帝都強襲
陰暦1996年3月21日よく晴れた冬の朝であった。温暖な気候を持つシェーゲンツァート帝国でも氷点下に近い気温が国全体を覆いつくしており、都会であるトルムカンデールにはつもりこそせねど、雪がちらついて国民を凍えさせていた。
そんなトルムカンデールの中心地には、がっしりとした造りの巨大な城壁がカーブを描きながら大きな範囲を囲っていた。それはこの国の主権たる皇帝、ケレス・マゴル・ラローフチュール八世の住まう宮殿ニベシャ城であった。煌びやかではないものの、古い戦乱の時代に建てられたこの城は、かつてミダイヤ王家が君臨する都市国家ラビオンの領地に百五十年もの歳月をかけて建築されその後何度も破壊と再建、改築を繰り返して現在の皇帝の下に収まっている。九百八十年前の流行であったサンベナル様式の特徴を見事にとらえているこの城は世界でも有数の巨大城郭なのであり内部に入ることは出来ないものの一つの観光資源として利用もされていた。
皇帝家の住まい、中心にある第一宮の歴代の君主が過ごした王の寝室では、初老の男が目を覚まし体を凍てつかせる寒さに身を震わせつつも、布団を名残惜しそうに立ち上がった。
「暖房が効いておらんなあ」
彼は不満そうに体をゆすると、ベッドの枕元にある小さなテーブルの上にあったボタンを押した。するとすぐ横のスピーカーから短く男の声で返事が来ると三十秒としないうちに表の扉が叩かれた。
「よろしい」
そう声で返すと、瞬く間に五名の使用人が中に入り込んできておはようございます、皇帝陛下と述べつつそれぞれ定められた役目を果たし始める。
ラローフチュール八世は流れるような動きであっという間に装いを寝間着から午前中用の暖かな冬着へと新たにすると、部屋を後にして食事の間へと向かっていく。その隣には、先ほどのスピーカーの声と同じ声をした男が背筋をまっすぐ伸ばしたまま一歩後ろをまったく距離を変動させぬままぴったりとくっついていた。
「今朝は申し訳ございません、どうやら発電施設に何らかの故障があったようで」
今朝の不具合の理由を尋ねる前に彼は素早くそう述べると、皇帝は短く頷いてこれに応える。
「現在技師に緊急で修理をさせておりますがいましばらくの程王宮の暖房はご容赦くださいませ。代わりと言っては何ですが、食事の間では昔ながらの暖炉に火をともしております故」
暖炉か、と皇帝はまだ眠たげな眼を何度も瞬かせながら食事の間にあった古くて大きな暖炉のことを思い出した。思えばあの暖炉は物心ついてからというもの今まで一度も火を灯している様子を見たことがなかった。自分が生まれるずっとずっと前、先々代の王すら生まれる前にとっくにこの宮殿は電気工事が敷設されており殆ど全体、使用人用の寝室までしっかりと空調を利かせているのだから、無理もないことではあったが。
「まあ、それはそれで風情があってよかろうさ」
「申し訳ございません。今朝の朝食は……」
執務長の口から今朝のメニューについての詳細な説明がなされていたが、皇帝の頭には今日行われる行事といつまで続くかわからないこの戦争のことでいっぱいで朝食のメニューなど少しも耳に入ってきてなどいなかった。一体この戦争の終わりはいつなのだろうか、聞けば戦況は少しずつ悪化しているではないか。毎日港からは数百人の乗組員を乗せた船が何隻も出港し、航空機も飛んでいく。それら一隻一機がどこへ向かうのかなど彼の頭にはないが、入ってくる人間の数よりも出ていく方が多いことは知っていた。
もう既に九十六万人の死傷者を出しているこの国も、次第に死傷する勢いは増えていき戦線が徐々に近づいてきており本当の戦争を国民が知る日もそう遠くはないのではないかという懸念が渦巻いている。もしそうなれば、島国であるこの国は島の周囲をまず囲まれシーレーンは途絶えるだろう。そうすれば他国との貿易は途絶え、やがて国は干上がり国民は飢えてしまう。そうなれば、この皇帝家もすぐに後追いすること間違いなしだ。
それぞれの自由のためというどう考えても正義であるはずの自由同盟なのに、何故一国支配を目論む奴らに圧されなければならないのだろうか。どう考えてもこの理は間違っているはずだ。
王は数百年ぶりに薪をくべられた暖炉の揺らめく炎を虚ろに見つめながら、味すらよく感じずに咀嚼して食事を終え、まず第一の公務へと向かうこととなった。
今日一番に訪れたのは教育大臣と教育庁の役人たちで、皇帝と彼らはカメラの前で当たり障りのないルーティンのような議論を交わすとカメラの前でにこやかに作り笑顔で写る。
一時間に及ぶつまらない公務を終えると運よく昼までの自由な時間が訪れる。本来ならこの後離れたところにある温室まで向かい、報道陣の前でこれまたにこやかに植物学教授の講義を歩きながら受けなければならなかったのだが、不慮の事故で教授が怪我をして病院に運ばれてしまいこれによって予定がキャンセルされたためであった。これを知った皇帝はここぞとばかりに自室にこもると、枕元に置いていた読みかけの古い劇小説を読みふけった。マイナーながらもメリハリの効いた喜劇作家であるミューラン・ベルトルンの書いた『帽子屋シェルンの烈火』というこの小説は、もう既に初版からゆうに四百二十年もの歳月を経ているが、その劇らしい特徴を持った面白さは今なお色褪せずこうして皇帝の憂鬱を一時的にではあったが取り去ってくれていた。
戦争が終わった暁には、ベルトルンの劇を国営劇団であるグス・ポールタン一座に全国公演させようと彼は思い描く。勿論観劇は無料だ。めでたい終戦と戦勝のお祝いに、貧しさによる観劇の不可などあってたまるものか!
などと小説の世界に夢中になっているさなかであった。それはあまりにも唐突に生じたのであった。
大きな爆発音、吹きすさぶ爆風と粉塵。第一王宮と第二王宮の間にある中庭にて謎の大爆発が発生したのだ。爆発に数人の使用人たちが巻き込まれ死傷するが、皇帝家や貴族たちに被害がなかったのは幸いである。
あまりにも突然の出来事にショックを受けた皇帝は、本を握ったまま椅子の上で硬直していたところに執務長と親衛隊の軍装に身を包んだ兵士八名が部屋に飛び込んできた。
「陛下!!お怪我はございませんか!」
血相を変えてすっ飛んできた執務長は、よほど慌てていたのか留め具が外れて中身を廊下にぶちまけた空っぽの救急箱を手に握ったまま皇帝の具合を確かめようと興奮していたが、そんな彼を落ち着かせるように親衛隊長のヒルト大佐は軽く頬を叩いた。
「落ち着くんだ執務長、陛下の御前だ」
「あ、ああそうでしたつい……」
我に返った執務長は、深く深呼吸をして呼吸を整えると改めて皇帝に避難をするように促す。
「陛下、攻撃です。何者かが敷地内に爆弾を仕掛けたようです。詳しくは調査中です」
「な、何故爆弾を仕掛けることを許したのだ。ここは難攻不落のニベシャ城宮殿だぞ」
皇帝の言うことはもっともである。壁は高く出入りできる出入口は数か所しかなくそこは全て衛兵たちが常に監視をしており、通るものはすべからくX線検査が行われており爆弾など持ち込めないはずである。だのに現に宮殿の敷地内にて爆弾攻撃が発生したのだ。いったい誰が、何の目的で……
未だ混乱冷めやらぬ二人とは対照的に、異常な程冷静なヒルト大佐は積極的に外部との連絡を取っており、城壁の内外の動きを常に収集し続けていた。今の所不審な人物は見られていないとのことであったが、それはすぐに覆されることとなった。
彼は城の内外を繋ぐ門の一つ、ベナン門にて不審な影が接近しているとの報を受けそこと連絡を取っていた。無線機越しには銃声が絶えず鳴り響いており事態の逼迫を如実に表している。
〈ベナン門に銃を持った兵士十名以上が接近中!!うわっ!……見たことのない軍服です!!クソッ!なんて不敬〉
そこでベナン門を守る衛兵との交信は途絶えた。
「陛下、地下壕に避難を」
「わ、わかった」
皇帝と執務長は八名の親衛隊に囲まれながら、寝室を後にした。




