帝国へ向けて
川の下流で、ずぶ濡れになったリースとユリウスが川岸にたどり着いていた。
「くそっ、重い……」
げんなりとした顔のユリウスは、水をたくさん含んで重くなったマントをその場に脱ぎ捨てた。
べしゃっと、なんとも重量のある音を立てて地面に落ちたマントを見て、水のしたたる髪を掻き上げている。
「ロゼット、お前もできるだけ脱いで乾かせ。恥ずかしいなど言っている場合じゃないからな。体温が奪われる前に乾かさない……と……」
振り返ったユリウスの語尾が小さくなっていった。
ユリウスは理解が追いつかないという表情を浮かべている。
「……どうして濡れていない」
そう、振り返ったユリウスの目に飛び込んできたのは、髪も服も体もどこにも濡れた気配のないリースが立っていた。
きっちりと結んでいた髪は川の流れのせいでほどけているが、その髪は濡れるどころかさらさらと風になびいている。
今も髪から水がとめどなくしたたり、水で重くなった服に苛立っているユリウスとは真逆の状態である。
確かに同じように川に落ちたというのに。
「思ったより激流でしたねぇ」
のんびりとした声で感想を述べるリースからは、危機的状況から奇跡的に助かったという感じはまったくしない。
それは、谷からの落下も、激流に流されたことも、リースにとっては危機でもなんでもなかったからだ。
リースはびっしょりと濡れているユリウスを見てクスクスと笑う。
「ひどいありさまですね」
「それが先に言うべき言葉か? どうしてお前だけ濡れていないんだ!」
冷たい水に濡れ凍えそうなユリウスの沸点は現在かなり低い。
そんなユリウスを前にしても怯えることなく、リースはユリウスに近づくと、まるでほこりを払うように肩をポンポンと叩く。
すると、濡れた服や髪から水分が消えていった。
瞬きほどのできごとに目を大きく見開いて驚くユリウスに、リースは微笑む。
「これぐらいは軽くできるように今後は頑張りましょうね」
「……非常識すぎる」
ユリウスは加護持ちの力を改めて知り、頭痛を覚えた。
だが、リースにとっては特に難しい力の使い方ではないのだが、やはり驚くようだ。
「ご自分も加護持ちでしょうに、なにを今さら」
「ここまでとは思っていなかった。俺ができるのは火を出すぐらいだ。谷から落下した時点で死んでいる。どうやったんだ?」
普通は火を出すこと自体できないが、リースによって些末なことに思えてくるのから不思議である。
平然としているリースには当たり前のことでも、加護持ちという存在自体知らないユリウスには分からないことばかりなので、何故無事なのかは疑問なのだろう。
説明を求められて、リースは先程ユリウスが捨てたマントを拾い、これまたパタパタと振れば天日で何時間も干したように乾いていく。
そして、さっと汚れを払うとユリウスに渡しながら、自身が使った力の説明をする。
「川に落ちる直前に風でクッションを作るように力を放ったんです。それにより落下速度が落ちたので、川に激突はさけられました。その後は水に流されるまま身を任せてここまできたというわけです。その間も風を体にまとわせていたので呼吸はできていたでしょう?」
「ああ。不思議と呼吸はできていた」
ユリウスはリースの背後にある川に目を向ける。
そこはいまだ流れが速く、一度流されたら人の力ではとても泳げるものではない。
大きな岩がところどころにあり、それに川の水がぶつかって、さらに急流にしていた。
そんな川から生還したというのに、リースもユリウスも怪我一つしていない。
普通なら谷からかろうじて助かっても、岩にぶつかったり急流に巻き込まれて息継ぎができず川で溺れ死んでいる。
「すべて加護持ちの力か」
「ええ、そうです。これぐらいの力の操作ならすぐにできるようになりますよ」
「恐ろしい力だな」
これまで恐れられてきたユリウスならば分かり切ったことだろうに、今ようやくその危険さを認知したというように眉間にしわを寄せている。
「さて、では行きましょうか」
休憩する間もなくさくさくと歩いて行こうとするリースに、ユリウスはぎょっとする。
「待て! 行くってどこにだ?」
「帝国に決まっているではありませんか。そもそも姫の輿入れのために向かっている途中だったのですし、あなたは皇帝でしょう?」
なにを言ってるんだと言わんばかりにリースは不思議そうにする。
「そんなことは言われるまでもない! 今現在どこにいるかも分からない今の状況では、アルウィンの助けを待っているべきではないか? 帝国の方向も分からないまま、不用意に歩くのは危険だろう」
すると、リースは心の底から呆れた顔でユリウスを見た。
「なんだ、そのお前は馬鹿かと言いたげな顔は」
「馬鹿とは思っていませんよ。記憶力が悪いのかこいつ、と思っただけです」
「似たようなものだろう! しかもかわいい笑顔で言っていることがキツイぞ」
「あら、かわいいと思ってくださっているんですね。光栄ですわ」
ほわほわと笑えば、ユリウスは頬を染める。
「ち、違っ」
動揺しながら否定するユリウスに構わず、リースは川に背を向け、森の方向へ躊躇いなく歩いていく。
一見すると考えなしの行動のように思うだろう。
だからこそ、ユリウスは慌てた。
「ま、待て」
急いで追いかけてくるユリウスは、リースの肩にいつのまにか精霊が乗っているのに気がついた。
「とりあえず人里のあるところに案内してくれる?」
リースが精霊達に頼めば、任せろ! と意気込んで、どこからともなくわらわら精霊が集まってきて、こっちだこっちだと案内を始めた。
その様子に面食らうユリウス。
「そいつらは、精霊……だったか?」
「ええ、そうです。この子達がいる限り迷子になることはありませんので安心してください」
「そういうものなのか」
「精霊は自然が多いところに特に多くいるんです。これだけ深い森なら必然と精霊も多く存在していますし、ここを縄張りにしているなら彼らにとっては庭みたいなものでしょう」
リースの説明を聞いて複雑そうな顔をしているユリウスに気がついたリースは、近くにふよふよと浮かんでいた手足の生えた小枝のような精霊をユリウスの肩に乗せる。
ぎょっとして固まったユリウスを見る限り、まだ精霊に慣れるのには時間がかかりそうだ。
「先は遠そうですねぇ」
リースはそう思ったものの、最初の精霊への対応と比べればまだマシである。
精霊というものを知る前のユリウスならば、確実に手で振り払っていたはずなのだから。
***
精霊の後に続いて深い森の中を歩くリースは意気揚々と精霊達と話ながら歩いていた。
「あっちの赤い実はフィーリアでは見ませんね。美味しいのかしら?」
そう興味を示すと、我先に精霊が取りに行ってリースに差し出す。
「うーん、微妙……。陛下、どうぞ」
リースはにっこりと赤い木の実を差し出す。
「微妙なものを俺に食わせようとするな」
「なにを言ってるんですか。こんな森の中で食べれるものがあるだけありがたいでしょう?」
「そんなこと言われずとも分かっている……」
言い合いに疲れたようにユリウスは先程リースが微妙と評価した木の実をじっと見ている。
「マズくても我慢してくださいよ。こんな森の中でフルコースなんてどうしたって出てこないんですから」
「人を我儘みたいに言うな。木の実の種類で現在地が分からないか確認していただけだ」
「ああ、そういうことですか。それなら先程ヘルツ国を越えてサンストン国に入りましたよ」
ぱくっと口に入れたところでリースのその言葉を聞いたユリウスはごふっと盛大にむせた。
お世辞にも美味しいとは言えない味と相まって、衝撃は大きかったようだ。
慌ててリースも背中を撫でてあげる。すると――。
「…………」
ユリウスがじとっとした眼差しでなにか言いたげに無言でリースを見ている。
「なんです?」
「今どこにいるか知っていたのか?」
「さっき精霊に教えてもらったので」
「どうして言わない」
ユリウスは非難ごうごうの目をリースに向けるも、リースはにっこりと微笑むだけ。
「陛下がいつ気づくかなと思って様子を見ていました」
「……性格が悪いと言われないか?」
たっぷり時間を置いてユリウスから飛び出したのは、そんな言葉だった。
「失礼ですね。お兄様にしか言われたことはありませんよ」
「言われているじゃないか! しかも身内に!」
「お兄様の方が性格は悪いので、つまりは私は普通ということです」
リースとしてはあんな変態の評価など評価に値しないと思っているので、ノーカウントだ。
だが、リースをライアンの妹とは思っていないユリウスは違う感想を抱いたよう。
「性格の悪い人間に悪いと言われるお前の兄の顔が見てみたい」
本当はすでに会っているのだが、それを今言うわけにはいかないので、リースは聞き流した。
そして途中、森の中で野宿したりしながら歩き続けると、ようやく人里を発見した。