運命が二人を分かつまで
怒り心頭しかし一つの可能性が生まれたことに喜びを交えながらも、スライたちは病室を後にした。これでまた一人になった。病室は個室をあてがわれており、個室は実家の子供部屋よりも大きく感じた。父を失ってすぐに小さな家に引っ越した彼らは、一人立ちした姉を覗いて兄弟五人が小さな部屋に押し込められていた。軍の兵舎だってここより個人のスペースが広かったことなど今までなかった。
広々とした空間に少し一肌寂しく感じ、とある人物に会いたいと思っていた。それは彼が何よりも顔を合わせることを望んでいた世界でただ一人愛する人物であった。
「セレーン」
セレーン、それは彼のいわゆるガールフレンドである。二年前、軍学校時代に街で地元の国学院生である彼女と出会った。時折休みを合わせては街をデートしていたことを思い出す。お互いお金もなく、遠出できるような長い休みもなく、公園やら海沿いやら街中をずっとぶらついてはとりとめのない話を交わしていた。そんな彼女とも、最後に出会ったのは軍に配属される二カ月前であった。軍学校卒業時に会う約束をしていたのだが、生憎彼女は授業で研修に遠くへ行かねばならず、そのまま二人はもう一度顔を合わせることもできずに一年弱が経過してしまっていた。
「どうしてるんだろうね」
彼女の長く若い髪の、潮風に流される様が好きだった。夕日を反射する水面が、傍に立つ彼女の美しさをより一層際立たせていて、それを褒めると彼女は恥ずかしそうに肩を叩いてきた。もう一度会いたい。
物思いに耽っていたところに、ドアがノックされ看護婦が顔をのぞかせた。
「パルミニェーレ(英雄)さん、あなたに会いたいって人が来てるわよ」
看護婦はここでの彼の愛称を呼んでウインクすると、彼が頷いたのを見てその人物とやらを呼んだ。
「どうぞ」
ドアが開かれてはいってきたのは、まさにセレーン・フルその人であった。彼女を目にした瞬間、彼は完全に動きを止め、口を開けたまま息をすることすら忘れていた。どうして、こんなところに彼女が。
「リニィ(愛称)……」
彼女は笑っていつも彼女が呼ぶ自分の呼び方を言ったが、彼女の表情は涙をこらえているのが明らかだったが、今の彼にそんなことに気づく余裕はなかった。失われた言葉は今だ蘇らない。
「大怪我したって、それで新聞の三面にも乗ってて……それで、わ、私」
涙ぐむ彼女は、目元を拭うとゆっくりと彼の横たわるベッドに歩み寄る。
「せ、セレ……ン」
ようやく言葉を発したリンドは、うまく言葉を紡げずに途切れながら彼女の名を呼んだ。夢のようだった。
「どうして」
彼は何故ここに来たのかを問いたかったわけではなかった。
「こんなに怪我して、バカ……もう」
彼女は傍に座りこむと、彼の怪我をいたわりながらも優しく彼を抱きしめた。久々に嗅いだ彼女の香りは鼻腔をくすぐると同時に彼の青春を呼び起こす。しかし、どことなくその彼女の香りは以前より薄くなっていた。
「捕虜になってたって読んだの」
「あ、ああ、コリューションで連合軍の捕虜に……」
彼も動かせる左腕でその抱擁に応えると彼女の額にそっと口づけをした。彼女も彼の頬に両手を添えると額に口づけをする。シェーゲンツァートの文化では、額にキスをすることが地球で言う口同士のキスと同義である。そこに更に相手の両頬を触るとその意味合いは更に強く、深くなっていく。
「久しぶりだよね」
「そうだな……」
久々の対面で、何を話していいかわからなくなる。まるで付き合い始めたばかりの頃のように。あの頃は一言発するだけでも精一杯で。彼女はベッドのふちに腰かけると、バッグから何かを取り出したビニール袋とあぶらとり紙に包まれたそれは、彼の大好物であるバロという玉ねぎと芋だけのコロッケである。彼女はドアの方を振り向いて看護婦がいないことを確認すると、包みを剥いて彼の口元に持っていった。
「多分ダメだろうけど、こっそり。好きでしょ、バロ」
いたずらっぽく笑ってそう言った彼女に、思わず彼も笑みをこぼしてしまう。
「セレーンってばさあ……フフッ、ありがと」
病院食は味気なくて軍人の身である彼には少し物足りなく感じていたところである。彼は動かしにくい体をどうにか捻って口を近づけると、一口齧った。まだ少し暖かく、中のホクホク感がとてもうれしかった。
「この近くに前テレビでやってた有名な「バルーヤおじさんの店」があったから、思わず買ってきちゃった」
バルーヤおじさんの店、聞いたことがあるような無いようなといったところである。何分数か月国に帰ってなかったのだから、国内のことについては疎くなってしまっていた。こういうところが海外出兵の残念なところである。
「ハイ」
もう一口齧ると、今度は彼女が一口齧った。
「実は私一個食べちゃったんだけどね」
「ずるいなあ」
「ごっめーん!」
この時間が何と癒しとなることか。彼はあまりにも久しぶりすぎたこの至福のひと時に、いつの間にか涙を流しており、それを見た彼女は自分が彼の怪我を押さえてしまったのかと思い慌てて飛びのいた。
「えっ、ゴメンどっか痛かった?ど、どうしよどうしよ」
「え、あい、いや大丈夫、なんでかな、涙が出てきちゃって……わかんねえや」
セレーンは、懐からハンカチを取り出すと、彼の目元を拭う。
「とても辛かったんだよね……」
「うん……」
「痛かったんだよね」
「うん………」
「怖かったんだよね」
「うん……うん……」
そして彼女は黙って彼の頭を抱いた。彼は頭を抱かれたまま、涙を流し続けた。今まで押しとどめてきた様々な感情が堰を切ってあふれ出した。初めての降下と、撃墜された恐怖。一身に敵の弾を何千何万と集めなければいけなかった恐怖、目の前で味方が死んでいく非現実。郷愁、捕虜という心細さ、怪我の痛さ。孤独にも苛まされていたために、若い彼の心は随分とずたずたにされていた。
「リニィ、私ね、軍に入ったの」
「…………」
突然の彼女のカミングアウトにも、彼は驚かなかった。わかっていたからだ、彼女がどうしてシェーゲンツァート陸軍の制服を着ているのか、彼女の姿を見た時に。彼は頭を抱かれた状態で、話の続きを促した。
「私もね、リニィみたいに皆を守る役に立ちたいって。そう思った。私、陸軍の補給部隊に配属されることになったの。運転も覚えたんだよ、トラックの。すごいでしょ」
「ああ、凄いさ」
「来月から配属なんだ。あ、国学院は戦時特例で繰り上げ卒業になったんだよ。非常時だから。多分、またしばらく会えなくなると思う。もし、もしさ、戦争が終わって平和になったらさ、また街をぶらぶらしたり海に行こうよ」
「そうだな……ああ、そうしよう」
彼女もいつしか泣いていた。二人のうら若き男女は、静かに美しい涙を流して佇んでいた。もうすぐ二人を運命が分かつ、だからその時が来るまで出来るだけ長く愛する人とこうしていたかった、愛する人の体温を感じていたかったのである。
「リンド」
「セレーン」
二人はもう一度互いに口づけを交わす。
「じゃあ、またね」
「ああ、またな」
「大好き」
「ああ、俺も」
こうして彼の元から愛しい人は再び離れていった。彼女は彼が軍人になった以上、最悪の時は想定していた。そして今、彼は彼女が軍人になったことで最悪の事態の来る時を予測し、唇を噛んだ。
「死なないから、死ぬなよ」
彼は目を瞑ってそう呟くと、ベッドに体を預けた。自分が退院する頃、彼女は戦地に発つ。恐らくしばらく自分はリハビリが必要になるだろうが、必ず戦地に舞い戻るつもりではあった。彼女を殺そうとする敵を一人でも多く自分が殺すのだ。そのために、彼は治療とリハビリとに専念する。




