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偽りの記憶と森の主

 方針を決めた日から一夜明け、僕はというと革袋に煮詰めたある物を流し込む作業をしていた。


 「――ぅっ、慣れてはきたけどやっぱりすごい匂いだ…」


 辺りに漂う異臭が鼻腔を刺激し、それだけで頬に若干の熱を感じた。噎せかえる程の猛烈な刺激臭。


 俺を食べたら絶対タダでは済まないぞ!とでも言っている様なオーラ漂う煮詰めた物を、慎重に全て流し込むと紐できつく縛った。


 「これで完成っと…。革袋は袋としては使えなくなったけど、代わりに命綱はできたかな」


 僕が朝早くから製作に励み、作っていた物の正体は―――動物よけの匂い袋だった。


 事の始まりは昨日の狼の解体前―――。

 

 薪集めと共に食べられそうな木の実か何かないかと探していた時だ。


 あいからわず周りには黒鉄の木々ばかりの中、その一つにまるでアサガオの蔓の様に巻き付き、黄色を基調とし少し赤みがかった小さなニンジンを思わせる果実を実らせていたのだ。


 僕はとりあえず、毒の有無、それ以前に食べられるのかもわからなかったので、パッチテストをしてみた。


 パッチテストとは、例えば食べられるかわからない野草があったとして、それが食べられるかどうか判断するためのものだ。


 野草をすり潰した液を肘の内側といった皮膚の薄い部分に塗り、次に唇に、そして舌といった具合に段階的に少し時間をおいて試す。


 全て問題なければ最後に少量摂食する。


 体に痒み、赤みなどの反応が出なければ、それは食べても異常はないという事になるのだ。


 キノコ類や、植物の中には毒が間を置いてから現われる遅延反応作用があるものも存在する為、パッチテストも絶対というわけでない。


 それでも、やらないよりは限り無く生存率は上がるのも確かでもある。


 そんなパッチテストを小さいニンジンみたいな果実に試した結果は、舌までいったところでわかった。


 食べられるかどうかで言えば、食べられるだろう。


 ――ただ……辛いっ!――辛いなんて生易しいものではない。辛いを通り越して痛い!この果実は、とてつもない辛味のある唐辛子に似たものなのだろう。


 辛さは一般の唐辛子の比ではなかったが……。


 僕は辛いものが苦手というわけでもない。


 だとしても、毒がなくとも食べるごとに辛味どころか痛みを伴う食べ物を好き好んで食べたいとも思わない。


 けれど、現状食べられる果実類はこれだけ……悩んだ末、ポーチに入るだけ詰め込んで持って帰っていた。


 今回はたまたま肉が手に入れられていたから良かったが、最悪の時はこの果実を食べるしかなくなるかもしれないからだ。


 そうして、手に入れていた果実は食用とは違う用途に使った。


 僕は果実を夜通しで煮詰めたのだ。


 理由としては、あんな狼が出るのであれば夜は更に危険であるし、普通の動物であれば火を怖がる習性もあるので焚き火をすればある程度安全といえる。


 普通の動物ならば…。


 だがここでは常識には囚われない方がいいだろう。あんな巨大狼がいるのだから、何が出てきても不思議はない。


 果実は採取したうちの半分を煮詰めた。


 あれほどの辛さがあるのであれば、煮詰めればその刺激臭が動物よけになるのではないかと考えた。


 ほどなくして、異臭が広がり鼻がむずむずしてくしゃみの連発。


 涙目になった僕の目は赤く充血して、動物より先に僕自身が死ぬかと思う程の被害を被った…。


 この時ばかりは嗅覚が鋭くなってしまった事を恨んだが、背に腹は代えられいので仕方なく諦めた。


 そもそも嗅覚が鋭くなった理由もわからいし…。


 果実の匂いもあってかなのか、その夜は朝まで襲われずに事なきを得た。


 効果があったのかは謎だが、あったという事にしておく。…でないと僕が耐え忍んだ意味が無い。


 日が昇るまで煮詰めた果実はまるでジャムの様になっていて、革袋に移し紐でしっかり縛ったにも関わらず、刺激臭はやはり漂っていた。


 まぁ、夜通しあの匂いを受け続けたので、僕自身にも匂いが移っているだろう。


 嗅覚の鋭い獣にはこれでそうそう出くわすことはないはずだ。


 「準備はできたし、探索を始めるか。村とか人里を見つけられればいいけど…」


 彼がそう嘆く中、未知の森の二日目が始まった。




 川沿いを下る様に、サバイバルナイフもとい折れた剣でうんざりするほど生い茂った草をかき分け進む。


 もしも村があるとしたら、川に近い水が確保しやすい場所にあるはずだ。


 だったらこのまま下って行けば…そんな考えの行動であった。


 今のところは、肉食動物との遭遇もない。


 朝食には、昨日のうちに残りの余った狼の肉を全て干し肉にしていたので、その干し肉に水とほんの少しあの煮詰めた果実を加えて煮たものを食べた。


 不味くはなく、少し冷えた体を温めるのにはちょうど良い辛さで、あのジャムはちょっとした香辛料になっていた。


 空腹という名のスパイスが効いたのもあり、そんな単純なものでも十分美味しく感じた。


 けれど、原因不明の大食漢に成り果てた僕には正直物足りなかった…。


 食糧を今すぐ平らげてしまうわけにもいかないので仕方はないけど。


 現状持っている物と言えば、昨日余った狼の干し肉。


 お椀上の金属物。ジャムに使用しなかった残りの果実。


 何かわからない赤い野球のボールぐらいの球。


 全てを風呂敷の様にして覆う狼の毛皮。


 この狼の毛皮は川で満遍なく洗ったものを、乾かし燻した後、こびり付いて残っていた肉や脂をこそぎ落としたものだ。


 本当なら設備と道具があれば、きちんとしたなめしが出来たのだけど…これで妥協する他ない。

 おかげで風呂敷の代わりに使えるぐらいにはなったし。


 あとは、起きた時から着ている衣服に靴、草をかき分けるのに使っている折れた黒鉄色の剣。腰に括りつけている刺激臭漂う果実ジャム入りポーチ。


 これが僕が今持っている全てだった。


 自分が自然の中ではちっぽけな存在であり、他の生物の命を頂いて生かされているのだという事を改めて実感させてくれる――大自然。


 そんな世界に心動かされたからこそ、僕はサバイバルが好きになった。


 しかし、だからといってこんな危険極まりない森からは一刻も早く脱出したい…。


 ここで永住なんてしたくないし、あるかもわからない村を探して川を下ってるわけだけど、本当に村なんてあるのかも皆目見当もつかない…。


 もしも、村どころかこの森近辺には誰も住んでなんかいなかったら…。


 ………考えただけでぞっとする。


 せめて…この辺りの地理だけでもわかればなぁ…。


 そんな事を考えて、進んでいた時だった。



 【偽り代わる者の能力により、セットが可能になった者の記憶の中に周辺の地理情報がありました。


 記憶にアクセスしますか?―――――YES or NO…?】



 ――――えっ!?


 不意に当たり前のように尋ねられた僕は驚きの声を上げ、辺りを見渡した。しかし、誰もいない…。


 それどころか、声はまるで頭の中に直接流れてきたかのようだ。


 地理情報に…アクセス?それに偽り変わる…者?――いや、それ以前に。


 「…誰かいるんですか?」


 声の主に語りかけてみるが、一定の感覚で再度【アクセスしますか?】と、返答を待つ声が何度も頭にこだまするように返ってくるだけだった。


 気が狂ってしまったわけではない。


 孤独に耐え切れなくなって聞こえてきた幻聴ってわけでもない…はずだ。


 まして孤独には慣れてるほうだし…自慢にもならないけど。


 …それなのに頭の中で声がする……そうとしか他に例えようもない。


 ……まぁけど、返事を待ってるって事でいいのかなぁ?…。


 とりあえず僕はYESと答えた。


 声の内容に地理情報とかいう気になる言葉が挙げられていたので、もしかしたらこれで道がわかるかもしれないからだ。


 僕が返答してすぐ、【了解しました】という返事と同時――刹那、頭が真っ白になった感覚に襲われる。


 次の瞬間、僕が見たことも体験したこともないはずの記憶が次々と浮かび上がった。


 黒鉄の木々生い茂る森を颯爽と駆け。


 満天の星空に照らされ、高い崖にある大岩の上深い眠りに落ち。


 雨がしんしんと降る中、洞窟での雨宿り。


 「これは…この森での…記憶…?けど、僕のじゃない…いったい誰の?」


 両手で頭を抱え悩む僕は、必死にその記憶の中から手がかりを探す。

 

 ――様々な記憶がその持ち主の視点で流れ込む。


 そして、とうとうある一つの記憶が持ち主を教えてくれた…。


 おそらくこの辺りのどこか、2メートルはありそうなゴツゴツとした大岩がちらほらみえ、砂利や小石の絨毯で覆われた川沿い。


 水を飲もうと覗き込んだ透き通った水が、光に照らされ鏡となり、その勇ましい黒い体毛の狼の姿を映し出していた。


 記憶の主は―――巨大な黒狼であった。


 ――今のはあの狼だ!左目に傷もあるし、間違いない。


 この記憶はあの狼のものだったのか…。道理で人の記憶にしては信じられない速さで森を駆けたり、野宿ばかりしていたわけだ。


 それにしても、なんであの狼の記憶が観えるのかな。偽り代わる者…とか言ってたな確か…。


 多分、いや…間違いなくそれに関係しているはずだ。それの能力によりとか言ってたし、もしかしたら体の異変もこれが原因なのかも…。


 まぁ、これも考えるだけ無駄かなぁ。保留としておこう…。


 とりあえず僕は狼の記憶から周辺の地理情報以外にも、わかる範囲内で情報を整理してみたところ。


 周辺の地形から現在地、はたまたここがどういった所なのかまでわかった…わかってしまったのだ。


 それらの情報は鮮明で、まるで自分が追体験してきたかの様にリアリティがあった。


 それによれば、どうやらここは………島だった。


 面積で言えば、およそ3万k㎡といったところ。例えるなら、九州より少し小さいぐらいの大きさ。


 欠けた三日月の様な形をしていて、三日月の中央が緩やかな山になっており、標高的には富士山を超えるか超えないかだろう。


 ところどころ黒く塗りつぶされてわからなくなってはいるものの、そんな大まかな形なんかが読み取れる地図が、今現在…僕の頭の中にはしっかりと観えていた。


 観えるというより、思い浮かぶと言えばいいのか…まぁそんな感じとしかいえない。


 この地図が狼の記憶から作られたものであれば、塗りつぶされてる部分は狼が行ったことがない場所ってところなんだろう。


 …とはいえほとんど地図は表示されているけれど…。


 そんな次々と起きる非現実的な出来事に僕は、驚きや不安を通り越して以外にもそういうものなんだろうで納得する事にした。


 慣れというのは恐ろしい…現実逃避とも言えるけど。


 正直なところ、これ以上驚き続けていたら身が持たないというのが本音だ…。


 理由はどうあれ狼のおかげでここが島で、今僕がどの辺りに位置しているかを理解した。


 地図を信じるなら僕がいるのは島の中央にある山の麓付近。


 僕の横を流れている川は海まで続いており、このまま進めば海にでるのは間違いないが…問題も増えた…。


 まず…海に出るまで歩いてだといったい何日かかるかわからない。


 そのうえ…僕が探し、求めているのは人が暮らす集落。…つまりは身の安全、安心、そして情報…。


 海に出たとして、集落がなければそれらのいずれも得られない…。


 現時点では狼の記憶からはそれらしき集落は見つからない。


 まぁ、狼の記憶で村を発見できてしまっていたら、そもそも村は壊滅しているだろうし、どこかに隠れ里みたいなものはあるかもしれない。


 なんにしても僕は実質的、つまづいていた。


 しかたない、まずは海を目指すか…どうせこの記憶がなくても行き先は変わらなかったわけだし。


 地図を見たところ海周辺の方は黒塗りばかりで、あんまり狼も足を運んだ事もないのだろう。


 もし、ここが無人島ならお手上げかもしれない…。


 こんな危険な猛獣のいる島で死ぬまで一人でサバイバル…いくらなんでも無理だ…。


 そんな風に悲観的になりつつも一応行き先を定め、歩を進めようとした時だ。


 ――何かが、物凄い速さで僕目掛けて向かってくる。


 一切の音は聞こえない。もちろん目視で確認なんてできない、まだそれ程近い距離にはいない。


 それなのに、何かが寸分違わず僕目掛けて向かってくるのがわかる…間違いなく。


 …なぜなら、そいつの存在に気づけたのは聴覚や嗅覚といった五感によるものではないからだ。


 不意に頭の中で僕を中心としたソナーの様なものが浮かび上がり、赤い点の様な物が凄い速さで迫ってきていた。


 なんだこれ?近づいて来てる?…距離はまだ遠い…けど。


 …状況的に、今までのここでの経験的に――まずいっ。


 僕は考えるよりもまず走り出していた。


 立ち止まったまま、考えていたって見つかるだけだ。


 なにが迫って来てるのかはわからない――だけど、こいつに見つかったら今度こそ――死ぬ…。

 そんな言い知れぬ恐怖感が僕を支配していた。


 「――はぁっはぁっ」


 走っても、走っても、僕を見失いもせず追跡者はどんどんと距離を縮めていき、ついにソナーの赤い点が僕と重なった。


 ―――追いつかれた!?けど、どこにもいない――いったいどこに!?それともこのソナーみたいなのは、ソナーとは全く別なもので僕のただの勘違い…。


 いや――違う!


 ソナーが脳内に表示されて、そちらにばかり気を向けて五感の情報を意識していなかったのが仇となり、気づくのが遅れた。


 「――上!?」


 僕が空に顔を向けると同時、姿を表したそれは僕の目の前に着地した。


 四枚の大きなトンボに似た羽を持ち、上半身はカマキリの様だが鎌状の前脚は4本もあり、下半身は目や口を失った蜘蛛そのものと言っても過言ではない。


 カマキリの脚と蜘蛛の足を合わせれば12本もある…。 


 なによりも驚くのはそのサイズ…僕を見下ろす全身深藍色の異形は、3メートルははるかに超えていた。


 鎌だけでも成人の大人と変わらないぐらいに大きい…。


 僕は驚きと恐怖、そして異形の放つ気迫に自然と後ずさり、途中足がふらつき背中から転倒してしまう。


 「ぁっ!」


 転倒に驚き瞼を閉じ、再度目を開ける刹那――。


 前触れもなく僕の後方に広がる黒鉄の木々が、物凄い音と共に次々と倒れていた…。


 ……なに、これ…なんだこれ!なんなんだよ、これはっ!音なんて全くしなかった!もちろん、鎌を動かした動作なんてなかった…はずだ。


 ふざけてる…こんなっこんな漫画の世界の様なこと………けど。


 …もし…もしもこいつが…音も出すことなく、僕の目で追うこともできない速さであの木々を切り倒したのだとしたら―――無理だ。


 「うっうわぁぁぁぁああああああああ!!」


 ――走った。――逃げた。無我夢中に全速力で。狼の毛皮に包まれる荷物もかなぐり捨てて。

 振り返りもせずにとにかく、なりふり構わず走った。


 ――勝てる勝てないとかじゃない。戦おうという気すら起きない。


 歯向かえば必ず…殺される。葉虫のようにいとも容易く…。


 ――怖い。怖い。怖い。…ただひたすらに純粋な恐怖だけが僕を支配していた。


 狼の時は生きることに必死で、ただただ抵抗する事で頭がいっぱいだった。


 相手も瀕死であったし…なにより僕の想像より上回る力は確かに持ってた…けど、言ってみればただそれだけだ。


 だけど、こいつは…こんな化け物は想定外にも程がある!勝てるわけないっ…勝てるわけないだろ…こんなのッ。


 そんな僕の心の叫びなどわかるわけもなく、異形は逃走者を逃がさない。


 「なっ!」


 足に違和感を感じ、確認するとベッタリと粘着性の極細の糸が僕を捕らえていた。


 振り向くと、異形は先ほどいた位置から全く動かずに蜘蛛の腹の先から糸を出していたのだ。


 瞬間、次に僕の脳裏に浮かんだのは―――カマキリは生きたまま獲物を捕食する昆虫だったということだった…。


 「――はなせっ!はなせよっ――くそっ!!―――切れろ!切れろ!切れろ!切れろよォォォォォォオオ!」


 必死で糸をどうにか取り除こうとするも、腕で引きちぎろうが、剣で切ろうが糸はしなやかな柔らかさとは裏腹に、力を入れるとまるで鋼の様な硬さでびくともしなかった。


 僕の抵抗など、どこ吹く風といったふうに異形は蜘蛛の前脚で糸を操り、僕を玩具の様に数回地面や木へと叩きつけた。


 「――ごほぉっ!…かはっ!……ぁ……っ…」


 しばらくして僕は内蔵が体の中でかき混ぜられたかの様な痛みで動けなくなった。


 そんな僕を異形は、カマキリの4本の前脚で切り落とさず、逃がさない絶妙な力加減でホールドする。


 そして、逃げられないよう捕縛したと思うと、カマキリにはないはずの8つの目がきらめかせ、ゆっくりと食事を始めようと口を開く。


 逃げようとしても鎌にある小さな無数のトゲが体中を突き刺していて、逃れられない。


 その上、トゲに毒でもあるのか徐々に体にも力が入らなくなっていく。


 「……や…め…」


 そして、抵抗と呼べる抵抗もできない僕は、異形に食らいつかれる―――。


 「ヴゥォォォォオオオオオオオ!!」


 ――咆哮。


 異形よりも一回りも大きく、全身は灰色の剛毛に覆われ、太く短い尻尾がある。


 眉間には鋭く細長い2本の汚れのない真っ白な角。


 僕が知りうる動物の中にこんな奴はいない…。


 …が、強いて言うなら…灰色で角と尻尾を持ち、体高は4メートルもあるかと思わせるサイズの………熊だった。


 その灰色熊が、異形の背後にいつの間にか忍び寄り、怒号の声を轟かせていたのだ。


 異形の反応は早かった。


 乱入者が現れるやいなや、僕を喰らうのを止め、捕らえた糸を切り投げ捨てた。


乱雑に投げ飛ばされた僕は、背中を強打して黒鉄の木に背中を預ける形となる。


 同時に、異形はその巨体からは信じられない程の速度で距離をとり熊に向き合い態勢を整える。

 が…遅かった。


 異形が体制を整えた直後、異形の鎌の一つを根元から吹き飛ばされた。


 爪を立て、腕を振り上げる。たったそれだけだ。たったそれだけで…いとも簡単に異形の鎌をあの灰色熊は引きちぎったのだ。


 「ギッッ!!ギギィ」


 異形は悲鳴に似た声を上げるが、灰色熊の蹂躙は終わらない。


 続けざまにカマキリの胴に齧り付いたと思うと、そのままその巨体を背負投の様に投げ飛ばしたのだ。


 黒鉄の木々を幾本もなぎ倒し、ようやくその勢いを殺す。


 異形は既に体を起こすこともできないでいた。


 刹那、いつの間にか異形の目の前に移動していた灰色熊は…無慈悲にもその爪と牙で切り裂き、噛み砕く。


 圧倒的だった。


 異形は何一つさせてもらえずに、蹂躙されソナーの反応は消えた。


 「嘘…だ、ろ…」


 あの熊が現れてから、まだ一分だって経ってないのに…動きも全く見えなかった…。


 …まるで瞬間移動でもしたかのように…あの巨体で…。


 それにこの熊にはソナーが反応さえしていない。規格外もいいところだ…。


 そんな思考は、次の瞬間には中断された。


 あの灰色熊がいつの間にか僕に視線を向けていたのだ。


 「ぁ……」


 時が止まったかの様に思えた。蛇に睨まれた蛙の気持ちが今ならよくわかる。


 口腔から覗かせる牙から深い緑色の血を垂れ流し、僕を睨みつけのそりのそりと徐々に距離を詰める。


 …に、逃げなきゃ…無理でもなんでも、這ってでもッ逃げないと――なのにっ!なんで、どうしぃて僕の体は指一本すら動かないんだよっ………。


 恐怖で支配された僕の体は、自分の体だとは思えない程に言うことを聞かない。


 恐怖以前に、異形に痛めつけられたダメージと、毒が効いているのもあるのかもしれない…。


 …とはいえ、万全の状態であったとしてもあの熊からは逃れる確率は、限り無くゼロに近いのは明白だ。


 異形に簡単に捕まった僕が、異形を瞬殺した相手から逃れられる道理などないのだから。


 「は……ははッ……結局…こんな終わり方なんだ…僕は」


 何がしたかったんだろうな、僕は…。


 本当にしたかった事、やりたかった事、叶えたかった事、何一つ満足にできないまま…。


 …いや、やりたい事はできたか…サバイバルを通して色々とやりたい事や趣味、行きたい所なんかは増えていったし。


 叶えたかった夢も……そうだ。


 僕は昔読んだ本の世界の出来事を、今度はいつか自分の目と足で、世界を旅して回ろうと本気で考えてたんだっけ…。


 こんなことまで、忘れてたのか僕は…。


 ………何を諦めてるんだ僕は…体が動かない?全身が痛い?逃げられない?だからどうした…。

 だから、諦めて死ぬのか?なら、あの狼は?全身ズタボロの傷だらけで、それでも立ち向かってきた。


 自分が死ぬなんてリスクは当たり前の様に……記憶を見た今だからこそわかる。


 あいつは高潔だったとか、プライドが高かったわけでもない。


 ただ――諦めが悪くて、何事にも全力だっただけなんだ。


 全力で足掻いて、生き残ろうとしていたんだ。


 そんな狼にとどめを刺した僕が、最後の最後で足掻きもせずに怯えて喰われたら、それこそあの狼に申し訳が立たない。


 ――だからせめて、最後まで足掻きもがく。


 あの狼と出会った時に、とっくに覚悟は決まったと思ったけど…やっぱり怖いものは怖いな…特に死ぬのは。


 そして僕は、熊の方へ視線を上げた。


 「――ねぇ…神様が本当にいたとして、僕をここへ連れて来たのなら…僕はいったい何のためにここへ来たのかな?」


 迫り来る灰色の悪魔へと語りかけるも、答えが返ってくるわけもない。


 「――もし、もしも…その理由が君に喰われるために…なんて、ふざけたものだったなら僕は……神に一言文句を言ってやるまでは、まだ諦められないなぁっ!」


 僕は恐怖を打ち消す為に、自分を鼓舞する様に声を張り上げる。


 そのおかげもあってか、ほんのわずか恐怖も和らぎ右半身だけはどうにか動きそうだった。


 逃げるのは無理なら…退散してもらうしかない。


 今僕がアイツを相手にできる有効そうな手はこれ以外には浮かびそうもない。


 そんな考えを巡らす中も、灰色熊との距離は近づき、とうとう目と鼻の先程になる。


 「――あげるよ…僕の取って置きだ、ご賞味あれ」


 僕はそう告げ、腰のポーチを熊目掛け投げ捨てた。


 それを見た熊は軌道を読み、それを難なく手で弾く…はずが、余りに鋭く研ぎ澄まされた爪と煮詰めた果実でパンパンに膨らんだポーチが接触し、その中身が辺りに飛び散った。


 「ヴォォッ!?ゥゥォォオオオオオーーー!!」


 辺り一面に刺激臭が広がり、匂いの原因を顔から被る様に浴びた熊は冷静さを失い、半狂乱になって暴れ狂う。


 ぅッ…これは…昨日よりもさらにキツイ…。けど、だからこそこれは効く…。


 熊という種は視力が弱い種が多く、逆に嗅覚はとても鋭い生物だ。


 嗅覚に関して言えば犬の7倍もの嗅覚を持つと言われている。


 しかしそれは、この目の前の熊の様な生物ではなく、僕の知る熊の生態でほかならない。


 正直、僕自身に染み込んだ匂いだけでも、十分効果はあったはずなのに奴が平気そうだったのは、それ以上に全身傷だらけで血の匂いの方が、優っていたからなのかもしれない。


 たとえなんであれ、あんな刺激臭がする物はクマでなくても嗅覚に頼る動物なら、差はあれど効き目はあるはずだ。


 それも顔面に受けたとなれば尚更。実際想像以上にのたうち回る様を見れば効き目は確かにある。


 「けど、逃げ去るんじゃなく、暴れ狂うのか…」


 その時、さっきまで木々をなぎ倒し、荒らしていた灰色の悪魔はピタリと動きを止め、僕が居る場所へ探り気味に走り出したのだ。


 なんでいきなりっ……もしかして…声、か。


 あいつが暴れてたのは、狂ったわけでもなく暴れて僕が音を発してくれるの待ってたのか――眼も鼻も聞かなければ耳って…ここの動物はどれだけ優れた五感を持ってるんだ…。


 もう打開策なんてない…もう這ってでも逃げるしかない!


 僕はほんの少しだけ動く体を、無理矢理倒して俯せ、芋虫の様に這う。


 なるべく音を立てないよう、熊が暴れた時に倒れた木へと身を隠す。


 しかし、身を隠す為に出た微かな音を捉え、熊は僕の居場所をいとも容易く探り当て、狙いを定め駆け出した。


 余りの速さに呆気にとられ、なすすべもなく襲われるシーンが僕の頭の中に浮かぶ。


 次の瞬間、僕を襲ったのは熊の鋭利な爪でも、凶悪な牙でもなく――。


 ――閃光。遅れて爆風と轟音。


 それは目がくらむ程で、熊の足元から放たれた。


 放たれた光の正体は、天まで届くのではと思うほどの、何重にも知らない言葉の羅列された陣に囲まれた火柱だった。


 爆炎と共におきた燃え盛る火柱は、周囲を爆風で吹き飛ばす。


 もれなく僕もその爆風に巻き込まれ、意識を手放した。


 気を失う間際、僕の眼に映ったのは…。


 とてつもない熱量の紅蓮の炎に焼かれながらも、怒号を轟かせ立ち尽くす化け物の姿だった――。


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