ひとひらの葉
退院間近となったある日、リンドは窓から外をひたすらに見つめていた。あの白い鳥が飛ばないだろうかと待ち続けていた。しかし待てど暮らせどあの鳥が空を飛ぶことはなかった。十日ほどしかいなかったのだが。
飛んでいるのは本当の鳥か、あるいは精々他の飛行型ALが数機、少しだけ見えたくらいでもう一度見ることは叶わなかったのであった。
「やあ、元気かい」
振り向かなくとも声の主はわかる。ここでこんなに流暢にキラロル語を話す人間はそうはいない。
「災難が続くね君も」
トルトーは空を一瞥すると、彼のベッドに腰かけ話をつづけた。
「君はあの機体のパイロットのことを知りたいかい?」
この言葉にリンドが反応したのをトルトーは見逃すはずもない。エサは十分すぎるほどに大きく協力であった。リンドは動じていないふりをして窓の外を変わらず眺めてはいたものの、下唇を噛んでいるのを隠せてはいない。
「……特別に話してやろうか。同じシェーゲンツァート人のよしみだ。え?」
「情報なんて持ってない」
そう答えると、彼は笑い出した。
「フフフ、ハハハッ、別に交渉材料とかじゃあないさ。ただの好意さ」
トルトーは少し姿勢を正すと勝手に話し始める。
「私も詳しく知っているわけじゃあない。名前も知らないさ。その人の苗字はヴァルソー、生粋の軍人らしくてね、若くしてALの名パイロットとして軍内部じゃあ一目置かれているとか」
リンドの返事はない。
「ヴァルソー中尉の操るALに出会ってまず無事で済むALはいない。中尉の操る飛行型ALは風のように舞い、通り過ぎるころにはALの残骸だけが残るそうだ」
「でもね……」
彼は続ける。
「一度だけ仕留めきれずに撃墜されかけたことがあったそうだよ。なんでも我らがシェーゲンツァートのAL一機に、だとか。中尉はそのALのパイロットに特別な感情を抱いているそうだよ。ああ、勘違いしないでくれ、愛ではないからね」
その話に実に心当たりのあるリンドは、あの日初めて飛行型ALと出会い、そしてあの白いALとであったことを思い出していた。あの時はただ必死で死なないことを考えるだけでも精一杯であった。まさか撃退できるとは思ってもみなかったのだが、今の話を聞くに自分は本当になかなかのことをやってのけていたようだと彼は少し胸の熱くなるのを感じた。
「もしそのパイロットが今も生きていたら、中尉はどうするかな」
「さあな……どっかいってくれよ、済んだなら」
彼にそう言われトルトーは立ち上がると部屋を後にした。ただ、部屋を出る直前にこう言い残して。
「殺すのかな?」
「……殺せばいいさ」
そうか、と満足そうに微笑むと彼は足音も立てずに去ってしまった。ようやく訪れた静寂にもかかわらず、彼は落ち着かない心に胸騒ぎを酷く覚えていた。あのALともしもう一度対峙したとして、生き残れるのだろうか、いや、無理だ、無理に決まっている。あの時は本当に必死だった。あれは偶然の産物に過ぎない、もう一度同じことをやろうとしてもやれるとは思えない。そも同じ手を食う相手ではないはずだ。
腹の底から湧き上がる感情に、リンドはそれを恐怖と感じ体を震わせて空から目を背けた。エンジン音を高らかに、一機のALが遠くを飛んでいた。
またもや豚箱のような小屋に押し込まれて、三週間が経った。あれから捕虜生活にも慣れたリンドは、少しずつここでの立ち回り方を覚えるようになっていた。まずとにかく言われた通りに従う。変に逆らってもいいことなどない。次にうまくさぼることである。本腰を入れて労働につきあう必要などない。頑張っても報酬などないし代わりにその成果で戦地で戦う味方が殺されるのだ。なのでうまいこと力を入れているふりをしつつ物を運んだり、車両の影を利用して姿を隠しさぼったりということを学んでいた。先達を見て。
豚小屋の仲間たちは時々メンバーが変わる。減ることもあればすぐに補充されていく。減る前に起きることと言えば、銃声がどこかで鳴った時や労働中に倒れるものが出た時、自分のように酷く負傷したり病に臥したりする場合である。ただ自分と違うのは、彼らは自分のように時間を空けて戻ってくるということがなかったことくらいだろうか。
そんなある日マズイ配給を受け取った帰りのことである。収容小屋の中の一角で、数名の男たちが集まって何やら気になる話をしていたのを、リンドは食事をしながら聞き耳を立てていた。
どうやら聞いたところによると、彼らは集団で収容所を混乱に陥れその隙に乗じて逃げ出そうというのだ。やめといたほうがいいんじゃないかとはじめは思っていたが、ふといい考えを思いつき反対にその脱出計画を心の中で応援していた。
(お前らクソどもにはぴったりだぜ、俺の脱出計画の囮にはな……)
髭面でやつれ薄汚れた彼の顔はまるで別人のように黒かった。彼はその後彼らに近くに常に潜んでは計画を盗み聞きし続けた。気取られぬように、絶対に彼らに誘われないように。絶対に知られてはいけない、特に同じ捕虜には。
それは捕虜生活四十日目に訪れた。コリューションの暑さも半ばを過ぎた頃であった。当然のようにその捕虜による集団脱出計画は夜に実行される。その日は雲が多く月明りは乏しいという実に脱走日和で、脱走を図る者たちは実にほくそ笑んでいた。月明りは戦争にはいらない。何故なら月光によって降り注いだ光が地上に潜む自分たちを照らし出し、爆撃機の格好の的になるからだ。
ごそごそと物音を立てながら八名の脱走者は小屋を後にする。全員がいなくなったのを確認したリンドはゆっくりと起き上がり部屋を見渡す。外に出た形跡はない。だがどうやって脱出したのかは知っている。彼らは長い時間をかけて小屋の下に穴を掘っていたのだ。それも彼らだけではない。隣接する小屋と繋がっており総勢二十五名で交代で穴を掘り続けたのだ。どれだけの時間がかかったのだろうか。彼らの努力に涙を禁じ得ないところだが、今はそんなことをしている場合じゃない。
リンドは不自然な床板をそっと外すと、下に通ずる穴を見つけた。穴の広さは大人の男がスッと通れるサイズで、窮屈ではない。彼は穴に半分入ると板をそっと戻す。
月明りもサーチライトもない穴ぐらは真っ暗で恐怖しかないのだが、それでも彼は手探りで進む。姿は見えないが穴の向こうの方で声と物音がこちらまで反響しており、その上いくらか追いついたのか、向こうのほうに明かりがちらついているのが見えた。どうやら彼らは明かりを持っているらしい。その明かりが途切れないくらいの間隔をつかみながら彼は進んだ。
引き返そうかと思ったことはない。必ず逃げて味方の下へ帰ることだけを考えていた。
(隊長、俺は生きてます。はいつくばって生きてますよ!)
若人の眼に久々に炎が灯った。
一時間以上は経過しただろうか、なにぶんほぼほぼ真っ暗で空間の間隔どころか時間の間隔すら曖昧になってきており、なんだか出口のない永遠の迷宮にいるような気分になってきていた。そんな時であった、声が近くなり指先が壁に触れた。出口が目の前に迫っていることをうかがわせる。そこが曲がり角であることを掴み取ったリンドは、そっと頭の上だけを覗かせ向こう側を覗き見た。そちらでは予想通り、脱出した者たちの一部が並んでおり、見てみると彼らはそこから地上へと昇っているようだ。彼はそのまま目線を逸らさずに彼らがはけるのを待った。そして最後の一人がいなくなったのを見計らって、這うように出口に向かった。斜めになった横穴からは月明りがまぶしく注ぎ込んでいた。
「俺は……」
涙をにじませて、彼は頭を出した。




