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宵の妖精【前篇】

 1


 今年の夏は、ますますもって壊れてしまったかのようだ。八月になっても、まだ、例年通りの暑さというものを肌で感じられる陽気というものがない。こうなると、四季というものの存在と役割が疑わしくなる。本当に夏を通過して秋を迎えてしまいそうな、そんな寒い日が続いている。

 それこそ、十年前みたいだ。

 思いたくはないが、思ってしまう。

 思いたくない内容ほど、容易に頭の中に浮かび上がり、そういったものほど振り払えないものであると判っていながら、僕は小さく頭を振り、寒いと言った。

「寒いは言い過ぎよ」僕より少し遅れて後ろを歩く、古くからの友人である御形司ごぎょうつかさが、相変わらず気怠そうな声で言った。「涼しいのは過ごしやすくていい事じゃない。私達は農家ではないのだから、作物の出来を気温と合わせて不安がる必要もないでしょう?」

 そんな、まさしく農家みたいな事を言いながら、彼女は長く絹のような髪を夏らしくない風に靡かせた。

 彼女には、幽玄の美、という言葉がよく似合う。

 髪もそうだが、肌の白さや顔立ちは浮き世離れしたものがある。テレビで見かける偶像のようなアイドルと比較すれば、感性というものによって多少の差はあれど、大概の人間が同性異性問わず、彼女の容姿を美しいと評価するだろう。司は、年の頃では可愛いと呼ばれるべきなのだろうが、しかしながら、美しかった。

 だと言うのに、いつも気怠そうで、瞳はいつだってどこか遠くを見ているように惚けている。それこそ、魂というものを半分欠いたような様子なのだ。それのせいで、彼女という人間はいつも不当な評価を受けている。静止画であれば、きっと絶世の美女として崇められただろうに、僕がよく耳にする彼女に関する形容句は、人形だ。

 ちなみに、彼女には白が似合う。それも、何も混じっていない純白だと、僕は幼い頃から思っている。清楚や純潔を連想させるような純白だ。

 だが、彼女はいつだって赤い色の宗教的なフォルムをしたワンピースを着るのだ。シスターが着るような修道着で、その色は血の色みたく禍々しい赤色だ。

 それでは、連想するのは、純血だ。

 正直、勘弁願いたいものである。

 年頃なのだから、それなりにめかし込んで表情も多彩に変化させてくれれば、それはもう街行く人々が羨望の眼差しで眺める程のものが出来上がるというのに、その長所を掻き消してしまう短所は、先月彼女が帰ってきてからはより磨きがかかり、顕著になっている。

 幼い頃に不意に消え、不意に帰ってきたと思ったら、これだ。彼女の長所と短所は、彼女が世間的に失踪という状態にある十年の歳月の間に、高密度に圧縮され、余分なものは除去され、高級な貴金属品のように高純度になったらしい。

 僕と彼女の思い出というやつは、今のところほとんどが空白である。

 僕達がまだ小学生だった頃から先月までの凡そ十年間、彼女は消えていた。

 どこに行っていたのかは知らない。

 聞いてもいない。

 ただ彼女は、あの日忽然と僕の目の前から消えてしまった。

 小学生として迎える最後の夏の、あの日に、彼女は消えた。

 それこそ、空気に溶けるようにして彼女は消えた。

 そう、本当に消えていたのだ。

 どこかに行っていたのではなく、物理学的に、彼女はこの世界から消えていた。

 そんな現象が起こる筈はないのだろうけれど、そうとしか考えられなかった。

 彼女は確かに、一度、十年の間、消えていた。

 そんな彼女が、つい先月、ぽんと帰ってきた。それこそ何事もなかったかのように僕の前に姿を現した。

 十年振りに会った彼女を見て、僕はそこにいる人物が司だと確信できた。

 不思議なこともあるものだ。それが何故かと問われると、僕は何も言えなくなる。ただ、そう思ったのである。それは御形司だと、僕の本能が言っていたのだ。僕が彼女を司だと認識した理由はそれだけだった。

 今の司と十年前の司は、別人という言葉が適当である。なにせ、幼児から一気に成人したのだから、そんな感慨を抱くのは僕と彼女に限った話ではない。誰だって十年振りに誰かと再会すれば、対象に対して抱く印象は別人みたいだという単純なものだろう。

 だが、それでも僕は彼女が御形司だと言い切れた。

 目の前に立つ人形のような美しさを全身に纏った人物は、御形司以外に考えられなかった。

 聖蔭学園へ向かう道のりも中腹を越えたところで、僕は後ろから聞き馴染みのある鼻歌を聞いた。

 ベートーベンだった。交響曲第九番の、第四楽章。一番の盛り上がりとなる、あの大合唱の部分だ。

 歩きながら振り返ると、司が手を後ろで組み、機嫌良さそうに歩きながら第九を口ずさんでいた。しかし、無表情。その状況を見て、彼女が機嫌良さそうだと判断できるのは、きっと、僕くらいなものなのだろう。そう考えると、ちょっと、嬉しかったりするのだ。

 彼女はこの奇妙な気候さえ春の陽気と受け止めているかのように、軽やかな歩調で歓喜の歌を歌っていた。

 変わっていないな、と僕は思った。

 彼女はいつもそんなだった。何か良いことや楽しいことがあると、必ず第九を口ずさんでいた。幼い頃にも、何度か彼女が第九を口ずさんでいるところを見た事がある。後付けのようだが、これが十年振りの彼女を彼女だと実感した理由の一つでもある。

 涼やかで凛とした彼女の声を、僕はしばしの間堪能した。

「久し振りに聞いたな」目蓋を閉じ、彼女の歌を聞きながら僕は言った。「司の第九。どうしたんだい? 今日は何か良いことでもあったの?」

 第九が止まった。

「何もないわよ」

「でも、ほら。君はいつだって、機嫌の良い時しか歌わなかったじゃないか」

「そうだったかしら」彼女は人差し指を顎にあてて思いだそうとした。

「そうだよ」僕は頷きながら言った。「君は、機嫌がいいといつもそれを歌っていたよ」

「歌は、機嫌の良い時に歌うものでしょう?」

「まあ、そうだけど」言われて僕は苦笑した。彼女の言う事には一理も二理もある。道理だ。機嫌の悪い時に歌う人などいなかろう。いたとしても、極端なマイノリティだ。

 僕は蝋燭の火を消すように息を吐くと、頭を切り替えて念を押すように、……いや、忠告するように言った。

「今日、僕は、仕事で聖蔭へ向かうんだからね」意識してゆっくりと話した。「機嫌良さそうなのは良いのだけれど、お散歩じゃないから、くれぐれも邪魔だけはしないでくれよ」

「わかっているわよ」彼女はつまらなさそうな声で言った。振り返ると、彼女は頬を膨らませていた。これは天然記念物と同等の珍しさである。「信隆こそ、やらなきゃならないことはちゃんとやってちょうだいよね。お仕事なんだから」

「う。そう言うかな」

「だって、そうじゃない。信隆はお仕事。私は、……そうね」彼女は少しだけ考えてから言った。「リハビリ」

「リハビリって」僕は返す言葉に困惑する。

「仕方がないじゃない。だって……」彼女は言葉を止め、一秒ばかりの間を挟んだ後、どことなく儚げに言った。「ううん、なんでもないわ」

 そして彼女は瞳を細め、周囲を山で包囲されたこの街の外縁部に位置するこの場所から、眼下に広がる平面的に展開された屋根の並びを眺めた。

 聖蔭学園は街の端に位置していて、聖蔭よりも高い位置にある建物はこの街に存在していない。つまりは山の一番上にあるのだ。道のりはまだ中程だが、山肌を這うように伸びるこの道からは、それでも街全体を眼下に見渡せるだけの高低差があった。

 地盤の性質上、街には高い建物が建てられないらしい。平面的な展開をする街は、ここから眺めると巨大なパズルを連想させる。

 司はパズルの欠片を一つずつ確認するかのように、どことなく儚げな瞳で街を見下ろしていた。

 僕は彼女とは違う方向に顔を向ける。聖蔭学園の白い外壁だ。先程から、道の左手には、随分と前からこの白壁しか存在していない。高さは僕の倍ほどはあり、その上部からは、内側に密集している樹木の枝葉が、こちら側にはみ出している。

 頭の中では、司が今何を言おうとしたのだろうと考えていた。だって、という言葉の後に何を言おうとして、最終的に飲み込んだのか。どうして言わなかったのか。その言葉は何だったのか。

 相変わらず冷たい、季節らしからぬ風が吹いた。風は向かい風だった。風に運ばれた落葉が僕達の足元をすれ違う。葉はまだ緑色をしていた。若々しい色の落葉は、僕達とすれ違うと宙に舞い上がり、ガードレールを乗り越えて遥か下方の街を目指して緩やかな滑空を始める。

 司が何を言いたかったのか。

 それを僕は、知らない方が良いのだろうと考えた。

 その時僕は、彼女とは違う方向に顔を向けた。

 その理由は簡単だ。

 それだけの理由だ。



 家州信隆は、愚直すぎる性格を体現したような容姿の人間である。

 彼は、娯楽というやつを知らないままに育った人間だった。それは、十年前も今も変わっていない。身体にオプションを付加する事で外見を補正する事を、彼はまだ知識として得ていないのだ。年の頃の男子ならば、髪の色を変えたり、変則的な周期で循環する流行というものに服装を同調させてみたりとするものなのだろうが、どうやら信隆は、それらに一切の興味がないらしい。

 彼は、飾らない服装と髪型だが、持って生まれた外見のポテンシャルというものは平均的な部類である。全体の造形は悪くはないのだ。

 私はそういった顔立ち、造形に関して精通していないし、興味もないから審査員ぶった発言を得意とはしていないのだが、それでもこの愚直な男は、着飾ればそれなりに街の女の目線の一本や二本は奪えるだろうに、と思っている。だと言うのに、前述したとおりだ。

 もったいない。

 十年振りだという彼との再会の後に、私が彼に抱いた感想とは、それだった。

 好青年。

 彼を人種として振り分けるならば、あてがわれるのはそこ以外にない。そこ以外にあてがわれては、迫害の対象になる。

 私は、一度歌いやめたあの曲を再び口ずさんだ。私が好きな、あの曲を。

 歓喜を口ずさみながら、風景を堪能する。

 聖蔭へ続く長く緩やかな坂道は、昔と何一つ変わっていなかった。多少おぼろげな記憶ではあるものの、十年前に見ていた風景とおおよそ同じであるように見える。

 左側には、学園を外界から隔離するように聳える高らかな白壁。右側には等間隔に街路樹が植えられ、その向こうには平面的な街が見渡せる。植えられた樹は銀杏である。扇のような形をした葉は深い緑色をしているが、その数は少し少ないようだ。八月になっても夏らしい暑さというものがないからだろう。

 白い外壁の向こうには、鬱蒼とした森の一端が頭を覗かせている。

 聖蔭学園の広大な森だ。

 聖蔭は、学園という単語よりも森という単語の方が似合っていた。それも、十年前から変わっていない。

「そう言えば」思い出したように信隆が言った。「今朝、君の家から電話があったよ」

 私は鼻歌を止め、彼の言葉を聞いた。

「昨日、家に帰らなかったんだって? どこに行っていたんだい?」

「散歩よ」街を見渡しながら私は言った。「誰から?」

「なにが?」信隆は歩みを止めずに振り返る。

「家の誰から電話があったのかって」じれったそうな声で返した。

「あぁ、ええとね、……誰だったんだろう。わからないな。お手伝いさんじゃないかな。名前は言わなかったよ」

「御形のものですが、って?」

「そう、そう」信隆は運動でもするかのように首を振った。「散歩って、家にも帰らずに?」

「ええ」

「女の子がする事じゃないよ」叱るように彼が言った。

「仕方がないじゃない。私は……」

 また、思わず言いかけた言葉を、私は飲み込んだ。

「私は、なに?」信隆は不思議そうな顔をしている。

「なんでもないわ」

 誤魔化すように私は言った。信隆は、ふうん、と鼻を鳴らすような返事をして再び前を向く。

 仕方がないのだ。

 先程も言おうとして飲み込んだ言葉を、私は頭の中だけで呟いた。

 私は、ここが、過去に私が存在していた世界と同一なのだという実感が、まだ、抱けていない。

 私の前を歩く愚直な男が信隆だという実感が、精一杯だ。それ以外の一切には、それを感じられない。私の家族だという彼らにしても同様で、それらが私の家族なんだという実感がまるでない。

 頭の中では判っているのだ。漠然とだが、それらが私の両親というやつで、その繋がりが家族と呼ばれる集団なのだろうと。だが、私の頭の中に存在している十年の空白というやつが、それを曖昧にさせてしまう。曖昧な実感の下で交わされる交流、家族ごっこのような繋がりなど、互いの隔たりを浮き彫りにさせるだけで、より強く彼らを他人だと感じさせてしまう。そうしていると、この世界が過去に存在していた世界と同じであるという実感さえ、それらと共に曖昧になってしまうのだ。

 私は十年前のあの日、消えてしまった。

 それこそ、空気に溶けるように私は消えた。

 私が消えていた期間。それが十年だったらしい。

 それを教えられたのは信隆からである。私が消滅している間に彼が過ごした時間が十年だったと彼は言ったが、しかし、私からしてみれば一度だけまばたきをしたようなものだった。あの日、信隆の前でまばたきをしたら、この世界は十年の歳月を経過させていた。

 きっと、原因はそれなのだろう。私は考える事をやめるように、そう考えた。 私がまばたきをしたら、世界が変貌してしまったのだ。

「だめだよ」信隆が窘めるようにそう言ったのは、私が再び第九を口ずさもうとした時だ。「実感云々じゃない。君は確かに御形家の人間なんだから、あそこは君の家だよ。家は、帰る場所だろう?」

「そうだけど」

「なら、帰らないといけない。家に帰らないなんてもっての外だよ。ましてや年頃の女の子なんだから……」

「わかったわよ」信隆の小言に観念して、私は溜息と共に言った。「今日は帰る。ちゃんと帰るわ。それでいいんでしょう」

「もちろん」彼は満足げに頷いた。

 まったく、家州信隆という男は本当に十年の歳月を過ごしたのかと疑いたくなるほど、何も変わっていない。彼は私がまばたきをする前も、こういう性格だった。口うるさく、身の振舞と人の正しい在り方というものを大事にする。彼は十年前も今も、何も変わっていない。彼が成長をしたのは背丈だけだった。

 だからこそ、私がこうして居られるのだろう。

 だからこそ、彼だけに実感が抱けるのだろう。

 今も昔も何ひとつ変わらない彼が、私を繋ぎとめている唯一の楔。

 所謂、原風景というやつだ。



「――あ」

 喘ぐような声で、司が何かに気付いた。

 その時僕は、先程の司の表情をカメラか何かで撮影しておけばよかったと後悔していたところだった。あんな顔をするのは本当に珍しい。今までに――いや、十年前までにも見た事はないと言って過言にならないくらいに希有な表情だった。司が頬を膨らませるなんて、ツチノコや宇宙人と遭遇する確率よりも、うんと低い。それこそ、その低さは天文学的な低確率だ。

「どうしたの?」そんな事を考えながら振り返ると、彼女は立ち止まって耳を澄ましていた。何を聞こうとしているのかは判らない。

「なにかあった?」もう一度聞いた。

「聞こえないなって」

「聞こえないって、なにが?」

 僕も耳を澄ましてみたが、聞こえるのは木々のざわめきだけだった。

 聖蔭学園に隣接したこの周辺は、喧騒とは無縁の静かな場所である。よく耳を澄まさなければ聖蔭の森の木々が揺れる音以外には何も聞こえない。

「まあ、確かに静かな場所だけど……」

「そうじゃなくて、蝉よ」

「蝉? ……ああ、なるほど。蝉ね」

「そうよ」司は頷き、斜め上を見た。その方向には聖蔭の白壁を乗り越え路上へと伸びる木の枝があった。「全然鳴いてない」

 司の言うとおり、八月を迎えたというのに街中のどこにも夏の音が響いていなかった。あの鬱陶しいまでの蝉の喧騒が、今年はまだ聞こえない。

「まあ、こんな寒い夏だから」僕は両肩を竦めながら言った。

「だから、寒いは言い過ぎ」

「異常気象らしいよ。今年の蝉は、地中から出て来られないんじゃないかな」

「寒すぎて?」

「そう」

「まさか」

「でも、蝉がまだ鳴いていないのは事実だろう?」

「あの時と同じね」

「え?」

「あの夏と……」

「あ、うん。……そうだね」

 僕は息を止めて呻くように言った。

 そういう類似点も、本当に勘弁願いたいのである。


 2


 聖蔭学園は、この街にある森のひとつである。その歴史は古く、設立された年代は、今から五つは世代を遡る計算になる。

 前身となるのは、一つの小さな教会と御形家である。その教会は無数に枝分かれしたキリスト教の教派においてはメソジストに分類されていた事もあり、その教会に付随させるかたちで御形家が資金と土地を融資し、テーマパークでも出来上がりそうかな程に広大な敷地面積を有するミッションスクールが出来上がった。これだけ広くなった理由は単純で、それだけ広い敷地面積にしても街としては困らないだけの土地が余っていたからである。余らして遊ばせておくなら、使ってしまえという判断だったのだろう。

 純潔と貞節を重んじ、文武両道をモットーとする校風は幼稚園時代から徹底され、エスカレートに聖蔭学園大学までを修業したなら、見目麗しき大和撫子が出来上がる、という仕組みである。

 教員でさえ男子禁制とされている、ある種の監獄みたいな場所だ(もっとも、これは男の目線から観測した場合の喩えである)。祭事を執り行う司祭や神父も、男性であるというだけで学園への立ち入りは、特例がなくては許されていない。きっと、大統領でさえ、許可なく敷地に足を踏み入れたなら、聖蔭は厳重に罰する事だろう。

 特例は二種類ある。祭事が執り行われる時か、今回の僕のような場合である。

 前者の場合は、基本的に聖蔭から声がかかり、依頼された人間だけが聖蔭の敷地を踏む事ができる。

 そうではない場合、すなわち僕が聖蔭の敷地内にいる今のような場合とは、在校生が学園に対して申請を出し、学園側からの許可が下りた場合にのみ、学園が閉門するまでの数時間だけ男性は聖蔭の内部に立ち入る事ができる。授業が終わる時間は知らないのだが、閉門の時間は知っている。夕方の6時である。その時間になると、学園に一つしかない門は閉ざされ、それ以降は学園の寮で生活をしている僅かな生徒と夜勤の職員、それから、シスターしか広大なこの空間には存在しなくなる。

 今は授業が終わったばかりだから、敷地内には生徒が大勢存在していた。帰路についている生徒もいれば、部活動の最中らしい生徒もいた。もちろん、それらのすべては、僕より若い女の子である。

 正直、僕だって健全な男子だ。女性の園に立ち入る事には幾許かの躊躇いや罪悪感はあるものの、喜びと言うか、男としての高揚感は感じてしまう。なんと言ったって、今この瞬間、広い聖蔭の敷地内に男はこの僕しか存在していないのだから。下世話な言葉だが、客観視したなら、ハーレムと同義の状態である。

 しかし、校風が校風だ。そんなわけだから、聖蔭の中を歩く僕の気分は、鉛を全身に接着されたかのように、重たい。

 生徒である女の子達から僕へと向けられている視線は鋭く、不審者を見るかのようなものばかりだ。極度のマゾヒストでなければ、この境遇は耐えられそうもない。

「視線が痛い」少しも笑えず、僕はぼやいた。「穴がなくても穴を掘って入りたい気分だ。今ばかりは自分が男だって事実を悔やむよ」

 後ろでくすりと、司の笑う声がした。

 他人事だと思って、ひどい幼なじみである。先程と同じように、また喜びの歌なんかを歌っている。それも、さっきよりも上機嫌だから、なおのことひどい。

「居心地、悪いですよね」案内をしてくれている生徒が申し訳なさげに言った。彼女は僕の左前方を、ゆっくりと進んでいる。「ごめんなさい。男性が来るといつもこうなんです。変に意識してしまって、……とにかく、ごめんなさい」

 その彼女が立ち止まり、こちらに身体の正面を向け、身体を折り畳むように深々と頭を下げると、頭の高い位置で結わえた彼女の髪はふわりと揺れながら下に垂れた。そのまま彼女は停止する。後頭部がこちらに向いたままである。人のつむじをこんなにもしっかりと見られる機会というのは、なかなかないだろう。

「いいえ、辛抱しますから」僕は両手の位置を胸の前にして、少女に手のひらが見えるようにした。「そんな、気にしないで」

「本当にすみません。友人に相談をしたらあなたの事を教えてもらったので、学園に無理を言って許可をいただいたんです」

「そうみたいですね。学園の方からも、電話をいただいた時にそんな事を言われました」

 そうは言ったが、頭の中でその電話の内容を思い出そうとしても、僕の頭にはその時の会話というやつが何一つ浮かび上がってこなかった。つまり、大して重要な話や情報が、そこには含まれていなかったという事なのだろう。あったとするなら、いつ、何時に、聖蔭の正門へ来て下さいという部分だけだった。

「家州様は、家州教会の御子息様なんですよね」少女は確認をするような口調で言った。

 言われて僕は、短く呻いた。

 正直、僕はそう呼ばれるのが苦手なのだ。御子息様、という呼ばれ方の方ではなく、家州様という呼称の方が。

 家州の家系が古くからこの街で教会を継いでいる事を、街のほとんどの人間が知っている。この街で一番有名な固有名詞は、みっつ。聖蔭、御形、そして家州だ。

 聖蔭学園が設立された時に前身となったのが、家州の教会である。つまり、僕の先祖と司の先祖が聖蔭学園を創設した事になる。そういった事から、家州という固有名詞には大概”様”が付加されるのだが、僕はどうもこいつに弱いのだ。

 というか、苦手だ。はっきりと言ってしまうなら、大嫌いだった。

「えっと、様はよしてくれないかな」

 提案という形式で頼んでみると、少女は僕を見たまま瞳を綺麗な円形にし、数回まばたきをした。僕の言葉がわかりません、という意味の顔である。

「なぜですか?」少女は首を傾ける。瞳は円形を保ったままだった。

「何故って、事実偉くもない人間が、様、なんて呼ばれるなんて、むず痒くてかなわないじゃないか」

「偉い方だと思います」少女は、日常会話の雰囲気のまま、言った。「教会を継がれる事が、もう決まっているとも聞きました」

「まあ、そうなんだけど……」僕は言葉の語尾を濁らせる。

 そうしている内に、少女が言った。

「目上の方に粗悪な言葉は使えません。シスターに叱られてしまいます」

「でも、ほら、言ってしまえば僕はまだ若葉マークの見習いだから……。家州教会だって司祭はまだ僕の父だし、継ぐと言っても先の話。なら、今の僕はただ家州という家系にいるだけの若僧で、家州様、なんて呼ばれる程に崇高な存在じゃないさ。だから、その敬称は勘弁してもらえないだろうか。正直に言うとね、慣れていないんだよ、そう呼ばれる事に」僕は、なるたけ一息の内に、思いの丈を打ち明けてみた。

「はあ」首の傾きを元に戻しながら、少女は数秒考えた。「それなら、呼び捨ては無礼でしょうから、家州さん、でよろしいでしょうか」

「ああ、うん。そうですね。その方が千倍くらい気が楽です」

「千倍だなんて」少女は握った拳を口の前にあてて笑った。

 聖蔭学園高等部の一年生だという彼女は、実年齢らしからぬ仕草をする少女だった。まさに聖蔭の生徒といった雰囲気である。今の笑い方にも、女性としての淑やかさと清楚さと柔媚に、高雅と栄華が入り混じっていた。

 学園の外で彼女を見かけたなら、一体どこの令嬢か、あるいは皇女だろうかと思っただろうが、ここ、聖蔭では、彼女のような人間は平均的な部類である。

 少女の案内で学園の中を歩くこと、十数分。それでも校舎らしきものはまだ見えてこない。周囲は変化した箇所を発見するのが困難なほどに同じ風景が続いていた。

 聖蔭学園の、気が触れるくらいの広さを改めて実感した。周囲は相変わらずの森林風景。毎日ここに通う行為は、差し詰め登校ではなくハイキングといったところだろう。

 今、聖蔭のどの辺りにいるのかを正確に把握できていないが、確か、高等部の校舎の手前には礼拝堂があった筈だ。北欧から移設したという、年齢で言うと百歳を越える、古い礼拝堂である。

「もう少しで校舎につきますから」少女が教えてくれた。

 という事は、今僕らがいる、この周囲の森のどこかにその礼拝堂があるのだろうが、鬱蒼と茂った木々の頂が高すぎて、ここからではそれを見つける事が出来ない。

 少し残念だった。

 以前から、一度その礼拝堂を直に見てみたいと思っていたのだ。

「そちらの方は?」

 僕が礼拝堂を見つけようとして周囲を見渡していると、少女が手のひらで司を指しながら言った。

「ああ、彼女?」僕は後ろを歩いている司をちらりと一瞥した。

 司は相変わらずぼんやりとした眼差しで歩いていた。今も第九を口ずさんでいて、リピート再生がされている歓喜の歌は、今三度目の山場を迎えるところだった。

「恋仲の方、でしょうか?」声を小さくして少女は言った。

 男女が番いでいれば恋仲なのかと、まあなんとも、思春期の少女らしい発言である。ついでに、恋人ではなく恋仲と言ったあたりに関しては、聖蔭の生徒らしい発言だ。古文のような問いである。

「違います」僕は、はっきりと明言した。

 今はまだ、という単語を付加させたかったのだが、初対面の、それも、年下の少女に僕の司に対する淡い期待を具体性のある言葉で説明するのもどうかと思い、それは自分の胸中に留めておく事にした。

「彼女の名前は、御形司」僕は、司と少女を交互に見た。「御形家の長女で、僕の幼なじみです」

「御形の」少女ははっとして、全身を緊張させた。ある意味で、予想通りの反応である。

「そう、御形の人間です」僕は、日常会話の口調を維持して言葉を返した。

「すごい」しかし少女は、感嘆句と、それに比例した表情で、司を視線の先に置いていた。瞳の形状は、つい先程と同様の、真正の円形だった。

「聖蔭学園を創設された方のご子孫様同士だなんて」少女は、吐息と声と音の、それらの中間に位置する形容の難解な音を発声した。「ああ、こんなにも稀なことは、滅多にもありません」

「すごいのは先祖です」少女の言葉を遮って、僕は言った。「僕は何もすごくない」

 僕はおどけるように肩を持ち上げた。

「いえ、今もこうして繋がりがあるという事がすごいなと……」少女は変わらぬ態度と声で言った。

「家同士はもっと古くから交流があったらしいから」両手を振りながら、僕は説明した。この時の手振りと説明の内容には、なんら関係性がない。何かの説明をする時に両手が動いてしまうというのが、僕の癖だった。「きっとこの先、何千年経っても、この関係は変わらないと思いますよ。御形と家州は、そういう家同士なんです。ちなみに彼女はただの付き添い。本人は散歩だと言っています。彼女、一応聖蔭のOBだから、久し振りに学園の中を見たかったんじゃないかな」

「え、そうなんですか?」

 そう、と首を縦に動かしてから、僕は一応の補足をした。

「あ。ただ、中学からは、その、……色々あって、在籍は小学校までってことになっているのかな」色々、の部分の説明は割愛した。「とにかく、彼女は元聖蔭学園の生徒」

「なんだか、それだと退学したみたいじゃない」不服げな司の声がした。

 振り返ると、頬を膨らませる彼女がいた。

 なんて事だ。

 一日の内に二度も天然記念物級の珍しさに僕は遭遇した。ひょっとしたら、今日これまでの時間の内に一生分の幸運を使い果たしてやいないだろうか。

 僕がそんなどうでもいい事を考えている間に、司は越冬準備をしている栗鼠のような頬で訴える。

「OBでいいじゃない。元、だなんて……」

「ごめんごめん」

「謝っているように聞こえないよ、信隆」

「ちゃんと謝ってるって」

「仲がよろしいんですね」少女が聖母のような頬笑みを浮かべて言った。

「まあ、幼なじみとして平均的な程度に」僕は口元を斜めにして言う。

「……あ」少女は何かを思い出したような声を唐突に発した。「私、まだ自己紹介をしていませんでした」

「あれ、そうだっけ?」

 僕は斜め上を見上げながら思い返すが、確かに彼女と会ってから今までの間に、彼女がそういった行為を行った記憶がない。僕は事前情報として少女の名前を知ってはいたが、あくまで名前だけだ。だが、名前だけを知っていたから、これまでの間に互いの自己紹介がなくても違和感なく会話ができていたのだろう。

「大変失礼をいたしました」

 少女は再び身体を折り畳むように頭を下げ、それからゆっくりと、倒した上半身を持ち上げながらしおらしい声で、少しだけ特徴的な自分の名前を歌うように言った。

すだくと申します」

 小さく会釈し、次にフルネームを。

「集結花。聖蔭学園高等部の、一年です」

 その名前を聞いた時、司が妙に怖い顔をした事を覚えている。


 3


 案内された集さんの部屋は、いかにも彼女らしい装いだった。

 聖蔭寮は基本的に一人部屋で、長方形のワンルームで、典型的な一人暮らし用の部屋と同様の形状をしていた。ベッドと机が置かれ、その内装は年頃の少女らしいものだった。淡い薄紅色で統一されたカーテンやベッドカバー。備え付けのクローゼットが大きいのか、机とベッド以外の家具はローテーブルだけだったが、そのテーブルの上には小さな観葉植物と陶器の器が置かれていた。その器はお香を焚く為のものだろう。室内は花のような甘い香りに包まれている。

 この部屋に到着した時に集さんから、ソファーがないからベッドを腰の下ろし場所にと薦められたのだが、僕はそれを失礼のない言葉で断った。女の子の寝床に座るという行為に、躊躇いがあったからだ。

 司は気兼ねすらなく好意に甘えベッドに腰を下ろしているが、僕は床に正座である。

 彼女の部屋からは聖蔭の森が一望出来た。高等部の裏手に構える寮は、校舎よりフロアが一階だけ多く、集さんの部屋は最上階にあった。つまり、聖蔭学園の敷地内には屋上を除いてこのフロアよりも高い位置が存在していないということになる。

 窓から見える風景画さながらの聖蔭学園の群青色の樹海の隅に、宗教的な形状をした鋭利な三角屋根が見えた。件の古い礼拝堂だろう。

 帰りに時間があれば少し寄ってみようかな、と、僕が考えていた時に、彼女は話し始めた。

「消えてしまった私の友人を、探して下さい」

 僕は、脱線していた思考回路を集さんの言葉へ軌道修正する。

 正座のまま背を伸ばし、深く息を吸い、それをゆっくりと吐き出した。

 詳しい事は判らないが、それは現実に起きている出来事らしい。よって、その話を最初に聞いた時に僕は率直な感想として御伽噺を連想したのだが、実際にはそうではなく、言うなれば史実ということになるのだろう。

 集さんが言うには、先月から彼女の友人がふたり、行方不明になっているらしい。ひとりは実家から通っている生徒で、もうひとりは集さんと同じく寮暮らしをしている生徒だと言う。名前は、実家から通っている生徒が美野里、寮暮らしをしている生徒が沙也加。ふたりとも集さんと同じ学年だが、ふたりとも彼女とは別のクラスだった。

 フルネームは教えてもらえなかった。集さんは名前だけを告げた後、僕が名字を聞くよりも先に話の続きを言葉を唇の隙間からこぼすようにして語りはじめた。

 ふたりとも、彼女にとっては掛け替えのない親友だったんだそうだ。集さんは今にも泣き出しそうな震える声でそう言った。

 事態が判明したのはちょうど一月前。

 朝の礼拝でふたりの姿が礼拝堂にない事を訝しんでいたら、その礼拝の終わりにシスターに呼び出され、寮暮らしの友人が昨日から部屋に帰っておらず今朝も姿が見えないと教えられたのだそうだ。

 その直後、親友がひとり行方知れずになっている事に不安感や心配を抱く間もない内に、実家から通っている親友の自宅から電話が入る。受話器越しに伝えられた用件はシスターから聞かされた内容と同じだった。そちらの生徒も昨日から帰っておらず、今朝になってもまだ姿が見えない。

 集さんが不安感を抱いたのは、その電話を切った後だったそうだ。その時彼女は、胸の内側を何かが這っているような不快な感覚を感じたと教えてくれた。僕はそれが、いわゆる恐怖というやつなんだろうと察した。

 親友がふたりまったく同じタイミングで失踪をすれば、抱くのは不安や心配ではなく、恐怖であるというのが大概の感慨だ。

 だが、それだけを聞くとそれだけの話である気がしてならない。つまり、家出か誘拐かを明確にはできないが、年頃の女の子がふたり、同じタイミングで行方不明になってしまったというだけの話だ。そこに事件性を感じるのなら、感じればいい。非行からの家出だと思うのも勝手だ。別段気になる話でもないし、珍しい話でもない。人がいなくなるなんて、広い視野で見たなら日常茶飯事に起きている。夜逃げだって、傍から見たならそれらと同義だ。

 話を聞かされた直後の僕には、これは女の子がただ失踪しただけの話にしか考えられなかった。それだけの話に僕を引っ張り出してきた理由が判らない。家出にしたって誘拐にしたって、そういった事は警察に相談すべきであって、僕に話すのはお門違いに思える。

 この話にはまだ続きがあるというのであれば、それはまた別なのだろうが。

 それを予想して訊ねてみると、正解だった。

 警察への相談が出来ない理由があった。

 警察への通報はしたらしい。

 しかし、その行為は無意味に終わってしまった。

「消えてしまったんです」集さんは俯きながら言った。「本当に、消えてしまったんです」

「消えた、って、それはもう聞いたけど……」

「そうではないんです」彼女は僕の言葉尻にかぶせる。「行方不明とかではなくて、消えたんです、本当に、ふたりとも、消えてしまって……」

 集さんの声は今にも泣き出しそうな響きだった。俯いているから見えないだけで、ひょっとしたら既に彼女の目尻には涙が溢れていて、今、その雫がこぼれるところだったのかもしれない。彼女はそこまでをどうにか言い切ると、下を向いたまま左腕で瞳を擦った。

 僕は年頃の少女が恐らく流したであろう涙に多少の困惑をしながら、形状を確認するように自分の顎を揉んだ。

 どうやらこの話は、もう少し詳しく聞かねば事態の全体を把握することができないようだ。ミステリーと同じだ。僕は案内された聖蔭寮の一室で、吐息を混じらせて小さく呻いた。

「おかしいな、と感じたのはそれから一週間程してからです」

 僕は礼拝堂のことや、様々な余分な思考と情報を頭の中から放り投げ、彼女の話に集中した。

 ふたりの謎の失踪から日が流れ、彼女としても動揺が多少落ち着いた頃、彼女は実家から通っている友人の家に電話をし、その後どうなったのかと訊ねた。それまでの一週間、彼女の元にふたりに関する情報は一切入ってこなかったのだそうだ。

 コール音も数回で、友人の母親は電話に出た。

「聞いてみたんです。どうですか、彼女から連絡はありましたか、見つかりましたかって」

 そうしたら、母親は酷く驚いてこう返したらしい。

 私に、娘は、居ない。

 その言葉に、僕の体は緊張をした。

 体温が、確実に数度、低下をした。

 膝の上にのせた拳に、無意識に力が入った。

 集さんは続ける。

「行方不明になるもなにも、そんな人は居ないと言うんです。おばさまは、私に娘はいないと……」

 そして、それはその友人だけではなかった。

 もうひとりの友人の事も同様に、寮の友人知人全員に聞いてまわった。

「結果は、同じでした」彼女は明らかに震えていた。両手と指先が落ち着かなくなる。「誰も、沙也加ちゃんのことを知らないと言うんです」

 友人知人、更にシスターに至るまでの全員が、口を揃えて行方不明のその少女の事など知らないと言った。そんな人間はこの学園に居ない。行方不明になるもなにも、そんな人物は、いないと。

「でも、それだとおかしいんです」集さんは唐突に早口になると、顔を上げてやや赤味がかった瞳で僕を見た。「沙也加ちゃんの部屋は確かにあるんです」

「部屋が、ある?」僕は首を左に傾けた。

 集さんは小さく、俯くように頷いた。彼女の頷きは見逃してしまいそうなほどに小さな動作である。

「残っているんです。沙也加ちゃんの部屋はこの聖蔭寮に確かに存在しているんです。部屋だけじゃありません。鞄も制服も家具も全部しっかりと残っているんです。それなのに、みんなは沙也加ちゃんの事を覚えていない……。美野里ちゃんも同じで……」体の震えを抑えようと、彼女は自分の肩を抱いた。「電話の後、どうしてもおばさまの言葉が信じられなくて、実際にご自宅まで伺って話を聞いたんです。でも、返された言葉はお電話をした時と同じでした。そんな子は知らないの一言だけ。なら、確かにある美野里ちゃんの部屋は誰の部屋なのかと聞いてみたんです。そしたら、おばさまはすごく混乱していました。わからないと言うんです。 娘は居ないと言ったのに、娘の部屋がある。その部屋が何なのかを、おばさまは知らなかった。どうしてそこにあるのかが、わからないと」

 それは寮でも同じだった。確かにそこにある、行方不明となった友人の部屋が何なのか。隣人や寮長に聞いて回るが、全員が判らないと言って混乱したのだと言う。

「二人は消えてしまったんです」集さんは自分にも言い聞かせるように、今度は逆に、ゆっくりと言った。「誰もふたりの事を覚えていない。みんな、ふたりの事を忘れてしまったんです。この世界からも、みんなの記憶の中からも、ふたりは消えてしまった……」

 そして彼女は沈黙し、下を向くと、動かなくなった。自分の膝を見つめている彼女からは啜り泣くような吐息が聞こえている。

 僕は腕を組み、一度頷いた。

 なるほど。そういう事態だから消えてしまったと言ったのか。

 ようやく彼女の言葉の意味を理解できた。

 しかし、理解したからこそ判らない事もある。

「質問をしてもいいですか?」僕は声量をおとして集さんに声をかけた。

 集さんは顔を上げた。どうぞ、といった言葉や仕草はなかったが、顔を上げた行為自体がそれと同意義だろうと解釈して、僕は腕を組むのをやめ、膝の上に手を戻しながら質問した。

 司は僕の後ろ、ベッドの上で大人しくしている。

「確か、僕の事を教えたのは君の友達だったね」しばらく前の会話を思い出しながら、僕は訊ねた。「友達から、僕に相談すればいいって教えられたって……」

 集さんは何も言わずに頷いた。

「それはどうして? 誰もふたりの事を覚えていないのなら、この件を相談出来る人も居なかったんじゃないのかな。それとも、その友人だけはふたりを忘れていなかった?」

「いいえ、彼女はふたりと面識すらありません」

「集さんの友達?」

「友達というか……」彼女は少しだけ言葉に悩んだ。「聖蔭大学の二年生なんですが、私とは古くからの付き合いで、その……お姉ちゃんみたいな人です。彼女は家州さんとお知り合いのようでしたが、……ご存知ないでしょうか。安部井さんです」

「安部井?」目を丸くして、僕はその名前に驚いた。たぶんその瞬間、僕は息を止めていただろう。「安部井って、安部井渚?」

「そうです。彼女とは幼なじみなんです。家が隣同士で」

「あぁ、そう、そうなんだ。彼女と君が、……へえ、そう」

 僕は必死に冷静であろうと努力したのだが、狼狽している事は誰の目にも明らかだっただろう。

 いやはや、これはなんたる奇縁だ。

 安部井。阿部井、渚。

 何年か前に知り合った、人物の名前だ。

「そうか。なるほどね」僕は安部井渚の個人情報を思い出しながら言った。「彼女も聖蔭の生徒だったんだ。それで、彼女と君が幼なじみで、彼女が僕を紹介した……うん、納得したよ。そう、そうだったっんだ。へぇ……」

 彼女は疫病神だろうか。

 そんなことを考えながら、しかしその辺に関する人間関係は今この瞬間には重要ではないだろうと判断し、僕は気を落ち着かせながら会話を元の流れに戻した。

 それに、司の前で渚の話をするのは、嫌だった。

「つまり、消えてしまったふたりと関わり合いのあった人物は全員、ふたりの事を忘れてしまっている、という事でいいね」

 問うと、集さんは泣きそうな顔で頷いた。

 だとすると、ひとつ気になる点がある。

 それは喉に詰まった小さな異物のように些細で、ともすれば些末なことなんだろうけれど、気になってしまうと解決するまで気になり続けてしまう、厄介なやつである。

 だが、実際に質問をするのはまたの機会にしよう。今の集さんは冷静ではない。僕が頭の中に思い浮かべた疑問符は、きっと彼女を余計に混乱させてしまうような気がしたのだ。この、僕の喉に詰まった小さな異物は、もう少しだけこのままにしておこう。

 それよりも、情報だ。もう少し情報が欲しい。彼女が僕にどうにかして欲しいと願っているのなら、僕には事態をもっと熟知していなければならない。現状はまだそこに至っていない。 

「ふたりが消えてしまうような何かに、心当たりなんかはないかな」

「ありません」

 僕が聞くと、集さんは間を開けずに答えた。

 まあ、そりゃあそうだろう。彼女の言った言葉に嘘偽りが含まれていないなら、それは現実の事と考えられないのが、大概決まりきった相場である。現実と考えられなければ、心当たりどころの話ではないだろう。

 僕は質問を変えることにした。

「じゃあ、ふたりの交友関係なんかはどうだったかな」

「交友……?」

「そう。人付き合いとか」これも考えられない話ではないから、一応確認しておく「極度に、嫌われていたりとか」

「……えっと、何を仰りたいんでしょうか」集さんは、浅い溝を眉の間に浮かべた。思えば、この時が、彼女が唯一見せた、聖陰の生徒らしからぬ反応だったのだろう。

「つまり、学園全部を敵に回すくらいに嫌われていたりなんかしていたら、学園全部からの陰湿なイジメなんてのもあるじゃないか」

 聖蔭の中に居る全員に嫌われ、虐めを受け、どこかに監禁か軟禁されて、その上で全員がそんな人間は知らないと口実を合わせる。そうすれば、簡単に今と同じ状況は再現出来てしまう。

 そちらである可能性なんて低いと判って訊いている。聖蔭の校風、指針は文武両道、才色兼備。現代の大和撫子の育成。そんな聖地のような場所で凄惨な虐めなど起こる筈がない。

 聖蔭はスラムではない。可能性はゼロに近い。だが、所詮近いだけで、ゼロではない。ゼロではないとは、稀には起こるとイコールだ。

 まあ、そうは言っても取り敢えずの確認のつもりだ。無いと言われるだろうと思って訊ねたのだが、集さんは僕の発言に激昂した。

「ふたりはそんな人じゃありません!」

 泣き出しそうな顔を真っ赤にして立ち上がる彼女は、手を戦慄かせる。

 ああ、しまった。

 こんなに怒るとは思わなかった。

「ごめん」慌てて謝罪する。「一応聞いてみただけなんだ。そんな事がある筈はないって、判ってるよ。うん、判ってる」

 なんだか自分でも思うくらいに情けない口調で謝っていると、斜め後ろの司が、くすりと、場にそぐわない笑いを漏らした。

「信隆、サイテー。そんな事を言うなんて」

 見ると、意地悪く笑っている。

 僕からしてみれば、そうやって笑っている方がサイテーだ。

 言うのを我慢して、仕切り直す。

 仕切り直しの前に、一度咳払い。気も取り直し、先ず集さんに落ち着いてと声を掛け、もう一度座ってもらった。

 彼女は、すみませんと謝罪しながら、勉強机の椅子に座る。

「取り乱しまして……、お恥ずかしいです」

 まったく、どこまで出来た女の子なんだ、この集結花という少女は。悪いのは僕で、彼女に非なんてどこにも無いのに、そうやって陳謝出来てしまうのだから、こちらはもう低頭するしかない。

「じゃあ、纏めると君は、ふたりが消えてしまった理由も発端も判らないが、とにかく僕に原因を究明して欲しいと言うんだね。勿論、連れ戻す事を最終条件として」

「はい」

 沈んだ表情で頷いた彼女は、そして自分に出来る事があるなら何だってすると言った。

「大丈夫。お願いする事は何も無いと思うよ。じゃあ……僕は少し学園の中を調べて回りたいから、一度失礼します。何か判ればまたここに戻って来ます。ああ、そうだ。何かの時の為に僕の携帯の番号を教えておきます。用があれば電話して下さい」

 そう言って、僕はポケットから名刺入れを取りだすと、そこから名刺を一枚取り出し、彼女に手渡した。彼女は、僕の名刺を両手で受け取ると、時間をかけて、そこに記載されている情報を確認した。

 名刺には、僕の名前と携帯の番号。専用のパソコンのメールアドレスと、家州教会という固有名詞の横に、それとはどうあっても混同されることがなかろう、探偵、という職業名が印字されている。

 立ち上がり、僕は司に目配せをした。

 行こう、という合図である。

 彼女はそれを理解して、集さんのベッドから降りた。

 それじゃあ、と言ったその時も、集さんは僕の名刺を見ていた。

「ねえ、集さん」僕は去り際、彼女に訊ねた。「人って、簡単に消えれるものだと思う?」

 集さんは、縮んだバネが弾性力で戻るような動作で顔を上げた。

 まばたきを、数回。

 その質問に、彼女はひどく困惑していた。


 4


 また、去り際におかしな事を言う。

 人が簡単に消えれるかどうか、だって? 

 信隆は何を聞きたかったんだろう。

 私にはそれが判らない。

 現に、簡単に消えてしまっているじゃないか。

 その少女ふたりも。

 過去には、私だって。

 人が消えるのは簡単な事だ。

 ちょっとそこまでの散歩で、人は消える事が出来る。

 だけれど、まあ、

 集という、嫌な名前の少女が困惑するのも判る。

 いきなりそう聞かれても、返事のしようが無い。

 彼女の友人は確かに消えてしまった。

 彼女の中ではそういう事で纏まっているんだろう。

 それが簡単な事なのか困難な事なのか。

 それは、彼女が消した訳ではないのだから、どちらとも言いようがない。

 鳩が豆鉄砲でもくらったみたいに可愛い顔で、彼女は惚けていた。

「いや、いいよ」

 信隆が先に会話を切った。

「ごめんね。今の質問は忘れて下さい。じゃあ、司、行こう」

 促されて、私は少女の部屋を出る信隆の後を追った。

 そして、部屋を出て数歩進んだところ。

 そこで私は、と疲弊の息を漏らす。

 唇を僅かにだけ開く。

 その隙間から、糸のような息を吐いた。

 その呼気には、きっと私の魂の何割かが含有されていただろう。

 あの部屋。

 今まで居た部屋は、なんて心地の悪い部屋だったのだろうか。

 あの部屋にあと数分も長居していれば、間違い無く私は壊れていた。

 部屋中あちらこちらに、あった、あれ。

 ちかちかと光る、金色のあれ。

 アレは、虫、か何かだったのだろうか。


 恐らくは、私にしか見えていなかった。

 惜しむらくは、信隆には見えていなかった。


 5


「頭が痛い」司が言った。「気持ち悪い……」

 寮を出てすぐだ。彼女は歩く僕の服を引っ張ると、あまり優れない顔色をこちらに向けていた。

 気持ち良すぎるくらいの、午後の晴天。そんな中のせいもあり、彼女の顔色は余計に悪いように見える。

「大丈夫かい?」僕は膝を曲げ、司の顔を覗きこんだ。

「大丈夫じゃない」

 伏し目の彼女は、頭が痛いと言う。そのせいで気分も良くないと。

 どうしたんだろうか。聖蔭に来るまでは、歓喜の鼻歌を歌うくらいに機嫌も良かった筈なのに。

 いや、良かったのは機嫌だけで、体調は優れていなかったのかもしれない。

「そうかい。でも……そうか。うーん、弱ったな」

 僕はこの後、色々と調べなければならない。頭に浮かんでいたこの後の行動のフローチャートは、聖陰の閉門時間まで隙間無く組み立てられていた。集さんからの依頼を承諾して部屋を出た手前、それをやめるという訳にもいかない。

 病院へ連れて行くのは流石に心配しすぎだろうが、彼女を家までは帰してやらなければならないのだろう。となると、こんな顔色だ。付き添わなければ心配だ。

 しかし、聖蔭から御形の屋敷までは距離がある。御形の屋敷は、聖陰とは街の正反対だ。行って帰ってきたなら、時刻は学園内への立ち入りが禁止になる時間を余裕で越えてしまう。

 僕が司と時間とを天秤にかけて悶々としていると、彼女の方から「私の事はいいから」と言ってきた。

「でも……」

 言われたからといって、じゃあそうですか、とは流石に返せない。僕はそこまで薄情者じゃない。

 そうやって躊躇っている僕に、彼女は焦れったそうに言葉を荒くした。

「どこかで休んでいるから、帰る時に拾って」

「拾うって、君は落とし物じゃないだろう」

「いいから。それに時間を気にしてる隆久と一緒に帰ったら余計に頭が痛くなる。あの屋敷は、ただでさえ居心地悪くて頭が痛くなるのに。最悪の相乗効果だわ」

「またそういう事を言う」

 司の口の悪さに呆れながらも、しかし彼女からの提案は願ったりだと思った。彼女がどこかで休んでいる間に、僕は調べ事をしていればいいんだ。で、帰る時になったら彼女が言ったように、見付けて帰ればいい。拾って帰るのは、僕の腕力としては難しい。多分、無理だ。

「じゃあ、せめて携帯に電話をするよ。終わったら呼ぶから、それじゃあ君の携帯の番号を……」

「ばか。持ってる筈がないでしょう」

 僕は驚いた。

「え。そうなの」

「持ってないわよ」彼女はふてくされた顔になる「買う気にもならない」

「でも、あると便利だよ。連絡したい時にいつだって繋がる訳だし。それこそ、今みたいな時に大活躍なのに」

「今みたいな時が、これまでになかったんだもの」彼女は頭を抱え、深呼吸みたいな息をした。「それに、私にはそれよりも先に手に入れたいモノがいっぱいあったのよ。ほら、実感とか」

「実感?」

 かなり具合の悪そうな彼女の様子に、僕は気が急いてくる。

 その言葉。聖蔭へ向かっている間にも呟いていた言葉だ。

 実感。

 彼女の得たい実感とは何なのだろうか。

 それが、この上なく気になってしまう。

 だが、今の彼女は見るからに会話さえもが苦痛であるようだ。

 早く休ませてあげよう。

 会話はいつだって出来る。

 彼女がどうしてしまったのかとか、実感という、形の無いあまりにも不確かなモノが何なのかとか、気になる事は多いのだが、僕は躊躇いながら決断した。

「わかったよ。じゃあ、僕はちょっと行ってくる。司はどこかで休んでいて。帰りは……そうだな、どうしても具合が悪くて仕方がなくなったら先に帰っていて構わないから。僕は6時の閉門に合わせて帰るつもりだから、もし残っていたなら、その時間に正門の前で待っていて」

 いいね、と念を押すと、彼女は死人のように頷いた。


 6


 そうして、彼は行ってしまった。

 後には、私と世界だけが残される。

 波音にも似た盛大な葉鳴りが遠くから迫ってくる。強い風が、聖蔭を舐めるみたいに駆けていった。私は身を震わせながら身体を窄め、その風をやり過ごした。

 一瞬、どこかへ飛ばされてしまうのかと思った。聖蔭の森を揺らした風は強く、しかし私を連れて行けないと知るや、代わりに落葉を攫って空へと帰っていった。

 竦めた身体を起こしながら、私は辺りを見渡す。座れる場所が欲しい。理想的なのは横になれる場所だが、流石に贅沢は言えない。最悪、地べたでも構わないのだが、ここは聖蔭学園の敷地内。元在校生であった私は、ここがどういった校風であったのかを今でも覚えている。部外者でも、そんなはしたない行為を良しとはしないだろう。

 保健室、とも考えたが、在校生ではない私を歓迎してくれるか判らない。拒絶はしないだろう。校風が校風だ。少し休ませてほしいと言って、そんな冷徹な返事は返ってこないだろうとは判る。

 だが、どうにもその考えを採用したくない私がここに居る。それは駄目だ。いや、それは嫌だ。

 痛む頭を抱えて、私は歩き出した。頭は万力か何かで絞められているみたいだ。まあ、人の頭を挟めるくらいの大きさをした万力というヤツを私は終ぞ見た事がないし、見た事がないのだからこの痛みの表現がそれで適切かどうかも判らないのだが。

「とか考えているんなら、まだ元気な方なのかな」

 自嘲しながら独り呟いてみる。

 私だけの世界で、声は不思議な響き方をした。自分の声の筈なのに、他人が私の耳元でささめいたみたいだった。

 気味が悪い。

 その言葉を胸中で吐き捨てた私の視界を、不意に何かが横切った。

 その瞬間に、世界は静止した。

 一瞬の光芒。

 軌跡だけが残る。

 空気を裂く、

 不規則な流曲線。

 肩が、

 首が、

 震える。

 全身が跳ねる、

 硬直するように。

 意識が凍る、

 落下するように。

 視線が凍結する。

 金色の軌跡。

 私の後ろから、

 真横を掠め、

 踊るように、

 森の中へ。

「今のは……」

 呟いた口中が、かさつく。

 目の錯覚だろうか。

 頭痛のせいだろうか。

 そのせいで、幻覚を見るようになってしまったのだろうか。

 だが、そうだとするには、おかしい。

 おかしすぎる。

 今の光の軌跡は、あまりに現実的すぎた。

 現実よりも、余程に。

 それに、ほら。

 森に消えたと思っていた小さな光は、手招きでもするように木々の隙間で私を呼んでいる。

 蛍みたいな淡い光が、こっちへおいでと誘っている。

 幻覚じゃない。

 あれは、確かにここにあるモノだ。


 そして、あの子の部屋の中にも居たモノだ。


 私は頭が痛んでいる事を忘れ、金色の光を追って聖蔭の森の奥へ向け歩き出していた。

 そして、一歩。

 僅かに一歩、鬱蒼と茂る森の中へ入っただけで、私の全身は過敏に空気が入れ替わった事を感じ、悶えた。

 私は喉を詰まらせ、呼吸を止める。

 同時に、その場で蹈鞴を踏んだ。

 うまく立っていられない。空気の変化に身体が追い付かない。

 眩暈のような感覚は、私の三半規管を狂わせた。

 膝を掴まえ、転ばぬよう必死に踏ん張る私は、首筋にうっすらとした汗を吹き出させていた。いや、首だけじゃない。背中まで湿りだしている。

 意識して繰り返す息は荒い。

 そして、ぎこちない。

 手のひらで口を覆う。

 自分の呼吸音が、耳に突き刺さる。

 今のは、一体何だったのだろうか。

 森に一歩入った途端だ。何が起きたのかが判らなくても、今私がこうなった原因は森に入った事だろうとは容易に推理できる。

 ここの空気。

 ここの空気は、普通じゃない。

 暖流と寒流の境界面みたいだ。混ざりきらず、かと言って分離している訳でもなく、何かと何かが混濁していて、ひたすらに呼吸を困難にさせている。

 ぬめるような湿度。

 鼻を刺す腐葉土。

 湿った樹皮の、饐えた匂い。

 空気だけではない。私が踏み入れたこの森の中では、現実と何かが渦を巻くように混在している。それこそ陳腐な表現かもしれないが、別の世界に迷い込んでしまったのではないだろうかとさえ感じてしまう。私が息を詰まらせて立ち止まったこの場所が、その境界なのだろう。

 だとするなら、混濁した空気も頷ける。何せ、違う世界なのだから。

 だが、私は奥歯を噛み潰すように噛み合わせ、今抱いたばかりの感慨を侮蔑する。

「馬鹿げてる」

 そんな訳ある筈がない。

 そんな事が起こる筈がない。

 どうせ、森林特有のこの匂いに噎せただけなんだろう。そう言い聞かせて、私はもう一度歩き出した。

 地に転がった細い枝をパキンと踏み砕きながら再び歩き始める。

 進む方向のかなり先には、金色の小さな光が今も揺れていた。

 私を呼ぶように、

 誘うように、

 ひらひらと、

 ちかちかと。

 その光は、やはり蛍のように思えてならない。見れば見る程、その輝きは弱々しいモノに感じられてくる。

 あまりに短命で、些細な力で容易に消せてしまいそうな程に儚く揺れる光。それは、例えるならばやはり、蛍のようだった。

 きっと、余命幾許もない。

 ただ、蛍とは違う点を挙げるとするなら、それがあまりに美しすぎた事。

 見続ければ気が触れてしまう程、私を呼ぶ光は美しい。

 樹皮に這う緑色の苔。

 枝葉の隙間から射し込む、焔のような残照。

 森は夕刻の空に灼かれ、染められている。

 その複雑なコントラストの中で舞う金色は、美しい。

 いつしか私は、それをそのように思っていた。

 私が光に惹かれて歩き続けているのは、それが理由だろうか。いや、そうではない気がする。確かに美しい。美しいが、私がアレを追い掛ける理由はきっと別の何かだ。

 森の中にはうっすらと霧が広がり始める。視界は薄手のベールを掛けられたように白く霞む。

 やがて靄は、数メートル向こうの景色さえ、白色で飲み込んでしまった。

 足元さえはっきりと見えない。

 上空は、靄が残照を受け止め、赤色がオーロラのように揺らめいている。

 益々もって違う世界みたいになってきた。

 辺りに人の気配は、ない。

 遠くからも、それらは感じられない。

 今この瞬間、この聖蔭の森には、私と、あの金色の光と、世界しか存在していない。

 森の外で何が起きようと、私には関係のない事だ。

 逆に言えば、この世界で何が起きようと、世界の外側には関係のない事なのだろう。

 例えば、ここで私が消えてしまっても。

 事実、森が違う世界と混濁していると言うのなら、私がそちらに迷い込み、消えるなんてのも簡単な事だ。ひょっとしたら、例のふたりもそうやって消えたのかもしれない。こうやって、違う世界に迷い込んで……。

 そんな考えも半ばで、私は古い礼拝堂に辿り着いた。

 金色は、ここだよ、と謳うように、その中へ消えていった。


 7


 司は不思議な感情を抱きながら礼拝堂の門扉をくぐった。礼拝堂は、どこか懐かしく感じる。だが、不思議な構造の礼拝堂だとも、彼女は思う。

 中心辺りに列を成す何本かの柱。礼拝者用の長いベンチは、その柱を避けるように並べられている。

 祭壇の前には、列の先頭を誇るように一際大きな柱。それも合わせて、柱は全部で12本。

 だが、その柱の凡てが、素人目にも建築学的に不要な物なんだろうと判った。それは、言うなれば飾りだった。細かに彫刻を施された石柱は、装飾品意外の価値も無くそこに陳列しているらしい。

 見上げると、高い天井付近に柱にしがみつくような天使の彫刻。風化して本来の隆起を失い始めたそれが、彼女には天使に見えない。

「悪魔か、魍魎だ」

 蔑むように吐き捨てると、彼女は床の木を軋ませながら祭壇へ向かう。ギシギシと鳴きながら彼女の重みに合わせて沈む床は、ふとした瞬間に抜け、奈落に落ちてしまいそうな程に脆い。

 ステンドグラスから射し込む残照の光芒が礼拝堂を舐める。

 夕焼けの色と混ざる木目の色は、朽ち木と同じ色をしていた。

 ここでは、美しさと醜悪さが混じっている。

 ここも森の中と同じだった。

 何かと何かが混濁している。

 静謐と騒擾とが混じり合っている。

 そして、彼女は金色の光に追い付く。

 光は祭壇の上で踊っていた。

 手を伸ばせば触れられる距離。

 光は、小さな虫だった。

 見た事もない形状の虫。

 蟋蟀に似ている。だが、細長い胴体には幾つかの関節があり、複雑な色彩をした羽根は胴体の全長よりも長い。司は、その羽根をステンドグラスのようだと感じる。比較するなら、礼拝堂にあるどれよりもそちらの方が美しい。

 虫は引っ張り上げられるように舞い上がり、彼女の前で舞った。

「あなたは、なに?」

 司は問う。

 虫は鳴いた。

 羽音は、高い。

 金属音が反響する。

 羽音。

 彼女の吐息。

 鼓動。

 ここには、それだけがあった。

 浅く、曖昧な呼吸。

 見惚れる。

 光に。

 軌跡に。

 時間をかけて、唇の重なりを離す。

「あなたは、だれ?」

 司は問う。

 軌跡。

 羽音。

 吐息。

 鼓動。

 世界。

 自分。

 ……自分?

 司は、問う。

「わたしは、だれ?」

 世界に靄が浸食をする。

 にじむ。

 かすむ。

 ぼやけ。

 拡散する。

 ここには自分と世界しかない。

 それと、

 これは?

 この光は?

 季節は、夏。

 彼女はそれを思い出す。

 肌には凍るような空気がまとわりついている。

 いつかのような……。

 彼女は、唇を、開く。

「わたしは、なに?」

 そして、 流星雨。

 礼拝堂の至る所から金色が舞い上がった。

 世界を変える、軌跡。

 光。

 ひかり。

 ヒカリ。

 数えきれない。

 数多の軌跡は礼拝堂の姿を変える。

 残照さえもが敗北し、礼拝堂は金色に。

 その目映さに、思わず瞳を細める。

 光の中。

 そうだ。

 光の中にいる。

 彼女はそう感じた。

 無数の金色は、規則的な不規則さで礼拝堂を舞う。

 彼女を中心に、

 彼女を讃えるように。

「――そう」

 彼女は手を伸ばす。

 金色に触れる。

 光が、

 軌跡が、

 それが、

 彼女に入り込む。

 指先から。

 それは、

 あたたかく、

 つめたい。

「そうだったの」

 金色の流星に見蕩れる司は、浅い息と、共に呟いた。

「あなた達、なんだ」

 流星が静止する。

 それを彼女は、首肯だと感じた。

 眠るように瞳を閉じる。

 ゆっくりと、

 光を惜しむように、

 ゆっくりと、

 瞳を閉ざし、

 目蓋の内側の暗闇に浸る。

 静止した虫達は、彼女を見守った。

 彼女が次に何を為すのかを、待った。

 彼女は今、すべてを理解した。

 だからこそ、未練も無く決断する。

「ごぎょう、つかさ、さん?」

 そして最期の時に、彼女は後ろから誰かに呼ばれた。


 8


 遠くから閉門を知らせる鐘声が聞こえてくる。辺りはすっかり茜色に染められていて、正門の前に立つ僕は、その優しい眩しさに瞳を細めた。

 腕時計を見ると、見るまでもなく6時を指し示している。

 約束の時間に、司は居ない。少し待ってみるが、彼女の姿は待てど現れる事がなかった。

 やがて空は、茜色から紫に変わり始め、この時間にしか見ることの出来ぬグラデーションを浮かべるだろう。そうして、ゆっくりと、夜陰に姿を変えるのだ。夜は、すぐそこにまで来ていた。

 風が吹く。

 その冷たさに僕は背を丸めた。

「先に、帰ったのかな」

 そういう約束だった。

 どうしても我慢が出来なくなったら先に帰っていて構わない。待てたのなら、この時間のこの場所に待ち合わせ。僕としては一緒に帰りたかったのだが、ここに彼女が居ないのなら、やはり彼女は前者の約束を守ったのだろう。

 少しだけ寂しくなる僕は、靴底で地面を擦りながら歩き出した。

 独りだけの帰り道は、来る時よりも少しだけ広く感じる。

 距離も同じ筈だが、その道程は伸張したみたいだ。

 あまりに静かすぎる帰り道、僕は季節を忘れた八月の冷たい空気に震える。蝉さえ鳴かない、どうかしてしまった夏の夜。

 彼女は、それを十年前みたいだと言った。それは、間違いではなかった。


 彼女はまた、僕の前から消えてしまった。


 それを知ったのは、翌日。

 その時僕は、彼女の真似をして歓喜の歌を口ずさみながら家路を歩いていた。


 22才になった僕の、最後の寒い夏のはじまりだった。

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