休息と過去
狼が倒れてから数刻して、ようやく青年は目を覚ました。
「…うっ…ん…。――いっ!」
まず襲ってきたのは全身に駆け巡る激痛。それとひどい頭痛だった。
「――いたっ!…あ、れ?…僕、生きて…る…?なんでだ?…僕は、狼に喰われたんじゃぁ―――うわっぁぁぁっ!?」
そんな僕を、出迎えてくれたのは痛々しい姿となって、大口を開け放ち動かなくなった狼だった。
僕は驚きのあまり、痛みを忘れて後ろに飛び引いた。
「…し、死んで…る?」
あの時はもう駄目だと思ったけど…。
見たところ…僕を殺すあと一歩のところで力尽きたといったところのようだ。
やはり、とうの昔に限界を迎えていたのだろう。
むしろ、あの状態であそこまで動けたことこそ奇跡な程だ。
狼や人間と言う前に、生物として…格が違いすぎた。手負いでなければ…瞬殺もいいところだったのは間違いない。
「…生き残れたことに感謝しつつ、行動に移るか…」
僕は痛みを堪えて立ち上がった。
「幸い、痛いことは痛いけど…我慢できなくはないし」
思わぬ形であれ、当初の目的だった食糧も手に入れることができた。
それに日も傾きつつあるし、このままこうして何もせず休んでいる暇なんてない。
あんな狼がいるのだから、他にもどんな凶暴な生物が潜んでいたとしても不思議はないのだから。
…そういえば日がまだあるって事は、僕が気絶してからそんなに経ってないのかな?周りの大樹が邪魔で空が見えないけど、薄暗いだけで済んでいるって事は…まだ、そのぐらいの時間帯なのだろう。
それなら尚更、夜が来る前に早く済ませてしまわないと…。
…狼ってどんな味なんだろう…?
そんなことを考えながら、狼の体に草花で覆い隠してから、細心の注意を払いつつ、まず水場を探すことにした。
結果からいうと、水場はすぐに見つかった。
なぜかというと、探索をはじめてすぐ、僕は自分の身体の異変に気づく事になったからだ。
なんだろ…?全身の痛みは消えてないのに…狼に会う前より身体がすごく軽い…。
しかも、耳や鼻…いわゆる五感がおかしい…。
匂いがとても濃く感じるし、嗅ぎ分けることに慣れれば、この森の中で落し物をしても探し出せる…と思う。
小さな音も異常な程によく解り、獣の足音、草木の擦れる音、木々の間を駆け抜ける風の音、微かに水の流れる音まで聞こえてきた。
僕の体はどうしてしまったんだろう…。思い当たる節がない…。
わからない事を考えても答えは出ない。諦めよう…。
それに…悪いことでもないし、今の僕にはどちらかといえば、ありがたいくらいだ。
そんなおかげもあって、水の音のする方へ足を向けてみると…案の定、川があった。
透き通って澄んだ透明な水がキラキラと煌めいて、囁かな音をたて流れていた。
水を見た途端、自分でもわからない程、喉が相当乾いていたのか、飛び込むかの如く川に近づき、ゴクゴクと飲み始めた。
「――うまい!…だけど、これ以上は今は飲まない方がいいかな。後は煮沸するか、できるだけ上流で飲まないと、お腹を壊すだろうし…」
これで水は確保できた。あとは火だ。
薪になりそうな乾いた木々を探すと、あったにはあった、が…。
やはりこの一帯にある木は黒鉄色のものしかなかった。
試しに折ってみようとしたら、折れなかった…。まるで鉄の棒でも折ろうとしているかのように…。
これ?燃えるのかな?そもそもこれから火種とかできるのかなぁ…と、不安を抱きつつも回収する。
火種作りには、黒鉄の木の棒、同じく黒鉄の木片、ブーツの紐を使い、紐を棒に一周させて前後に繰り返し動かして摩擦により火種を作る、弓きり式を行った。
とんでもなく大変だったが、何とか火種は確保した。
それと、一応摩擦熱で燃えた以上、木であるのは確かであるようだった。
そしてその火種を、あらかじめ探しておいた乾燥した動物の糞に引火させ、火の勢いを上げた。
この糞は、多分…狼の糞だ。
こういった状況では藁などを手に入らない。したがって引火させるのに適した乾燥物を用意して置かなくてはならない。
なので、僕は乾燥した糞の方を探していた。
狼煙という言葉に、狼という字が使われているのに起因するように、昔日本ではオオカミの糞を使って狼煙を上げていたからなのだ。
狼の糞を火種にすると、風にも強く、真っ直ぐ天高く煙が上がると言われており、火種の引火元に使われていたそうだ。
けれど狼の糞なんて入手困難なので、やはり火種にするなら藁なんかの方が重宝する為、徐々に廃れていったのだとか…。
そんな、狙って見つけ出すのも難しい物を簡単に手に入れられたのは、理由は不明だが嗅覚が鋭くなっていた為である。
狼の匂いを辿り、糞を探すのもそこまで難しくはなかった。
なにわともあれ、これで火も手に入れた。お次はようやく――解体作業だ。
本来なら解体用ナイフが欲しいが贅沢は言っていられない。なので、狼に折られてしまったロングソードを使う。
狼の死体を川の近くまで運び、解体作業を始めることになった。
これには、僕自身驚いた。…最悪は食べるぶんだけ小分けに解体しようと思っていた。
残りは仕方がないので…匂いで他の動物を集めても困るし、土に埋めてしまおうかとさえ考えていたのだが…。まず無理だろうと思いつつダメもとで、試しに担いでみたら…。
――できたのだ。
狼の大きさからして数百キロ以上はくだらないであろう巨体を、軽々とは言えず正直かなり重かったが、運ぶことが…。
普通の人間であれば、一人では到底不可能と言える。
僕はどちらかといえば、男性にしては小柄なほうだ。せいぜい165cmしかない。
多少は体を鍛えてはいるものの、僕は別に特別怪力なわけでもない。いたって普通の一般人…のはずだった。
…なんだって言うんだろう。
本当に、僕の体はどうなってしまったのか…。
今はとりあえず、おかげで色々と助かっているのでいいが、この先どうなってしまうのか不安もあって、手放しで喜べない自分がいた。
解体作業は、正直かなりきつかった。精神的にではない、肉体的にだ。
なんせ、あの折れたロングソードでの解体なのだ。きつくないわけがない。
それでも、内蔵を取り除くのと血抜きは隠すさえにやっておいたので、すぐに皮を剥ぐ作業に取り掛かることができた。
ただでさえ解体しにくいロングソードが、油でさらに切れなくなるので、火で剣を熱しながら作業を進めた。
剣を熱した際に、もしかしたら燃えるかもと思ったがそんな事はなかった。材質は似ているのに…別物ということなんだろう。
正直、もっと道具や設備があればもっと楽に解体できるのにと、何度思ったことか…。
しかし、森の中で解体作業がまかりなりにもできているのだから十分と言える。
「――終わったぁぁ」
辺りが暗くなり、完全に焚き火の明かりのみとなった頃、解体は終わった。
さらに暗くなっている筈なのに、目もはっきりと見える。つまり、夜目が効くようになっていたのだ。
もともと目は両目共に1.5の視力なのだが…。前にもまして、はっきり鮮明に見えるなぁ…と、薄々気づいていたので、もう今更驚きもしない…。
「これでやっと食事ができる。もうお腹がすいてしょうがないよ…」
水を沸かし、肉は木に刺して、焚き火を囲むように炙る。
水を沸かすのには、盾を使った。
…正確に言えば狼に壊され残骸となり果てた、縦に使われていたお椀状の金属だ。
どうやって水を沸かそうか悩んでいたのだが、狼を運ぶ際にお椀上の残骸が目に付き、これなら鍋がわりにもなるかと思い、使ってみれば案の定だった。
なにわともあれ、僕は未知の森での初めての食事を味わい、一息つくことができたのだった。
ただし、最後の最後で先ほどからの原因不明な僕自身の体の変化で一番驚くことになった事があった…。
それは…いくら食べて満腹にならないのだ。
それはもう、TVの大食い選手に全く劣らない…もしくは勝てるんじゃないかという程に…。
その後…僕の空腹は、狼の肉の半分近く平らげてからようやく治まるのだった。
「やっと満腹になった…」
食事を終え落ち着いたところで、不思議と頭がスッキリとした感じがしたので、改めて今の状況の把握と、最後の記憶を振り返る。
すると、今までモヤがかかっていているかの様に思い出せないでいた記憶が浮かび上がってきたのだ。
途端に、記憶を取り戻した代償だと言わんばかりに、激しい頭痛と目眩が僕を襲う。
「――ぅっ…っ…」
両手で頭を抱え痛みに耐え抜き、やっと痛みが引いた頃。
―――僕の頭の中に、自分にとって忘れたくても決して忘れることなどできやしなかった記憶が巡った…。
「…そうだ、そうだった――僕は、『あいつ』に会ったんだ―――」
この森に来る直前…そう、あの時のことを―――。
あの日は僕は、久しぶりにまとまった休みができたから、猟師さんの所に会いに行こうとしていたんだ…。
雲もなく、澄み切った青々とした空。道路を行き交う車のエンジン音や、建築作業の騒音。
僕にとってのなんの変哲もない、いつもの日常。そんな中、僕は駅へと向かっていた。
何も問題はなく、調子も悪くない。というより、かなり調子も良かったはずだ。
なにせ、久しぶりの連休でもあったから尚更だ。
快調すぎて困るくらい、スピーディーに足を進めていた。
………はずだった。
とある交差点で、信号待ちをしていた時の事だ。
何気なしに向こう側の歩道を眺めていると、僕の視界にある女性の姿が入った。
まるで日焼けなど知らないと言わんばかりの輝く白い肌。
綺麗な栗色の髪は襟足辺りで綺麗に整えられたショートボブ。
そこらのアイドルなど霞んでしまうだろう、浮世離れした整った顔立ちと細身のスタイル。
そんな彼女を見た僕は…すっかり動けなくなってしまっていた。
僕を残して周りの全てが止まったかの様に…。
音もしない…。色もない…。声も出ない…。体は小刻みに震えてくる。
彼女に気付いてしまった僕は、蛇に睨まれた蛙そのものにでもなった気分だった。
―――彼女は僕にっとって一番親しくしていた大切………だった人だ。
―――同時に、この世でもっとも―――憎くて憎くて―――憤りを感じずにいられない。
………そんな相手でもあった…。
彼女に会ったのは…いや、再会したのは高校に入学した時の事だ。
彼女とは、ほんの少しの間だけではあったが孤児院で一緒だった。
ある日当然、孤児院に来たかと思えば、すぐに裕福な家計へと引き取られた。まるで嵐のような娘だったと言える。
そんな短い間ではあったが、当時の僕にしてみれば、孤児院に入ってから初めてできた友達らしい友達と言える娘でもあった。
当時、孤児院に来たばかりの彼女は、僕のように愛想もなく可愛げもなかった。
ただ僕とは違い、異常なまでに整ったその容姿と、ミステリアスな雰囲気に他の孤児の子達も興味を持ったのか、次々に話しかけていた。
しかし彼女は、そんな彼らなどどうでもいいと言った風に、まるで相手にせず、ずっと一人で過ごしていた。
そんな毎日が続く中、僕は変わらず本ばかり読んでいた。
…僕だって彼女に興味がなかったわけではない。
けれど孤児の中でリーダー役というか、まとめ役的な立場の者でさえ相手にされていなかったのに、まして僕なんかが話しかけても無駄だと思ったからだ。
だというのに…いつものように邪魔にならないように、隅っこで借りてきた推理小説を読んでいたところ、彼女は突然僕に話しかけてきたのだ。
「…いつも、本ばかり読んでるね?それ、面白い…?」
僕は、口数少なくそう告げる彼女に、話しかけられた事に驚きを隠せず慌てふためいた。
「…ぇっ、ぁ…!―――お、おもしろいよ、読んで、みる…?」
なんとかそう言葉を絞り出した僕を見て、彼女は控えめに笑って頷いた。
どうやら彼女も本が好きだったようで、僕が一人で本を読んでいるのが気になっていたらしい。
そこから彼女との付き合いは始めり、いつの間にか気づけばずっと一緒だった。
時には、おすすめの本を勧めたり、勧められたり、作中に出てくる登場人物の話しなどで盛り上がったりもした。
特に彼女は…およそ、少年、少女が読みそうもない悲劇や、人間の心理を題材にしたものを好んでいた。
―――この時に…もしも少しでも彼女の本性に気づけていれば――あんな事件は起きなかっただろう…。
そんな僕の人生で数少ない楽しいと思えた時は、半年程で終わりを告げて、彼女はとある政治家の養子として引き取られていった。
それから月日が流れ、可愛げもなく、愛想も知らない僕にとって、そこまで居心地もいいとは言えなかった孤児院は、高校入学の際に出た。
これからは一人で生きていかなければと、バイトに勉強、生活の安定と、とにかく必死だったのを覚えている。
そんな新生活の始まり―――高校の入学式の日。
入試主席だった生徒が名前を呼ばれ、新入生代表の挨拶のため講壇へと上がって行く。
名前を聞き、その姿を見て、その声を聞いて、僕は目が点になった。
だって…その生徒はまぎれもなく、彼女だったのだから…。
子供の頃と比べてもずいぶんと成長しているが、彼女の持つあの独特のミステリアスな雰囲気は健在だった。
子供の頃は可愛らしいだったのが―――今の彼女を現す言葉に相応しいのは清楚で可憐に成長していた。
これが―――彼女との再会だった。
なんの因果かクラスも一緒となり、クラスメイト同士の自己紹介を経て、そこで彼女も僕に気づいたらしく、自己紹介が終わるやいなや、すぐに声をかけられた。
見た目こそ成長したこともあって、とても魅力的と言って良い女性へと変わっていたものの、中身は昔となんら変わりなかった。
僕と同じく本が好きで、愛想も可愛げもなく、けれど彼女のミステリアスで神秘的な雰囲気に誰もが惹かれる…。
孤児院で過ごした頃の彼女、そのままだった。―――いや、あの頃よりもましてと付け加えるべきか。
そんな彼女との高校生活は、順風満帆…とはいかなかった。
整った容姿、明晰な頭脳、政治家の娘、そんな三拍子そろった彼女がクラスの憧れの的になるのは
必然とも言えた。
しかし、しかしだ。
そんな彼女は昔と相も変わらず、周りには一切関わりをもとうともしなかった。
だというのに彼女のそばには…際立って顔がいいわけでもなく、かといって明敏な頭脳を持つわけでもなく、トークが上手いどころか友達さえまともに作れない。
彼女は、そんな僕ばかり相手をしたのだ。
周りからすれば、なんであんな奴が―――と、思われていたのは疑いようもない。
事実、僕はいじめにあうこととなったのだから…。
半年ほど経ちそれぞれのグループが出来上がった頃。
入学した一年の中でも容姿、スポーツ、勉強どれをとっても彼女に引けを取らない男子生徒が意を決して彼女に告白した―――それが始まり。
「――ごめんなさい。私、貴方になんの興味も抱けないの。だから、お断りするわ」
そして、一瞬でこう告げられて振られたのが原因となり…。
要は、逆恨みとして振られた彼と、そのつるんでいた生徒、彼に好意があった女子生徒達の僕へのいじめが始まったのだ。
男女の区別なくクラスメイトの全員…とは言わないが、ほとんどの生徒が僕へのいじめに加担した。
幸いだったのは、彼女自身へのいじめは起きず、対象は僕だけであったことだろう。
親が政治家というのもあったから、彼女には下手なことはできないと感じたのだと思う。
いじめと言っても、わざと聞こえるようにして陰口を言ったり、有ること無いこと噂を流したりと、最初の内はその程度だった。
けれどそれが、次第に直接的な暴言、暴力へと変貌し…いじめはだんだんエスカレートした。
何日も…何日も…何日も…何日も続くいじめに対し、僕は心身共に疲れ果てていった。
それでも僕の心が折れずにいられたのは、彼女がいたからこそだ。
僕がいじめを受けていても、彼女だけは変わらずに接してくれて、根本的な解決はできないまでも、時にはいじめを止めてくれたりもしてくれたのだ。
結局のところ、彼女のせいで起きたとも言えるいじめだが…だからといって彼女は何も悪くはない。
それで彼女を恨んでしまっては、彼女に振られて逆恨みでいじめを始めた男子生徒と、何ら変わり無いのだから…。
彼女の支えもあって何とか学校生活を過ごし、2年に進級することができたのだが…。
しかしながら、半数以上から行われていたはずのいじめが進級してまもなく、クラスメイト全員からのいじめに変わっていた。
話しは極力しないまでも、暴力も暴言も何もせず無関心だったはずの生徒までいじめに加担したのだ。
理由はわからない…。が、確実に僕をさらに追い詰めるには十分すぎた。
ただでさえ、限界だった…。
たとえ彼女の支えがあっても…。終わりが見えないというのは本当に………辛い。
本気で自殺を何度も、何度も考えて…その覚悟がなく、考える度…諦めた。
そんな絶望しきっていたある日の帰宅途中。
僕はクラスメイトが他校の生徒数名に絡まれているところに出くわした。
そのクラスメイトは、眼鏡をかけた大人しいタイプの女子生徒で、最近になって僕のいじめに関わってくるようになった生徒だった。
始めこそ、見て見ぬふりをして通り過ぎた。
女子生徒はこちらに気づいたみたいだったが、そんな事は関係ないとばかりに僕は足を速めた。
僕にしたことの報いだと…思ったからだ。
けど…。頭ではそう割り切ろうとしても、体はどうしても言う通りに動いてくれず…気づけばその女子生徒と他校生の間に割って入っていた。
………馬鹿だと思う。
それでも…。
この場で見捨ててしまったら、僕自身もいじめを黙認した様な気がして…自分もあいつらと変わらないなと言われた様な気がして…それだけは死んでも嫌だった。
例えそれが、僕をいじめているような奴だとしても…。
それに、連れ出して逃げ切れるかもしれないし、失敗してもどうせ…暴力を受けるだけだ。
そんなことなら、別にいいか…慣れてるし。
…なんて、あの頃の僕は思っていた。
それくらいは心が壊れていた…いや、麻痺していたんだ。今だからこそわかる。
まぁ、案の定さっそうと駆けつけて難なく助けられるわけもなかったが…それでも隙を突いて、女子生徒だけは何とか逃がす事に成功した。
他校生達はそんな事をしでかした僕を許す訳もなく、徹底的に痛めつけた後、忌々しそうに睨みを利かせ去っていったわけだが…。
あの時は、痛みのせいもあってしばらく地面に仰向けになったまま動けなかった僕は、いつものように青々した空を見上げ。
「何やってるんだろうなぁ…僕は…」
と、嘆いていたのは今でも記憶に焼き付いている。
それぐらい、自分の行動に驚いている自分がいたのだ。
結局、あれこれ理由付けしたところで、自分をいじめていた者を助けたという事実に…。
僕はお人好しというわけでもないし、そもそもお人好しと呼ばれる程の人付き合いさえもしてなどいない。
要は、それだけ僕があいつらのようにはなりたくはないと、心の底で感じていたのだ。
早い話が、自分のため…自分自身を保つためだった。
そしてこのことが…あの事件が起こすきっかけとなる始めりでもあった。
もしも、あの時僕が女子生徒を助けなければ…僕はどうなっていたのだろう…。
今でも『あいつ』の事を信じていたのかもしれない…。
女子生徒を助けた後も変わらずいじめを受け続け、憔悴しきった足取りでの帰宅途中。
―――待ち伏せしていたんだろう。先日助けた女子生徒が不意に現れ、僕を呼び止めた。
女子生徒は、終始挙動不審な様子で辺りをとても気にしていた。
そんな彼女に僕は、また他校生にでも目を付けられ、押し付けようとでもしているのだろうと思った。
なぜかというと、この女子生徒は助けた後も変わらずに、僕へ対するいじめを止めてくれるわけでもなく、さらに悪化したからだ。
言うまでもなく、助けたからといってこの女子生徒からのいじめがなくなるなんて、そんな都合のいい事になるとは思ってはいなかった。
だとしても、多少はいじめが緩和するとか、何か今の現状が少しは変わるのでは…と、期待しなかったかわけでもない。
結果として、まさか悪化するとは予想もしていなかったが、この女子生徒に対する僕からの印象は最悪になっていた。
厄介事はもうごめんだったので、さっさと立ち去ろうとしたが、女子生徒に何やら話しがあるらしく引き止められてしまった。
正直、こちらとしては聞く義理もないので、無視して立ち去って良かったのだが、余りにも女子生徒のただならぬ様子に見かねて話しだけは聞くことにした。
何度もなにかを言いかけては止め、言いかけては止め、言いよどんでいた女子生徒は、やがて覚悟を決めた様に思い切って口を開いた。
「こ、これを言ったのが私だってバレたらどうなるか…どんな目にあわされるか…怖くて…怖くて…。今でも本当はすごく、すごく怖いけど…。…けど、助けてくれたあなたをいじめ続けなきゃいけないなんて、間違ってるし。一緒になってあなたをいじめて…助けもしなかった私が今更何言ってんだって事も…十分わかってる…。だから、その…償いにもならないかもしれないけど…聞いて欲しいの…。あなたは…あなただけは知らないといけないと思うから…」
そんな重々しい空気の中、女子生徒は打ち明けたのは…とても信じられない…いや、信じたくない真実だった…。
最近まで、クラスで起きていた僕に対するいじめに、今になって加担した理由…。それは実に単純だった。
脅しである。ただし、ただの脅しではなく…いじめに加担しなければ、次のいじめ対象になるのはもちろん。
家族…例えば親の仕事をクビにしてやるという陰湿な脅しまでしてきたのだとか。
そればかりか…その脅しをしてきた相手というのが―――。
あの、唯一僕の味方でいてくれて…いつも励ましてくれて…時には助けてくれて、僕にとってたった一人信頼できる…僕にとっての心の支えとも言える…とても言葉では表せない程大切な―――彼女だった。
もちろん、信じられるわけがなかった。僕を騙そうとしているに違いないとそう思った。
…だけど女子生徒は、僕がすぐには信じてもらえないという事も見越していた様で、明日の放課後に体育館裏に来て欲しいと言われた。
そこに来れば、私が嘘を言っているのかどうかがわかるから―――と。
………その日の夜は、眠れなかった。…嘘だと言ってしまえば簡単な話しである。
しかし、女子生徒の行動、言動、様子、そのどれをとってもあれは真実だと物語っていた。
もしも、あれが嘘であるのならば…あの女子生徒は名女優だと言ってもいい程に…。
僕は彼女が心理学の本に興味を示していた事もあって、自分も嗜む程度には読んでいた。
だからこそ…あれが嘘ではない事もわかってしまっていた…。
けれど、だとしたら彼女が僕に対する心配も、僕に見せる笑顔も嘘ではない事も確かだった。
単に、僕が学んだ心理学の知識が未熟であったといえばそうかもしれない…。
彼女のことを信じたいからこそ…というのもあるかもしれない…。
………わからない。もう何が本当で、何が嘘なのか…。
―――だから僕はそれら全てを確かめる為にも―――行くことにした。
悩んでもわからない。女子生徒は来ればわかると言った。それなら、例え僕へ更なるいじめの為の罠でも行こうと思ったのだ。
もし、罠ならあの話しは嘘だとわかる。それならそれで十分だ。ただの嘘だったで終わるのだから。
けれどもしも、本当なら………。
そう思い悩みながらも、僕は放課後約束の場所に足を運んだ。
体育館裏に近づくにつれ、二人の話し声が聞こえてきた。咄嗟に、足音をたてないようにじり寄り、静かに声の主達を壁に隠れつつ覗いてみる。
するとそこにいたのは、あの女子生徒と―――彼女だった。
正直なところ僕は何も驚くことはなかった。
もしも罠でない場合、女子生徒がこの場所を指定したのは、彼女の化けの皮を僕の目の前で剥が
し、あの話しを真実だと伝えるのが目的だろうと予想はしていた。
予想はしていたが…できれば外れて欲しかった。だってこれで、罠の線が限り無く薄くなってしまったのだから…。
だからといって、もう後戻りができなくなった僕は、そんな二人の会話を息を潜めて、盗み聞きすることにしたんだ。
そして、知らない方が幸せな真実を知ることとなった。
聞こえてきた内容は、女子生徒が彼女にいじめを止めさせてほしいと懇願したところから始まった。
それに彼女は、今まで僕に見せたこともないような冷え切った目で睨み。
「そう、残念ね。いじめを続行しないのであれば仕方ないけど、貴方の親には路頭に迷ってもらうことになるわ」
と、あの彼女が…そう告げたのだ。
女子生徒は………正しかった。あの話しは本当だったのだ。
その後の内容は…ひどいものだった。
最近になって僕のいじめに加担した女子生徒達は皆、彼女の脅しでいじめをせざるおえない状況下にあったのもそうだが。
実は、始まりの嫉妬で僕にいじめを始めたと思っていたあの男子生徒も、その周りのグループも、彼女がそそのかしていじめを行っていたのだ。
自分はあたかも味方のように振るまい、周りの人間を使い僕を少しづつ、少しづつ狡猾に追い詰めて、孤立させる様に仕向けた。
何もかも……優しく、可憐で、少しミステリアスな…あの彼女が黒幕であり、諸悪の根源だった。
気づいた時には僕は、近くにあった体育倉庫からバットを取り出して、彼女達の前に飛び出していた。
そんな僕を見るやいなや彼女は平然として面持ちでこちらを見つめ。
「やられたわ…。こんなところに呼び出して、わざわざ何を話させるかと思えば…貴女にこんな勇気があるとは思ってもみなかった…。私のミスね」
彼女は、女子生徒へと皮肉交じりにそう嘆き、僕に目を向けた。
「本当はこんな形で、真実を知られたくはなかったのだけど…今更よね。どうかしら?私が貴方に酷い仕打ちをするように仕向けた元凶だったのだけれど、真実を知った感想は?」
さも当たり前の様に、まるで軽い世間話でも聞くかの様に気軽に尋ねた。
「どうして…なんで、こんな…嘘だったのか。僕に優しくしてくれたのも…気遣ってくれていたのも…助けてくれてたのも――全部!全部!全部!―――嘘だったのか!!」
「―――嘘じゃないわ。貴方にだけは親身に接していたのは、私が貴方の事が好きだからできたことだもの。私は好きでもない相手とは、話しをするのも苦痛だし、メリットがなければ関わりさえ持たないもの」
「だったら、どうして僕をあれだけ苦しめるような事ができたんだよ!!」
「―――愛してるからよ」
耳に入ってきたはずの、その言葉を理解するのに僕は数十秒かかった。
「―――愛してるのよ!哀れで、惨めで、痛々しく、誰も彼もから見放される―――そんな悲劇を!私は悲劇を愛してるの!――ただでさえ、貴方は孤児で、天涯孤独の身の上で、頼れる相手は私だけ…。そんな貴方に更に悲惨という名のスパイスを加えれば、いったいどれだけ悲劇的な主人公へと変貌するか!この一年、いえ貴方と出会ってから、ずっと、ずっと、ずぅぅっと!どんな悲劇の主人公へと仕上げるかだけを考えてた――考え続けた!私だけの悲劇の主人公にする為に!!…本当はもっと後に、私自身の口から真実を語ることでこの悲劇の物語は完成する予定だったのだけどね…バレてしまったから仕方がないけれど」
………僕は、彼女の事を何一つ、欠片の一つさえも理解していなかった。
彼女が始めて僕に近づいて来たのも、あの孤児の中で一番悲劇的に見えたから…ただそれだけ。
あの時から目を付けられて、彼女が引き取られた後も、彼女は逐一僕を取り巻くあらゆる情報を手に入れていたらしい。
そして僕が高校に入学して一人となった時に、彼女は僕が入学する高校をわざわざ探し出して、自分の悲劇の物語を作り上げる為、僕と同じ高校へと入学したのだ。
幼い頃から異常なまでに悲劇を愛していた…愛しすぎていた化け物…それが彼女の本性だった。
「―――だから、嘘じゃないわ!貴方のことはこの世界で一番、誰よりも私が愛してる!断言できる!だって貴方は、私だけの、私の為の、私の悲劇の主人公なんだから!!」
「そんな事の為に…僕は…お前に利用され続けてたのか…お前のくだらない、悲劇の物語とかいうやつに…」
「…くだらないなんて、心外ね。貴方だって悲劇の物語は嫌いじゃなかったはずだけど?」
「―――あれは、物語だったからこそだ!自分自身が悲劇の主役になって喜ぶわけないだろう!!」
「だって、こんな悲劇を!本の世界の物語に浸っていたって決して味わえないわ!それを現実に味わえるなんて最高じゃない!今の貴方の苦渋に満ちた表情が見られただけでも…ほら、こんなにも私の胸は高鳴ってるのよ!」
恍惚とした面持ちで、自分の肩を抱き寄せる彼女。
「…ふざけるな………ふざけるな………。―――ふざぁけるなぁぁぁあああああああ!!」
次の瞬間、僕はバットを彼女に向けて振りかざしていた。
それと、同時――。
僕は大きく吹き飛ばされた。
―――理由は簡単。あれだけ騒いでいた事もあって、騒ぎを聞きつけた体育系部活の顧問がバットで女子生徒を襲おうとしていた男子生徒。
つまり僕を殴り飛ばしたからだった。
その後の結末は、すぐに警察を呼ばれ、女子生徒への暴行では終わらず殺人未遂となった。
助けた先生から見ても、僕は明らかに彼女を殺そうとしていたのは明白であり、その状況を詳しく語られたのも原因だ。
僕自身、殺意をもっての行動だったのは事実である為、反論のしようもなかった。
僕は、彼女にいじめられていました。彼女が他の生徒を使って、僕をいじめていました。
―――誰が信じるだろうか?かたや、信用も高く誰もの憧れの的。かたや、いじめを受け信用どころか友達すらいない平凡以下の生徒。
前者を信じるに決まっていた。更に、政治家の親までいる。僕の味方なんて誰もいなかった。
そこからは、少年院へと送られた後、僕は高校側から自主退学を命じられそれに応じた。
…戻る気なんてさらさらなかったので、別に構いもしなかった。
少年院での僕はしばらく、抜け殻…死人そんな例えが適切だろう。まるで魂でも抜けてしまったかの状態が続いた。
…僕にとって彼女の存在はそれ程に大きかった。何も手につかず、何もする気にはならなかった…。
そんな僕が立ち直る事ができたのは、少年院にいたある教官との出会いだ。
この教官が、何度も熱心に声をかけ、親身に接してくれたことで僕は、徐々に…本当に少しづつ変わっていた。
そしてこの教官こそ僕の大恩ある猟師さん、その人なのである。
少年院を出てからも、僕の事を気にかけてくれて趣味である狩猟に連れて行ってくれたり…僕にとっては…親がいれば…父さんが入れば、こんな感じなのかなと…生まれて初めて思えた人だ。
バイト生活で食いつなぐ今でも、猟師さんとの関係は変わらず3年近い付き合いになる。
この森で目を覚ます前だって、いつもの様に狩猟に連れて行ってもらう約束だったので猟師さんの元に向かう途中であった。
その道中の交差点で僕は、例の『彼女』と遭遇してしまったのだ。
もう克服した…。もう何の関係もない…。関わることなんてないだろう…そう思っていた。
僕は彼女をみた瞬間、忘れていたはずの彼女への憎しみが一気に膨れ上がり自分でも制御できなかった。
今思えば、それもそうだろうと思う。簡単に忘れられるわけなんてないのに…。ただ、思い出さないように蓋をしていただけだったんだ。
自分の人生を玩具にされて滅茶苦茶した挙句、彼女自身は罪の意識など欠片もなく、そのくせ追い詰めた相手の事を愛しているなんていう狂人を…。
気がついた時には足が趣いていた。彼女を目指して―――。
最後の記憶は高らかな音を轟かせ、僕へと鉄の塊が迫り来る場面―――つまり。
「死んだ…そうだ。死んだはずだ、僕は…。確か、赤信号なのに飛び出してそのせいでトラックにひかれたんだ…」
それなのに、僕はここで目を覚ました時は無傷だった。周りには交差点もトラックも何もない、森。
常識で答えが出るような状況じゃない。だとしたらここは―――。
「天国ではないかな…じゃあ地獄か。思ってたのと全然違うけど、それなら怪我もなく、持ってたバックも携帯もなかったのもわからなくはないかな…」
とは言うものの、頭の中の僕はそんな馬鹿なことはない!と、言っている。
が、超常的な常識では考えられない何かに巻き込まれたのは事実だろう。
周りにある黒鉄の木々、遭遇した巨大狼だって…すでに常識から外れているのだし。
「ポジティブに考えれば、第二の人生か…」
正直なところ不安しかないけど…ただ死んで行くなんてそんな気はさらさらない。
―――まずは、この森の事を調べよう。―――あと近くにある村とか人を探す。
記憶に関しても完全に取り戻してはいない様で、今だ自分を含めた名前なんかも思い出せないままだし、記憶を戻す方法なんかもあれば探っていこう。
記憶なら時間の経過で戻りそうな気もするけれど…。
「それにしても、あいつへの殺意は今でも全然変わらなかったわけか…。もしもあのままトラックにひかれなかったら、僕はあいつを………」
感慨深そうな顔で嘆くと、彼は憂鬱な気分になりながらもこれからの方針を定めたのだった。