静けさと
リンドは数日ぶりのコックピットの中で、散らかったままのシートや寝床を目にし、はたして出る前もこうだっただろうかといぶかしんでしまう程には、多くの時間が経ってしまったように感じられた。機体はエンジンの火は落としてあったものの融合炉だけはきっちりと稼働状態のまま保っていたため、少しの暖気運転の後主電源は起動したが、新たに左のモニターが死に左腕も凍り付いてしまったのか苦しそうな駆動音を上げるばかりで動きは芳しくなかった。因みに、コックピットハッチは完全に凍り付いていたため戦車のOVMを借りてどうにか叩き割って中に入ったので、コックピットハッチの解放レバー周りはかなり傷ついて塗装も剥がれてしまい、そこでリンドは少し不機嫌な思いをする。既にあちらこちらが傷つき剥がれているのだが、それはそれ、これはこれ。
三十分ほど後、全機が起動に成功したところで、全部隊に向けてボルトラロールが代表して次なる作戦を告げた。
「正気ですか?」
寒さで顔が凍ったリンドは、伝えられた内容に対する驚きに反して無表情で抑揚もなくそう声を上げた。
〈ああ、本当だ〉
ボルトラロールの声はいつになく真面目で、そして重大な決断を下した男の決意というものを感じさせたが、まだ若いリンドやテルペヴィラにはそれを理解することは出来ていなかった。
頼れる隊長はこう告げた、これより戦線を離脱し基地まで後退する、と。それは紛れもなく進撃せよという命令に反するもので、軍法会議は免れず、非常に重たい刑罰が待っていることくらい、リンドにだってわかることであった。普段はフランクだが任務の時はいたって真剣に取り組み軍務規定を可能な限り忠実にこなし続けていた彼が、命令違反を宣言したのだ。
「曹長、どういうことですか?撤退の許可が出たのでありますか?」
リンドは兎に角まずジュードルに彼の言葉の真意を尋ねたが、ジュードルが返したのは
〈隊長の決断だ〉
というごく短い言葉だけで、重く冷たいその言葉のあとは、通信を切ってしまい、ただ戸惑うばかりのリンドであった。
〈あの、オーセス軍曹〉
か細い声で、テルペヴィラからの通信が入ったので音量のつまみを捻り壊れていることに気づき毒づくと、そっと耳を澄ませ聞き返した。
「なんだよ」
〈……帰れるんでありますか?〉
「…………みたいだな」
そう返した時のテルペヴィラは、ホッと安堵の溜息をつくと駆動音にかき消されんばかりの小声でやったと囁いたのを、リンドは気づかなかったが、それを聞きとがめるような厭味ったらしい男ではない。それに、嬉しいのはリンドも同じであった。未だ複雑な気持ちは収まらないが、ともかくこの雪と停滞とはおさらばできるのだと考えるだけでも凍り付いた心が幾分か溶かされる思いであったのは、間違いなかった。
それまで数日の間頑なに動こうとはしなかったAL達が半身を埋めるほどに積もった雪を溶かしながら立ち上がる。また外の部隊も動かせる車両の竈に火をくべ、ビジャヌタアにこもっていた兵士たちはぞろぞろと這い出ては久々に晴れた心地の良い寒空にこわばった体を解していた。戦車隊は車両が全滅してしまい、装甲車や輸送車、キャタピラトラックも半数が動かなくなってしまったがそれらは放棄され、傷病者は車両の上や中、またALのコックピットの中に寝かされて運ばれることとなった。当然、リンドの重ヴァルにも一人の凍傷に罹ったエルトゥールラ軍の通信士が寝かされており、言葉が通じない肌の色も違う外国人がすぐ足元にいることに緊張しつつも震える手足をおしてゆっくりと機体を歩かせ始めた。
最後に乗った時よりも雪は高くなり、それを押しのける感覚また違ってくる。ペダルから伝わってくる雪の重みが、疲れた彼の体をより一層疲弊させようとしてくるのだ。彼の体が軋むように、重ヴァルのあちらこちらも傷んでおり、錆や凍結、破損、漏出、負荷そういった負担がフレームを軋ませていた。やはり、この積雪地では重量のかなりある重ヴァルでは余計に厳しい条件となっているようだ。
動き出した部隊は、戦闘自体は大した数をこなしていないにもかかわらず、兵員の三割が死亡あるいは行方不明となり残った七割の内半数以上が凍傷をはじめとした怪我や病を患っている。そのほか、兵器もAL一機の損失や車両が半減、歩兵用の携行火器も多くが凍結して使い物にならなくなっていた、牽引砲など当の昔に捨ててしまっている。
雪という気候に大敗を喫した混成軍は、彼ら自身と上層部の雪への危機感の低さが招いた結果をその命をもってして罰を受けねばならなかった。彼らは今、ボルトラロール他士官たちの責任の下、命令違反を犯してきた道を戻り、後退していく。戦術レベルでなら一時後退と言えるかもしれないが、彼らが今やっているのは後方基地までの後退である。距離にしておよそ四百km、これまた厳しい道のりとなるだろうが、この数倍ある先へと進むとすれば数倍の距離が待っていると聞けば、それよりはよっぽどましであろうことは想像に難くない。
「せめて空調が直ってくれれば……」
リンドは恨みがましい目で送風口を見つめて落胆していた。
彼らは、数日前に自ら刻んだはずの道があった場所を伝うように、黙って敗走をつづけた。
〈……え?おわーーっ!!〉
通信機から、テルペヴィラの情けない叫び声が耳に入ったことで、リンドは凍り付いた意識から一瞬解放され、あたりを急いで見回すと、うつぶせに転倒している彼の中ヴァルが右端に映る。いつもならくすっと笑うかため息をつくかするのだが、今彼は無表情で彼が機を起こすまでを見つめていた。
〈大丈夫か?〉
彼の無事をボルトラロールが確かめ、テルペヴィラは大丈夫でありますと答えたが、すぐにまた声を上げると誰かにしきりに話しかけているようだった。
〈ああっすみません!……怪我は……〉
そう言えば、彼の機にも傷病者を載せていたのだ。ALが倒れるとそのコックピットの高さ故に地面への激突の速度と威力も人間が直接こけるよりも増す。パイロットならしっかりシートベルトを締めていればあまりダメージはない筈だが傷病者は下の寝床に寝せてあり固定はかけていないはずだ、いや、荷物固定用ベルトで一応の固定はしていたが緩めにしか止められないのでいくらか揺さぶられたはずである。
傷病者の怪我の悪化が心配されたが、どうやら体が痛むだけで済んだようで、申し訳なさそうに謝るテルペヴィラの声が何度も耳に入って来た。
出発した晩、凍った川の近くに停止した彼らはしばしの休息を経ていた。あるものは氷を割って手榴弾を使い氷の下の魚を取って火で焼くことで暖かな栄養のある食事をとっている光景も見られる。
そんな中、ボルトラロールたち士官は目を見開いてモニタの一つを全員で見つめていた。
〈それは明らかに敵前逃亡ではないか!!!〉
モニタから、老人の口角泡を飛ばすような叱咤の大声が轟く。声の主はこの地方に派遣されたシェーゲンツァート陸軍司令官ガルダム・レブラトーン大佐である。恰幅の良い彼の体から放たれる大声は、実に迫力があり大きく響いた。
「それは理解しております」
そう答えたのはやはり目を見開いたままのボルトラロールであった。無精髭の伸び放題の彼は髭や眉に霜をつけたままそう抑揚のない声を発する。
〈ふざけているのか!?大体……君のような真面目な士官がそのような判断を下したということ自体が信じられんというのに!君はわかっているのだろうな、この侵攻作戦が同盟軍にとってどれだけ好機であるのかを!!〉
確かに、大佐の言うことはもっともだ。局所的な勝利を収めているものの、全体で見れば同盟軍はどんどん戦線を縮小させられているのは、下の兵士たちでも知っていることだ。この侵攻作戦が成功すれば、大陸の真ん中を通るヴィシューカパパを貫いて大陸を両断し、南下している連合軍を切り離すことが出来る。もしこの機会を逃せば、まずこの大陸の制圧は不可能となるだろう。
「ですが」
彼は一呼吸おいて言葉をつづけた。
「これは敵にとっても最大の防御の好機でもあります」




