているのはもちろん、本気で同性を好きな人間を馬鹿にしている。…俺はそんな嗜好はないけど、男子校に3年もいれば、そう言う嗜好の人間がいるとは理解している。
そして俺の顔がその対象になりやすいのも自覚している。だが、俺はその嗜好を否定するつもりはないがノーマルだ。幸い空手を習っていたこともあって危ない目には遭ったことはない。元々筋肉が付きにくい体質らしくいくら稽古をやっててもがっしりとした体つきにはならないのが悩みの一つでもある。それに対して隣に立つ卓也はラグビー部なのもあるせいかしっかりと筋肉がついていて忌々しい。
「じゃあ、俺の貴重な時間を邪魔しに来たペナルティを受けるってことでOK?」
「じゃあじゃないから。ちょっと構いに来ただけだろ。」
「構うなら他の時間にしろ。」
ちなみに、この窓の前にいるときの俺を邪魔しようとする人間は最近は卓也以外はいない。みんな聞きわけが良くて助かる。卓也をちらりとも見ずにそう言い捨てると、卓也がクククと笑う。
「そんなにずっと見てるなら直接アプローチすればいいのに。圭司なら、あんなお姉さん一人簡単だろうに。」
「…学校の人間操るのと同じようにお姉さんを操りたくはない。」
へー、と珍しいものでも見つけたように卓也の声が高くなる。
「腹黒天使の純情ってやつか。」
「…卓也、おまえ確か風紀委員に入りたいって言ってたな?」
風紀委員はうちの学校で生徒会と並んで仕事が多い。はっきり言って内申的にもわかりやすい生徒会役員に比べてやりたがる奴は多くはなくて、ちょっと変わったやつの巣窟だ。
「いやいやいやいや、俺事実言っただけだろ。…いや、そうだな間違ってたかもしれん。圭司は天使で純情だな。」
「そうだろ?」
俺の返事に聞こえて来た卓也のため息は、まあお姉さんの可愛さに免じて見逃してやろう。
****
もう夜の12時近い時間ではあるけど、童顔でもコンビニでコーラを買うくらい許される。何度かあったし補導されたことはない。
それに徒歩4分くらいの距離で、出掛けるのに躊躇はなかった。
てくてくとコンビニへの道を歩いていると、駅の方向から明らかに酔っ払った歩調の女の人が歩いてくる。
あーあ、あんなに無防備に歩いてたら、悪いやつに連れてかれちゃうよ、とは思っても見ず知らずの女の人に親切にする義理もなければ義務もない。
都会は世知辛いよな、と思いながら、俺はとぼとぼふらふらと歩く女性を何の気なしに見ていた。
丁度街灯の下に女性が入った瞬間、俺は目を疑った。
いや、この幸運を感謝した。
いつも俺が見ていたあの境内で猫をモフモフしてるお姉さんだったからだ。
しかもあの服、確かに今日見た服だ。間違いない。
俺は焦るようにお姉さんに近寄る。
「大丈夫ですか?」
「ナンパはいりません!」
声をかけた俺に、はっきりと断りの文句を言うお姉さんは、酔っていても貞操観念は壊れることはないんだろう。そのことにほっとしつつ、俺はこれからどうするか頭を働かせる。
「僕、ナンパしそうに見えますか?」
この顔は童顔ではあるけれど、整っているのは知っている。だから、ナンパするような人種じゃないでしょう? と問いかけてみたわけだ。
さっきは目も合わそうとしなかったお姉さんが訝しげに俺を見たあと、目を見開いた。
お姉さんの反応が予想通りだったことにはほっとしたけど、予想通りだったことに逆に落胆した。
初対面の相手の評価が顔だけだなんて、やっぱりお姉さんも単なる人の子で、俺が勝手に描いていた理想のお姉さんなど理想でしかなかったのだと理解したからだ。
この顔のせいで言い寄られることはあっても、迷惑だとしか感じたことはなかった。
だからせめてお姉さんには、他の反応をしてほしかった。
俺の勝手な言い分でしかないけど。
「…美しい。」
ポツリとお姉さんが呟いた言葉は、最初俺には聞き取れなかった。
「どうかしましたか?」
俺はちょっとした距離感を作ってお姉さんに答えた。ついさっきまでお姉さんに会えてラッキーだと思っていた気持ちは、急激にしぼんでいた。
「デッサンさせて!」
「は?」
お姉さんが言ってる言葉が、正しく頭の中で変換されなくて困る。
「君の顔、美しいからスケッチさせて!」
ようやくお姉さんの言っている言葉が理解できて、俺はあっけに取られる。
「君みたいな美しい顔好きなの! ぜひとも描かせてくれないかな?」
お姉さんは本気で言ってるんだろうか。そう訝ってお姉さんをじっと見る。
「ごめんね。顔だけ美しいとか言って。でも顔だけにしか興味はないし、僕にイタズラするつもりなんてないから、ね、ちょっとだけ!」
僕、と呼ばれたことで、俺はどうやらお姉さんから大分年下に見られていることが分かる。
それに顔にしか興味ないから、と言われたことに、カチン、となる。
俺を怒らしたらどうなるのか、知ってもらわないとね。
俺が顔だけじゃないって、後悔してもらわないと。
さっきまでは全くなかったはずの気持ちが産まれる。
好きだと思っていたお姉さんにバカにされたから?
とにかく俺が“男”なんだということをお姉さんに教えたくなった。
スケッチの件に同意すれば、その場で小さなスケッチブックを取り出すお姉さんに、ここでやってると変な人に絡まれると困るからと俺の家に行くのを提案した。躊躇するお姉さんに「今家には誰もいないから気を遣う必要はありません。」と言ったら案外素直についてきてくれることになった。ちょろい。
そもそもコーラを飲みたくてコンビニに向かう途中だったわけでコンビニに一旦向かうと、酔っぱらっているはずのお姉さんは更に酒を飲みたいとチューハイに手を伸ばしていて、俺は慌ててその手にノンアルコールのチューハイを握らせた。まだ飲むというので、味が違うノンアルコールのチューハイをいくつかカゴに入れてレジに向かえば、レジの人が俺を訝し気に見てはいたものの、隣に立つお姉さんが酔っ払いだったせいか、とがめられることはなくノンアルコールのチューハイとコーラを手に入れた。
そしてそのまま俺の家に向かった。
俺に手を引かれるまま家に入ってきたお姉さんは、おじゃましまーす、とのんきな声で靴を脱いだ。
とりあえず明日は土曜日で学校は休みだから時間はいくらでもある。
だからとりあえず、お姉さんと乾杯することにした。
ノンアルコールのチューハイを飲みながら俺をスケッチするお姉さんは真剣な顔だ。
まっすぐな目に見られて、俺は自分の中身まで見つめられているような気分になって、ちょっと居心地が悪くなる。
お姉さんの手が止まって、お姉さんはニコリと笑う。
「ありがとう。こんな美形の顔をスケッチ出来て嬉しかった!」
パタリ、とお姉さんはスケッチブックを閉じる。
「え? 僕にも見せてください。」
俺はそう言ってお姉さんの横に座る。
「…一応美大生だからマシだと思うけど、私の専門じゃないから、そこまで上手なわけでもないよ?」
そう言ってスケッチブックを開こうとしたお姉さんを、俺はそのまま押し倒した。
「へ?」
俺を見上げるお姉さんの目は、驚きで見開かれている。
「僕の顔好きなんですよね?」
「えーっと…そうだね?」
どうやらこのぼんやりしたお姉さんは、今から自分が何をされるのかとか全く想像もしてないらしい。酔っ払いめ。
…こんな子供に何かされるか、想像もしないんだろう。
「じゃあ、いいですよね?」
「へ?」
お姉さんの素っ頓狂な疑問の声は、俺の唇で塞いだ。
実地は初めてだ。でも、それなりに蓄えた知識だけはある。だから、自分の持てる知識を総動員して、お姉さんをキスで呆けさせようとたくらんだ。
酔ってぼんやりしている上にキスで呆けさせたら、きっとお姉さんは抵抗しないんじゃないか、と思ってのことだ。
…俺はお姉さんに怒っている。だから、これは罰だ。
最後までするつもりはない。だけど、俺を…そう言う相手として見ればいい。
****
「あわわわわ」
遠くでそう声が聞こえた気がして、俺は瞼を開けた。
覗き込んでいたお姉さんとばっちり目が合う。
俺は昨日のお姉さんの痴態を思い出して顔が赤くなる。…どんなうぶだよ。俺は取り繕うように笑って見せた。
「おはようございます。」
「…おはようございます。」
つられるように挨拶を返してくれたお姉さんが、ハッと我に返る。
「えーっと、ごめんね。実は私記憶がなくて。」
正直ほっとして目を伏せた。この動作がショックを受けたように見えることは知っている。
「そんな…。お姉さんが僕の(顔の)こと好きだって言うから…。」
嘘は言ってない。俺の言葉に、お姉さんが明らかにショックを受けた顔をした。多分、今自分が持ち帰られたんじゃなくて自分が俺を持ち帰ったと勘違いしただろう。
「…でも、同意だよね? こんなにキスマークついてるわけだし。」
お姉さんの胸元を見れば、俺がつけまくったキスマークがこれでもかとついている。
…つい我を忘れてキスマークをつけまくったのが仇になった。…いや、色っぽいお姉さんが悪い。ついでに合コンで飲んできたって言ったお姉さんが悪い。
俺は体を起こすと、その視線を部屋の真ん中に鎮座するローテーブルに向けた。そのローテーブルには、チューハイもどきの缶が転がっていて、見た目は正にチューハイにしか見えなかった。
「お姉さんが僕にお酒を飲めって言うんで…僕も酔っていたんで…。それでついそんなにつけちゃったんだと思います。ごめんなさい。」
完全に嘘だが、他にいい嘘を思いつかなかったし、バレたらバレたでノンアルコールのもちょっとアルコールが入ってるからそれで酔ったんだと思いますって無理くり切り抜けようと思っている。
「…あれ、そう言えば私まだ自分が未成年だって思ってたけど、この間18歳で成人になるとかいう法律が通ったんじゃなかったっけ? えーっと、もしかしてこの致しちゃったのって、青少年なんちゃら条例に引っかかったりする?!」
ブツブツと思考内容を披露するお姉さんに、その設定俺的に美味しい、と俺はその案を採用させてもらうことにした。
「たぶん…そうなるんだと思います。」
申し訳なさそうにお姉さんを見れば、お姉さんが布団に入ったままうなだれる。
「…ごめんね。…悪気はなかったんだよ。」
俺は念のため眉を下げてその謝罪をコクンと受け取るって、あ、と声をあげた。まるで今気づいたみたいに。
「お姉さんが僕と付き合えば、その条例の範囲外になるんじゃないでしょうか。お互いに同意してるわけですし。」
そもそも成人が18歳になるのはあと2年後の話で、今は適用されない。だけどきっとこのお姉さんならそんな事実にたどり着かなさそうだな、と思っていた。
「え…そんな抜け道あるの?」
「だって…普通に女子高生と付き合ってる大学生っていますよね? 今回はたまたま逆だっただけじゃないですか。」
お姉さんがホッとしたように息をついた。
「でも、それって私にとって都合のいい話になるだけで…君はいいの?」
俺はコクンと頷く。俺にとっても都合がいい。昨日のお姉さんの痴態を思い出すだけで、顔が熱い。でも、そんなこと正直に言えるわけがない。
「嫌だと思う人に初めてはあげません。」
嘘は言ってない。俺の初めてのキスはお姉さんだ。
「じゃあ、私と付き合ってくれる?」
申し訳なさそうに俺に提案してくるお姉さんに、俺は即答した。それ以外の答えはないからだ。
「はい。よろしくお願いします。」
でも、俺の答えの後、お姉さんはどうやら自問自答を始めてしまったみたいだ。俺は慌ててお姉さんに声を掛ける。
「あの、僕は田平圭司って言います。お姉さんの名前は?」
「三上環。環でいいよ。えーっと、圭司くん? …圭くんでいい?」
お姉さんの口から出てきた自分の名前にドキリとする。
「はい! 僕は環さんって呼んでいいですか?」
勢いよく返事をしてしまった自分が自分で恥ずかしくなって顔が赤らむ。
…どれだけ必死なんだよ。…お姉さん…環さんに思い知らせてやると思ってたはずなのに。
環さんは俺をスケッチしていた時と同じ目で俺をじっと見ていた。…そんな風に見られたいわけじゃない。もっと、昨日の夜みたいに、熱のこもった目で俺を見て欲しい。
「えーっと、体がベタベタだと思うので、環さんシャワー浴びてください。部屋を出て右手にトイレとお風呂がありますから。」
単なる被写体として見ないで欲しいという気分が大きくなって、俺は我に返って環さんに昨日のことを思い出させるようなことを言ってお風呂をすすめる。
「あー…ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて…。」
少し顔を赤らめた環さんに満足する。そして起き上がろうとした環さんの動きが止まる。裸なのが気になるらしいと気づく。…まあ、普通はそうなのかもしれない。
「…バスタオル取ってきますね?」
ベッドから立ち上がって洗面所に向かう。ついでに洗面所に置いてある下着とパジャマ代わりのTシャツ短パンを身に着けて部屋に戻る。
「はい。」
「ありがとう。」
渡したバスタオルを布団の中で巻き巻きすると、環さんはようやく立ち上がる。
「環さん、服は洗濯するので、僕の貸しますね?」
「えーっと、大丈夫。」
「…たぶん、ドロドロだと思うので…。」
昨日あったことを匂わせると環さんの顔が赤らむ。…そうやって僕のことを意識すればいい。
「お願いできる?」
「はい!」
少しは意識されたと思うと、自然に笑みが浮かぶ。
「あの…ついでに水をもらえると嬉しいんだけど。」
「あ、喉が渇いてるんですね。ちょっと待ってください!」
よくよく考えれば、環さんは昨日の夜お酒とノンアルコール飲料を飲んだ以外に水分を取っていないかったことに気付く。俺は慌てて冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出して環さんに渡す。
「ありがとう。」
勢いよくゴクゴクと水を飲む姿に、環さんの飾らない性格を見たような気がする。
「圭くんも飲んだほうがいいよ? 昨日、お酒飲んじゃってるんだし。」
そう言って環さんが俺に水を差しだしてくる。その瞬間、なぜか環さんが俺が知ってる女子たちとは違うんだと言うことを見せられた気がして、俺は昨日の俺の悪事がばれてしまうんじゃないかと急に恐ろしくなった。
「じゃあ、お風呂借りるね。」
環さんがお風呂に向かう後姿を見ながら、俺は絶対にばれないようにしないと、と昨日の夜思ったこととは全く違うことを思っていた。
とりあえず証拠隠滅で、ローテーブルに置かれていたノンアルコールのチューハイ缶は白い袋に入れてぎゅっと口を結んでおいた。
次に考えたのは、胃袋をつかむことだ。あり合わせではあるけれど、絶対自分の中で外れないメニューにしておいた。
お風呂から上がってきた環さんは、俺が出しておいた大き目のTシャツと短パンを着ている。そしてぞんざいに髪の毛をバスタオルで拭きつつ、ローテーブルに座ろうとする。
「環さん、髪の毛乾いてないですよ?」
俺はあわよくば、と環さんに近づく。
「え? いいよいいよ。」
断る環さんにムッとする。
「駄目です! ドライヤーかけますから、こっちに来てください!」
無理やり環さんの手を引くと、俺は洗面所に向かった。
そこで気まずい事実を思い出した。俺の身長と環さんの身長は同じくらいだった。椅子もない洗面所ではそれが目立つ。すると環さんは洗面台に手を掛けてすっとかがんでくれた。…俺が身長同じくらいだとか気にもしてないんだと思えて、何だか嬉しくなった。
「圭くんっていくつなの?」
鏡越しに環さんに見られたまま問われる。
「16です。W高校の1年です。」
そこの窓から環さんをずっと見てたんだって言ったら…気持ち悪いかもしれないから言わないでおこう。それに、先に知ってたのがばれたら、他の悪事までバレそうだ。
「…えーっと…。」
戸惑ったみたいな表情になった環さんに、やっぱり嫌だと言われたら困ると俺は言う暇を与えない。
「環さんはいくつなんですか?」
俺の悪い笑みなんて気づかないでいて欲しい。
「もうすぐ二十歳になる。A芸術大学の二年だよ。」
もうすぐ年齢差が四歳になるのか、と思ったら、別のことを思い出した。
「もうすぐっていつが誕生日なんですか?」
「来月だけど。」
環さんの答えを聞いて、やっぱりと肩を落とす。
「どうしたの?」
「僕、明日から三ヶ月間短期留学に行くんです。…だから、環さんの誕生日祝えないんです!」
これから環さんをメロメロにしてやるって思ったのに!
「…電話くらいできるんでしょ?」
その環さんの提案に、俺は条件反射のように反応してしまう。
「電話してもいいんですか?!」
ついはしゃいでしまう。…俺、いつから犬になったんだっけ。
「だって彼氏でしょ?」
環さんの口から出てきた言葉に、ああ現実なんだと嬉しくなる。
「…彼氏…だから、いいんですね。」
「毎日電話してもいいんだよ? LINEなら無料でできると思うし。」
もう一つの提案に従いたくはあったけど、俺は小さく首をふった。
「折角英語勉強に行くのに毎日日本語話してたら勉強にならないんで、誕生日だけにします。」
押してばっかりじゃなくて、引いてみるのもアリかもしれない。短時間の間で頭を働かせる。
「お互いに何も知らないわけだから、好きなものとか嫌いなものとか、三ヶ月間毎日一つずつ教えあいっこしない? それならあんまり難しくない英語だし、私でもできそうなんだけど。」
でも、新たに提案された内容に、俺は嬉しくなる。
「いいですね!」
これなら俺が押しすぎる心配もないし、毎日環さんから連絡は来る。ウキウキする自分が、この部屋に環さんを連れ込んだ時の自分と同一人物だとは…自分でも思えない。
環さんには口酸っぱくもう合コンに出ないことと、飲み会で飲みすぎないことを約束させた。うなだれる環さんはきっと守ってくれるだろう。…守らなければお仕置きするだけだけど。
別れ際環さんとしばらく会えないのかと思うと、高校生にもなって涙が滲んだ。でもそのおかげか環さんの顔が近づいてきたので、俺は迷わず目をつぶった。でも、結局おでこにキスされただけで、期待外れの結果に俺は環さんを戸惑った様子で見たけど、環さんはあっさり手を振って帰って行った。
…次会った時には、記憶があるときにきちんとしたキスを俺からすることに決めた。
その翌日から始まったプチ遠恋生活は、それなりに楽しかった。でも、会えないことに気持ちが募った。
日本の時間を考えて、スマホを鳴らす。上手くいけば、環さんがモフモフタイムに入っている時間のはずでゆっくりしゃべれるはずだ。…あの時何を考えてるのか、聞いてみたかったのもあったから。
『もしもし?』
「あ、出てくれた!」
1か月ぶりの環さんの声に、自然と声が弾む。
『久しぶり。元気そうだね。』
「はい。お久しぶりです。それから、環さん、お誕生日おめでとうございます!」
ちょっと緊張して、声が上ずったかもしれない。
『はい。ありがとうございます。』
環さんにクスリと笑われて、ちょっとムッとする。
「今、何してましたか?」
『癒されてた。』
その言葉に、もしかして、と問いかける。
その質問への答えはまさしく神社で、猫をモフモフしてる最中ということだった。
でも俺は、環さんが何を考えてあそこにいるのか知りたかったことなのに、モフモフされている猫への嫉妬の気持ちを抑えることができなくなった。
「そっか。…いいなぁ、猫。」
『圭くんも猫好きなの?』
環さんの素直な問いかけに、俺はクスリと笑ってしまう。まさか今猫に嫉妬してるとか思わないだろうな。
「違います。僕も環さんになでなでしてほしいな、と思って。」
『そっち大変?』
俺の言葉はまた別の言葉に変換されてしまったみたいで、環さんが心配したような声を出す。
「それなりに大変ですけど、そこまで大変じゃないですよ? 僕が言ってるのは、環さんとイチャイチャしたいってことです!」
『そっか。…帰ってきたら、イチャイチャしようね?』
環さんの答えに一気にテンションが上がる。
「本当ですか!?」
『…だって、私たち付き合ってるんでしょ?』
「はい!」
1か月前の俺、天才だな!
『私、圭くんのこと結構好きだよ。』
その環さんの正直すぎる言葉に、ちょっとテンションが下がる。
「結構、ですか?」
『だって、私たちまだ知り合って1か月しか経たないし…徐々にお互いを知って行ってるわけでしょ? 今ものすごく好きって言ったら…それは嘘だと思う。それとも圭くんは嘘でも“大好き”だって言われたい?』
「…いえ。本気でそれは言われたいです。」
『でしょう?』
「でも僕は…もう環さんのこと大好きなのに。嘘じゃないですし!」
黙り込んだ環さんに、信ぴょう性が薄すぎるかな、と思う。でも、本当のことだ。…久しぶりに声を聞いたら、その気持ちがあふれてきてしまうぐらいに。
「…僕の気持ち、疑ってますか?」
信じてもらいたいという気持ちが、必死な声になる。
『ううん。圭くんの気持ちは疑ってないよ。…ただ、私の気持ちがまだ…そこには追いついてないの。ごめんね。』
「謝らないでください。…環さんも僕を好きになってくれてる最中なんですよね?」
『うん。初めて会ったときより、今の方が圭くんのこと好きだよ。』
この答えに満足すべきなんだとはわかっている。でも、もしタイミングが違ったら、今頃環さんは俺にメロメロになってたかもしれないのに、と思うと、悔しくなる。
「…知り合ってまだ1か月しか経たないんですよね。…僕がそっちに居たら、もっと好きになってもらえたのかな。」
俺はもっと前から見てたし、環さんのこと好きだったけど。知り合って“顔だけ”って言われたことにムッとして見返してやりたいと思うくらいに環さんのことが好きだった。
そして、今はもっともっと、環さんのことが好きだ。
『それはわからないよね。一緒にずっといたら嫌なところも見えてくるだろうし。…圭くんも私の一部分しか見てないから好きって気持ちだけが膨らんでるのかもしれないよ?』
冷静にそう言う環さんの恋愛遍歴がどうなのか俺にはわからないけど、もっと俺に溺れて欲しい。
「そんなことないです! 僕は…僕は環さんがどんな人だって好きになる自信があります!」
『ありがとう。』
環さんの柔らかな笑みが脳裏に浮かぶ。どうして直接環さんを抱きしめられないんだろう。
「…環さんに会いたい。」
絞り出した声がかすれる。
『私も…会いたいよ。でも、圭くんは勉強のためにそっちに行ってるんでしょ? だから頑張って。』
物分かりのいい大人みたいなことを言う環さんにムッとする。
「違います。…今すぐ環さんにキスしたいだけです。」
環さんの感情を揺さぶりたかったのはあったけど、それは本当の気持ちだった。
帰国の翌日、俺は迷わず環さんと会う約束をした。
当日に会いたいのはやまやまだったけど、翌日は普通に学校だったし、更にその翌日が休日だったから、ゆっくり時間がある方がいいと思って、1日あけた。本当は毎日会いたいけど、環さんは遠慮しそうな気がしたからやめておいた。…木曜日の夜に会ったから金曜日に会わないって言われた方が切ないから。
待ち合わせ場所を最寄りの駅にしたのは、身長が伸びて前より断然大人っぽくなった俺の姿を環さんにびっくりさせたかったから。
でも、環さんを見て近づいているのに、環さんが自分に来ていると思っていないあたりに、俺との気持ちの差を感じたような気がする。…まあ、俺と会ったのは1度きりだから、気付かなくてもおかしくはないのかもしれない。だけど、気付いてほしいという願望だけは間違いなくある。
…自分のことを腹黒だと思ったことはあったけど、こんな乙女思考があるとは…認めたくはなかった。
3か月間、押すばかりじゃなくて引いてみようと始めた作戦は、俺が自分で自分の首を絞めただけだった。途中から環さんに会いたくて会いたくて会いたくて仕方なくて、何度電話をかけようと思ったことか。…それを我慢したのは、環さんの気をひくため、というただそれだけの理由だった。
…俺と同じくらい俺のことを好きになってほしかったから。
****
「環さん、好きです。」
ようやく再会できてうちに戻ってきて、我慢しきれない気持ちを環さんにぶつける。
「私も好き。」
答えてくれた環さんの顔をそっと触れる。
「最後のメール、あれ、本当ですか?」
“I LOVE YOU.”と言うメールを信じたい。けど、俺たちが直接会ったのは…環さんが俺に会うのはこれが2回目なのだ。
「本当。私も…こんなに離れててちょっとしかやり取りしてないのに、こんなに好きになるとは思わなかった。」
環さんの目にも熱が見える。…3か月前にはなかったものだ。
「…嬉しい。」
情けないことに涙目になる。それくらい嬉しい。それを見てほほ笑んでいる環さんは、大人の余裕があるのかもしれない。…俺との経験値の違いを見たような気がして、ちょっと悔しくなる。
「私も、圭くんが好きになってくれて嬉しい。」
俺が顔を近づけると、環さんがそっと目を閉じた。
最初はそっと唇に触れるだけだったけど、何度目かについばむとき、環さんの唇を舌で軽くなぞる。 環さんはその舌を受け入れてくれるように少しだけ唇を開ける。舌をおずおずと環さんの舌に触れさせた。
それをからかうように、環さんが俺の舌をざらりとなぞった。
煽られた俺は、環さんの肩をつかむ手に力を入れて、環さんの口の中を丁寧になぞる。
ん、と環さんの声と飲み切れない唾液が、環さんの口の端からこぼれていく。
唇を離すと、切なそうな目で環さんが俺を見る。…エロい。
「ごめんなさい環さん。…我慢ができません。」
環さんがこくりと頷いてくれて、ホッとする。
「相手が僕だって、きちんと覚えておいてくださいね。」
「忘れさせないで。」
男を煽ったらどうなるか、環さんは知ってるんだろうか。
「い、たっ! いたい!いたい!」
さっきまで喘いでぐったりしていた環さんが、俺の体の下で小さく暴れだす。俺が手を繋いでいるのと、押さえられている形になっているせいで大きくは暴れられないらしい。
その反応に驚きつつ、心の中に喜びがわく。
どうやら環さんの初めては俺らしい。
前回環さんに誤解させたとき、環さんが俺としたんだと信じ込んでいたから、環さんの初めてはとっくに失われているんだと、この三ヶ月ことあるごとに顔もわからぬ元カレのことを罵ってた。けど、環さんは単にその痛みがどんなものか理解してなかったのだと分かって、笑顔が漏れそうになるけど、必死で圧し殺した。
「…この痛みってずっとあるの?」
純粋な環さんに俺は困った顔をして見せた。
「あの…これは初めてです。」
目を見開いた環さんが、ハクハクと口を開けたり閉じたりする。
「…圭くんの初めてって言ったよね?」
どうやら俺の言葉を思い出したらしい環さんに、俺は種明かしをする。
「キスは初めてでした。」
また目を見開いた環さんの唇をふさいで、これから出てくるだろう悲鳴を飲み込んであげようと思う。
俺のキスで、ん、とからだが緩む環さんに、俺は間違いなく溺れている。
****
「圭くんが帰ってきたら一緒にきたかったんだー。」
あの神社の境内で俺達…正確には環さんが猫に囲まれている。
「どうしてですか?」
「だって圭くんも猫派でしょ?」
モフモフと猫を撫でながら環さんが俺を見上げる。
「…だって、環さんって犬って言うより猫って感じじゃないですか。」
「…そんな話してないし。」
「いいえ。俺は間違いなく好きなものとして猫みたいな環さんが好きですよって伝えました!」
そのメールを送ったのは、帰国するちょっと前だったような気がする。
「…あれ、どうやったって猫好きとしか読めないし!」
確かに猫が好きと書いてメールは送った。間違いはない。
「俺の恋する男子の胸のうちを読み取ってください。」
「…俺?」
あえて呼び方を戻したのは、環さんへの秘密を最小限にするためだ。
「おかしいですか?…子供みたいだって言われてたの“僕”って自分のこと呼んでたせいもあるかと思って呼び方を変えたんですけど。」
「ううん。男っぽいな、と思って。」
そう言いながらも、環さんの表情は、小さな子を見守るみたいな視線だ。
「俺が男だって思えませんか?」
俺の問いかけに、環さんが顔を赤くする。
「そんなこと…ない。…はいコーラ。」
ごまかすようにさっきコンビニで買ったコーラが環さんから渡される。
「ありがとうございます。」
「こっちがおごってもらってありがとうございます、だよ?」
「これくらいならお安いご用ですよ? デートなのにペットボトルのドリンクでいいんですか?」
環さんが選んだのは、ジャスミン茶だった。この香りが好きなんだと、離れている3か月の間にもらったメールにも書いてあった。
「こんなところぶらぶらするのが好きだから、別にどこかに行ったりとかいいんだけど。…圭くんはどこかに行ったりしたい?」
俺らのメールの中には、どこかの有名なテーマパークも名所も出てこなくて、日常のちょっとした場所や身近なものばかりがメールにしたためられていた。だから、最初にデートを考えた時、すぐに思いつかなくて困ってたら、環さんがつれて来たいところがあると俺をこの神社に連れて来た。
ちなみに環さんが嫌いなものは一つだけ送られてきて、その後は送られてくることはなかった。ちなみに唯一送られてきた嫌いなものはアリだった。…ここにもアリはいそうなんだけど。ま、環さんが怖がったらいくらでも助けられるからいいや。
「環さんが居れば、俺はどこでもいいですよ。」
俺の本音を語れば、環さんが顔を真っ赤にする。
クス、と笑うと、照れた環さんが俺を軽くたたいて顔を覆った。
「圭くんそんなに人を振り回してどうしたいの?!」
「俺にメロメロになってくれるといいなって思ってます。」
ますます悶える環さんに、俺はニヤニヤしてしまう。…こんな顔見せられないけど。
コーラの蓋を開けると、プシュッっと炭酸が軽く抜ける音がする。
コクコクとコーラを飲むと、強い刺激が喉を抜ける。きっと俺のその顔は、笑っている。
俺がどうしてもコーラが飲みたくなって夜遅くに近所のコンビニに買いに行かなければ、酔った環さんを容易に捕まえることもなかったのかと思うと、あの夜コーラが飲みたくなった自分を誉めてあげたい気持ちになる。
だからあの夜からコーラを飲むとき、俺はちょっと含み笑いをしてしまうのだ。
完