始まりと黒狼
「いい匂いがしてきた…」
そう呟いたのは、一人の青年だった。
外見は、どこか幼さが残る様な顔立ち、いわゆる童顔で十六、七の少年と変わらないそれだ。
髪と瞳の色は黒く、耳に掛かる程度の、軽く緩いウェーブかかった髪質は、ふわふわとしていてどこか犬の毛を思わせる。
背も高くはなく、一般男性に比べても低い。せいぜい160cmを超える程度といった小柄な体型。
細身ではあるものの、それなりに鍛えていたのか、肉付きは悪くはなかった。服装は、白のワイシャツに、ワインレッドのカーディガンを羽織り、ベージュのチノパン。
明らかに森に入る様な格好ではないものの、靴だけはこの場に適しており、革とコットンを素材とした黒のミリタリーブーツを履いていた。
辺りは薄暗い森の中、周りは見渡す限り木々しかない。そんな森の中、青年は切り株に腰を下ろし、焚き火をしていた。
何かの動物の肉を木に刺して、焚き火を囲う様に炙っている。ジュージューと、肉の油が跳ねる。
「そろそろいいかな」
おもむろに男性は、肉が刺さった木の一つを掴み肉を口に運び齧りつく。瞬間、口の中に溢れんばかりの肉汁と獣臭さが口内へと広がった。
「あっつ!…うん、けどうまい!…少し獣臭いけど案外いける…。けど、香辛料…せめて塩でもあればなぁ…。まぁ、無い物ねだりしてもしかたないかぁ…」
少し味気なく感じつつも、空腹というスパイスもあって、男性は一心不乱に肉を食べ始めた。
十分も経たないうちに、青年は炙っていた肉を瞬く間に、全て平らげてしまった。
「ふぅ、とりあえず空腹はなんとか満たせた…。けど、そんな事よりも――今になってやっと思い出した…」
「…そうだ、そうだった――僕は『あいつ』に会ったんだ―――」
それは、今から数時間前の事だ…。
目が覚めると、何故か森の中に居たのだ。
森といっても、この森は明らかに自分の知る森とは別のものだった。
『森』が、というより、木々がといった方がより正確かもしれない。
辺りにある木々は自分の知る木とは明らかに違いがある。葉の部分は緑色でなんら普通と変わりないのに、木の幹や枝がまるで鉄なのではないかという黒鉄色だった。
触って確かめて見たところ、どうやら色だけでなく硬さも鉄と変わらないか、はたまたそれ以上ではないかと思える硬度だ。
「こんな木…初めて見た。図鑑でも見たこともないし、周りに生えてる草花も…僕の知らないものばかりだ…」
僕は、正直驚いていた。
突然、見知らぬ場所にいる事に対してではない。
自分の知らない木や、草花があることに対してだ。
僕は昔から、友達と言える友達がいなかった。
友達が欲しくなかったわけではない。
病気で話しができないわけでもない。
ただ、どうすればいいのか…どうやって友達になればいいのかわからなかった。
何を話せばいいのか…どんな話題を振ればいいのか…さえもだ。
それに…突然話しかけては、気味悪がられるのでは…?嫌われるのでは…?そんな考えばかりが頭を巡り、とうとう僕は一人で過ごすようになっていった。
要は、単に臆病者だったのだ。
そんな僕は、自分を慰める意味でも読書という本の世界へと逃げ込む事にした。
本は良かった。読めば読むほどに、知識が増え、自分の知らない世界が広がっていく。
行ったことのない場所、見たこともない物、今では存在さえしない生き物、本であればその全てに出会うことができた。
ときには、本の中の物語の主人公に自分を重ねて、その物語を楽しむ事だってできた。
僕がここまで、本へ執着したのには、友達がいなかったからだけではないだろう…と、思う。
環境にも問題はあったのかもしれない。
僕は孤児だった。産まれて間もなく、両親は他界し、親戚もいなかった僕は孤児院で育てられた。
昔は人見知りもあって(今でもあまり変わらないけど…)、周りが遊んでいても、その輪の中にどうしても入る事ができないでいた。
その上、孤児院のすぐそばには図書館があったのだ。
始めは、子供らしく絵本なんかを読んでいたが、数え切れない程の本を見て、この全てを読んでもいいとわかると、わくわくした思いにかられて、大人にわからない漢字や意味を尋ねながら、様々な種類の本を読んだ。
本の世界に没頭している間は、自分が孤児だとか、親しい友人がいない寂しさとか、そういった全てを忘れることができた。
本は僕にとって支えてくれた、培ってくれた全てだといっても過言ではないだろう。
もちろん、その中には図鑑等もあって、生物から植物、昆虫といった図書館にある様なものは全て読んでいた。
…にも関わらず知らない。忘れているだけではと思うかもしれないが、草花はまだしも、木に関しては明らかに知らないと断定できた。
「…そもそもここはいったい…?なんでこんなところにいるんだろう?」
必死に自分の一番新しい記憶を辿る。
「…駄目だ。何も思い出せない」
思い出そうとしてみても、まるでモヤでもかかっているかの様に何も思い出せない。
これはまずいと思い、僕はまず深呼吸した。
「すぅー、はぁー…冷静になろう。わけのわからない状況になった時こそ冷静にならないと…パニックになるのが一番最悪だ」
僕は猟師さんに教わった事を思い出して、平静を取り戻した。
猟師さんとは、とある事情で知り合いになった。
僕が絶望の渦中で精神的にボロボロになっていた時期に、生きるって事、命の大切さや、ありがたみなど、本当に色々な事を熱心に教えてくれた人で…僕にとって大恩人である。
あの人がいなければ、今の僕は自殺とまではいかなくとも、良くて廃人同様にでもなっていただろう。
「…なんでここにいるかは、一先ず置いておこう。思い出せないものは仕方ないし…」
けど、逆になんなら思い出せるのかな?僕の過去とか、猟師さんについてはわかるし…?
あれ、待てよ…?猟師さん…?猟師さんの名前って…――出てこない!?なんで!?
僕は、他人と関わりあう事が少ない分、自分と知り合いになった人との関わりはできる限り大切にしてきた。
そのうえ、大恩がある猟師さんの名前を忘れるなんてありえない事だ。
「嘘だろ?どうして、こんな――もしかして!?…」
何かに気づいたのか、青年はハッとしたかと思うと、すぐに意気消沈といった風に座り込んでしまった。
「やっぱりそうか…僕の知ってる人達の名前どころか、自分の名前すら思い出せないなんて…」
いったい何がどうなっているんだろうか、自分の名前すら思い出せないし、漁師さんの顔なんかはまだ思い出せるけど、他の知ってる人達の中には、顔さえ思い出せない人もいる。
顔も名前も思い出せないのに、知っていたという記憶だけが残っているという感覚だった。
…今の状況を整理すると、記憶の一部喪失と見知らぬ地での遭難といったところなのかな。なんでこんな事になったんだろう。
嘆いていても仕方ないと思っていても、どうしてもそう思わずにはいられなかった。
「だけど、このままここで、じっとしていても埓が明かない。お腹もすくし、黙っていても餓死するだけだ」
そう決心して、青年は立ち上がる。
「まずは、水と食糧。近くに人里や村があればいいけど…。なければ最悪、長期間この森で生き抜かなきゃならないな…」
そんな一抹の不安を抱きつつも、青年は森の探索を始めた。
「まるで迷いの森だな」
そう彼が嘆くのも無理はなかった。もうかれこれ一時間程周囲を探索したのだ。
しかし、進めど、進めど変わり映えのしない景色が続き、同じ場所を何度も何度も、ぐるぐる回っているだけなのではと、思ってしまう。
それでも、現状森を探索してここがどの辺りなのかの手がかりか、せめて食料調達だけでも行っておきたかった。
なにせ、今の所持品といったら身につけている衣服とブーツだけなのだ。
財布や携帯、それとリュックは出かける際は、常時持っているのだが、あいにくここに来るまでの記憶がないので持っていなかったかさえわからない。
探索しているうちに日も傾き、薄暗くなりつつあり、森は異様な薄気味悪さを放っている。
森…というか樹海と言った方がしっくりくる。いずれにせよ、こんな軽装で来る場所ではない。
まして、なんの道具もないのなら。
「…幸いなのは、猟師さんからサバイバル知識を教わってた事かな。ほんと、猟師さんには足を向けて寝れないな」
猟師さんに世話になった際に、鹿の狩りや、解体を手伝わせてもらったりしているうちに、僕自身がだんだんとのめり込んでいた。
気づけば、サバイバル用品もどんどん増えていた。ミリタリーブーツなんかはその所為である。
休みの日はキャンプに出かけたり、連休があればちょくちょく猟師さんのところに遊びに行っていた。
だからこそ、そんな過酷な状況下の中、青年は漁師さんから教わっていた知識や経験を活かしつつ、彼は最新の注意を払い、森を探索することができていた。
「それに、なんでかわからないけど…身体がやけに軽く感じるし、かなり歩き続けたはずだけど大して疲れもしないし…なんでだろ?」
なぜかはわからないが…目が覚めてからいつも以上に体の調子がよく、軽快に体が動かせるのだ。 まるで、自分の体ではないかのように…。
まぁ、おかげで探索が続けられるからいいんだけど…。
それから、さらに探索を始めて数十分経つ頃、少しひらけた場に出たところで、遠目から人型で金属性の鎧を着た人の様な物が倒れているのを見つけた。
「あれは…?」
とりあえず確認のために、辺りを警戒しつつ近づく。
「…これは…なんだ?人…?…いや、違うな犬歯がかなり鋭いし、そもそも尻尾がある時点で人間じゃないな…けど人型ではあるし、これは鎧に…剣か?なんでこんなものまで…?」
その人の様なものは、結論から言って死体だった。それは人型ではあるものの、頭はまるで肉食動物の頭蓋骨、下半身には尻尾の骨まであった。
それが、鎧に身を包み剣と盾を握り締めたまま白骨化していた。
そんな白骨死体を、青年は全く物怖じせずに観察していた。
これは、猟師さんとの狩りに起因するところだろう。
猟師さんとは、ただ狩りをして捕えるだけでなく、その後の解体処理まで、もちろん何度も経験させてもらった。
白骨死体よりも、もっと生々しい動物の死骸なんていくらでも見てきた。
そんな僕にとって、動物の生き死には身近な出来事であり、別段おかしなことなどなく自然の摂理そのものであった。
だとしても、普通であれば人間ではなさそうだとはいえ、人間に近しい白骨死体を発見したのだ。
多少なり怖がる、パニックを起こす、もしくは事件性の何かを疑うのが普通であるかもしれない。
それでも僕が平然としていられるのは、そもそも漁師さんと出会う前から、生き死に関することには淡白な性格であったのと、白骨死体を人間でないと早々に判断した時点で、取り乱すこともなかったからだ。
いや、人間の死体だったとしても…取り乱したかはわからない。
そもそもにそういう人間なのだ、僕は…。
こんなんだから、友達もできなかったんだろうなぁ。
今更だし、わかっていたって直せないけど…。
「鎧は随分と錆びてるな…これは使えないな。剣と盾は少し汚れてるだけみたいだ。これならだいぶ長いけど、剣はサバイバルナイフの代用にはできるかな」
薄く細長い、目測80cm程の剣身から垂直に伸び出した鍔が特徴的で、十字架に似た少し錆びた剣。
丸い円形の盾は、3cm程の厚みで、黒鉄色で鉄の様な硬さ、大きさは30cmより少し大きい、中央には金属製のお椀の様なかぶせてあり、そこが持ち手部分になっていた。
中世ヨーロッパで広く使われていた、ロングソードとラウンドシールドに瓜二つだった。
違いがあるとすれば、使われている――材料。
そのどちらも手に取った瞬間、僕は驚きの声を上げた。
「えっ!…軽い…まるで木製の剣と盾でも持ってるような軽さだ…」
見た目は鉄の様に硬いのに…あれ?そう考えると、この辺りにある木も鉄みたいな硬度だったけど…まさか、この木が素材なのかな?…。
…それは置いておくとしてもだ。
だいいち、僕はこんな生物は僕は知らない。
人間に近いけど、明らかに違う。
人間に尻尾なんてないし、顔は猫科の生物の様に見える。剣や鎧を身に着けているって事だって、普通に考えておかしい…。
未確認生物とか、宇宙人とか…そんな類じゃないよな?…まさか、ね。
他にも何かないかと探ってみたところ、革袋がそばに落ちていた。
中には、銀色に輝く、何語かも知れない、見たこともない文字の刻まれたコインが四枚と、赤く丸い水晶の様な物が入っていた。
「このコインに書いてる文字…何語だろ?見たところ、硬貨みたいだけど…剣に鎧に知らない文字の書いてある硬貨とか…ここどこ?」
もしかして…僕が想像している以上にマズイ状況なんじゃないだろうか。
…まぁ、けどこの白骨死体は思った以上にいろんな情報を持ってたな。
僕の推測でしかないけど、ここは日本ではなさそうだ。
剣や鎧、謎の白骨死体、しかも作り物ではなく間違いなく本物。
そもそも、白骨死体の偽物をこんな所に作って置いておくなんて無意味でしかない。
白骨死体を見て、驚く様子を窺っているという線もあるにはあるが、そんな奴が出てくる素振りもない…。であれば、まず本物だろう。
と、すればだ。ここは、剣と鎧を常備しなければならず、僕の常識や知識は通用しないような場所だということなんだろう…。
目を覚ましてから、今まで僕の見知った物にまるで出会えないことからも、それは明らかだった。
「これも、いったい何に使うものなんだろ?」
赤い野球ボールくらいの球を手の平で転がしつつ、覗き込む。その赤球は、まるで宝石の女王と呼ばれるルビーを思い浮かべる程に鮮烈な華やかさを持っていた。
「宝石じゃあ、ないよな?重さは、ほとんど感じないし…。一応これももらっておこう」
僕は白骨死体から、剣と盾、そしてポーチを中身ごと、拝借した。
「すいません、お借りしますね」
白骨死体に向けてそう告げ、合掌する。
「さてと…それじゃあ、また探索を―――っ!」
すると…。再び、周辺の探索を始めようとした矢先、何かがこちらに草木を蹴散らして、物凄い速さで向かってくるような音が響いてきたのだ。
なんだっ、何か来る――!
視線を音の方に向けた次の瞬間には、前の茂みから物々しい音を立てながら、黒い影が僕目がけ、飛び出し襲いかかってきた。
身体を黒い影が出てきた前方に向けていたのもあって、ギリギリで何とか反応して、咄嗟に盾を押し出すように前に出すことに成功する。
同時に黒い影が縦に激突し、盾から腕へビリビリと衝撃が走った。盾を持った右手が震え、耐え切れずに後方にあった黒鉄の木へと吹き飛ばされる。
「――かぁはっ!」
黒鉄の木へ激突した痛みをこらえ、黒い影に顔を向けると、そこには…。
左眼に一文字の古傷、鋭そうな牙、禍々しい黒毛に全身を包まれ、こちらの様子を鮮やかな赤い隻眼で伺う犬の様な生物がいた。
「グルルルッ!」
「犬…?いや――狼か!?にしたって、でかすぎる!?」
犬もとい狼の体長は2メートル…尻尾も含めれば3メートルもあるかもしれない。体高も彼の目線より少し低いぐらいはある。
そんな狼が、よだれをだらだらと垂らしながら間合いを計り、威嚇していた。
何なんだこの狼っ!異常なんてもんじゃないぞ、この大きさは――!
――どうする!?…逃げるのはまず無理だし、背中なんか見せたら、その瞬間喰われる。
かと言って、戦うとしても…いくら剣と盾があったって、子供がライオンと戦う様なものだ。
くそっ!どうすれば…。
突然の巨大狼との遭遇により、狼が生息していた事、その狼のサイズの馬鹿さ加減、それによる気迫や恐怖、僕は―――なかばパニックを起こしていた。
だが…。―――お、落ち着け、僕…。
サイズ的には、大きな熊と遭遇した様なものじゃないか。
それなら、今までだって何度かあった…。さすがにここまでいきなりで、なにも対策アイテムが無しなのは初めてだけど…。
とにかく今は、生き延びる事だけ、ただそれだけに集中するんだ…。
猟師さんとの経験のおかげもあって、僕はなんとか冷静さを取り戻し、この状況下の打開策を探し出す。
が、狼がそんな悠長に待つわけもなかった。
「――っ!」
襲いかかってきた狼に、もう一度盾を掲げて応戦するも、狼には二度目の同じ手は通じず、素早く頭上を飛び越え背後に移ったかと思うと、そのまま勢いにのって僕へと、荒々しく口を開閉させる。
「ガゥゥゥゥゥウウ!」
「――っ!」
こんな意表をつかれて突撃されたら、踏ん張りがきかない!盾は使えない。
―――それならっ。
僕は咄嗟に盾を狼目がけて投げつつ、体を丸めるように横に飛び込み回避する。
狼は盾などものともせずにそのまま突っ込んで来るかと思ったが、盾が飛んでくるとわかったとたん、大きく後方へと回避した。
「……ん?」
僕は回避した後、次の攻撃に備えてすぐさま狼の方に剣を向ける…だがそこで初めて気づいた。今まさに、僕を食い殺さんとしている狼の様子が明らかにおかしかった。
投げつけた盾は躱したはずなのに、呼吸が荒くかなり衰弱しきっている。立っているのもやっと、そんなところだろう。
そこで僕は、改めて狼を観察してみた。すると狼の身体には、鋭い爪で切り裂かれた様な深い五本の傷跡。
首筋には噛まれたのか、肉がえぐれ真っ黒なはずの毛がそこだけは鮮血で染め上げられていた。
明らかに軽傷とはいえず、限りなく致命傷に近い深い傷を負った黒狼が立っていた。身体を動かすたびに血が滴る音までする。
今まで対応するのに必死で、気付かなかったけど…あいつ手負いなんだ。戦闘から逃げてきたか、終えた直後だったところに、たまたま僕が近くにいたのかも…。
どちらにしても、手負いだとしても…僕にとっては脅威であることに変わりないか。
頼んで見逃してくれそうな相手でもないし…。それに…生きたまま喰われるなんて御免被りたい。…やるしかないか。
僕が覚悟を決めるのと、同時に狼も動いた。
「ガルゥゥア!」
狼は盾がなくなった為か、今度は速さを生かし突撃して来た。回避が間に合わず、剣を狼の口の前に出し防御するが…。
「なっ!?」
なんと、狼は剣をいとも簡単に噛み砕き、そのまま頭を振り上げ、僕に頭突きを繰り出した。僕は数秒間の浮遊体験の後に地面に激突する。
「――ごはぁッ」
一瞬、気を失うかと思う程の衝撃に何とか耐えるも、すぐには立ち上がれず、何とか片膝をついて右手に持つ折れた剣を構えた。
「はぁ…はぁ…」
…噛む力が強いとか、そんな次元の話しじゃない。あれで手負いとか…笑い話にもならないよ…。
右手に持つ剣を見ると、剣身は半分くらいから砕かれてしまい30cmもあるかという程にコンパクトになっていた。
狼は今がチャンスとばかりに、僕が立ち上がる前に追撃を仕掛けてくる。
――っ!――盾もない、回避も間に合わない。――何かっ、何かないのか!――駄目だ、打つ手がない!
打開策を探すも何も浮かばず、悔しさで地面に接している左手を握り絞める。
僕は自然とその左手を見つめる様に下を向くこととなり、そして…あることに気づいた。
――!あるじゃないか、最後の悪足掻きが…。
「これならどうだ!」
狼がもう目前まで迫り、すんでのところで僕は狼の顔面に握り締めた土を投げつけ、横に転がった。
「ガゥゥア!」
――攻めるなら、今しかない――。
狼は、舞い上がって目に入った土を払い除ける為、しきりに頭を振っている。
僕はそんな狼の、えぐれた首筋目掛けて駆け出す。
―――そして、鋭く折れた切っ先を力の限り突き刺した。
「ガッゥゥゥァァアアアアアアアアアアアア!」
苦痛の叫びが、辺りに木霊する。のたうち回る狼だったが、剣が刺さったままふらふらとした足取りで、なんとか後方に飛びさり距離をとった。
その合い間に僕も、盾を拾い上げ構えた。
ふらついてるところをみるに、ダメージはあったみたいだ。けど…あいつ、差し込まれる瞬間、身体を逸らして致命傷を避けたうえ、深く刺さりきる前に僕を噛み殺そうとまでしてきた。
あの状態で…なんて器用なんだ。
警戒しているのか、その場を動くつもりはないみたいだな。
ここは攻めるか?…いや、ここはこのまま時間を稼ごう。僕にはあの狼を倒せる決定打がない。それに、下手に攻めに回った方が瞬殺されそうだ。
このまま…躱して、守って、逃げ続けて、凌ぎきれれば、おのずと狼の体力も尽きる………はずだ。
そうであればこそ――――――無様でも勝ち目はある。それだけが、僕にとっての唯一の勝ち筋なのだから。
こちらに考える時間など与えないと言わんばかりに、警戒していた狼がまたも襲いかかる。
今度は後ろも取らずに、正々堂々と真正面から。
さっきのダメージもあってか明らかにスピードが落ちている。
こちらも盾で応戦する――が、狼は死に物狂いで盾に喰らいつくと、そのまま僕を押し倒した。
余力が少なくなってきたから、力づくに戦法を変えてきたのか!?
今にも盾もろとも噛み砕かんとする狼。次第に、盾にも異変が起きた。
この盾は汚れてはいたものの、頑丈さは鉄にも負けないと思わせる程で、それでいて随分と軽い。材質は不明だが、悪い品ではないのは確かだった。
…にも関わらず、現状…盾はバキバキと悲鳴を上げていた。
「――っ!…盾がっ…もたない…」
足で何度も、何度も蹴り続ける。それでも狼はまるで堪えた様子もなく、勢いは止まらない。そんな中、さらに盾の破損が進む。
………死ぬのか、僕は。こんなにも、突然に……いや、そうでもないか。人なんて死ぬ時は死ぬ。
それが、事故であれ、自殺であれ、寿命であれ、病気であれ、はたまた恨み、妬み、怒り、欲望などによる殺しであれ、人が死ぬ理由なんて様々ある。
自分がいつ死ぬかなんて誰にもわからないのだ。今日かもしれないし、明日かもしれない。何十年も先かもしれない。
だからこそ…死ぬ事は特別なんかじゃない。死は案外と身近なものなのだ。生きるって事は、他の生き物を殺して食らうという事なのだ。
僕自身、漁師さんと狩った獲物を殺して、食べてきたのだから…立場が代わっただけだ。
…そのはずだ。そのはずなんだ………だけど。
―――嫌だ……嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!―――こんな…こんな、何もわからないまま、何も知ることもなく、大切な人達の名前まで忘れて、自分の名前さえ忘れて、このまま死ぬ…。
「――そんなの、受け入れられるわけ無い!」
僕は…生きたい。ただ――それだけだ!だから考えろ、考えるんだ!思考し続けろ!諦めるな、足掻いて、もがいて切り抜けろ!僕は自分にそう言い聞かせ、起死回生になり得る可能性を探す。
「――あれは!」
けど、これは…イチかバチかの博打だ。いや――迷うな!これしかない、覚悟を決めろ。
「うぉおおおおおおおおおおおお」
僕は今にも壊れてしまいそうな盾に、力の限り前へと押しだし盾を離した。
それと同時、僕は狼の左前足付近に転がる。不意に抵抗が無くなり、視界より標的が消えた事で一瞬戸惑う狼。
その隙に僕は、素早い身のこなしで今だ盾に喰らいついて空いたままになった狼の、口腔内の隙間目掛けて全力で拳を叩き込んだ。
「―――ガッフゥッ!―ガゥっ――!」
さすがの狼も内側から攻撃は効いたようで、森に唸り声を轟かせた。
できるだけ攻撃の成功率を上げたかった為、見えていない方側から不意打ちしたが、ただでさえ赤い隻眼が、まるで赤く輝いて光を発したかのようにさえ見える程に激昂していた。
狼はその隻眼で、標的を再度噛み砕かんと、残骸となった盾を投げ捨て歯を剥き出しに威嚇する。そこでようやく、狼は標的がいない事に気づいた。
どこにいった!と言わんばかりに、辺りに睨みを利かす。
狼が標的を見つけるのと、ほぼ同時。なんと標的が狼の背中に飛び乗ってきたのだ。
「ガゥゥアアアアアアアアアア!」
「――っ!振り落とされてたまるか!」
暴れ馬の如く、振り払わんとする狼。
僕は、狼の胴体に足をクロスさせ、左手で首をホールドして張り付く。少しでも気を緩めば、すぐに吹き飛ばされる勢いの中、死に物狂いでしがみつく。
そのまま立て続けに、背中に飛び乗る前に回収していた鋭い突起物を、右手に構える――そして。
「これでっ――止めだぁぁああああああああああああ!」
僕は、あらんかぎりの雄叫びと共に、鋭い突起物もとい折れたロングソードの破片を突き刺した。
「ガッッッゥァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
苦痛の叫び声を上げ、激しくもがき苦しむ狼。あまりの揺れの激しさに、僕は背中から引き剥がされ、近くの黒鉄の大樹へと叩きつけられた。
「―――ごほぉおっ!」
衝撃が強すぎて、内蔵を傷つけたのか吐血し、うずくまる青年。
――痛い――痛い――痛い!――意識が飛びそうなぐらい痛い、まるで全身を殴打されたみたいだ…。
頭も打ったみたいで頭痛もひどく、上手く力が入らない。起き上がろうにも、産まれたての小鹿の様に倒れてしまう。
っ…もう身体がぁ……動かっ…ない。あの、狼は…。
僕は残った余力を使い、狼の方へ首を無理矢理向ける…そこには。
――立っていた。両目も失い。全身からおびただしい量の血を流し。折れたロングソードが二本とも突き刺さったまま。悠然とこちらを向いていた。いつ死んでもおかしくはない、そんな状態で…。
「ガルゥゥァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
凄まじい咆哮を上げた。
―――執念なのだろう。一歩…また一歩…と、狼は少しずつ僕との距離を縮めて来た。
――そんなっ……嘘だろ!…まだ、動くのか…。
眼も潰したのに、音と匂いでこっちの位置を割り出したにしても早すぎるっ―!…もしかして、元々眼ばかりに頼っていなかったのか。
隻眼でもあったし、よく考えたら当たり前か…。
でも…だとしても、抗える限りは尽くした。逆によくここまでやれたもんだと心底思う。
「…おわり…かぁ……し……た…く…な…ぃ……ぁ…」
その言葉を最後に、僕の意識は消えさった。
動かなくなった青年のとうとう目の前までたどり着く狼。
その巨大口で…青年の喉元を噛みちぎろうとして大口を開ける…。
が、それは…………………………叶わなかった。
狼は、糸の切れた操り人形のように青年を目前に、バタンッと音を立て倒れ込んでしまった。
さすがに限界がきていた。
ただでさえ、風前の灯のような命をさらに無理をして酷使したのだから、当たり前の結果だった。
それでもなお、まだ死んだわけではなく、ヒュゥ、ヒュゥと肩で息をしているのをみるに、とてつもない生命力だといえる。
――だが、しばらくして狼は静かに息を潜めるように絶命した…。
『ユニークスキル…為り変わる者の能力によりヴァナルガンドを選択可能となりました。また、現在未セットの為、選択可能であるヴァナルガンドが自動セットされました。』
前触れもなく、ただただ機械的にそんな声が青年の頭に流れた。
しかし、意識のない彼に、それに気づくすべはなかった………。