無敗の皇帝の敗戦
フィーリアとの戦いで撤退を選んだグラニアス軍は、フィーリアの王都からほど近い場所に作られた拠点へと戻ってきていた。
力を使ったにも関わらず役に立たなかった。……いや、突然消失したという事実にユリウスは動揺していた。
そんなことは表情には一切出さなかったが、幼なじみのアルウィンだけは何となくそのことに気付いてはいた。しかし、あえて何かを言うこともなかった。
ユリウスは自分の手を見下ろす。
そして力を使ってみると、確かに炎が出て力が使えた。
何故……。何が悪かったのか。
体調はいいし、特に変わったことなど一切なかった。
……いや、一つだけ気になったことはあった。
あの戦場にいた女性のことだ。
自分の放った炎を前にしても怯むことなくこちらを見据えるあの目。
ユリウスの力を目にしても恐れも怯えもなくあの炎を手で受け止めてみせた。
あれはなんだ。
考えにふけっていると、何かが髪に触れる感覚がした。
そちらに視線を向け、そこにいた存在にユリウスは眉をしかめる。
「来るな!」
突然大声を出したユリウスに、側にいたアルウィンは少し驚いたように目を開いたが、またいつものあれかと理解した。
「またですか、陛下」
「ああ、まただ」
そこにはユリウスとアルウィンしかいない。
アルウィンにはそう見えていたが、アルウィンの見ているものとユリウスが見えているものは異なった。
ユリウスにはすぐ側に人ならざる異形の者がそこに浮かんでいるのが見えた。
それはユリウスにかまってほしそうに髪に触れたりしていたが、ユリウスは鬱陶しそうに振り払う。
「あっちへ行け」
するとそれは悲しそうにした後、ふっと姿を消した。
物心ついた時から見えるそれらの人ならざる者達。
ユリウスはそれが何か分からないが、それが見えているのは自分だけだということに気が付いてからは、それらを避けるようにしていた。
それらが見える度に思うのだ、自分は普通ではないと。
幼い頃はそれが普通だと思っていた。
自分が見える光景を当然他の者も見えていると。
しかし彼らと話をする度に周囲はユリウスを奇異な目で見て気味が悪そうにする。
自分が見えているものが他とは違うと気付いたのはいつだったろうか。
周囲の者はユリウスが生まれた時から異常を察していた。
ユリウスが癇癪を起こして泣き叫ぶ度に、火の気のない所から炎が上がるということが頻発した。
それが決まってユリウスの機嫌の悪い時なので、周囲はユリウスをまるで化け物を見るような目で見ていた。
ユリウスの世話係はできるだけ機嫌よく過ごさせようとするが、幼子は泣くのが仕事のようなものだ。
その度にどこかが燃え、やけどを負う者すらいた。
そんな異常なユリウスにまともに接しようとする者は少なく、ユリウスの母でさえユリウスを気持ち悪がり、側に寄ることを嫌がった。
だからユリウスは母に抱き締められたという記憶がない。
転機が訪れたのはユリウスの初陣だった。
王子の初陣ということもあり、その内容は比較的安全な任務であり、敵もそれほど苦もなく排除できるものと思われていた。
しかし敵の奸計により予想外にもグラニアス軍は窮地に立たされた。
多くの兵が死に、敗走さえ困難かと思われたその戦の盤上をひっくり返したのが、それまで奇異と恐怖の目で見られていたユリウスのその力だった。
その戦から一転して、ユリウスは自軍を救った英雄扱い。
周囲の見る目も一変し、戦場で武勲をあげていく度にユリウスの評判は良いものへと変わっていった。
恐れは畏怖へ、奇異な眼差しは尊敬と崇拝へ。
そうしてユリウスは今の無敗の皇帝へとなっていった。
実力を示すことで皇帝となったユリウスにとって、負けというのは絶対に許されないことであった。
だというのに、この戦いは敗戦と言って差し障りない。
兵の損失は最小限に抑えたが、まさか小国のフィーリアがここまでするとは、ユリウス以下、グラニアスの誰一人として予想だにしていなかった。
***
全ての兵を拠点へと戻すと、ユリウスは一旦休息を取っていた。
しかし負けたというもやもやを消化できないまま過ごしていると、アルウィンが呼びに来た。
「陛下、会議の準備ができたみたいだよ」
「ああ、分かった」
ユリウスにとっての初めての敗戦は、ユリウスの素早い判断により被害を最小限に抑えたものの、負けたという事実に衝撃を受けている者は少なくない。
ラヴィニールのように帝国と肩を並べる大国ならまだしも、下に見ていた小国相手だったので尚更だ。
ユリウスの機嫌も最悪と言っていい。
気心の知れたアルウィンは苦笑を浮かべるだけだが、侍従などは勘気がこちらに向かないかとビクビクしている。
予想外の敗戦という自体に、将官を集めて緊急会議が行われていた。
広い天幕の中に座る一同の表情は固い。
これからどうすべきなのか話し合われ、このまま帰国するべきとする者と、あれは運がよかっただけ、再び戦いに向かうべきだとする者とで意見は真っ二つに分かれた。
ユリウスは臣下達が舌戦を繰り広げているのをただじっと聞きながら難しい顔をしていた。
正直このまま帰るという選択肢はない。
皇帝暗殺未遂の報復のためにやってきたのだ。このまま負け戦のまま帰ったのでは皇帝の沽券に関わる。
だが、再び進軍したとして勝てるのかは微妙だった。
なめてかかっていたというのは確かにあるだろうが、それを抜きにしても向こうの指揮は完璧だった。
フィーリアを甘く見ていて兵の数を減らして連れてきたのが悔やまれる。
人数が多ければ数で押すこともできたのだろうが、今の人数では再び盤上がひっくり返される可能性がある。
重要な場面で自分の力が使えなかったのが痛い。
あれはいったい何故だったのか。
そんな考えをしている間も将官達があーだこーだ話し合っているが結論は出ない。
そんな中で一人の青年が口を挟んだ。
「少しよろしいでしょうか、陛下」
「なんだ、ロイ」
声を上げたのはロイという青年。
ユリウスと同じぐらいの年齢の彼は、王の身辺を護る近衛の一人。
彼の経歴は異例ずくめで、基本的に身元の確かな貴族で構成されている近衛の中でロイは平民。
元々グラニアス軍の下級兵士であったのだが、訓練風景を見学に来たユリウスがアルウィンにも匹敵するロイの強さに惚れ、ユリウスの鶴の一声で異例中の異例で近衛兵に大抜擢された。
性格は真面目で実直。
その仕事への忠実さをユリウスも気に入っており、軍に入って日が浅いのに何かと側に置くほどだ。
フィーリアの暗殺者がユリウスを襲った時も、誰より敵を多く倒しユリウスを守ったことで、一層の信頼を勝ち取っていた。
本来ならこの会議の場で一近衛兵が発言を許されるものではなかったが、ユリウスはロイへの信頼からそれを許した。
「差し出口かと思いましたが、陛下も迷っておられるようでしたので、私の意見も参考にしていただければと思いまして」
「いい、言ってみろ」
「ありがとうございます。私の意見を申し上げますと、このまま待ってみてはいかがでしょう」
「待つだと? 待ってどうする」
ユリウスにはロイの考えが分からず眉根を寄せる。
「今回の一件はフィーリアが陛下に暗殺者を仕掛けたことから始まったこと。しかしフィーリア側はこれを認めておりません」
「そのようだな」
「そして、フィーリアはこの戦いでグラニアス軍相手にあと一歩という所まで追い詰めましたが、撤退するグラニアス軍に対して追い打ちを掛けてくることはありませんしでした。勿論陛下の迅速な英断があってのことでしたが、フィーリアはグラニアス軍に大打撃をあげることもできたのにそれをしなかった」
「フィーリアがあえて目こぼしをしたと言いたいのか?」
「それは分かりませんが、フィーリアはグラニアスとの衝突は望んでいないように思いました」
「つまり、お前はどうすべきだと言いたい?」
「話し合いの場を設けるべきだと思います。負けたまま国に帰るわけにはいかない、しかし小国に負けた事実に戦意を失ったグラニアス軍でもう一度フィーリアを攻めたとして同じ結果に……いえ、それ以上の被害を受けて負けるという可能性も捨てきれません。暗殺の件も未だ理由が分かっていないことですし、一度向こうと話し合うのも選択肢の一つではないでしょうか。もしフィーリアが陛下との戦いを避けたいと思っているにしろ、陛下を弑そうと思っているにしろ、向こうから何かしらの動きがあるでしょう。戦うかどうするかの判断はそれからでも遅くはないかと」
ロイの意見を聞き、ユリウスは考える。
たしかに暗殺に関してフィーリアが何故という疑問は残っている。
ユリウスを殺したいのなら先ほどの戦いにおいてそれが絶好の好機であったはずだが、フィーリア軍はユリウスを狙うどころかそれ以上の衝突を避けるような動きだった。
ユリウスの判断が速かったというのもあるが、明らかにフィーリア軍は戦うというより追い返すことに重きを置いていたように思える。
将官達の意見は様々だ。
帰るべきというものと、再戦すべきというもの。
さらにロイの意見に同意して会談を設けるべきというもの。
さて、どうしたものか。
考え込んでいると、天幕に兵が駆け込んできた。
「お話し中のところ失礼いたします! 現在フィーリアより使者が参っており、陛下との会談を望んでいるもようです!」
ロイの言う通りとなり、ユリウスは知らずのうち口角を上げていた。
「どうやらあちらの動きの方が早いな」
ユリウスがどうするのかと人々の視線が集まる。
「分かった、受けよう。使者にそう伝えよ」




