乳母の娘 下
エミリーが屋敷に奉公に出て、ちょうど一月が経った夜、使用人の宿舎でエミリーは母と水入らずの時間を過ごしていた。
「それでねっ、姫様はすごいの!」
「まあ! 驚きね」
目を輝かせてエリザの事を話すエミリーに、少々声を落としたアンナが優しげに頷く。エリザが本を好んで読む事や、決して泣かない事など、とても幼児とは思えない賢さがあることを、幼いメイド見習いは身振り手振りを交えて嬉しそうに語った。
「エミリーは本当に姫様が好きになったのね」
「うん! こうしてお母さんに会えるのも姫様のおかげだもの……でも」
「でも……どうかした?」
急に俯いてしまった娘に、アンナは首をかしげる。
「私、あまり姫様のお役に立ててない気がするの」
「どうしてそう思うのかしら?」
「姫様は手がかからないし、頭も良くて私が読み聞かせなくてもご本を読めるみたいだし……姫様に要らないって言われたらどうしよう。私、大好きな姫様の側にいて、お役に立ちたいの」
「大丈夫よ。あなたにも出来る事がきっとあるわ」
アンナは殊勝な発言をする娘の頭を愛情を込めて撫でながら言った。
「どうすればいいの?」
「そうね……今まで以上に姫様が何を求めていらっしゃるのか、あなた自身が考えてみてはどうかしら。もしかしたら、姫様でもお気づきになられていない事が分かるかも知れないわ」
エミリーは記憶を巡らせ、そして良くエリザがしている事をひとつ思い出した。
「出来る事、あるかも知れない。ありがとう! お母さん!」
「頑張ってね。エミリー」
◆
「姫様っ! お外に出ましょう!」
アンナが帰った朝。朝食を済ませた俺にエミリーが元気よく声をかけてきた。
「急にどうしたの? エミリーおねえちゃん」
「姫様がお外に出たがってる気がしたから。私が連れていってあげる!」
俺は彼女の洞察力の良さに驚いた。確かに俺は外に出たい。いくら知識を得る機会を得たとはいえ、実際にこの世界を見ないことにはどうしようもないからだ。逆にエミリーが来て多くの情報を得られるようになった今、その欲求は日増しに大きくなっていた。窓の外を見ることも多くなっていたかもしれない。
それを察して連れ出そうと考えてくれたのはありがたかったが、俺は首を横に振った。
「ありがとう、エミリーおねえちゃん。でもダメだよ。危ないもの」
「大丈夫だよ! すぐそこのお庭までだから」
そう言ってエミリーは窓の外を指差した。背伸びをしてみると中庭の東屋が見えた。いくつかの白い石段の上にあるそれは、春のうららかな日が差し込んで居心地が良さそうに見える。
――あそこまでなら大丈夫か。
幼児の暮らしに退屈もしていた俺は、自分の立場も忘れ、深く考えずに頷いてしまった。
◆
「うう……」
「エミリー! お前はなんと言う事をっ!」
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」
呻き声を上げて目を開くと、霞む視界の中で、使用人の一人がエミリーに鬼気迫る表情で詰め寄っていた。俺はというと、何時の間にか誰かに膝枕をされているようだった。状況を把握しようと起き上がろうとして、頭の痛みに再び呻きを上げる。
「起きては駄目よ、エリザ。額の傷が開いてしまうわ」
膝枕をしていてくれたのは母上だった。頭をそっと押さえられて身動きが出来なかったが、目線を動かすと先ほどの目的地であった東屋が見える。その足元の白い石段にはいくつか鮮やかな赤い血痕が付いていた。
――ああ、そうか。俺があそこで転んだんだ。
先ほどまでの記憶が戻り、意識を失う前にエミリーが泣きながら助けを呼びにいった事を思い出す。彼女は未だ詰問を受けていた。
「エリザッ!」
それを止めようした声は、屋敷から飛び出してきた父上の叫びにかき消された。
「これはどうした事かっ!」
周囲を威圧するような声が轟く。父上のこんな声を聞くのは初めてだった。娘が怪我を負った事で、完全に錯乱しているようだ。近くにいた使用人の一人が父上に睨み付けられ、慌てて顛末を話した。
「エミリーが姫様を連れ出し、お怪我を負わせたようですっ!」
――まずい。
父上がエミリーの方を向いた。肩を震わせ、沈黙したまま彼女をじっと見ている。その表情は背を向けられていた為分からなかったが、決して好意的なものでは無い事が、恐怖に膝を突いた彼女の怯える表情から伺えた。母上はエミリーに哀れみの目を向けていたが、沈黙を保っていた。
アンナはいない。エミリーの父は折悪しく領都アミーンの周辺警戒に出ている。ここに彼女の味方はいなかった。
父上の震えが止まる。深く息を吸った音が聞こえた。冷静になり、領主としての裁定を下すつもりなのだろう。もしここでエミリーが罰せられてしまった場合、彼女の将来は暗い。主を傷つけた者としての烙印を押されるからだ。それだけでなく、彼女の父やアンナも路頭に迷うことになる事すらありえる。俺の不注意から、世話になった人達が罰せられる。そんな理不尽を目前にした時、俺は子供の仮面を無意識に脱ぎ捨てていた。
「エミリー、お前をクラネッタから追……」
「父上っ!」
小さな身体から、信じられない程大きな声が出た。驚く母上の手をすり抜けて起き上がり、同様に驚愕して固まる父上の脇をふらつきながら取りぬけて、俺はエミリーの前に遮るように立った。
「びめざまっ!?」
「エリザッ!?」
使用人たちがどよめき、後ろからエミリーの涙混じりの悲痛な声が、正面からは父上の裏返りかけた声が挙がった。俺は父上を真っ向から見据え、その行動を問いただした。
「父上っ! 今何をされようとしたのですかっ!」
甲高い、幼児そのものの声、しかしその中に潜む確かな意志と理性に、誰一人として驚かない者はいなかった。
「エ、エリザ……?」
「お答え下さい、父上。今エミリーに何をされようとしたのですか」
繰り返し問われて、動揺しつつもようやっと父上が返答する。
「罪を犯した者には、罰を与えねばなるまい」
「何処に罪を犯した者がいるのです」
「エリザを傷つけたエミリーだ」
「この傷は私自身の不注意で付いたものですっ!」
「だがその者が連れ出さなければこうはならなかったっ!」
私がエミリーに責はないと伝えても、父上は納得しなかった。その時、急に左の視界が真っ赤に染まる。
「姫様っ!」
メイド達から悲鳴が上がる。どうやら額の傷が開き、血が流れ出たようだった。
「早く手当てをっ!」
「無用っ!」
慌てふためく周囲を一喝し、父上と再び向かい合う。娘の大喝に目を見開いている父上に向かって、俺はあえて傷を見せた。
「父上。この額の傷はどの位で治りましょうか」
「あ、ああ。手当てをすればすぐに良くなる。だから大人しく……」
「そうです。この傷はすぐに消えます。しかし父上はこのクラネッタに消えぬ傷を付けるというのですか」
「どういう事だ……?」
俺は切々と語った。行動が裏目に出たからとはいえ、主人を想ってそれを行った家臣を、我が娘可愛さに罰してはクラネッタの威信は地に落ちる。ましてやその家臣の父は信頼のおける騎士、母は俺を健康に育てた乳母であり、今回の仕置きはそんな彼らの忠義をも裏切る事だと主張した。
「しかし、お前はクラネッタの長子! 我らの宝なのだ! エリザ!」
「クラネッタの宝は私ではありません! 忠を尽くす家臣、懸命に励む領民以上の宝がありましょうか!」
俺がそう叫ぶと、沈黙が周囲を包んだ。いや、しゃくり上げるような嗚咽だけが聞こえ続けている。使用人たちが、咽び泣いていた。そしてその者達が父上の足元に跪き、次々に嘆願を始めたのだった。
「公爵様っ、どうかっ、どうかエミリーをお許し下さい!」
「我らが慈悲深き姫様がお悲しみになるご沙汰はお収め下さい! お願いいたしますっ」
「お願いいたします!」
信じられない光景だった。先程まで領主の怒りに震え上がっていた家臣達が、たった一人の幼児の言葉に心を動かされ、五体を土に汚してまで必死の懇願を行っている。
その様子を見た父上は、長い息を吐いた後にこう告げた。
「皆の気持ちは分かった。だが全くのお咎め無しという訳にもいかぬ。エミリーは一ヶ月の謹慎。その父マルセル、母アンナも同様とする。それでよいな、エリザ」
「謹慎が解け次第、復帰できるのならば」
「無論だ。エミリーは、お前の大切な臣なのだろう?」
力強く頷くと同時に、今更になって自分がしでかした事に気付いた。今までの言動はどう考えていても二歳児のものではない。どう言い訳するか考えていると、服を土で汚した使用人たちが、爆発のような歓声を挙げた。
「間違いない! 黄金色の瞳は偽りではなかった! やはり姫様は女帝エリザベート様の再来だ!」
「エリザベート様万歳! クラネッタ万歳! ライネガルド万歳!」
口々に俺を褒め称える使用人達に目を白黒とさせていると、父上が母上に語りかけていた。
「本当に、エリザはライネガルドの御子の生まれ変わりかも知れないな」
「あら、私は最初からそう申しておりましたよ」
「あの愛らしさだ、私は天使だと思っていたのだがね」
あまりの親バカっぷりに、誤魔化せた事への安堵よりも恥ずかしさが先に立つ。羞恥を振り払うように後ろに振り返ると、涙で目を真っ赤にしたエミリーと目があった。
「びめざま……どうじで」
瞳は涙に溢れ、鼻まで垂れてきている。俺は身に付けていた前掛けを脱ぎ、エミリーの顔を拭いた。
「お前は私の初めての家臣。そして友だ。主君は忠臣を愛おしむもの。それに罪なき友の庇い立てをするのは当たり前の事だろう」
「私が、姫様のお友達」
「そうだ。だから必ず戻って来い。エミリー!」
「……はいっ!」
エミリーの黒い眼に再び涙が宿り、いきなり俺の頭を掻き抱いた。
「姫様っ。ありがとうございます。ありがとうございますっ……」
「あっ、こら傷がまだ、ってあれ? 痛くないな……」
額の傷は、いつの間にか影も形も無くなっていた。この時、かつて転生した時に神の言った「おまけ」の一端を俺は理解する。
ただあまりにも早く傷が治った事で、益々古参の家臣達から神聖視される事にも繋がってしまったのだが。
◆
翌日。自宅謹慎中のエミリーは、居間で両親と向かいあっていた。
「エミリー」
「はい」
灰色の髪に、日に焼けて赤みがかった肌を持つ巌のような父、マルセルが重々しく口を開く。しかしエミリーは動じずに、真っ直ぐに父を見つめた。
「我々一家は、エリザベート様に救われた。この恩は、生涯を掛けて返さねばならない」
エミリーはしっかりと頷く。
「姫様が神に愛された方とはいえ、それゆえに危険が迫る時があろう。その時にお前があの御方をお守りするのだ」
マルセルは机に無骨な短剣を置いた。
「この一ヶ月で、お前に私の技術の全てを教え込む。エミリー。お前に命を掛けてあの御方をお守りする覚悟はあるか」
エミリーは躊躇わずに短剣の柄を取り、それを天に掲げて両親へ堂々と宣言した。
「勿論です! 姫様の、友と呼んで下さったあの方の元に必ず帰り、お仕えすると約束したのですから!」
エリザの為なら命も惜しまぬ無二の忠臣が、ここに生まれた。
◆
「本当に、心地よいな……」
思い出話の途中でそう呟いたエリザは、髪を撫で付けられてそのまま寝入ってしまった。日頃の疲れが溜まっていたのだろう。エミリーはそっと椅子からエリザを抱え上げ、天蓋付きのベッドへと運ぶ。静かに寝息を立てる主人に薄手の寝具を掛けた彼女は、長い黒髪がエリザの顔に掛からないよう手で押さえながら、そっとかつて傷を受けたおでこに口づけをして囁いた。
「必ず、お守りいたします。我が主人、我が友、我が愛しき人」
扉を閉じる僅かな音を残し、夏の夜は静かに、穏やかに更けていった。