障子の影
ホラーというほどではない地味地味な怪談です。
ぼくが生まれ育ったのは、田舎の城下町だ。田舎っていっても、一応は県庁所在地なんだけれどね、それでも田舎は田舎さ。ぼくがちいさなころはまだ田んぼがあったし、春になれば土手にはノビルが生えた。よく採ってきちゃ食べたよ。それでも川は汚かったね。製紙工場があるせいか川岸には灰色のヘドロが積もってさ、ぼくたち子供は鼻をつまんで通り抜けたよ。街の通りもあんまりいい匂いはしなかった。ぼくが育ったあたりは雛道具が地場産業で、そのせいなんだろう、通りを歩いていると、接着剤がぷうんと匂うんだ。
だけど、その家だけは、いつも、いい匂いがしたんだ。あまり大きな家ではなかったけれども、古めかしい造りの広い玄関がある家だった。学校の帰りがけに、ぼくはよく中を覗いたよ。玄関はたいていは開け放ってあって、きちんと掃き清められた三和土と上がりかまちの向こうに、細い廊下が通ってた。廊下の横には、絶対に開いていた試しのない障子があって、そこには日本髪の女の影が映ってた。いい匂いはそこから流れてくるようだった。昔ながらの、香を焚きしめたような甘いような薬くさいような匂いさ。
うん。たぶん、それがぼくの初恋だ。ぼくは十二だった。泥まみれになってるお転婆な同級生の女の子なんか、断じて好きにならなかった。うつむき加減の日本髪の女性が、大人びて魅力的に見えたんだ。もっともぼくは、彼女の影しか見なかったんだけどね。
まあ、話を急がないでくれよ。これで終わりではないんだ。
長いあいだ、ぼくはその家の前を通り過ぎるだけだった。ランドセルを背負って、同級生の悪ガキどもと一緒にね。よくジャンケンをして、負けた奴が何人分かのランドセルを持つってのをやった。あるときぼくは大負けして、八人分のランドセルを持つはめになった。八人分だよ、八人分、持てる訳がない。ぼくは山になったランドセルを呆然と見下ろして、通りに立ちすくんでいた。ジャンケンに勝った連中は、にやにやしてぼくのことを見るし、気の早い奴はもうどんどん公園に走っていってそこで遊んでいる。とにかく公園まで運んでしまえばいいのだから、分けて持っていったっていいのだが、負けを認めるのも癪にさわるもんだから、ぼくはランドセルをうっちゃらかして逃げちまおうと決めた。ぼくは自分のランドセルだけ持って、後先考えずに、ダッと走り出したんだ。もちろん、同級生の悪ガキ連中が後を追ってくる。ぼくは走って走って走った、もうやたらに走って、気がついたらあの家の前にいたんだ。ぼくはぜいぜい肩で息をしながら考えた。あの日本髪の女のひとなら、きっとぼくをかくまってくれるだろうってね。
悪ガキ連中が角を曲がってくるのが見えた。もう考えてる時間はない。ぼくは決死の覚悟で玄関に飛び込み、引き戸を閉めた。それから、靴箱のそばでちっちゃくなって、怒り狂った子供の声が通りすぎてゆくのを待った。どのくらいそうしていたかな、たぶん五分くらいのものだ。でも、ぼくにとっては凄く長い時間だった。後で何を言われるかわからないが、ひとまず今日はうまいことやり過ごした。ほっとしたぼくは、例の女のひとにお礼を言おうと思って立ち上がり、例の障子に手をかけた。障子には、いつものように、女のひとの影が映っていたよ。
「こんにちは」
何か挨拶をしなくちゃならないと子供心に考えて、ぼくは声をかけながら障子を開けた。返事はなかった。それも当然で、その部屋には誰もいなかったんだ。
そこは広い部屋ではなかった。ごく狭い三畳間だった。向かって左側に小さな床の間があって、めろめろと字の書かれた掛け軸が下がっている。右側には窓、ただし古ぼけて穴の開いた木製の雨戸が閉められている。天井には、これだけは近代的なごく当たり前の照明が皓々と光っている。そして正面にはまた閉ざされた障子、しかもそこには女の影が映っているんだ。
あれっとは思ったが、後に引くのがイヤだった。ぼくは靴を脱いで部屋に上がりこみ、おざなりの挨拶をしながら障子を開けた。
ところが、またそこは無人の部屋だったんだ。それも、前の部屋と同じような造りの三畳間だ。左側に床の間、右側に窓、皓々と明るい照明、正面には障子。床の間に飾ってあった掛け軸は違ったが、ほかはほとんど同じだ。障子に映った影まで同じだ。ぼくはなんだか馬鹿にされたような気がしてきた。長いあいだずうっと気にかけてきたのに、こんなのあるかという気がしてきた。それでどうしたかって? ぼくはもちろん、目の前にある障子を開けたのだ。
そこはまたもや無人の三畳間だった。前のふたつの部屋と同じ造りで、しかも、正面の障子には女の影が映っている。ぼくは小走りに障子に近づき、がらりと開けた。また同じ三畳間。ぼくは走りながら女の影が映った障子を開ける。また三畳間。無人。障子を開ける。誰もいない三畳間。障子を開ける。しつこいくらい三畳間。
どのくらい障子を開け続けただろう。ぼくは疲れて部屋の真ん中で立ち止まった。例の香を焚きしめたような匂いが、ひどく強くなっていた。ほのかに香るならいい匂いだが、強すぎるとそんなにいいものではない。どこか獣くさい匂いだ。ぼくはもう戻ろうと思った。目の前の障子には相変わらず女の影があったけれど、そんなものどうでもよくなっていた。それに、やっぱり、ぼくはちょっと怖かったのだ。外から見るとけして大きな家ではないのに、この、息を切らしてしまうほどに延々と続く三畳間はなんなのだろう。それにどうしてずうっと女のひとの影が障子に映っているんだろう。もしかしたら障子に影が描いてあるのか、それとも、ぼくが入ろうとするのを見計らって女のひとがどんどん逃げているのか。
好奇心が首をもたげてきた。ぼくはそっと障子に近づき、影の映った部分を指で押してみた。障子紙がたわむと、影は微妙にたわんだ。女の影はうつむいたままちっとも動かないが、少なくとも、描いてある影ではない。次に、行儀はわるいが、指につばをつけてちょんと穴を開け、中を覗いてみた。
「ぶわっはっはっは」
もの凄く太い笑い声が響き、ぼくは腰を抜かした。何が見えたかって、それが、馬鹿げた話だが、何も覚えていないのさ。戻ろう、逃げよう、ぼくはそれしか考えなかった。頭をしゃっきりさせようと大きくひとつ振ってから後ろを向くと、閉まった障子があって、そこには日本髪の女の影がうつむいている。目をまわして、どっちが前でどっちが後ろかもわからなくなったのかなと思って振り向くと、そこにも閉まった障子、女の影。
さて困った。どっちから帰っていいのかわからない。床の間が左で窓が右だったか、それともその逆だったか。ぼくは半泣きになった。それから思いついて雨戸と窓を開けた。窓枠によじ登り、飛び降りると、そこは、よく知っている裏通りだったのさ。
裸足で、半べそで、情けない気持ちでそこに突っ立っていると、うわーっというかん高い声が響いてきた。やばい、とぼくは思った。ぼくがランドセルを持たなかったというので怒っている悪ガキたちだ。ぼくは走った。走って走って走ったけれど、結局連中につかまってえらい目にあった。だが、そのことは、この話とはもう関係ない。
ぼくは、三十過ぎた最近になって、あの女の影のことをよく考えるんだ。もしかしたらあの影は、男をおびき寄せる餌だったんじゃないかってね。実際に日本髪の女がいたのかどうかはわからない。もしかしたらいなかったのかもしれない。だが、最後に障子を覗いたとき、そこに、何か得体の知れないものがいたのは絶対に確かだ。あの獣くささ、あの馬鹿にしたような野太い笑い声、あれはきっと何か異形の生き物なのだ。
なぜ助かったのか、ということも、最近はわかる気がする。窓を開ける機転があったから助かったわけじゃない。あいつはわざとぼくを見逃したんだ。ぼくはおそらく、子供過ぎたのだ。餌食にする気もおきないような、小汚いガキだったのさ。
大人になった今、その家に入ったら何が起きるだろうかって?
さあ、ぼくは行きたくないよ。行くんなら、一人で行ってくれ。
ほんとにあった話ではありません。類似の話がなかったというわけでもありません。